デマの生じる二つの外的条件
デマが生じる条件として二つの要素があります。
A.その話題が人々にとって重要性をもつこと、B.その話題が隠されていたり曖昧であったり矛盾したりしていて真実性が薄いこと、です。
デマの流布量は、このA(重要さ)とB(曖昧さ)の掛け算で決まります。
人々にとって重要でない話題であればデマは生じようがありませんし、その話題に関する事実を明確に知る者はデマに乗りません。
例えば、会社の経営に関してのデマに乗るのは実態をあまり知らない平社員であり、上層部ではありません。
この基本形があてはまらないケースがあります。
それは、デマそのものに関する洞察を持ちデマに乗らない人達です。
デマの原理、および自己(人間)の認知のメカニズムを知る人は、デマの入り込む隙を与えません。
これは、いわゆるメディアリテラシーの能力です。
デマの生じる内的条件1「欲求」
デマの生じる内的条件としては、上記の“A.重要さ”に対応する、内的な欲求、欲望があります。
事物の重要度を決定するのは、その人の欲求およびそれに伴う関心です。
デマの原動力となるものは、人間の諸々の欲求やそれに伴う感情であり、例えば、危機におけるデマは死への恐怖、ゴシップやスキャンダルは性的興味、不気味な噂や怪談話は不安、悪口や中傷は嫌悪などを主な動力としています。
デマを広める人々は、欲望を向ける対象に対し攻撃を加えることで心の底にある緊張(欲求不満状態)を和らげ、現実を歪めることで自分自身の状態を正当化し、他人に対しての言い訳とします。
自己の緊張緩和と合理化(後述)が、個人におけるデマの機能です。
自らの内面を外的世界に投射し、世界を自己の欲求に従って作り変えるのです。
例えば、単純な傷害事件のニュースが、性的暴行を含んだ事件として伝聞されることがよくありますが、それは噂を広める人たちの内面な性的願望が外界に「投射」された結果です。
自己の内面について自覚(批判)的であり、素直に反省できる人は、デマに乗りにくいという実験結果があります。
デマの生じる内的条件2「合理化」
デマの生じる内的条件としては、先ほどの“B.曖昧さ”に対応する、合理化の機能があります。
情報の伝達においてデマが生じるのは、人間の内にある欲求を合理化するために、物事の認知が歪められるからです。
これは曖昧な物事を自己の関心に従って秩序付ける人間一般に具わる合理化の機能が、悪い方向に作用したものです。
人間は混沌とした外的事物を、自分の内的な都合に合わせて分類し、整理し、意味付け、秩序(合理)化することによって、はじめて環境に適応して生きることができます。
例えば、私たちが日常において、目の前の「猫」をどう知覚し、どう解釈し、どう伝える(表現する)かの過程は、芸術家のようなひとつの創作活動および表現活動です。
「猫」をペットとして見るか、食べ物として見るかは、その人の都合が作り出す世界観であり、あらかじめ決定しているものではありません。
普段は愛情の欲求を満たす愛玩動物であっても、飢餓が発生すれば食の欲求に従い、猫は重要なたんぱく源として見られます。
人はそうして自分の都合(欲求)に従い、本来は何でもないはずのニュートラルな外的事物を、ひとつの世界観の中に組み込むことで、はじめて「世界」を把握することができます。
以上のように、すべての認知は必然的に合理化(創作活動)であるわけですが、そこに程度の差というものがあります。
例えば、報道というものは、可能な限り個人的な欲求を抑え、事実に基づこうとするものであり、反対に陰口というものは、可能な限り個人的な欲求を満たそうと、事実を歪曲的に創作しようとするものです。
また、いかに本人が事実に基づこうとしても、意識されない必然的な歪みが生じ、情報の伝達の連鎖の中で、事実という参照枠から遠く離れれば離れるほど(いわゆる又聞き)、それは徐々にデマと化していきます。
例えば、フクロウの絵の伝達実験において、リレーのアンカーとなる被験者は、猫の絵を描いてしまいました。
もし、照合すべき出来事(フクロウの絵)が横にあり、伝達されるものに曖昧さがなければ、この変形は決して猫になるほど極端なものになることはなかったはずです。
私たち人間は、物事が曖昧であっても、それをそのままに受け容れることが出来ず、足りない部分は半ば創作的な意味付けによって付け足し、明確な事物に仕上げようとします。
対象が曖昧であればあるほど、強引な変形(主観化)が生じやすくなり、かつ合理化への衝動は強くなります。
デマの生成、個人の歪みが社会の歪みとなる時
又聞きのリレーの中で、その主観化と表現は行き過ぎたものとなり、誇張され、変形され、潤色され、編集され、公約数的に通俗(ステレオタイプ)化されたそれは、デマとして大きく成長し、強力なムーブメントを生み出すことになります。
特に、社会の成員が同質的で(いわゆる大衆、マッス)、同じような欲望や先入観を所有している場合は、歪みは極めて堅固なものとなり安定し、しばしば非常に説得力のあるものとなり、まるで真実のような拘束力を獲得します。
それは社会共通の合理化として共有され、個人の変形よりもより単純で標準化され、社会一般の価値観を反映しているような通俗的なものとなります。
ここにおいてデマは完成するのです。
このデマに抵抗しうるものは、メディアリテラシーに関する素養と、素直な自己反省、および批判(懐疑)的な知性による正確な現実認識の習慣付けです。
マッス(大衆、塊)に呑まれるのではなく、主体的、自立的な人間として社会参画しなければならないということです。
おわり