プラトンの『ゴルギアス』(4)カリクレス編・下

(3)のつづき

ソクラテス
君は欲望の無制限の解放が人間の徳であり幸福であると言う。
しかし、過去の賢者たちは、満たされて欲望を持つ必要のない充足した状態を幸福だと言う。
これは間違いかね。

カリクレス
もしそうだとしたら、石コロや死人が最も幸福な者となるだろう。

ソクラテス
賢者らは、欲望に駆り立てられる生は、穴の開いた水筒にせっせと水を汲みつづける惨めな徒労であるとも言う。
無際限に増幅していく欲望と、快楽に慣れ麻痺しさらに大きな快楽を必要とする、永遠に満ちることのない生。
そんなものより、その時々に得られるもので十分満足できるだけの秩序と節度を持った生の方が幸福なのではないだろうか。

カリクレス
そんなおとぎ話は私にとって何の説得にもならんよ、ソクラテス。
すでに満たされてしまっている者には、快も苦も生じないのだから、石コロのように死んだ生だと私は言うのだ。
快というのは、その水の流れ“そのもの”の中にあるのであって、満たされた水瓶のように静止したものには、そもそも快も苦も生じはしまい。

ソクラテス
では、南京虫に刺されて好きなだけ掻くことのできる生は、普通より快い生で幸福なのかね。

カリクレス
何と馬鹿なことを。

ソクラテス
試しただけだよ。
どうやら馬鹿にする様な快と、そうでない快があるらしい。
君は快楽の中にも善い快楽と善からぬ快楽があることを区別しているようだ。
そこで訊きたいのだが、その快楽と善は一致するものなのか、それとも快楽の中には善からぬ快楽も存在するのか、どちらだろうか。

カリクレス
後者を選び、快と善は別であると言えば、私の言説は首尾一貫しなくなり、またあなたはその矛盾を突いてくるだろう。
では、快と善は一致すると主張する。

ソクラテス
本音を言うと約束したではないか。

カリクレス
・・・、本音からの主張だ。

ソクラテス
そうか。
では、次の質問にうつろう。
最大の快楽を得るには、勇気と知識(思慮)が必要だと君は言ったが、快楽、勇気、知識、これらはすべて別のものであろうか。

カリクレス
当然だろう。

ソクラテス
なるほど、快楽と善は同じもので、勇気と知識についてはそれら全く別のものであると。

カリクレス
そういうことになる。

ソクラテス
善い状態(幸福)である人と、悪い状態(不幸)である人は、正反対の経験をしている。
それは速さと遅さ、強さと弱さのように、これら二つの相反する状態を同時に所有したり、同時に失ったりすることもなく、片方を選ぶことによってもう片方から離れる、そういう相対的なものではないかね。

カリクレス
同意する。

ソクラテス
君は飢えや欠乏(欲望)を満たすことそのものの中に快楽があると言った。
しかし、私が飢えて苦しみ、ご馳走を食べ快楽にひたる瞬間、快苦は同時に起こりつつ、そして食べ終わり満たされると、その快苦は同時に消滅する。
これは先ほどの善悪の定義とはまったく逆のものとなるが、そうなると快苦と善悪はまったく別のものという帰結になり、「快と善は一致する」と言う君の主張は崩れることになる。

カリクレス
ああ、何という屁理屈だろう。
見てくれゴルギアス。
ソクラテスというのは、こういう風に重箱の隅をしつこくつつき、相手をやりこめるのだよ。

ゴルギアス
一度はじめたからには、最後まで続けたまえ。
決着がつくまでは、評価は差し控えるべきだ。

カリクレス
友のあなたが言うのなら仕方あるまい。
続けよう。

ソクラテス
例えば、君の言う勇気も知識もある「善い人」と、無知で臆病な「悪い人」が、戦争のような過酷な状況に置かれた時、勝利における快楽の程度や、敗戦による苦しみの程度は、彼らの持つ善悪の程度に比例して変わるものだろうか。

カリクレス
悪い人間の方が多少苦しみは多いだろうが、善い人間も悪い人間も同じように苦しみを共にし、同じように喜びに抱き合い、闘うだろう。

ソクラテス
君はいま、自説(快と善は一致する)とは正反対のことに同意していることに気付いているだろうか。

カリクレス
分かっている。
ただ、冗談も通じない頑固な子供のようなあなたに、もう呆れているのだよ。

ソクラテス
君の好意を信じて真剣に向き合ったのに、どうやら私は騙されていたようだ。
君はコロコロと主張を変えた上に、都合が悪くなると私を子供扱いだ!
さて、快楽にも善し悪しが存在するなら、善い快楽とは有益な快楽、悪い快楽とは有害な快楽のことだね。

カリクレス
そうだ。

ソクラテス
また、苦痛に関しても同様に有益なものと有害なものに分けられるね。
そして、快にせよ苦にせよ、人が選ぶべきは有益なものの方で、避けるべきは有害なものの方だね。

カリクレス
むろん。

ソクラテス
そうすると、結局、私が最初にポロスに語ったことに行き着くね。
あらゆる行為の目的は善であり、快い行為も善いことのためになさねばならぬと。

カリクレス
たしかに。

ソクラテス
あの時、私は、その善悪の判断に関する技術を持つことが重要だと述べたが、そういう技術が必要だろうか。

カリクレス
必要だ。

ソクラテス
私は弁論術を、快楽をもたらすことだけに専念し、中身の善し悪しを検討しないお化粧のようなものだと批判した。
君達が勧める生き方、世間の表層を如何に巧く渡っていくかではなく、私が述べるような生き方、事物の本質にまで入り込み善悪の問題にまで関わる真剣な生こそ、男子たるものが選ぶべき道ではなかろうか。
快と善は別のものであり、前者のことばかりを考えるのが君の言う生、後者を求める道が私の言う生だ。

カリクレス
その生き方を私が選ぶかどうかは別として、理屈としては認めよう。

ソクラテス
弁論術は、君達の言うような表面的な使い方、本質や善悪を考慮せず、ただ自分の利益のために多数者にへつらう迎合の術としても使える。
しかし、きちんと最善の事柄に目をむけ、自分の言論によって聴衆が優れた人間になるよう働きかけるために使うことも可能なはずだ。
ところで君は後者のような弁論家の名を挙げることはできるかね。

カリクレス
少なくとも今の世の弁論家の中にはいない。

ソクラテス
では、その最善のものとはどういうものだろうか。
医者であれ大工であれ何らかの技術を発揮する場合、心の中にある最善の理念や意図に目を向けながら、手を動かしそれを現実の中で実現していく。
その際、実現されるのは規律や秩序や調和であり、医者は身体に、大工は家に秩序を与え組織付ける。
家で言うなら、善い家とは規律と秩序があり、悪い家とは無秩序な瓦礫のようなものであろう。

カリクレス
そういうことになる。

ソクラテス
身体に秩序や調和が備わる時、健康や元気が生ずるように、心(魂)も規律と秩序を守ることによって、法にかなった節度あるものとなる。
これこそが人間の徳ではなかろうか。
だから真の技術を持つ弁論家とは、こういう徳性に目を向け、いかに自分の言葉の力によって、それを人々の心に伝達できるかに真剣になる者のことではないかね。

カリクレス
ああ。

ソクラテス
食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲む、そんな無制限な欲望の解放は、身体の害にしかならない。
もし身体を害し病気になれば、医者はあれは食べるなこれはするなと欲望に制限をかける。
心(魂)の場合も同じで、放埓や不正など無秩序である限り、心は害され、病む。
身体と同様、その治療のために欲望の制限が必要になる。
その抑制こそが、ポロスも同意した司法(正義)における懲らしめ(罰)ではないかね。

カリクレス
・・・、もう別の者に質問をしてくれないか。
私はただゴルギアスの忠告に従って議論を続けているまでで、あなたの意見はもうどうでもいい。

ソクラテス
そうか、ではこの辺で打ち切ろうか。
しかし、いま私たちが議論しているような問題(人はどう生きるべきか)に関しては、各々がそう簡単に負けを認めないくらい、強い熱意を持って挑まねばないはずなのだ。

ゴルギアス
私は最後まで聴きたい。
ポロスや他の者たちも同じ気持ちのようだ。
ソクラテス一人でも構わないので、議論を続けてくれないか。

ソクラテス
それではカリクレス、心の無い相槌でも構わないが、私の言うことに誤りや矛盾があった時は、必ず反駁だけはしてくれ。
私にとって反駁してくれる人は、怒りの対象ではなく、感謝すべき恩人なのだ。

カリクレス
ああ。
では議論を続け、早く片をつけてくれ。

ソクラテス
では、続けよう。
秩序を持った心(魂)とは、節制と思慮のある優れた魂のことであり、その反対の状態、放埓で無秩序な心は悪しき心だと言うことだね。

カリクレス
ああ。

ソクラテス
さらに、このような優れた心は、必ず勇気ある行動を伴うはずだ。
なぜなら、思慮を持つ以上、逃げてはいけないものから逃げたり、追いかけてはいけないものを追いかけたりはしないはずだからだ。
逃げてはいけない苦しみや、追いかけてはいけない快楽に、善や正義に則って勇敢に立ち向かう者のことだ。
そういう善き人が美しく(立派な)幸福な者なのであり、思慮節制をわきまえない君の言うような放埓な人間は惨めで不幸な者であることになろう。

終幕につづく