ライプニッツのモナド(3)モナドと予定調和

哲学/思想

 

 

(2)のつづき

 

実体の唯一性

ライプニッツは実体を「非物質的な原子」のようなものとして捉えます。
さらに物理的な原子は相互に均一で限られた数しか存在しないのに対し、ライプニッツのそれは世界中に同じものがひとつとない完全に多様な世界を構成するものです。
“自然の中には完全に同じであるような二つの存在は決してない(不可識別者同一の原理~識別できないものは同じものである~)”のです。
ここにおいては、ニュートン的な「絶対時間」「絶対空間」は否定されます。
不可識別者同一の原理に従えば、均質で同一で無限に広がる空間や時間においては、何ものも実在することができません。
空間はたんなる事物の並存、時間は事物の継起の秩序でしかなく、宇宙全体をくまなく探しても、同じ砂粒を見つけることはできません。

これは先に述べた充足理由律と観念内在論からも必然的に帰結するものです。
例えば、物理的原子の存在する場所(コンテクスト)が違えば、当然その原子の本質である充足理由も内在する述語のあり様も異なり、まったく別のものになります。
現代科学のいうところの物理的原子は、非完足的な一般的(抽象)観念であり、実体ではありません。

 

モナドには窓がない

観念内在論は、必然的に“実体は相互作用しない”ということを証示します。
実体は必要とするもの全てをその内に含んでいるので、相互作用する必要がありません。
実体は単一的で完足的なものである以上、それに扉(窓)のようなものがあって、そこから部分を出し入れしたりすることは出来ません(いわゆる「モナドには窓がない」)。
相互作用するように見えるのは、分割可能で部分の出入りや再編成が可能な集合体である物質的現象の観察を、単一体(実体)と重ねてみてしまうことから生ずる誤謬です。
そもそも物理的な広がりを持たないモナドは、物体と違い、直接的な関係(因果や相互作用)をもつことはできません。

一般的に知覚のモデルは、外部から精神の内部へ入ってくる感覚的印象の受け取りとされます。
しかし、モナドにはそんなものを受け容れる窓など無く、表象とは、モナド自身の内から自発的に生ずる表出なのです。
インプレッション(印象)ではなく、エクスプレッション(表現)であり、表象とはいわば自己表現、“一における多の表出”です。
表象とは、外部にあるものの写しではなく、自己の内部にあるものの投影であるということです。
厳密に言うと、モナドには外部や内部の区別など存在せず、メビウスの輪のように外も内もない自己充足的なものなのです。

 

パースペクティブ

では、一体モナドはどうやって世界と関係するかというと、それはひとつのパースペクティブ(視点)においてです。
それぞれのモナドの位置(世界における地位)が、世界の眺望の多性(差異)を生じさせます。
円すいを上から見ると円、横から見ると三角、斜めから見ると雫形に見えるように。

モナドの自己表出および自己同一性(個性)は、各々独自の世界の現象のあり方そのものです。
世界はモナドの数だけある無数の世界として現れつつ、同時に各視点相互をつなぐ関係性自体として唯一的に在るのです。
個々のモナドは自己の内に独自の仕方で宇宙(全世界)を表出する鏡であり、かつ宇宙の代表なのです。
未来は現在と過去に記述され、遠いものは近いものの内に表出されています。
各モナドの精神の重層化した“ひだ”を広げれば、そこには全宇宙の地図が描かれているのです。

個々の実体というものは、全宇宙を映す鏡のように、ひとつの完全な世界をもっており、それぞれの実体のあり方(視点の差異)で、それぞれが全宇宙を表出します。
実体というものの本質は、完足的(コンプリート)な概念を包含していることです。
抽象的なものが非完足的で限られた述語しかもたないのとは対照的に、実体は無限個の述語をもち、ある特定のコンテクストにおいてそれぞれが独自のあり方でそれを表出します。

 

モナドの自己同一性

各実体が無限個の述語をもつ(全宇宙の反映)なら、実体はすべて同じものとなりそうなものですが、そうではありません。
同じ街でも違った場所や異なる視点から見ると、まったく別の街に見えます。
それと同様、各実体は各コンテクストに応じたそれぞれの宇宙を所有することになるのです。
それは各モナドがそれぞれの視点から見た多様さをもちながらも、あくまで同じひとつの宇宙なのです。

あらゆるモナドは無限へと向かいつつ、その混雑した仕方によって限界づけられ、表象の判明さの度合いによって、個性として区別されます。
無限を表現するそのあり方によって自己を表出し、モナドは「自己表出的な表現」として規定されます。
実体の差異とは、あらわれ方(どの部分がどの程度どの様に)の差異であり、包含されている概念の相違や量の問題ではありません。

モナドの差異とは各々がいかなる意識的表象(限定的な宇宙の表象)を持っているかの差異です。
どういう角度(視点)で、どういう部分を、どういう判明さの表象においてもてるかは、当然各モナドの身体機能や時間空間位置や行動によって限定づけられるため、必然的に身体・物理的限界が、各モナドの差異の境界を決定することになります。

それは内に秘めた万物の相互関係の連絡(全宇宙)の中の、ある部分ある時「このもの性」において表される自己の在り処です。
仮に私というモナドが億万長者に憧れて、ビル・ゲイツのモナドになれたとしても、まったく別の相互連関の中に置かれ、まったく別の意識表象(例えば記憶)を所有することになり、まったく別の行動原理で動くことになり、私という同一性は、完全にゲイツのそれとなってしまいます(不可識別者同一の原理)。

分かりにくいの箇所なので、まとめます。
各モナドが自己の内に眠る同じ宇宙をそれ自身の内から異なった仕方で個性的に映し出し(表象、表出)、モナドは他のモナドを映し出す(知覚する)と同時に他のモナドによって映し出され(知覚され)るという二重の志向性において、世界を表現(代表)しています。
各自のかけがえのない視点とあり様に従い、全世界を表出する“活きた宇宙の永続的な鏡”として、モナドは存在します。
その限りでモナドは個体であり、それら無数の個体的実体によって構成され、表現しあうその全体が「世界」なのです。

 

予定調和

実体が相互作用しない、言葉を変えれば各モナドが完全に独立し関係を持たないなら、一体世界はどういう秩序によって成り立っているのでしょうか。
ここで用いられる原理が、あの有名な「予定調和」です。
各実体はそれらが持つ予定調和という根によって、協調と独立を同時に実現します。

例えば、まったく同じ時間を刻む時計は、それぞれ独立に動きつつ、同時に調和を実現しています。
文明人と違い、時計の原理を知らない未開人がこれを見れば、何らかの形でこれら二つの時計が作用しあい、同じ針の動きをしていると考えます。
それと同様、実体や世界の本質を知らない私たちは、実体間に相互作用があると考えてしまうのです。

木こりが斧を振り下ろし薪を割る、ぜんまい仕掛けのからくり箱は、木こりの斧を振り下ろす反復運動と、割れてまた引っ付く薪の動きは、それぞれ独立した動きです。
からくり箱の中のぜんまい仕掛け(予定調和)を知らない子供には、「木こりが斧を振り下ろしたから薪が割れた」という因果(相互作用)で見えてしまうのと同じです。

各モナドは同じ宇宙を包含しつつ(同じからくり箱の土台を所有しつつ)、異なるコンテクスト、いわば宇宙における地位と位置(木こりという場所、薪という場所)においてそれを展開、表出するだけです。
世界は無限の多様性において表出されつつ、かつそれらは予定調和によって協調を実現するのです。

 

(4)へつづく