※本頁を読まれる前に、必ず『スキナーの心理学』の前半部に目を通しておいて下さい。
言語の分析
行動に伴う(随伴する)環境の変化「行動随伴性」によって、人間行動を説明しようと言うのが、スキナーの心理学(行動分析学)の基本です。
さらに進んで、スキナーは言語についても、この行動随伴性によって説明しようとします。
プラグマティズムの発想を心理学に援用したのがスキナーですが、それを言語にまで拡張します。
語の意味を、その使用の現実的結果から考察することです。
具体例
通常の行動の場合。
<部屋が暑い(先行刺激)→エアコンのスイッチを押す(行動)→涼しくなる>
これが行動が強化されている状態ですが、もしエアコンが故障していて涼しくならなければ、その行動(スイッチを押す)は弱化されます。
言語においても、これと同様の形です。
<部屋が暑い(先行刺激)→「エアコン付けて」(言語行動)→涼しくなる>
親切な他者によって、この依頼の言葉が強化されている状態です。
しかし、周囲の人が不親切であり、エアコンを付けてくれなければ、この言語行動は弱化されます。
言語行動
「言語」を使う、のではなく、「言語行動」です。
人間行動と別に言語というモノがあって、それを人間が相手に渡す(伝達する)という、既存のコミュニケーションモデルではなく、それを「走る」「飛ぶ」などど同列のいち行動として捉えます。
言語を道具として使用するのではなく、言語即人間行動だという意味で「言語行動」と呼びます。
言語行動の定義
通常の行動は、物理的なアクションで環境を変えていきますが、言語行動は環境に対して間接的に働きかけるものです。
その間接性の媒介となるものが、「他者」という中間者(仲介者)です。
スキナーによる言語行動の定義は「他者という媒介者を通して強化される行動」、もう少し分かりやすく言うと「他者の行動を介した強化によって形成されている、私のオペラント行動」となります。
言語共同体
普通の行動と言語行動の違いは、他者の存在です。
私の言語行動を先行刺激として行動を開始する他者がいなければ、当然、私のその行動(言語行動)に伴う(随伴する)環境の変化というものが生じません(宇宙の果てで独り叫んでいるようなものです)。
だから、そのためには、ある程度共通の言語理解を共有する集団内でなければ、言語は言語として機能しません。
その共同体特有の行動随伴性を基盤としたものを皆が獲得しているからこそ、成り立つものです。
東京の人が大阪の人に、「ちゃーしばきにいけぇんか」と言われても、その言語行動の随伴性を獲得していない東京人には、それを先行刺激とする行動が起こせません。
だから、あらためてその大阪人は、「お茶を飲みにいきませんか」と互いが共通に獲得している随伴性の言語行動によって言い直し、ようやく東京の人はアクション(一緒に喫茶店へ歩き始める)を起こせるのです。
相手の言語行動を先行刺激として、私は言語行動を起こし、それがまた相手の先行刺激として、相手はさらに言語行動を起こします。
これが一般的な会話やコミュニケーションです。
語の意味
例えば、来客があった時に客人が
1、「お茶をいただきたいのですが」
2、「いえ、お構いなく。お茶などけっこうですので」
3、「お茶だせ!」
のいずれかを言ったとします。
辞書的な意味においては、1と3が「お茶が必要」という同じ意味の言葉で、2はそれらとは逆の意味で「お茶が不要」となります。
しかし、実際には、1と2ではそれを先行刺激として、その随伴性としてお茶が出てきますが、3では出てきません。
ですから、言語行動においては、1と2が同じ意味の言葉で、3がそれらとは別のものとなります。
語の意味を分けるものは、随伴性の差異です。
言語行動の前後で、環境がどう変わっているかの差異が、語の意味を決定します。
言語行動の種類
その言語行動が、どういう随伴性を伴うかということを基準にして、七つのクラスに分けられます。
その内の重要な三つのものを紹介します。
「マンド」…命令(コマンド)や要求(デマンド)からの造語、要求言語行動。現在の不足や制限や嫌悪状態(飢えや痛みなど)の中で強化されている言語行動。言語行動の内容が、その後に生じる好子を規定しているので、判別しやすい。例、寒い(嫌悪状態)→「暖房を付けて」→暖かくなる。
「タクト」…世界の事物とコンタクトをとることからの造語。事物の叙述や報告を行う報告言語行動。言語行動の内容が、その語に生じる好子と関係がないもの。例、「今日は暑いな」「太郎君は嘘つきだ」。
「エコーイック」…こだま(エコー)からの造語、模倣言語行動。先行刺激の言語行動を、私の言語行動が復唱すること。例、学習時のリピート。
もちろん、これらは随伴性によって分けられるものであり、純粋に言語の形式によってではありません。
例えば、私が行きつけの定食屋で「今日は冷えるね」と言う時、形としてはタクト(報告)ですが、随伴性として店員は、メニューと共にいつものお冷やではなく温かいお茶を持ってきますし、私はそれを望んでいます。
だから、これは「今日は温かいお茶にして下さい」というマンドと同種の言語行動なのです。
私的言語(私的出来事のタクト)
では、外にあらわれることのない内的なもの「皮膚の内側にある出来事(スキナー)」は、どのようにして言語として成立するのでしょうか。
例えば、「痛い」という言葉を未だ知らない子供が、はじめてこけて、膝をすりむいた時、その衝撃は、何とも言い様のない得体の知れない純粋な経験です。
それに対し、母親が「痛かったね、よしよし」と介抱する時、子供はその「痛い」という言葉をエコーイックとして自らのうちに取り込みます。
お兄ちゃんがこけて出血し、顔を歪め、「痛い!」と叫んでいるのを見るのも、同様のことです。
その後、同じような外的状況(転倒、衝撃、疼き、腫れ、流血、歪む顔、等)が現れた時に「痛い」という言語行動をなせば、当然その言葉に対し周囲の人々は適切に反応し、それが好子となり、「痛い」は強化されます。
もし、この時に子供が、勘違いした感覚のエコーイックによって強化された「気持ちいい!」という言語行動をなせば、周囲は怪訝な顔をしたり、「馬鹿な冗談は言わないで」と母に叱責され、「気持ちいい」は弱化され使われなくなります。
自己覚知
感覚や感情という私的な見えないもの(皮膚の内側にある出来事)も、観察可能な外的なものが起点となって生ずるのであり、意識とは、他者の言語行動のエコーイックによって初めて成立する、極めて社会的なものなのです。
自我とは取り込まれた無数の他者であると言う、フロイトの言説にも似た、「私」のありかたです。
共通の随伴性によってつながる他者との積極的な交流の中で、はじめて自己覚知(我思うゆえに我あり)、いわゆる主体が成立するのです。
もし、この交流によって言語(私的出来事のタクト)が生じなければ、そもそも経験している自分を経験することが不可能なのです。
仮に人間が他者と交わらずにいたとしたら、動物や赤子のように、自己というものが自覚されることはないでしょう。
おわり