絵の上手さの種類

芸術/メディア

絵の上手さの分類

絵が上手いと言っても、色々な上手さがあります(注1)。
同じ運動能力と言っても、筋力と瞬発力の最大化を目指すウエイトリフティングと、心肺機能と持久力の最大化を目指すマラソンでは、まったく異なるのと同様です。
目的となる絵によって、必要な上手さも異なります。
それを自覚しないまま絵が上手くなっても、努力が無駄になったり、悪影響を生じさせたりします。
ですので、ある程度その違いを把握しておく必要があります。

その色々な絵の上手さの中で、主要なものを四つ解説します。

Lv1.間違い探し(知覚的訓練)
Lv2.パースの正確さ(論理的訓練)
Lv3.デザイン力(感性的訓練)
Lv4.表現(個性の訓練)

[※注1、絵の構成要素をすべて検討すると複雑になりすぎるので、形態に関わる絵の上手さに絞っています。]

Lv1.間違い探しとしての絵の上手さ(知覚的訓練)

これは、いわゆる写真のような絵を描く上手さです。
写真そっくりな絵を、アクリル絵の具や色鉛筆などで描いたりする人がよくいます。
それを見ると、とても絵の上手い人に思いますが、これは絵が上手いというより、間違い探しが上手い人です。
例えば、絵の素人に間違い探しの要領で、「リンゴの写真」と「円(いわゆるアタリ)を書いた画用紙」を交互に比較させ、一点一点違い(間違い)を修正させていけば、最終的に写真そっくりの絵が仕上がります。
目をひょこひょこ動かしながら、リンゴと円を比較し、もう少し上が凹んでいる、もう少し下が窄んでいる、もう少し黄色っぽい、などと言う風にリンゴに合わせて円の絵を修正していき、その間違い探し(修正)の数を増やしていけば、その分だけ写真そっくりに近付いていきます。

写真そっくりの絵は、根気よく時間をかければ、誰でも描くことができます。
間違い探しは時間さえかければ(根気さえあれば)、誰でも解けるのと同じ原理です。
これは視覚的な認知の歪みを矯正し、客観的な視覚像に合わせる訓練です。
視覚的認知の歪み=下手くそ、視覚的認知の正確さ=上手い、と定義づけるような価値観で、絵の上手さというより「目の訓練」に近いものです。
訓練によって客観的に物を見る力が鍛えられると、徐々に間違いを探す回数が減り、短い時間、少ない手数で正確な(写真のような)絵が描けるようになります。
デッサン教室の先生が「頭で描くな、眼で描け」と言うのは、言い換えれば「主観的認知の歪みを矯正して、客観的な視覚像で描け」ということです。

Lv2.パースの正確さとしての絵の上手さ(論理的訓練)

これは、いわゆるデッサンの上手さです。
透視画的な立体構造として正確な絵を描く力です。
下の画像はマーベルのマンガ家のデイビッド・マルケスと、建築家のフランク・ロイド・ライトのドローイング(部分)です。

このように、パース(透視画)が正確だと本物のような絵になりますが、これはLv1.の間違い探しの本物のような絵とはまったく異なります。
Lv1.の間違い探しはただの複製(コピー)で、写真を手作業で模写するようなものですが、Lv2.のパースの正確な絵は複製ではなく再構築です。
分かりやすく言うと、写真なし、モチーフなしでも描けるということです。
上に挙げたスーパーマンや建物の絵は、別に写真やモデルを見ながら描き写しているわけではなく、画家の頭の中にある透視画空間に想像上の人体や建造物をイメージし、描いているにすぎません。

光や色にも透視画の様な秩序が存在しており、それを把握している人は、モチーフなしに本物のようなトーンや色の絵を描くことも可能です(光とは何かを参照)。
これは現実の物体から形や色の法則を抽出し、その法則を基にして自由に再構築するような「論理的な組み立てとしての絵の上手さ」です。
デッサン教室の先生が「見えたままじゃなくて、理解して描け」と言うのは、言い換えれば「ただのリアルの模写ではなく、リアルの構造に則して描け」ということです。
Lv1.とつなげると、「頭で描くな、眼で描け、しかし、見えたままじゃなくて、理解して描け」となります。
これを言い換えると「視覚的認知の歪み(偏見)を客観的視覚像によって矯正し、かつその客観的視覚像から原理を抽出し、その原理に則し、より客観的な客観を描け」ということです。
具体的に言うと、「主観で歪んだ建物の絵」→「よーく見て描いた客観的な建物の絵」→「パースの知識に則して描いた理念(理想)的な客観としての建物の絵(上図のライトの絵のような)」です。
リアルよりリアルらしいリアルを描く(再構築する)ということです。
デッサン教室で面取り石膏像を描かされるのも、瞬時に立体表面の構造を理解し、形態をポリゴン的な演算(いわゆる色面分割)で自由に再構築するイメージ力を養うためです。

Lv1.とLv2.は混同されやすいので注意が必要です。
同じデッサン(描写)の課題が出されても、評価基準がLv1.「素直に物を見ることができるか」に寄っている場合と、Lv2.「物の構造を理解しているか」に寄っている場合があります。
例えば、日本画科ではLv1.を重視する傾向、デザイン科ではLv2.を重視する傾向にあります。

Lv3.デザインとしての絵の上手さ(感性的訓練)

このプラモの箱絵を見比べて欲しいのですが、上の古いガンダムに比べ、下の新しいガンダムのイラストの方が上手く感じます(個人的には古い方が好きですが)。

新旧共にデッサンとしては正確な水準ですが、下の新しい方がデザイン力として上回っています。
要するに構成や比率やフォルムの造形美、デザインセンスの問題です。

校長室にあるような写真的(Lv1.)な肖像画として描かれた美人(野暮ったい上手さ)より、小磯良平やアルフォンス・ミュシャの美人画(粋な上手さ)のように、適度にデザイン化された絵の方が上手く感じるのも、同じ原理です。
下図は小磯良平による八千草薫の肖像画です。

「手塚治虫はデッサンができないので、デッサンのできる漫画家に嫉妬していた」などと言う批評家がいますが、手塚は記号的な絵のデザイン力に秀でた人なので、デッサンができるだけの野暮ったい絵のマンガ家より遥かに絵が上手く、本当に嫉妬していたかどうか疑問です(たぶん謙遜か皮肉)。

Lv1.Lv2.が具体的な物の描写の上手さであるのに比べ、Lv3.デザイン力は、抽象(普遍)的な美的感性を基準にした絵の上手さです。
具体的な描写ではなく、記号や構成や抽象化された形態などで魅せる絵の上手さです。
哲学的に言うと、現象そのものではなく、現象から抽出されたイデア(理念、理想、範型、本質、等)に関わる領域のものを描くということです(抽象画とは何か、参照)。

Lv4.表現としての絵の上手さ(個性の訓練)

下の画像はドイツの画家のホルスト・ヤンセンの絵です。

現実の人間と比較すればぐちゃぐちゃで、写真のような上手さ(Lv1)や、パースの正確さ(Lv2)や、デザイン的美しさ(Lv3)はありませんが、絵として非常に上手く感じます。
個性の表現として極めて適切な絵である場合、小手先の技術(Lv1.Lv2.Lv3)以上の上手さを感じます。
いわゆるヘタウマと言われるイラストも、Lv1.Lv2.Lv3としては下手だが、Lv4.としては上手いということです。

Lv4.表現としての上手さは、Lv3.の上手さにも似ていますが、デザイン的上手さが普遍的、社会的、商業的な傾向があるのに対し、表現としての絵の上手さは特殊的、個人的、芸術的なものです。
イデアルな万人共通の上手さ(Lv3.)ではなく、あらゆる一般化を拒絶する個人の表現としてのかけがえのない絵の上手さです。

絵の上手さで最も本質的なものは、このLV4.の表現としての絵の上手さです。
機械によって代替可能になった絵の上手さは、技術として脱落していくので、最終的には、最も人間に固有のもの(Lv4.)が残ります。
良く言えば、画家は低次の技術から解放されるということです。
美術史的には、西洋世界ではカメラの普及によって画家が写実から開放され、表現中心の絵画が主役になることができたと言われます。
もし、Lv4.表現として絵の上手いマチスやシャガールの非常に優れた作品を、カメラが出現する少し前の西洋世界にタイムスリップして持っていけば、絵の親方に下手くそだと言って怒鳴られるかもしれません(下図、シャガール『ベニスの恋人』)。

CGの技術が個人にも開かれた今、代替可能となったLv1.Lv2.Lv3の絵の技術をどこまで習得する必要があるのか、よく考えて選択すべき時期に来ています。
デッサン真理教(注2)の強引な勧誘に惑わされず、自分自身の意志で決めなければなりません。

[※注2、デッサン真理教(仮)は、怪しい壺や免罪符の代わりに、デッサンの技能を売ってお金を集める人たちです。論理の無いただのドグマとして「デッサンこそ全ての基礎、万物の真理」と謳い、強引に画学生を改宗させます。デッサンの上手さを功徳として位が上がっていくという権威システムによって信者を動機づけ、信者たちは必死でデッサンが上手になることに明け暮れ、絵の本質を見失い、創造力は委縮し、やがて絵を嫌いになります。デッサン真理教の幹部は、芸美大や予備校や画塾や美術系出版社などに多数潜伏し、お金儲けに励んでいます。都市伝説ですので、信じるか信じないかはあなた次第です。]