アランの『幸福論』(2)

(1)のつづき

十二、身体から心を制御する(その一)

動物と違って人間には、思考と情念と言うものが存在します。
その分、人は、調子を崩しやすいのです。

急な坂道があったとします。
馬は文句も言わず、ただ上っていきます。
しかし、人間は、想像力がはたらき、その状況に息がつまり、イライラします。
急な坂道を登る時に身体は、大きく息を吸って、落ち着いて、上りはじめる必用があるのに、思考はその反対のことを(息を止め、そわそわ)しはじめます。
身体と状況が調和した馬と違い、そうやって調子を崩す人間は、ほんの些細なことにでも、疲れ果ててしまいます。

身体を柔軟にすべきところで、人の思考や情念は身体を硬直させ、背筋を伸ばすべきところで、うなだれます。
悲しみには悲しみに適した姿勢や動作、怒りには怒りに適した動作があるように、人は自身で勝手に生み出した想像に身体を従わせることで、不調和な姿勢と動作を作り出し、それを維持しようとします。
悲しみに囚われる人は、悲しみの姿勢をとり続けることによって、さらに悲しみの鎖を強化し縛りつけます。

礼儀というものは、この教訓から生じたものです。
心の落ち着いた人の姿勢や動作を、身体に真似させることで、身体の方から心に働きかけ、落ち着かせようとする技術です。
緊張して困る時は、リラックスした休日の昼間のように、大きく伸びをして、あくびをすれば、緊張はほぐれます。
いつも笑顔を絶やさず生きている人は、少なからず、その人の心や人生を、身体の方から幸福にしているのです。

十三、十四、リアルでない苦しみ

例えば、私が命綱なしで断崖絶壁を上っていたとします。
落ちたら死ぬという極限的な集中状態で、私は我を忘れ必死で登ります。
上りおえた時、私は反省的にその行為を思い出し、震え上がります。

考える余裕すらない無時間的なこの集中状態が現実なのですが、その後に思考によって反省的に作られた苦痛や恐怖の体験記を、本物だと思い込んでしまいます。
そして、その体験記を聞いた人達も、想像によって得た苦しみを、現実だと思い込んでしまうのです。
私たちの持っている大半の恐怖や苦しみの観念は、私や他人の作った悲劇作品の脚本であり、リアルではありません。

リアルはそんなロマンティクなものでも、劇的なものでもなく、淡々として、あっけなく、現実の悲劇は瞬く間(瞬間的)に済んでしまうのです。
私たちは、その短い瞬間を、想像によって無際限に引き伸ばし、イマージュとしての苦痛や恐怖を、大長編悲劇作品として味わい続け、苦しみ続けるのです。
想像の中で。

十五、戦争とは退屈した有閑階級のゲーム

人間は明確な対象のない、漠然とした状態を嫌います。
病気を宣告された後よりも、診断結果を待つ前の、宙吊りの状態に、恐怖や不安や怒りを覚えるのです。
人間は物事を決定したがる生き物であり、決断は生きることの本質です(反対に逡巡は生を止めること)。

漠然とした決断の対象のない状況におかれた人間は、焦り、苛立ち、不安になり、何でもいいから決断の機会を求めます。
日々、飢えや貧困という死の可能性に晒されながら、生きるために、瞬間ごとに決断をし、死に勝利している働き者は、平和を愛好します。
しかし、日常、死の危険に晒されていない有閑階級は、決断の機会がないため、常に不安の入り混じった退屈を抱えており、決断の機会を望んでいます。
トランプ賭博のような明確な危険と決断の機会を欲しているのです。

戦争とは、そういう少数の退屈した有閑人が引き起こすゲームであり、漠然(曖昧)と退屈と不安を癒すものは、具体的な危険を伴う決断の機会だけなのです。
働き者のような具体的な決断の生活を生きていない、抽象的な想像によって生きる有閑人は、そのようにして人々を戦争へと導きます。

十六、身体から心を制御する(その二)

人間の心と身体は連動しています(第十二節参照)。
怒りながら身体をふにゃっと弛緩させることは不可能です。
情動は直接、思考によって制御すること難しいですが、思考によって身体を制御し、身体から情動に働きかけることは出来ます。
祈りの姿勢は、ひざまずくことで動きを抑え、目を閉じることによって知覚の対象を遮断し意識を落ち着かせます。
それによって荒々しい情動の奔馬は鎮められます。

多くの場合、私たちの情動は、誰かの動作や態度を真似ることによって生じた偽(演技として)の情動です。
不幸な人は、その境遇が不幸だから不幸な心になっているのではなく、不幸のお芝居を身体で真似て、自分の心を不幸にしているだけなのです。

十七、本当の知は行動にある

舞台に上がる前のピアニストは、恐怖に固まっているのに、いざ演奏が始まると、上手く演奏します。
それは、恐怖の最中に入ると、恐怖が消える(第九節参照)というだけでなく、ピアノを弾くために必要な流れるような動きが、その対極である恐怖の身体状態(強張り)を追い出すからでもあります(第十二節参照)。

だから、優れた哲学者は、情動に苦しむ者を解放するために、教室(思考)から彼を運動場(行動)へ連れ出すのです。

二十、狂気の本質

この断章のアランの表現があまりに巧みで、まとめ様がないので、長いですが直接引用します。

自分で自分の身体をかきむしるのが、最高の激昂の姿である。これは自分で自分の不幸を選びとることに他ならない。自分で自分に復讐することに他ならない。子供が最初このやり方をやってみる。自分が泣くことに腹を立ててなおさら泣く。腹が立っていることに苛立って、自分をなだめまいと決心することによって自分で自分をなだめる。それがつまりすねることである。自分の好きな人を苦しめることによって二重に自分に罰を与える。自分をこらしめるために自分が愛している人をこらしめる。知らないことを恥じて、もう決して読むまいと誓う。強情を張ることに強情を張る。憤然として咳をする。記憶のなかにまで屈辱をさがす。自分で自分の感情をとげとげしいものにする。自分を傷つけ、自分を侮辱することを、悲劇役者の演技力でもって自分自身に向かって繰り返し語りかける。最悪のものこそが真実であるとの規則にしたがって、物事を解釈する。自分を意地悪な人間に仕立てあげるために、無理に意地悪な人間気取りで行動する。~だれもがいやになる顔をし、また他人たちをいやがる。いっしょうけんめい人を不愉快にしながら、気に入られないのを不思議がる。~どんな悦びでも疑ってかかる。何事につけてもうかぬ顔をし、何事にも反対する。不機嫌から不機嫌をつくり出す。~わざわざいやな顔をつくって、鏡でその顔を見る。(宗左近訳『世界の名著/アラン』中央公論新社)

この世界で最も恐ろしい敵は自分自身です。
自分と自分との争い(自問自答)の中で独演される悲劇は、現実から遊離した思い違いを加速させ、やがてとんでもない化け物のような狂気へと変貌します。
狂人とは、その人自身の誤った考えが拡大して顕れたものにほかなりません。

二十一、性格の正体

お天気や身体の調子によって、誰しも気分が変わります。
賢い人はそれを理解し、自分の気分による態度を反省でき、また、他人の気分による態度を許すことが出来ます。

しかし、そうでない人は、たんなる気分によるものが、まるで先天的な性格や、物事の真実の姿であると信じて疑いません。
不機嫌な魂は、些細な物音を騒音だと激昂し、ほのかな香りに顔をしかめて鼻をつまみ、他人の何気ないしぐさに嫌気がさし嫌いになります。
そして、それが世界の真実の姿であると思い込み、それが自分の持って生まれた性格だと思い込みます。

二十二、運命という名の言い訳

私たちは自分の過去の選択や道のりに、運命を見たがり、そしてそれを嘆きます。
しかし、過去の運命などというものは、今現在の私を束縛するようなものではありません。
過去の失敗を未来への教訓と捉えれば、それは自分を一歩前進させる良い運命となり、過去の失敗を言い訳にして、再挑戦する努力から逃げれば、悪い運命となります。

必然を受け入れ、まずそれを肯定することから、自由と喜びの可能性が生じます(スピノザの項を参照)。
必然を呪い、それに囚われると、運命はゴーゴンの眼差しのように、私を石に(行動できなく)してしまいます。

「僕の両親は中卒でバカだったから、僕も遺伝で勉強が出来ないんだ!」と運命を呪う者に、一生自由は開かれません。
彼らの言う「運命」とは、努力や決断やそれに伴う責任から逃げるための言い訳です。
勉強が出来ないのは、端的に勉強をしないからです。
勉強が出来ないのなら、その過去の事実(運命)を積極的に引き受けて、「僕の家は、あまり良い教育環境になかった。だから、その分、人一倍勉強しよう!」と言う時、彼はゴーゴンから解放され、自由と行動の喜びが与えられます。

二十六、意志の力

人間には二つの生き方があります。
自分の意志に従い、自分が自分の主人として生きる者。
自分の意志を持たず、他人の奴隷として生きる者。

前者は自分の自由な意志で決断し、それが悪い結果をもたらしても、自分の責任として引き受け反省し、修正のための努力をはじめます。

後者は他人の意見に流されるだけで、常に悪い結果は他人のせいにします。
それはさながら、他人の命令によって動く自動機械(ロボット)です。
他人のせいにするということは、裏を返せば、行動の原因が私にではなく他人にあると言うことであり、自分がただの操り人形であるということを自ら証明することです。

当然、この二つの生き方に従い、それぞれまったく違った経験(いわば世界)が生じてきます。
奴隷の生を生きる猟師は、獲物のウサギに逃げられると、自分の年齢や道具や運が悪かったなどと、環境や運命のせいにし、陰気になります。
反対に、自分の意志によって生きる者は、逃げおおせたウサギの賢さに感心し、その賢さに負けないよう自分の能力を上げて次こそ勝つぞと、元気に帰路につきます。

世界というものは、別に人間に対し、好意も敵意も持っておらず、ただただ無関心なのであり、世界を好意的なものとするか、敵意を持ったものとするかは、その人自身の問題なのです。

(3)へつづく