アランの『幸福論』(1)

一、本当の原因

人間はいつも情念の本当の原因を見ないため、無力です。
様々な学問領域の小難しい理論によって、原因を突き止めようとするわけですが、多くの場合それらは無力で、真の原因はほんの些細な身体的問題にあったりします。

夜鳴きのひどい赤子の原因は、遺伝や育児法などではなく、毛布のチクチクかもしれません。
過去の不義をあげつらい、怒りに任せて離婚を迫る女性の本当の原因は、ダイエットで我慢している甘い物のせいかもしれません。
いつも不安に苛まれる神経症的な男性の恐れの原因は、彼の部屋の隙間風の悪寒と薄暗い電灯のせいかもしれません。
それに気付けない人間は、勝手に大げさな情念の原因を創作し、その幻影に翻弄されるのです。

第一次大戦の本当の原因は、きっと要人たちが不意打ちを喰らったことによる、興奮と不安と怒りの増幅にあるのでしょう。
不意打ちは、人間の理性を吹き飛ばし、激しい情動に駆り立てます。
ひとりの赤子が泣き出すと、連鎖して、周りの赤子も泣き出すように、それは世界に拡大し、自分の泣き声に驚きさらに泣き喚く赤子のように、エスカレートしていったのです。

二、身体に対する思考の影響

身体の動きと思考は密接に連動しています。
強い刺激を受けた時、身体がこわばり引きつるのは、反射的なものではなく、思考の混乱であり、まさに思考がその瞬間、どうしてよいのか分からなくなるから、身体もそれに従い硬直するのです。

風邪を引くと、人は激しく咳をします。
しかしその咳の大半は、思考や情念によるものであり、純粋な身体症状ではありません。
身体的な症状としての咳以上に、風邪に対する怒りと機嫌の悪さをぶちまけるかのような激しい咳をし、それによってさらに苦しくなり、また怒り、咳は咳の連鎖をよび込みます。
最初の咳が出た時、冷静でいられたなら、身体も落ち着き、咳の量はかなり少なくて済んだでしょう。

怒りや苛立ちも、本質的にこれと同様です。
ほんの些細な出来事の小さな怒りが、咳のように増幅し、取り返しのつかないことになることがあります。

ギリシャ人は、本当の体育を知っていました。
それは理性によって体の動きを支配する術です。
それは全ての動きを機械のように支配することではなく、自然な動きの調和を壊す不自然(不調和)な動きを排除する術です。

三、思考に対する身体の影響

これとは逆に、身体の状態の側から思考や情念に影響を与えるようなつながりもあります。
どんな出来事でも、とらえ方(視点)によってその意味が変わります。
周期的な身体の調子の変化が、思考や感情のあり方に連動し、調子の良い時は幸福に思えた出来事が、調子が悪くなると不幸なものに見えてきたりします。
誉められると、馬鹿にされているように思え、親切にされると、侮辱されているように思え、笑顔で迎えられると、謀りごとだと勘ぐります。

しかし、理性はこの事実を反省的に自覚することが出来ます。
私の悲しみが私の身体の状態によって引き起こされていると自覚した時、その悲しみは身体へと押し戻され、元のたんなる身体的不快感や疲労に還り、私はその悲しみに対し笑ってサヨナラすることが出来るのです。

四、幸福の理由

実のところ、幸福や不幸の理由はそんな大したものではありません。
身体の健康状態や、食事や、運動や、お天気や、読んだ本や、注意の向け方などによって決まる、機嫌のようなものです。

暇になってあれこれ考える時間が出来ると、やたら理由を考えたがるのですが、そんな時、ご機嫌な人はポジティブな理由をうまくこしらえあげ、陰鬱な人はネガティブな理由をうまく考え出します。
パスカルの哲学が陰鬱なのは、彼が病弱だったからであり、彼が星空に感じた畏れは、たぶん夜風で身体が冷え込んでしまったからでしょう。

幸福な賢人は、別に幸福についての難解な理由を知っているのではなく、ただ、幸福な物事の思考で頭がいっぱいで、不幸な情念の入り込む余地が少ないのです。
自分の好きな趣味のことに夢中で持病の辛さを忘れてしまうように、大切な仕事や、友人との関わりや、有意な活動や、書物との対話など、生きる楽しみや素晴らしさを与えれくれるものたちで、いっぱいなのです。
それらに無関心でいて利用せずにいることが、不幸の問題を招きよせるのです。

五、最初の小さな我慢が、後の大きな苦しみを消す

悲しみや怒りなどの情念の多くは、それについて注視し、考え、いじくりまわす、こだわり(偏執)によって生まれるものです。
傷口を気にして、いじくりまわしている間は、傷は治らず、悪化していくだけです。
悲しむ人間は、世界中のあらゆるものに悲しみの理由を見つけ出し、自分の所有する悲しみを食通のように噛み締め、味わいます。

悲しみや怒りの情念に囚われた時、なすべきことは、腹痛を我慢するように、あれこれ考えず、最初の波がじっと過ぎ去るのを待つことです。
祈りの効果はここにあります。
ひたむきな祈りによって、不幸の情念たちに囚われることを防ぎ、やがてそれらを消滅させるからです。

六、原因の在り処を見極める

情念というものは、その人の性格や思考から生じてくるものであると思われているため(内的要因-自分のせい-)、外的要因に起因する身体の病気や怪我よりも、精神的に耐え難く感じられます。
しかし、情念も身体の調子や気候の変化などによって変化する、外的要因を含むものであることを知れば、情念に翻弄される自分自身を責めたり、呪ったり、思い悩んだりすることは少なくなります。

七、自己暗示

占いが当たるのは、第一に、占い師自身が些細な兆候(データ)を読み取り推論する能力に長けているからです。
[例えば、名探偵コナン君は、他の人の気付かない些細な兆候から、過去と未来を推理し見事に当てます。「あの人を殺したのはあいつだ(過去推理)」とか、「次はあの人が殺される、助けなきゃ!(未来推理)」とか。そういう能力です。]

第二に、自己暗示によって、占われた人のその後の生活が、占いの結果の方へ引っ張られてしまうことです。
[スポーツ選手のイメージトレーニングなども、この原理を含んでいます。]

だから、医者が患者に病気を宣告する時、患者は二重の意味で病気にかかってしまうのです。
身体的な意味での病気は、その医者が治療してくれます。
しかし、自己暗示やイメージによって生じた病気は、治してはくれません。
「あなたは虚弱体質です」と宣告されれば、今まで何でもなかった作業で、疲れ果ててしまうことになります。

眠れないことを怖れる者は、眠れない自分のイメージによって、自分を眠らせないのであり、羊をイメージすると眠れるのは、羊が眠れない自分のイメージを押し退け、眠りに適した状態に入らせるからです。

だから、普段、病気のイメージを持つよりも、健康なイメージを持って生活する方が、より健康に成れるのです。
背筋を伸ばして、余裕を持って、折り目正しく親切な、そういう健康にふさわしい運動や立ち居振る舞いが、健康を作っていくのです。

八、肉体の力

外科医の鞄には、気付け薬(ラム酒)が入っています。
それは手術を目の当たりにした付添い人が失神することを防ぐためです。
目の前で誰かの腕がメスで切られるのを見ると、人は自分の腕をこわばらせ、顔をしかめます。
私と患者は別の人間であると理屈では分かっていながら、それを止めることはできず、思考は無力です。

人間が人間の前にいるだけで、互いに対し、強い影響力を与え合い、誰かの怒りは別の者の怒りへと伝染し、連鎖しながら周囲に広がります。
「同情とは、相手の立場に自分の身を置いて見ることだ」と心理学者は言いますが、そんな反省の前に伝染は起こってしまっており、それは後出しジャンケンのような下手な説明です。
ここにおいて身体は、思考を介さず、瞬間的に身体同士でつながるのです(メルロ=ポンティの項を参照)。

肉体から切り離された魂は、高邁で情に篤いものだと思われていますが、実はその逆で、肉体をおざなりにするからこそ、人は同情や共感する力を失うのではないでしょうか。
思考よりも、肉体の方が高尚です。
肉体は思考によって苦しみますが、行動によって癒されます。
本物の思考が乗り越えるべきものは論理の問題ではなく、この事実です。
ここにおいて重要なものとなるのが、具体物によって観念を表す「隠喩」なのです。
[なぜ、アランがひたすら具体例のみで、彼の哲学を記述するのかがよく分かります(抽象的に書いた方がはるかに楽なのに)。]

九、不幸の本性

恐怖や苦しみのほとんどは、想像によるものです。

明日の予防注射に怯える子供は、その時の状況を想像し、膨らませ、客観的にはしっぺ遊び以下の痛みしかないはずの注射が、逃げ出したくなるほどの恐怖に変わります。
コミュニケーションの苦手な者は、飲み会で孤立する自分の姿を想像し、憂鬱になります。
しかし、実際に参加してみると、結構楽しく、帰りは「行ってよかったな」と、少しご機嫌な自分を発見します。
人は自分の想像によって作り出した苦しみや恐怖によって、自身を不幸につなぎ止め、人生において大切なものを得る機会を、失ってしまうのです。

現実の不幸は、あっけなく、淡々としており、想像によって悲劇のワンシーンのように劇的に色付けていたそれは、一瞬で色褪せます。
病気を恐れるのは健康な者だけであり、貧困を恐れるのは富んだ者のみです。
病気や貧困そのものの中にいる者は、ただその瞬間を賢明に生きているだけであり、その状況が恐ろしいものだなどと怯えてはいません。
それは死についても同じことです。

(2)へつづく