アランの『幸福論』(かんたん版)

人生/一般 哲学/思想

 

はじめに

オプティミスト(楽観主義者)として有名なアランの『幸福論』をはじめとしたプロポ(哲学的断章)は、具体的で非常に分かりやすい言葉で書かれているはずなのですが、内容として何を言っているのかよく分からないことが多々あります。
なぜかというに、それが全て隠喩だからであり、これは完全にアランの戦略(レトリック)です。

アランは、具体を離れた抽象的な思考が無意味で有害でしかなく、具体物によって思想や観念を表現すること(具体の言葉、隠喩)が必要だと考えます。
抽象はただ頭で分からせるだけであり、まったく身にはつきません。
身になる理論とは、現実の具体的な事物から、その人自身の中で帰納的に導き出された理論(抽象)のみです。
抽象だけの理論というものは、その過程(途中計算)を省くため、頭でしか理解されず、実用が難しい(自身で具体物に演繹できない)のです。

分かりやすく言うと、アランのプロポは、哲学的な『イソップ物語』のようなものです。
この物語は具体的な物語を喩えとして、何らかの教訓を表現する拡大された隠喩(寓意)の体裁をとっています(物語の最後で教訓が明記されることも多々あり、隠喩とは呼べませんが)。
本項では、あえてその教訓(哲学)のみを取り出してみます。

 

不幸の原因

アランにとって不幸とは、現実をきちんと把握しないことから生ずる、生の活動の鬱血や歪みです。
不幸、およびそれを生じさせる情念(悲しみ、怒り、怨み、恐怖、不安、諦め、等)は、単に誤って捉えられた現実(憶見、幻想)が引き起こすものでしかありません。

「絶望」とは、この現実から遊離した幻想によって行われる、自己対話(自分が反省的に心の中で自分と対話する、自己反省)における、どうどう巡りの眩暈です。
「狂気」とは、この幻想が雪だるま式に膨れ上がって、その人の手に負えなくなってしまった、憶見の化け物です。
普通の思考は、現実と私の間で対話するため、地に足をつけた確実な生産性をもたらしますが、幻想と幻想の間で行われる対話は、無際限で不確実性と破壊性しかもたらしません。
「虚無感」とは、情動としてこの不安定性を捉えたものです。

 

現実を認識する

本来、世界というものは人間に対し無関心なのであり、別に良くしてやろうとも悪くしてやろうとも思っていません。
その完全にニュートラルな世界を、善いものと捉えるか、悪いものと捉えるかは、その人のものの観方に依存しています。
私たちの不幸は、世界を、わざわざ悪くするような観点で捉えることから生ずるのであり、幸福になりたければ、まずその現実を直視し、想像上の不幸を破壊し、幸福になる観点を採ればよいだけの話なのです。

こんな風にアランは訴えます。
物事には必ず二つの取手があります(ニュートラルな現実の自覚)。
しかし、片方は欠けた取手です。
なぜわざわざ欠けた方(不幸になる方)を握ろうとするのでしょうか。

 

現実の自覚、身体性

現実の認識とは、可能性と不可能性の境界、全体と細部の関係性の認識などが主になってきますが、その中で特にアランが注目するのは、「身体性」です。
具体から抽出された象(かたち)による抽象の思考(いわゆる科学的思考)が、飛躍的に人間の可能性というものを広げたわけですが、反面、それは具体の忘却という副作用を引き起こしました。

これは人間の日常生活でも当てはまり、それが「身体性の忘却」という問題です。
人間の思考や心や感情というものは、身体-環境レベルで規定されており、それは理論理屈でどうこうなるものではないということです。

 

具体例

例えば、私が非常に合理的な理由を持って悲しんでいたとします。
しかし、実はこの悲しみの本当の原因というものが、身体レベルにあり、理論的な原因というものは、後付けで考え出された言い訳程度のものにすぎないことが大半です。

持病の腰痛で苛立ち、世界を悪い取っ手の方で解釈している。
周囲の人間の悲観的な動作を身体レベルで模倣し、それに後で理由を見つけ出している。
雨が続いて気分が晴れないだけなのに、世界を暗いものとして理由づける、等々。

だから、世界の虚無に悲観し絶望するパスカル(享年39)の世界観(星空に怯える弱き人間)に対し、アランは言います。
彼が辛い病気を抱えており、人より感じやすく、夜風が彼を震えさせたからだ、と。
もし、健康で快活な人間であれば、星空に怯えず、その美しさに驚嘆するだけだろう、と。
もちろん、戯画的に誇張して言っているのですが。

 

問題の解決

この様に身体レベルで規定されている問題に対し、いくら理論・正論でいっても絶対に解決しません(せいぜい反省の契機を与えるくらいです)。
なぜなら、身体-環境レベルで認知が歪められているので、その身体および環境を変えるしか根本解決はないからです。

有名なアニメ『アルプスの少女ハイジ』の車椅子のお嬢様クララが、ゼーゼマン家の豪邸からアルムの山に引っ越すと、自力で歩けるようになったのはなぜでしょうか。
それは、環境すべてが受動的で静止したゼーゼマン家から、すべてのものが能動的で自立的に運動するアルムの山小屋へ移ったからです。
身体レベルから、クララの自信や自立心や行動のイメージを転換し、自立し歩くことの可能性を開いたのです。

私たちは多くの場合、不幸な状況を解決するための、現実の正確な認識を怠るため、誤った理論理屈をこじらせて、どうしようもない状況にしてしまいます。
不幸は現実認識によってのみ、解決します。

 

幸福とは何か

しかし、そもそも幸福とは、一体どういうものを指しているのでしょうか。
幸福とは、人間の生の活動が活性化されている状態であり、物や概念ではありません。
お金やご馳走や名誉や地位は、生を活性化させることにおいてのみ富であり、生の行動を減退させるなら、それは毒のようなものでしかありません。

より具体的には、自分の意志によって主体的に、自分の個性や能力の発揮(面目躍如)として活動する時、人は幸福を感じます。
馬が駆け、鳥が飛び、魚が跳ねるように、生の能力の発揮が幸福感を与えます。

 

不幸とは何か

反対に不幸とは、人間のこの生の活動が停止、あるいは歪めらたストレス状態での活動です。
歪められた状態とは、生物の自然な行動、主体的で自由な行動ではなく、不自然な行動、自分以外のもの(他人や憶見-概念-)に隷属して、駆り立てられるように生ずる行動です。

現実の認識の失敗による誤った憶見が、可能性(自由、内から規定する個性)と不可能性(限界、外から規定する個性)の境界を混同させ、それが人間の行為可能性に齟齬を引き起こし、行動を停止したり、ねじれた状態にしてしまったりします。

 

楽観主義の本質

例えば、人間にとって老いや死は、必然に属するものであり、その限界性が人間に個性を与えています(死ぬから生き物であり、一回限りの人生のかけがえのなさを自覚できるから人間です)。
別に老いも死も、世界が人間に意地悪するために作ったものではなく、善くも悪くもないニュートラルな現実です。
人間に可能なことは、それを勝手な憶見によって評価することではなく、その人間という限界(個性)の中で、いかに幸福に生きるかです。

死ぬべき存在である私が、まるで死なないかのように振舞ったり、死に対し見てみぬフリをしたり、現実の物事の境界(可能性、不可能性)をきちんと認識しないからこそ、ニヒリズム(虚無主義)やペシミズム(悲観主義)やシニシズム(冷笑主義)が生ずるのです。
アランからすれば、これら三つのネガティブな世界のかかわり方は、現実認識が中途半端であることから起こる、幼稚な思考です。

楽観主義とは、現実の可能性をきちんと認識し、それに伴った行為によって、幸福な状況を作って行こうという、現実的かつ意志的な努力のことです。
現実認識、あるいは意志的努力のどちらかを欠けば、それは必ず、ニヒリズムやペシミズムやシニシズムを招来します。
別に悲しくなるのに哲学も努力も必要ないのであり、悲観主義の理論は自己弁護の装飾(言い訳)で埋め尽くされたポエムのようなものです。

中途半端に考えるくらいなら、考えない方がマシなのです。
ハンパな思考は悪い考えを生み出すだけであり、考えるなら徹底的かつ冷静な状態でなさねばなりません。

 

幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ

よく引用されるこの言葉に、アランの『幸福論』の哲学が集約されています。
幸福とは意志的な努力によってはじめて生ずるものであり、幸福とは物や概念ではなく行為そのものであり、幸福とは世界に与えられるものではなく人間によって作られるものであり、幸福とは身体(幸せなら手を叩き、笑い、スキップする)を介して他者と分かち合うことで存在すものである、等々。

楽観主義(オプティミズム)とは、幸福への努力の別名であり、悲観主義(ペシミズム)とは、この努力の放棄のことです。
幸せは歩いてこないのであり、自分で歩いて手に入れるものなのであり、三歩進んで二歩後退する苦闘の中で徐々に実現されるものです。

アランは非常に厳しい人間です。
宗教的な諦念や幻想による幸福を、麻薬のようなものとして全否定する人です。
しかし、それが現実です。
幸福は十分可能ですが、それほど甘いものでもありません。
甘ったれた幸福への認識(根拠のないオプティミズム)は、ニヒリズムやペシミズムを生み出す準備にしかなりません。

 

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