デカルトの『省察』(1)第一、第二省察

哲学/思想

 

はじめに

本書の正確なタイトルは、『第一哲学についての省察、神の存在および人間の精神と身体との区別が証明される』です。
神の存在証明、および人間の精神と身体は区別されるべき実体であることの論証を行います。
六つの省察に分かれており、それぞれの見出しは以下のようになっています。

省察一、疑いをはさみうるものについて。
省察二、人間の精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られること。
省察三、神について。神は存在するということ。
省察四、真と偽について。
省察五、物質的事物の本質について。そしてふたたび神について、神は存在するということ。
省察六、物質的事物の存在、および精神と身体との実在的な区別について。
(デカルト著、上野庄七/森啓訳『省察』中央公論新社)

省察一では、デカルトの方法的懐疑、省察二では、デカルトのコギト(我思うゆえに我あり)が語られます。
省察三では、そのコギト(私)の外の存在の究明がなされます。
神の存在証明というよりは、認識可能な世界の外の存在についての証明といった方がよい内容で、近代的認識論や現象学への道を開いた重要な考察です。
省察四、五、六はこれらの展開です。
本項では有名な第一、第二、第三省察のみを扱います。

 

第一省察、懐疑

ゆるぎない確固たる学問の構築をのぞむなら、一生に一度は、真なるものとして無批判に受容(誤認)してきた偽なるものたちをすべて捨て去り、土台から新たに作っていかなければなりません。
そのためには、ひとつひとつの意見の偽を証明するのではなく、それらの考えの支えとなっている基礎原理を崩すことによって、まとめて自壊へ導くことです。

私(デカルト)が真なるものとして受容してきた偽なるものは、すべて感覚を介したものです。
感覚は往々にして人間を欺き、信頼がおけません。
しかし、遠いものではなく、近いもの、例えばいま私がここに居ることや椅子に座って文章を書いていることなどは、疑いようのない確実な感覚に思えます。
けれど、私は眠りの夢の中でも、これらのような感覚を持っています。
よく考えてみると、覚醒と睡眠を区別する、確かな指標が見当たりません。

夢の中の虚構(偽なるもの)といえど、それは現実の真の事物を模したものです。
画家が想像で何かを描く時、ただ現実の事物を組み替えただけであり(例えばセイレーンは鳥と人間の複合、ペガサスは鳥と馬の複合、ケンタウロスは人間と馬の複合)、まったく新しいものを作ることは不可能です。
判別不能なほど新奇なものであっても(例えば抽象画のような)、色や形態などの事物の本質は有しています。
以上のことから、たとえ夢であっても、物体的な本性一般、延長、形態、量、大きさ、数、場所、時間などに関しては、確実な(真なる)ものに思えます。
夢の中であろうが、三角形の内角の和は180度であり、二に三を加えたものは五です。
自然学や天文学や医学のような複合的な学問は疑うことはできても、数学や幾何学のような極めて一般(普遍)的な学問の真理性を疑うことはできません。

しかし、もし神が、本当は「二に三を加えたものは五」は誤りであるのに、それを真として受け取るように、人間を欺き、仕向けていたとしたらどうでしょうか。
あらゆることをなしうる神は、私をそういうように創造したとも考えられ、私の持っている数学的真理も、無限の可能性を持つ神のひとつの創造であるかもしれません(数学的真理の相対化と懐疑)。

私がかつて真であると思ったものの中で、疑いのかけられないものなど何もありません。
むしろ、私の信じやすい(騙されやすい)心や習慣に堕ちやすい怠惰な心を戒めるためにも、あるいは歪んだ既成概念や偏見を打ち消し釣り合わせるためにも、すべてのものは私を欺く偽りであると想定してもよいでしょう。
狡猾な悪霊が、すべてのものに細工を凝らし、私を騙そうとしているかのように。
もし、真なるものの認識に私の力がおよばないにしても、決して偽なるものには同意しないことだけは、確かにできます。
もちろんこれは大変な作業で、すぐに普段の生活態度に引き戻されてしまいます。
覚醒がもたらす難問の暗闇に怖気づき、安楽な夢の中に居続けようとするかのように。

 

第二省察、精神の本性

たとえ世界に確実なものが何もないとしても、「確実なものが何もない」ということだけは確実なものであると明確になるまで、徹底して歩み続けよう。
アルキメデスが地球を動かすために必要とした一点(てこの原理の支点)のようなものを見つけ出せるよう希望を抱いて。

このようにして、私はすべてものを考え尽くし、疑い尽くした末に、一点の結論にいたりました。
「私はある、私は存在する」という命題だけは、それを言表するにせよ心に抱くにせよ、必然的に真である、と。
では、その必然的に存在する私とは、いかなるものなのでしょうか。

勿論、人間である。
では人間とは何か。
理性的動物である。
では理性的とは何か。
さらに動物とは何か。
こういう定義の煩瑣な詮索は、深みにはまるか、スコラ的な暇つぶしの無用な議論にしかなりません。
もっと自然で本性に従った考察として、私がどう私の意識に浮かぶかを考える必要があります。

まず浮かぶのは、身体を持つ存在だということです。
身体(物体)とは、形をもち、場所をもち、空間を満たすものであり、五感(感覚)によって知覚されるものです。
普通、物体は自ら動かず、他のものによって動かされるものであり、身体は精神の働きによって、食べ、歩き、感覚し、考え、いわば活動せるものとなります。
人間の活動の独自性は、自分を動かす力、感覚する力、考える力などを持つ精神の働きによっています。

先ほど、悪霊が私を騙していると想定したので、五感(感覚)に受容される物体の本性を信じることはできないため、身体を「私とは何か」の絶対確実な回答として主張することはできません。
と、すると、それは精神による働きの内にあることになります。
先ほど挙げた、食べることも、歩くことも、感覚することも、身体(物体)の側に大きく依存しているため、身体の確実性を破棄した想定の中では無力です。

そこで私は見出しました。
その働きは“考えること”です。
これだけは私から絶対に切り離せません。
「私はある、私は存在する」、この確かさは“考えること”によってのみ保証されています。
私が考えている間だけ「私」は存在し、私が考えることをまったく止めると、「私」はただちに存在することを止めてしまうことになります。
私とは考えるもの、言いかえれば、精神、知性、悟性、理性のことであり、私は考えるものであることにおいて、真に存在するものであるのです。

考えるものであるということであり、たんなる想像(思い描く)ではありません。
想像とは物体的なものの形体や像を眺めるだけであり、それは夢や幻のように欺く可能性をもちます。
想像が生むものはいかなるものも、私が私についてもつ知識のうちに属しません。
精神に自己の本性を明晰に把握させるためには、想像力の描き出すものたちから注意深く遠ざけねばなりません。
[一般に普及している「我思うゆえに我あり」では、私が想像された(思い描かれた)私を見るという単純な反省として理解(誤解)される可能性があるため、専門では「我考えるゆえに我あり」と記述することが多いです。]

もう一度、問うてみます。
私とは何か。
考えるものである。
では、考えるものとは何でしょうか。
疑い、理解し、肯定し、否定し、意志し、意思せず、それから、想像し、感覚するものです。
今までの考察のように、すべてを疑い、いくらか理解し、一つを真であると肯定し、その他を否定し、知ろうと意志し、欺かれることを意志せず、それから、意に反して想像しつつ、また様々なものを感覚するもの(者)こそ、まさしく、それが「私そのもの」なのです。
いかに、理解されたもの(事物)が、肯定されたものが、意志されたものが、想像されたものが、感覚されたものが、「偽なるもの」であったとしても、そのうちにある私そのものは明白な「真なるもの」です。

そうはいっても、物体的なもの、想像され感覚されるもの(事物)の方が、明白で真なる私そのものよりも、判明に捉えられています。
なぜそうなるかを、物体である「蜜蝋」を考察することによって、説明してみます(蜜蝋とはミツバチの巣の材料となる固形のロウです)。

蜂の巣から取り出したばかりの蜜蝋は、まだ蜜の味や花の香りを残しており、明確な色と形、固く冷たい感触、叩けば音を発します(順に味覚、嗅覚、視覚、触角、聴覚によって捉えられた蜜蝋)。
しかし、これを火に近づけ溶かすと、残っていた蜜の味や花の香りは消え、色、形、大きさは変化し、液状となったそれは個体のようにはっきりとした感触はえられず、音を立てなくなります。
では、先ほど私がはっきりと知覚していた「蜜蝋」とはなんだったのでしょうか。
すべては変わり果てても、今なお蜜蝋として存続しています。

ここから分かるように、蜜蝋とは決して、感覚されたもの(事物)ではなく、いま私が考えているもの、すなわち思惟によってとらえられた「蜜蝋そのもの」なのです。
感覚や想像ではなく、精神によって知得されたこの個別的な蜜蝋「この蜜蝋」のことです(蜜蝋一般のことではなく)。

では、この精神によってとらえられた蜜蝋とは一体どういうものなのでしょうか。
私たちは普通、目の前に蜜蝋がある時、「蜜蝋(そのもの)を見ている」と言いますが、これは言語や習慣的な見方に欺かれているだけです。
厳密には、「色や形(や香りや味や音や触感)から推して、蜜蝋がそこにあると判断している」と、言うべきなのです。
例えば、いま、窓の向こうで歩いている人間を見て、習慣的に私は「人間(そのもの)を見ている」と思ってしまいます。
しかし、厳密には、私が見るのは人間ではなく、大きな帽子と衣服だけです。
その下は棒を連結した自動機械であるかもしれません。
このように、普段私が目で見ている(感覚でとらえている)と思っているものは、精神による知的な判断によってとらえられたものでしかないと言うことです。
物体そのものは、感覚や想像の能力によってではなく、知性によって理解されることで把握されるのです。

では、私自身についてはどうでしょうか。
私は蜜蝋を存在すると判断することにおいて、より明証的に、私自身が存在するという事を(逆照射的に)認識します。
蜜蝋が実は蜜蝋でないこともありえます(人間と思ったものがロボットだった時のように)。
しかし、私が見る時(見ると考える時)、その思惟する私自身の存在は疑いえないものとしてとらえられます。
見ようが聞こうが触れようが想像しようが、蜜蝋があると判断するなら、その判断をする私も同時に、より明瞭に把握されるのです。
蜜蝋の認識が、視覚や触覚のみならず、様々な経路から私に明瞭になればなるほど、それは私自身の精神の本性をより多く証明することになり、私自身は私により一層明瞭に認識されます。

 

(2)へつづく