マキアヴェリの『君主論』(4)その他

社会/政治

 

 

(3)のつづき

 

第二十章、その他、君主が行うべきこと

新しく君主になったものは、臣民の武装を解除してはいけない。
臣民を武装させれば、必然的に臣民は君主の党派となる。
もし、すべての臣民を武装できなかったとしても、武装した者に厚い恩恵を与えることによって彼らは恩義を感じ、武装しない者達も、武装した者が自分達より多くの危険と義務を引き受けているのを見て、その恩恵を正当なものとして認める。

逆に、臣民の武装を解除すれば、彼等を臆病で信用できない者と認めることによって傷付けることとなり、君主への憎しみを生み出す。
また、臣民の武装を解除するということは、傭兵に頼るということであり、その危険は以前述べた(第十二章を参照)。

しかし、新しい領土を獲得し、旧来の領土にそれを付け加える場合は、新しく得た領土の臣民の武装を解除し、漂白していき、旧来の領土の兵士のみで構成されるよう染め直していく。

 

第二十一章、尊敬を得るために行うべきこと

君主が尊敬を得るために最も有効なことは、自らが偉大な事業を成功させ、圧倒的な模範を示すことである。

また、決断において優柔不断ではなく、敵、味方を明瞭にし、自らの旗を堂々と掲げ闘うことが、尊敬を生じさせ、同時に益にもなる。
仮に二つの有力者が闘う時、旗色の分からない半端な中立姿勢を選ぶと、後に必ず勝った方の餌食となり、逃げる場所もない。
自分と運命を共にせず、逆境の時に助けようともしなかった者など、信じられることもなければ、受け容れられることもない。

危機において優柔不断な君主は、危険を回避するために目先の中立政策を採り、多くの場合、後に滅亡する。
ただ、注意すべきは、止むを得ない状況を除いて、自分より強力なものと同盟を結んではならないということである。
なぜなら、負けた時のみならず、勝った時でも同盟の有力者の虜となり、君主は他者の隷属状態に置かれるからである。

さらに君主は、実力のあるものを愛し、各々の分野で才能を持ったものを尊敬できる人間であらねばならない。
市民が各々の分野において、安んじて生業に専念できるようにし、都市や政体の繁栄に貢献する者には褒章を与えるべきである。
また、彼らと直接ふれ合う機会を作り、君主の人間性と度量を示さなければならない(威厳を失わぬ程度に)。

 

第二十二章、君主の側近について

君主にとって側近の選任は重要である。
ある支配者の知力を推し量る時、側近を見るのが良い。
彼らが有能かつ忠実であれば、その支配者は賢明であると判断してよい。
それだけ見識と支配の心得と術を持っているということだから。

では、君主は側近をどう見分けるか。
最も有効な方法は、その側近が君主のことを考え行動しているか、自分のことを考え行動しているか、のどちらなのかを見ることである。
他人に対する支配権を持つ者は、決して自分のことを考えてはならず、側近(大臣など)は常に政体の意志でもある君主の意志を考え、動かねばならないからである(君主も自分の利己利益ではなく、つねに政体のことを考えている)。

君主は忠実な側近を思いやり、名誉や富を与え、恩義によって結びつきを深め、地位と責任を与ける。
相互信頼によって、体制を堅固なものとするのである。

 

第二十三章、君主の追従者について

君主の身近にあるひとつの危険は追従者(へつらい)である。
ただでさえ人間は、身びいきであるのに、それを増長させるような追従は、君主の賢明さを損ない、冷静な判断力を失わせてしまう。
だからといって、君主に対しどんな真実を言っても構わないような状況を作れば、君主への尊敬は失われてしまう。

そこで君主が採るべき方法は、領土内から賢人を選び出し、彼らのみに君主に真実を述べさせることである。
しかも、それは君主が訊ねた事柄についてだけ述べさせるのであり、他の事柄についての発言の自由は与えない。
君主は必要な事柄に対する彼らの意見を訊き、その後は、自らの独力で考え、自らの責任で決断を下す。
助言者たちの素直さを歓迎し、その他の者の意見を聴いてはならず、その決断を貫き、守ることである。
君主は幅ひろい主題に対し常に助言を求めるべきだが、向うから助言しようなどという気持ちを起こさせるほど侮られてはならない。
そして、遠慮によって真実を述べない助言者に対しては、怒りをあらわすべきである。

また、君主の賢明さは本人の資質によるではなく、よき助言者たちのおかげだなどと考えてはならない。
賢明であるからこそ、よき助言者を選任し保ち、時に苦しい助言をも素直に受け入れ、それらの意見をまとめ上げ決断を下せるのであって、賢明でない君主はそのどれをも為すことはできない。
よき助言から君主の賢明さが生まれるのではなく、君主の賢明さから良き助言が生ずるのである。

 

第二十四章、君主達(イタリアの)は、なぜ政体を失ったか

これまで述べたことを守れば、新しい君主も伝統的支配者よりも安定した君主政体を得る。
新しい君主の行動は、伝統のそれより注目される分、有能であればそれだけ多くの人々の心をつかむ(逆に無能であればそれだけ不名誉をこうむるが)。
人間は過去よりも現在の事柄に心を奪われ、現在が良ければそれで満足する生き物なのである。

[ここでイタリアの支配者たちの失敗について考察されますが、政体論で述べられたことと内容が重複するため、省略します]

 

第二十五章、運命の力、それとどう対決するか

世の中の事柄の半分は運命と神に支配され、もう半分は人間の自由意志によって支配される。
運命とは豪雨によって荒れ狂う川のようなものであり、備えなき人間は
猛威の前に為すすべなく、その運命に支配される。
しかし、平時において人間はそれを見越し、堤防や堰などの対策を練り、その猛威の影響を無くすことができる。
すなわち、運命がその支配力を発揮するのは、人間がそれに抵抗できるような力を備えていない場合だけなのである。

運命の変転によって、今日栄えていた君主政体が明日滅びる。
しかし、それは運命の力によるものではなく、ただその君主が自力ではなく運命に頼って生きていたからである。
また、時代の状況に適応し行動する君主は栄え、それを見ない君主は滅びる。
時に同じ目的に対し同じ行動様式を採った者が、成功者と失敗者に分かれるのは、時勢がその行動に合っていたかどうかの差である。

時勢や状況が変化すれば自分の行動様式を変えられる賢明さと自信と柔軟性がなければ滅びる。
その人間が培った生来の性質から逃れることや、過去の成功体験を生んだ行動様式を捨てることは、そういう賢明さがなければ難しい。
しかし、それらの変化に対応し、自己の行動を変えていけるなら、運命は人間を支配しようとはしない。
運命の女神を抑え込むには、慎重であるよりも果敢である方がよいのだ。

 

 

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