何のためのデッサンか

芸術/メディア

はじめに

ここで言うデッサンとは、パースの正確なホンモノのような絵のことです。
石膏像で訓練するようないわゆる受験絵のデッサンであり、それを通して絵画における表現と技術の基本的な問題を考察します。

 

表現と技術

絵を描くということは、頭の中にあるイメージやアイデアを、手と道具によって具体的な形にする一連の行為全体を指しています。
ここでは前者を「表現(表現内容)」、後者を「技術」と名付けます。
当たり前すぎることですが、非常に重要なことなので敢えて取り上げます。

 

デッサンの上手さ=絵の上手さ、ではない

「絵が上手い=デッサンが上手い」と勘違いして、延々とそういう勉強をし続け、後になってそのヤバさに気付く人がよくいます。
要するに絵を描く際に重要な片翼である「表現」を磨くことを忘れ、「技術」のみを肥大化させ、自由に飛べなくなってしまう人達です。

例えば、デッサンの上手い人は、子供じみた『ちびまる子ちゃん』の絵や、ミミズのはったような『クレヨンしんちゃん』の絵を下手くそだと笑うわけですが、はたしてそうでしょうか。

『ちびまる子ちゃん』は、作家であるさくらももこ自身の小学生時代の日記であり、その表現を形にする技術は、必然的に「小学生の絵日記風の絵」である必要があります。
作家自身が表現したいもの(動く絵日記)を、最も適切な技術によって形にしている、非常に上手い絵であると言えます。

『クレヨンしんちゃん』が表現したいのは、そのゆる~い世界であり、必然的にその線もミミズのはった様なゆるゆるふにゃふにゃ(表現主義的なゆがみ)の絵になります。
これまた作家が表現したいものを、適切な技術によって形にしている上手い絵です。

逆説的に聞こえてしまうかもしれませんが、「絵が下手な人間ほどデッサンにこだわる」ということです。
絵画表現としての絵の下手さ(中身の無さ)を、皮相的なデッサンの上手さよって誤魔化し取り繕おうとする訳です。
彼らは自分が周回遅れであることに気付かないまま、自分より上手い人の絵を、下手だと本気で思いこんでいます。

 

デッサン教育の理由

本来の絵の上手さとは、表現したいものを適切に形に出来る技術であり、ホンモノのような絵を描く技術ではありません。

では、なぜ美術教育においてこれほどデッサンが重視されるかというと、第一に、学校教育というものが汎用的能力を目指すものだからであり、第二に、日本の美術界特有の大人の事情です。

第一の問題に関して簡単に述べれば、将来どんな表現をするか分からない未成熟の人達には、それぞれの個別の状況を無視した、一般的で汎用性のある基本的な造形教育を施すしかないという理由です。
デッサンという自然の模倣を通して、自然の摂理と構造を学んでおけば、何を作るにせよ造形の際に技術的に有利になりますし、デッサンが上手ければどんな描画表現にも対応できます。
例えば、デッサンの上手さで有名な漫画家の大友克洋(AKIRAの作家)は、ギャグでも劇画でもアメコミでも少女マンガでも描けますが、さくらももこは決してアメコミのような立体的な絵は描けません(描く必要もありませんが)。
デッサンの上手さは模倣能力に通じているので、個性の固定した画家と異なり、ピカソのように選択的、戦略的に個性を選んでいけるということです(下の画像はピカソが中学生くらいで描いたデッサンです)。

第二に、日本のデッサン教育がアカデミズムの権威付けとお金儲けの問題(特に受験産業)に密接に関わっているということですが、それは別の問題なので詳しくは述べません。

 

デッサンは絵の本質ではない

画像はアカデミージュリアン時代の安井曾太郎のデッサン部分です。
アルフォンス・ミュシャも通っていた学校で、安井は常に主席の成績でした。
彫刻家の高村光太郎は安井のこの上手い絵を、ただの浮彫り彫刻の真似事だと言うわけですが、本質的な問題を突いています。
絵の技術で彫刻を表現してしまっているということ、つまり二次元が本質である絵画が三次元が本質である彫刻に隷属し、その真似事をしてしまっているだけだということです。

※ちなみにこの記事を書いている人間は、ピカソや安井曾太郎程度のデッサンは普通に描けます。描ける上で経験的にその無意味さ(極限られた領域においてしか意味をもたないこと)を理解しているということです。

技術の本質

ここで忘れてはならないのは、「表現」を形にするための「技術」であって、技術がための技術ではないということです。
まず重要なのは表現すべきアイデアやイメージやコンセプトを磨くことであり、では、それを形にするためにはどんな技術が必要かということで、今度は技術を磨くことが必要とされるのです。
わかりやすく言い換えると、目的(表現)のための手段(技術)であり、手段を自己目的化してはいけないということです。
技術がための技術を必要とするのは、表現者(芸術家)ではなく、技術者(職人)であり、カテゴリーが異なります。

 

表現者の本質

勿論、技術(手段)は、表現(目的)の幅を規定するので、沢山の技術(手段)を持っていれば、様々な表現が可能になります。
また、新しい技術は、常に新しい表現の可能性を創出します。
「表現したいもの」がない人が、そのような技術の習得を導きとして、事後的に表現を創出することもできますが、それは二次的なものです。
喩えるなら、商売人に成りたくてそろばんを習う人と、習い事でそろばんをしたからデモシカ商売人に成る人くらい、問題意識が異なります。
いわば、「作りたいものを作る(表現が主で技術が従)」ではなく、「作れるものを作る(技術が主で表現が従)」ことを選択した時点で、芸術家(表現者)としての資格を失ってしまうということです。

勿論、これは分かりやすくするために二極化して述べたもので、実際の芸術家はこの中間におり、「作りたいものを、作れるもの(の範囲)で作る」のが普通です。
そして、「作りたいもの」をより鮮明に実現する為に、「作れるもの」の範囲を拡張することが、技術の習得です。
問題は、この逆が成立しないということで、いくら技術を無数に習得して表現の可能性の範囲を広げても、表現したいものは永遠に明確にはならないということです(何でもできるが何者でもない資格マニアのようなもの)。

 

生きつづける表現

人間の技術はつねに機械に追い越され、亡き者とされます。
そのスピードは増してきており、デッサンが上手いだけの絵がCGやAIに駆逐される日も間近です。

そんな時でも、確固とした自分の「表現」を持っていれば、技術を取り巻く状況の変化にも対応していくことが出来ます。
日本人は技術は得意だけれど表現やアイデアを出すことが苦手だと言いますが、そんなことはどうでもいいことです。
必要な以上、手に入れるしかありませんし、苦手なら努力して克服すればよいだけの話です。

技術も究極まで突き詰めれば、それ自体が表現になってきますが、それは非常に特異で周縁的な絵のあり方です。
そんな小さな世界のために、絵を志す青年たちを総動員する必要はないでしょう。

 

おわり

 

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