マキアヴェリの『君主論』(3)人格論

社会/政治

(2)のつづき

 

第十五章、君主への賞賛および非難について

臣民や味方に対する君主の態度や統治のあり方はどうあるべきか。
いかに人が生きているかという現実を考慮せずに、いかに人はあるべきかという理想ばかりを追求する既存の君主観(君主=有徳説)は、むしろ破滅を導く。
すべてにおいて善い活動を目指す理想主義者は、善からぬ者たちがはびこる現実のなかでは、破滅することが定めだからである。
それゆえ、君主が自己を保持したければ、時に善からぬ者になることをも学び、必要に応じ使い分けなければならない。
それは想像上のことではなく、事実に即したものとしての君主を論じることである。

地位が高く目立つ分、君主の様々な資質が非難や賞賛の的になってしまう。
君主が善い資質ばかりを持っていれば、それが賞賛に値する人物だと人々は考える。
しかし、人間の状況として、それは不可能なことであり、それらあらゆる善きものを身に付けることも、常にそれに従い行動することもできはしない。
だから君主に必要なのは、その地位を脅かすような悪評を避ける程度の賢明さであり、善人(有徳者)であることではない。
地位の保持に関わらない程度の悪評は、避けるに越したことはないが、気にせずやり過ごせばよい。
そして、政権を救うためにはどうしても悪徳が必要な場合は、悪評を恐れてはならない。
現実では、時に美徳が破滅を導くこともあれば、悪徳が繁栄を導くこともあるのである。

 

第十六章、気前良さとケチ

気前の良さはよい評判や賞賛を生む。
しかし、気前の良さを、良い評判を得るために使い出せば、有害になる。
適切なあり様で気前の良さを発揮する場合、むしろそれは地味で実際的で目立たないため、人々は気付きにくく、良い評判は得られない。
だから、気前の良さによって評判を保つためには、派手な奢侈が必要になるが、結局その金を得るために民衆に重い税や抑圧を課し、臣民に憎まれ、金回りの悪くなった君主に対し取り巻きはケチの悪評を立てる。

賢明であるなら、君主はケチという悪評を気にしてはならない。
倹約によって地道に財力を強化することによって、侵略者から防衛する軍事力をもち、臣民に重税を課さず、経済がうまく回り、時が経つにつれその豊かさが人々の目に明らかになった時、君主は本当の意味で「気前が良い」という評判が得られる。
多くの人々(民)から奪わないという意味で、彼らに対し気前良く、少数の取り巻きに対し与えないという意味で、彼らに対しケチであるような、そういう君主であるべきである。
もちろん、自己や自己の臣民の物ではない財貨(戦利品や略奪品)は、士気のために気前良く分配すべきである。

 

第十七章、慈悲と冷酷

一般的に言って君主は慈悲深くあらねばならない。
しかし、この慈悲を、決して誤用してはならない。
時に冷酷が平和を実現し、時に慈悲が破滅を導く。
君主は臣民の結束と忠誠を保つために、時に冷酷の悪評を選ばねばならない。
多くの殺戮と略奪を生む無秩序を、考えも無い慈悲によって放置するよりも、少数の原因に冷酷な処罰を為す方が、本当の意味で慈悲深いことであるから。

また、君主は過度に人を信じ無用心になっても、過度に人を信じず耐え難い人間になってもいけない。
思慮と人間味によって落ち着いて行動すべきである。
君主は、恐れられるより愛される方がいいか、愛されるより恐れられる方がいいか、の二者択一に迫られる。
恐れられかつ愛されることは、現実的に困難であるから。
この場合、愛されるより恐れられる方が安全である。

なぜなら、人間は一般的に、恩知らずで、移り気で、自己欺瞞的で、嘘吐きで、臆病で、貪欲であるから、君主が恩恵を与えている間だけ集まり忠誠を誓うが、いざ危機が訪れて彼らの力が必要になった時、裏切り、逃げていく。
過度に人を信じ無用心になった備えの中で、君主は滅びる。
精神的な偉大さや高貴さによってではなく、物質的な報酬で得る愛は、買うことはできても使うことはできない。
一般的な人間は、恐れている者よりも愛らしい者に攻撃を加えやすく、処罰の恐怖の鎖より愛の信義の鎖の方が断ち切りやすい。

しかし、君主は好かれないにしても、憎まれないように恐れられなければならない。
臣民の財産や婦女子に手をかけるような、憎悪や軽蔑を買う行為は慎むべきである。
勿論、君主が軍を統率する際は、冷酷を恐れてはならない。
膨大な兵士を率い成果を上げるためには、尊敬すべきと同時に恐ろしい君主であることが必要である。

君主が愛される場合、主体は他者であるが、君主が恐れられる場合、主体は君主である。
賢明な君主は自分の意志に属するものに拠って立つべきである。

 

第十八章、信義をどうもつか

信義を守り、狡知に拠らない人間は賞賛に値する。
しかし、それだけでは君主として偉業をなすことはできない。
闘い方には、人間に特有な「法によるもの」と、獣に特有な「力によるもの」の二つがある。
現実の闘いでは、前者の力だけでは足りないため、後者の力が必要になる。
よって君主は人間と野獣を巧みに使い分ける、半人半獣の存在でなければならない。
どちらか一方を欠けば、短命に終わる。
獣の力といっても、それは獅子のような力だけでなく、狐のような狡猾さも必要である。

信義の履行が自分に損害を与えたり、約束の動機が失われた時は、それを守ることもできないし、その必要もない。
人間がみな善良であれば守れば良いが、現実の人間は邪悪である。
同じ状況になれば、みなが守らないような信義を、こちらも守る必要はない。
君主であれば、不履行の口実など合法的にいくらでも作り出せる。
人間は非常に愚鈍で表面的なことに左右されるため、そういう世界においては、狐のように化かせる狡猾さがなければ、成功することはできない。

ここで敢えて言おう。
君主は先に挙げたような(第十五章)優れた資質を現実に持つ必要はなく、持っているかのように見せかけることが必要なのである。
むしろそれらの資質を実際に持つことは有害であり、持っているフリをすることは有益である。
見るからに慈悲深く、信義に厚く、人間性豊かでありながら、必要に応じて、その逆の人間になる術を知らねばならない。
そのように、君主は政体を保持するために、状況に応じて行動を変化させる心構えが必要である。

だから君主はそういう善き資質を持っていない事実を明かしてしまうような言葉を、決して使ってはならない。
常に外見上、有徳な人物であるかのように気を配りながら振舞わねばならない。
君主を裁くものはないため、結果さえ立派であれば、常にその行為過程は正当化され、栄誉となる。
大衆はそういう外見と結果にあらわれるものだけを判断するため、君主はそれらさえ備えていれば、大衆の支持を得、政権を保持する。

 

第十九章、軽蔑と憎悪を避ける

先(十七章)にも述べたように、君主は憎悪や軽蔑を避けねばならない。
軽蔑は、一貫せぬ態度、軽薄、臆病、優柔不断な態度に向けられるため、君主は、堂々として、重厚で、勇敢で、断固たる偉大な者として見られるよう、気を配らねばならない。
君主の臣民に対しての断固たる決定は、撤回不能なものであることを分からせ、まして君主を欺こうなどという思いを抱かせぬような者であるべきだ。

そういう評判によって臣民からの畏敬と名声を得た者に対して、陰謀や攻撃を起こすことは困難である。
外部からの脅威は、優れた軍備によって防げるが、臣民からの密かな脅威は、普段からの君主の偉大さの顕示によって防がねばならない。

陰謀を企む者は、君主の死によって民衆の満足を買えると思って行動するが、君主の死が民衆の悲しみと怒りを買うと思わせる時、その企ては不可能となる。
君主には権威、法律、盟友、軍備があり、なお民衆の厚い信望に支えられるとしたら、誰もそれに反抗しようとはしない。
陰謀は君主に対する不満分子を集めることによって、民衆を扇動し、民衆の力によって実行されるため、君主は常に民衆に満足と安心を与えるよう配慮せねばならない。
もちろん、少数の貴族を絶望に追いやらない程度に(第十六章、取り巻きに対するケチのこと)。

秩序ある国は、臣民の不満の種が産まれないよう、適度に貴族を考慮しつつ、民衆に満足を与えるよう腐心する君主によって、治められるのである。
これが君主にとって最も肝心な心構えである。
憎悪と軽蔑が、君主を内側から破滅に導く原因なのである。

 

(4)へつづく