ライプニッツのモナド(1)統覚と微小表象

モナド

モナドの定義とは、“部分を持たない単純な実体”です。
ギリシャ語のモナス(一なるもの)を語源とし、モナドロジーは『単子論』とも訳出されています。
単子というと、物理学の原子と似たようなイメージで捉えられてしまいそうですが、まったく反対のものです。
物体はどこまでも分割可能で、その限界は技術的なものか定義によるものです。

では、原理的に分割不可能な単純な実体とは何かと言うと、物理的広がりをもつことのない形而上学的なものとなり、それは端的に言えば精神や心のことです。
部分を持たずに働き存在するものとは、本質的に意識や表象などの精神作用となり、そういう単一実体を「モナド」と名付けます。

あるものが存在しうるためには、それが単一でなければなりません。
そうでなければ、それは自己同一性を持たない分割、合成可能なたんなる複合物であり、羊の群れのような偶然的な寄せ集めの現象(現われ、仮象)で、実体ではありません。
ですので、限りなく分割可能な物体は現象に過ぎず、分割不能な精神的実体のみが真に存在する実体とされます。

しかし、諸実体が結合した物体(複合体)に関しても、後に「実体的紐帯」という概念によって特殊な実体として認められるようになります。
物体にも、その複合がよく規則礎付けられた、たんなる寄せ集めではない、実体的な形相、いわば実在性があるということです。
例えば、物理的原子の規則的な結合と羊の群れを同様に扱うのには無理があるからです。

モナドの種類

世界というものを、モナドという非物質的な原子(要は各精神的実体)の構成によって描き出そうというのがライプニッツの企図です。
それぞれのモナドは、他のモナド(精神的実体)の精神の中で、物体(空間・時間という形式によって秩序付けられた)として現象的に表出されます。

各モナド(精神)がもつ表象の判明さ明晰さのレベルに従い、物体→植物→動物→人間→神として、モナドは段階的に分けられます。
人間は、神の段階に近いような明晰な表象を持つ時もあれば、意識機能が低下した状態では、動物や物のような段階に落ちる時もあります。

石や木の葉のような物体も、人間と同様に表象をもつというのは不思議ですが、かなり程度や種類が異なります。
人間というモナドの理性的な精神は、他のものと違い、より高度な関係性(例えば、自己との関係-自己意識、過去との関係-記憶、神との関係ー真理など)を有し、その表象も明晰なものとなります。
特に神との関係は必然的真理をとらえることであり、それが人間精神独自の推論という能力の基礎となっています。

それに対し、動物はより不明瞭で雑然とした表象をもち、自然物にいたっては人間からすれば無いに等しいような最低のものとなります。
もちろん、人間も状況によっては(眠りや酩酊状態など)、動物や自然物と同程度の表象しかもてず、重度の昏睡状態では人間は植物とのアナロジー(植物人間)で表現されます。
脳死状態の人間は、状況によって単なる物体として扱われることを考えると、物と人間の差異は精神のあり様であることがよく分かります。

意識表象

各モナドはひとつとして同じものはありませんが、大きく三つに大分できます。
「物質的モナド(眠れるモナド)」、意識および記憶をともなう「魂的モナド」、理性により自己(反省)や普遍的なものを認識できる高度な表象を持つ「精神的モナド」です。
もちろん、これらはあくまで連続的なグラデーションの系列をなしており、明確に分類できるものではありません。
高度な表象というのは、明晰で意識的な表象のことです。
意識の低下した状態の表象や無意識的な表象ではなく、人間特有の反省的な認識や記憶などによって、意識的に選別され、総合的・統一的に秩序づけられた表象です。

これが哲学において重要な概念となる「統覚(統一的な知覚)」です。
ライプニッツは統覚に、明瞭な知覚、反省、真理の認識の三段階を設け、これが人間を他のモナドから区別するものと見ます。
あらゆるモナドのうち、人間にだけ責任や道徳が要請されるのは、この「統覚」をもつからです。

では、この統覚を欠いた、意識されない知覚とはどういうものでしょうか。

微小表象

この意識はされないが精神の内部に存在する表象を「微小表象」と呼びます。
明晰で意識的な表象から、不分明で無意識(潜在意識)的な表象まで、度合いによる階調によって、無限に多用な表象がひとつの精神の中に存在しています。

微小というのは、小さすぎて認識され難い表象という意味で使われています。
人間は黄色と青の微小な点の集積を緑と見てしまうように、私達の意識的(大きく明らか)な表象は、無意識的(小さく曖昧)な表象に、無意識的に支えられているということです。
例えば、意識されない音の集積(雑音)が増して、意識される騒音に変わる瞬間が、微小表象と意識的表象の境界と言えます。
また、何気ない(意識しない)行動というものは、この微小表象が全面的に関わり、それを決定します。

意識的に聴いていないにも関わらず聴いている、そういう微小な表象の無限の集積が、各モナドの内に眠る宇宙の表象です。
自然物が表象を持つだとか、モナドはその内に全宇宙を表出する無限に多様な表象を有するだとか、にわかに信じがたいのは、それらが微小表象によるもので意識され難いからです。
知や真理とは、私の内に隠されているものの覆いを取って明るみに出すことにより、表象を意識表象(統覚)へ導くことです。

各モナド(精神)は無限(宇宙)を渾然とした微小表象として、無意識的に認識しています。
それが、意識的に知覚される「図」の浮かび上がるための「地(基底)」として機能し、感情や統覚の源泉となっています。

動機の三段階

この意識表象というものが、人間の行動や動機を規定することになります。
行為主体においては、善いと思うものに向かい悪いと思うものを避けようとする傾向(意志作用)があり、その意志に具体的な力が加わると活動になります。
当然、その行為選択(行為主体が善いと思うものに向かう)においては、意識表象が直接的に関わってきます。

しかし、多くの場合、人間は意識的に善いと思っているものとは別の方へ向かいます。
意識では健康な生活は善いと分かっていながら、不健康な悪い生活を選択してしまいます。
これが先に挙げた微小表象の力であり、意識的な反省によってはとらえられない無意識的な欲求です。
明晰で意識的な表象が生み出す傾向から、微小で感知できない表象が生み出す無意識的な傾向の間で、行為主体の動機というものが決定されます。

第一段階の動機は、意識されない表象による本能的な反応、習慣的行為、無意識的な選択などです。
歩く時に右足か左足のどちらから出すかというような無意識的な選択も、この微小表象という些細な影響の集大成として生じています。

第二段階の動機は、認識されはするが明晰でない表象によるものです。
表象が明晰でないがゆえに、善かれと思って見えにくい悪を選択したり、意識的な選択ではあっても上手く説明できないような行動であったり、要は意識と無意識、及び善と悪の観念が混在した不分明な動機から生ずる曖昧な行為です。

第三段階の動機は、明晰に認識された意識的表象による選択、まさに意志的な行為を生み出すものです。
私というモナドの未来は既に私の内にあり、ヒマワリの種からヒマワリの花へと至るように、決定されています(これが後述する予定調和です)。
しかし、この選択において各モナドは、主体的で明晰に認識された理由をもち、自由の感覚をともないながら、行為しています。

逆を考えればよく分かりますが、私たちが不自由を感じるのは、明晰な理由も分からず、意識に反する別のものによって、強制的に行為(選択)をさせられる時です。
むしろ、一般に流布している「自由」の観念、行為選択における躊躇、どっちに転ぶか分からないランダムな偶然性、選択を決定するための理由の不在(無知)、は不自由の本質です。

自由の本質

一般的な「自由」とは、無知でいることによって予定調和から逃避することで、擬似的に作られる素朴な否定概念です。
ライプニッツの言う「自由」とは、運命(私が私である理由)を明晰に知ることによって運命の歯車と一体化することにより得られる自由です。
無知を斥け、自己の本質(私というモナドの存在理由)を知り、鳥が飛び、馬が駆け、魚が跳ねるように、各モナドがそれぞれ固有の面目躍如とした生をおくることです。

イエスを裏切るユダは、裏切りという選択においてユダなのであり、もし、裏切ることのないユダを想像すれば、それはもうユダでない別の人間を想像することです。
それがユダというモナドの自己同一性(後述する完足的概念)です。
仮に私がユダで、この裏切りを否定し後悔する時、それは同時に私という同一性の放棄、あるいは非存在(自己と世界の両方の)を望むことです。
私というモナドの欠点を否定し、世界の非存在を望むか、私というモナドの欠点を必然的なものと肯定し、世界の存在を望むのか。
ライプニッツは言います「人間は死ぬ間際、来世でまた同じだけの喜びと苦しみを経験するとしても、満足してまた同じ人生を歩むことに同意するだろう」と。

(2)へつづく