アランの『幸福論』(3)

人生/一般 哲学/思想

 

(2)のつづき

 

二十七、想像に負かされる人達

どんな仕事も、小さな作業の積み重ねによって達成されます。
私たちは大きな仕事を目の前にした時、それに必要な膨大な工程や物や労力を想像し、それに押しつぶされ、諦めてしまいます。
戦う前から負けてしまうのです。

2000日かかる作業を、ほんの数分の想像で巡っただけで済ませてしまえば、その途方のなさにめまいを起こすに決まっています。
そんな想像は捨ててしまって、今日一日で出来るだけの作業をこなせばよいのです。

 

二十八、求めれば、必ず得られる

誰でも求める物を得ることができます。
金持ちになりたいと求める者は、誰でも金持ちになれます。
もし、手に入らないなら、本当はそれを求めていないからです。

自分はお金を求めていると考えながら、(出世や儲けを約束する)上司や取引先に対してお世辞を言うことを拒み直言を選ぶなら、その人はお金を求めているのではなく、正直さや自尊心を求めていることになります。
自分はお金を求めていると言いながら、今日という日を無駄に過ごし休む人は、お金ではなく安楽を求めていることになります。

きれいな商売を求める人が、破産しても仕方ありません。
なぜなら、彼はお金より、道徳的なきれいさを求めていたからです。
拝金主義の成金が、破産しても仕方ありません。
なぜなら、彼はお金を得ることより、それを浪費し見せびらかすことを求めていたからです。

こうして、誰でも求める物を得ることができるということが、証明されます。
手に入らないのは、本当はそれを求めていないからです。

仮に私が孤独の中で死に瀕しても、満足すべきなのです。
意地になって故郷を捨てた若い頃の自分、将来の苦労を考えて結婚の機会をあえて捨てた自分。
私は人とのつながりより、自分のプライドや気楽さを求めて孤独を選び取ったのであり、孤独な死というものは、私が人生において求め続けたものの最終的な帰結なのです。

 

二十九、欲望は現実化する

その人の環境というものは、その人自身に合わせて作られています。
自分の身体の形に合わせて巣穴を開けるネズミのように、自分に合わせて欲した形で環境を作っています。

平均的な年収の私は、それ以上に頑張ってお金を得るのはしんどいけれど、もっと楽に生きて浮浪者のようにも成りたくない。
あくまで今あるこの程度の頑張りを欲しているのであり、その欲望を実現したものが、平均年収という状況です。

平均年収の私は、「もっとお金が欲しいと思っている」と思っています。
しかし、私が本当に欲しているのは、「もっとお金持ちになること」よりも、「これ以上頑張りたくない」という安楽の約束なのです。

自分を取り巻くあらゆる事物(状況)に、自分自身の刻印が押されているのであり、散らかった部屋に住む者は、自分の散らかった特質を実現し、整頓された部屋に住む者は、自分自身の整頓された特質を事物に反映させています。
自分のまわり(状況)を見渡せば、人間は自分の欲してきたものが何であるかが分かるのです。

 

三十、人間の順応力を阻害する思考

習慣の力は強力であり、それを変えることは至難の業であると思われています。
しかし、これを至難にしているのは、習慣そのものではなく、単なる「思い込み(想像)」です。

今、安住する習慣への愛着や確実性や安心感、引越し先の習慣に対する知識の欠如や不確実性や不安、そういうものが強固に「私は変われない」という確信(思い込み)を生じさせ、その想像が私を物的にも変える事を拒むのです。

例えば、私は、パソコンのOSの変更の度に、「今使っているのがいい、絶対変えたくない」と思いながらも、強制的に変えられて新しいものをしばらく使うと、「こっちの方がいい、前のは使えない」と思うようになります。
もし、サポート終了という外的な強制力がなければ、私は永遠に古いOSを使い続けることでしょう。

人間の順応性や適応能力というものは、非常に高く、新しい環境にすぐに慣れます。
その人間本来の力である変化や慣れや順応を阻害しているのは、狭隘な思考(偏見-イドラ-)です。
人間や社会は、そういうイドラによって牛耳られているため、習慣から自由になれないのです。

その思考を変えられるのは、思考ではなく、行動です。
行動によって、はじめて新たな思考が生ずるのです。

「ソーシャルゲームのない生活なんて絶対に無理だ」と思考する前に、ソシャゲのない生活を始めてみることです。
その行動はしばらくすると、「別にソシャゲがなくても楽しく生活できる」という新たな思考を生みだします。

 

三十五、裏表などなく、人間は単純である

私たちは、人間には裏表があって、難しいものだと考えています。
しかし、いかに誰かが多重人格的な気の難しい人に見えても、あくまでその人は自分の統一的な欲求を基にして単純に動いているだけです。

来客があると、今まで激怒していたお母さんが、ニコニコ笑顔を振りまきます。
別にそれは偽善でも、仮面をかぶっているわけでも、多重人格者なのでもなく、気が難しい訳でもなく、ただ、子供が悪いことをしたから教育の為に怒り、いつも夫に良くしてくれている会社の人が来たから、ニコニコしているだけです。
このお母さんはあくまでも、家族の利益というものを軸として生きる、筋の通った人間です。
むしろ子供に対しての怒りを、来客者にも向ける母親がいたら、その人こそ、コンテクスト(状況)が読めないという、人格の不統一性の萌芽をはらんでいます。

男の前では聖女のように振る舞い、女の前では意地の悪い魔女ような女性がよくいます(勿論、男でもよくいます)。
しかし、彼女は、ただただ男にもてたい一心なのであり、当然、男には笑顔を、ライバルである女には敵対心でいっぱいなのです。
彼女もただ一筋に生きる人間なのであり、気が難しいわけではありません。

多くの場合、それを解釈する私たちの方が、表面的なものばかり見て、本質を理解しようとしないことから生ずる誤解が、家族関係や友人関係を難しくしてしまうのです。

 

三十六、感情は受動ではなく、自ら作っていくべきもの

私たちは、仕事やお金儲けにおいてはシビアであり、最初の印象だけで物事を判断することはありません。
各瞬間ごとに与えられる物事を単なる印象ではなく、有益な情報として、判断し、評価し、適正を見極め、物事と自分とのより生産的な関係性を結べるよう、制御します。

しかし、私生活や一般的な事柄においては、そうでなくなります。
最初に見た印象や、直接的に生じた感情を鵜呑みにし、何の判断も意志も介さないまま、物事を動かしていきます。
まるで変えられない自然現象のように、印象と感情の天気に流されるだけです。
印象だけで誰かを愛し、一時の感情だけで別れ、判断すればすぐに気付くようなちょっとした見誤りで、他人や自分を傷つけてしまいます。
寝起きの寝ぼけまなこで、コーヒーに、判断も介さず印象だけで砂糖を入れたつもりが、塩であり、顔をしかめてしまうようなものです。

思考や感情というものは、本来、意志や行為によって自分のものとして「作られていくもの」であり、単に外から与えられる受動的なだけのものでも、自己完結したものでも、固定したものでもありません。

私の目の前に現れた感じ(印象)の悪い人に対し、その最初の印象と、最初に湧き上がった感情のみを決定項(変わらぬもの)として、受け入れれば、砂糖と塩を見誤るように、私にとって大切な人を、拒絶することになるかもしれません。
私はその印象や感情を、思考と意志と行動によって吟味すれば(例えばランチに誘って話してみる)、その人は最初の印象とはまったく違う人物であることが分かり、私の持つ感情も変化します。
いま、私を取り巻くものに対して持つ印象や感情は、寝ぼけまなこで見、受動的に受けただけの夢想でしかなく、私はそれに意志や行動を介在させ、自分自身の観念や感情として、作り変えていかねばならないのです。

 

三十九、いつ、どこでなすべきか

朝、私は起き、ベッドの上で20分ほどダラダラしながら、今日の仕事のことなどを考えているうちに、遅刻ギリギリになり、大急ぎで駅へ向かいます。
ゆっくり時間を楽しみながら前を歩いている観光客にイライラし、心の中で「朝の五分は、お前らの一時間より貴重なんだぞ!」と、愚痴ります。
20分の考え事を、ゆっくり通勤しながらすればよいだけなのに。

別の日、私は電車に乗っています。
目の前の車窓というスクリーンに、美しい田園の風景が流れているのに、私はただ、ヒマそうにあくびをしたり、興味もないのに前の客の新聞記事の裏を読んだり、カバンを開けたり閉めたりしています。
目的の駅に着き、映画館に入り、私は作りものの美しい風景描写の映画に、感動し涙を浮かべています。

雑誌で見た厳島神社に興奮し、旅行計画を立て、現地へ飛び、私はスマートフォンのカメラ越しに被写体としての厳島神社を覗き、家に帰ってそのコレクション写真を見返して、悦になります。
一度も現実の厳島神社に出会うことなく。

それは今なすべきことなのか、それはここでなすべきことなのか、適切なタイミングやコンテクスト(状況)を省みない私は、人生の大半の時間と経験を無駄にしています。

 

四十、過程がすべて

人間の幸福感というものは、何かを欲し、意志し、行動することそのものの中にあります。
野心家は、目的となるもの(金、名誉、権力など)が自分を幸福にしてくれると思っていますが、いざ、それを手に入れると、それは色あせ、やがて耐え難いものになってきます。
そして、新たな目標をたて、また意志と行動の旅に出ます。
戦争が、日々の具体的な目標のない有閑人たちによって引き起こされるのは、こういう理由です。

「野心を持たずに満足し平穏に暮らせ」と言う賢人は、「欲するな、意志や行動を捨てよ」と言っているのではなく、小さなものに希望を見出せ、と言っているのです。
毎年のツバメの巣作りを手助けしたり、家庭菜園のトマトを楽しみにしたり、週末の釣りの釣果に期待したり、子供の笑顔を働き甲斐にしたり、小さく欲し、小さく意志し、小さく行動すれば、大きな賭けに出るリスクを回避しながら、人間の行動に宿る幸福感を享受できるからです。

金や名誉を軽蔑することは、簡単なことです。
問題はそれを求めなくとも、退屈せず、充実して生きられるだけの智慧が必要だということです。

 

(4)へつづく