ライプニッツのモナド(2)理由律と真理

(1)のつづき

矛盾律(モナドロジー31節)

ライプニッツは人間の思考の二つの原理として、「矛盾律(矛盾の原理)」と「充足理由律(理由の原理)」を挙げます。

例えば、命題「この餅は白い」とその否定命題「この餅は白くない」は、(常識的に)同時に成り立つことはありませんが、こういう論理の法則を「矛盾律」と呼びます。
形式化すると「Aは非Aでない」となります。

これは同時に「この餅はこの餅である」という事物の同一性を、表裏一体として前提としています。
この論理法則を「同一律」といい、形式化すると「AはAである」となります。

ライプニッツはこの「AはAであり、非Aではありえない」という矛盾律(即ち同一律)を、自己の哲学の一つの基本原理とします。
「ひとつの命題が同時に真かつ偽であることは不可能」というのは、私達の思考の根本的な前提であり、そもそも論理や証明がこれなしには成立しません。

充足理由律(モナドロジー32節)

なぜこうであってそれ以外ではないのかという、十分な充足した理由(要は原因や必然性)がなければ、いかなる事実も存在することができず、命題としても真であることはできません。
私たちはほとんどの場合、そうした完全な理由を知ることはできないのですが。

これも私達が日常的に前提としている基本的な原理です。
例えば、「今夜、東京で雨が降っている」という事実には必然的な原因(充足した理由)があると私たちは考えます。
「今夜東京は、西からやってきた低気圧に覆われ、気圧差による上昇気流で厚い雲が生じ、それが雨を引き起こす」というように。
このように事実には必ず理由(原因)があり、かつそれは完全には知ることは出来ない(だから天気予報は外れる)というのは、人間の思考の基本的な前提です。

個物に宿る宇宙

当然、原因の連鎖というものは、局所的なものに留まらず、日本の気圧配置はブラジルの気圧配置とも、太陽系の動きとも関係しており、私の目の前の小さな事実の中に世界全体の関係性が開示されているとも言えます。
こういう原因のつながり(充足理由律)で覆われたものとして、ライプニッツは世界を考えます。
このつながりを完全に把握しているのは神のみであり、人間はそのごく一部しか知ることはできませんが、いかなる事物にもその十分な理由が存在する、ということだけは、確実に知っています。

ただ、こういう風に原因の連鎖を語ると、どうしても個別実体間の因果的な作用(風が吹くと桶屋が儲かる的な)としてとらえられてしまいますが、ライプニッツはそういう考えを完全に否定しています(詳細は後述“モナドには窓がない”)。

自己開示としての本質

事物の本質(何であるか)は、「~である」という述語付けにおいて記述されます。
存在論の伝統においては、存在「ある」とは、二つの存在概念、現実存在「~がある」と、本質存在「~である」の結合によって成立します。
三角形の本質を記述する(述語を記す)なら、「三角形は、三つの角の和が180度、である」となります。
理由(原因)というものは、この本質の述語的記述「~である」に含まれます。
先の例なら、「この東京の雨は、西から移動してきた低気圧の上昇気流によって冷やされた水蒸気が水滴となり落ちてきたもの、である」となります。

以前述べたように、原因・理由というものはその事物自体に留まらず、世界中のすべてのものと関係付けあっているため、その事物の中に世界が顕現していると言えます。
例えば、血液検査によって、かなりの身体的疾患が判明するのは、血液と他の身体部位につながりがあるため、血液の状態の中に身体全体の状態が顕れているからです。
そのように、本質の記述というものは、その事物自体に依拠する自己開示(自己展開)の様相を呈し、それ自体から必然的な属性(述語付け)を演繹することになります。

真理の本質

“すべての真なる命題において、述語概念は何らかの形で常に主語概念に含まれている”“主語の内に述語は内在する”(ライプニッツ書簡)
真理とは、この開示を指しています(これを「概念内在論」と言います)。
推論とは一般に思われているように様々な概念の総合ではなく、あるひとつの概念にすでに内在するものを解析し展開することです。

実のところ、真なる命題は常に「AはAである」と述べているだけなのです。
「三角形は、三つの角の和が180度である」という真なる命題は、三角形という主語の定義の中に、既に角の和180度という述語がすでに含まれており、何ら新しい概念は付け加わっていません。
「東京の雨」の述語として「西から移動した低気圧」という概念が付け加わっているように感じるのは、ただ私が無知だからであり、天気予報士は三角の和の定義のように、その雨を既に低気圧を含んだものとして見ています。

個体的な実体の概念の中に、自己に関するあらゆる規定や出来事が包含されています。
ある事物の完全な理解とは、その事物の存在の根拠となる原因・理由を知ることですが、原因はさらなる原因に遡及し、最終的には宇宙全体を含むことになります。
これは事物の完全な充足理由を知る神の知性と言えます。

個別的観念と抽象的観念

いま、目の前で降っている東京の雨粒の観念(個体的実体の観念)と、雨粒を構成する球の観念(抽象的観念)の違いは何でしょうか。
前者は後者に比べ広大なものを含み複雑であり、理解する(充足理由を解明する)のが困難ですが、後者はある特定の状況を含まない未充足な(非完足的)ものです。
一般(抽象)的観念は、未充足であるがゆえに、その下に様々な特定の個体的実体の観念を可能性として持てるのです。
私が見る東京の雨粒は、球一般ほどアバウトで未充足(非完足的)な観念ではありませんが、天気予報士や果ては神様が持つような充足的(完足的)な詳しい観念でもありません。

私は、全宇宙との関係性ををそこに宿す個体的事物の完足的な観念も充足理由も把握することは出来ませんが、神は、例えば私(個体的事物)の観念のみから、私が今後行うすべての行為を演繹的に導出することが出来ます。
私たち人間が数学のような一般的観念なら、演繹的に必然的なものを導出できるのは、それが非完足的で、包含する述語も充足理由も把握できる程度に限られたものであるからです。

分析と論証

分かりにくい部分なので、少し整理します。

真理を発見するとは、主語のうちに含まれる述語を論理的に発見していくことであり、それは同時に存在の理由を知ることと、その事物の存在証明でもあります。
世界のすべての存在は、なぜこうであってああではないのかという、存在の根拠「理由律」の開示です。
ライプニッツの言う「理由」とは、そういう存在論的な意味、現実の存在物の原因、事物間の差異と同一性の標識(微表)などを含む、非常に深い概念です。

命題の真理の論証は、主語概念を分析(分解)することで、述語概念(部分)を導出し、それらを同一命題として還元することです。
矛盾律を鑑み、その分析において矛盾が生じる場合、それは偽であるということです。

一般的な命題の場合は有限回数の分析で済みますが、現実的な命題の場合、分析は無限に続きます。
無限に続くがゆえに、有限な人間精神には、それが完全に開示されることはありません(神の認識においてのみ可能)。
各モナド(実体・主語)の完足的概念には、過去・現在・未来すべての述語が内に含まれ、各時点における状況やあり方が、髪の毛一本の動きまで記述されています。

モナドの内にア・プリオリにあらゆる規定(述語)を含み、こうであってああではないという完全な理由が、事物の現実的な存在に先だってあります。
類や種のような一般的概念ではなく、個の概念は、一切の規定を完足的(コンプリート)に含み、すべては予定されているのです。
1959年6月25日天覧試合巨人-阪神戦九回裏のサヨナラ本塁打は、「長嶋茂雄」というモナド(主語概念)にあらかじめ内在していたあり様(述語概念)が、予定通り発現したにすぎません。

(3)へつづく