藤原基央の『カルマ』

運命の車輪

まずこの絵をよく見ていただきたいのですが、回転する車輪に人間がしがみつき、一番下には骸骨、その上に浮浪者、その上に一般人、その上に貴族が描かれています。
回転軸に紐が結ばれ、回転するようになっており、誰かが上がれば誰かが落ちる仕組みになっています。
人間の運命や業というものを描いた古い挿絵です(大英博物館所蔵)。

カルマ(業)

カルマとは仏教用語で言う「業」、いわゆる自業自得の「業」です。
カルマの広義の意味は、現在の行為は必ず未来にその結果を生み、現在の状況も必ず過去にそれを生む行為を原因として持っているという、いわば頑丈な因果の連鎖を指すものです。

この二つを踏まえた上で、歌詞を見ていきます。

BUMP OF CHICKEN 『カルマ』作詞・藤原基央

解説(仮説)

数字は歌詞の順番です。
Aメロ・Bメロ・サビ前半(S1)・サビ後半(S2)で綺麗に意味が分かれており、くるくる螺旋状を描きながら上昇し、結末へ向かう構造になっています。
分かりやすくするためにそれぞれの意味に分けて考察します。

Aメロ
1.「ガラス玉ひとつ 落とされた 追いかけてもうひとつ落っこちた ひとつ分の陽だまりに ひとつだけ残ってる」
7.「ガラス玉ひとつ 落とされた 落ちた時 何か弾き出した 奪い取った場所で 光を浴びた」
2.「心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る 奪われない様に 守り続けてる」
6.「存在が続く限り 仕方無いから場所を取る ひとつ分の陽だまりに ふたつはちょっと入れない」

このガラス玉は人間の命(魂)です。
ビー玉落としの様に次々生まれては、前にあったビー玉を弾き飛ばし、ひとつだけその場所に残ります。
最初に挙げた運命(業)の車輪のように、自分が上ることによって誰かを蹴落とす、人生のイス取りゲームの様相が描かれます。

また、ひとつの場所にふたつは入れないという、存在の差異(ちがい)と同一性(おなじ)の原理が語られます。
混沌とした世界を秩序立て論理的に扱うための区分として、いくつかの暗黙のルール(規則)が必要です。
その内のひとつが排他性の原理「その空間の中でそれぞれのものの分類が、互いに重複してはいけない」です。
存在Aと存在B(例えばあなたと私)が決して重ならないこと(差異)が、それぞれの存在の自己の同一性(私が私である境界、あなたがあなたである境界の輪郭)を保証するということです。
藤原がこの歌で狙うのは、この排他性の原理を崩すことです。

Bメロ
3.「汚さずに保ってきた手でも 汚れて見えた 記憶を疑う前に 記憶に疑われてる」
8.「数えた足跡など 気付けば数字でしか無い 知らなきゃいけない事は どうやら1と0の間」

カルマの原理から言うと、いくら無垢で純粋な人でも、すでに汚れています。
その人の現在の地位を生んだ過去(時間というより前提や理由)が、業としてすでに汚れているからです。
例えば、私が大学に合格することの前提として誰かが落ちており、私が恋人を作ることの前提として誰かがあぶれており、私が美しいことの前提として誰かが醜くいものとされており、極めつけは、私が生れ落ちたことの前提として、誰かが生まれることができなかった訳です。
運命の車輪のように、私が光を浴びるということは、その前提として誰かが陰に入らねばならないということです。
そういう意味で、私は存在しているだけで、すでに罪(汚れ)を背負っているわけです。

自分の記憶以前の前提としてそれらは為されるのであって、疑うべきは過去の記憶ではなく、現在の私自身の存在の裏にある(自己欺瞞的に隠された)、前提への疑いです。
数えた足跡(過去の記憶)など、単なる数字(抽象の産物)でしかなく、考えるべきは1と0の間です。
1と0とは差異の別表現で、先に挙げた排他性の原理のことです。
この<間>を知ることによって、この原理を崩すことを示唆します。

最終サビ前
11.「鏡なんだ 僕ら互いに それぞれのカルマを 映す為の 汚れた手と手で 触り合って 形が解る」
12.「ここに居るよ 確かに触れるよ 一人分の陽だまりに 僕らは居る」

最後のサビに入る前に静かなメロディーで歌われるここで、<間>というものが一体何なのかの解答を得ます。
この<間>とは一体なんでしょうか。

例えば、深海魚を一気に釣り上げると、からだが破裂してしまいます。
深海魚のからだは魚自身が形成していると一般には思われていますが、実際は周囲の海水(水圧)が魚のからだを押さえ付けるようにして成立しています。
押さえてくれていた水圧が無くなったことによって、タガが外れた桶のようにバラバラになってしまうのです。
魚の自己(同一性)は魚自身にあるのではなく、魚と水の<間>にあるわけです。

有名なだまし絵ルビンの壷は、顔と壷それぞれで独立して存在しているのではなく、お互いが触れ合っている<間>によってその存在が保証されています。
一方が形が変化すれば、もう一方も同時に別のものに変化します。
互いの存在が、互いを反映しあい、ふたつは結局ひとつのものであることが分かります。
それを別々のものとして見るのは、単なる人間の抽象作用です。
0と1など単なる抽象でしかないと言う、8.の歌詞の意味です。

一人分の陽だまりに、僕だけがいるのでも、君だけがいるのでもなく、<僕らは居る>ということ、排他性の原理を崩し二人が同時にひとつの場所に存在できるということの可能性が語られます。

S1
4.「必ず僕らは出会うだろう 同じ鼓動の音を目印にして ここに居るよ いつだって呼んでるから」
9.「初めて僕らは出会うだろう 同じ悲鳴の旗を目印にして 忘れないで いつだって呼んでるから」
13.「忘れないで いつだって呼んでるから 同じガラス玉の内側の方から」

基本的には0と1の排他性の原理の中で生きている私達ですが、ガラス玉(魂)の内側から呼んでいる何かを直感的に(鼓動や悲鳴のような非論理的なものとして)うすうす感じ取っており、いつかふたつは出会いひとつになることの予感が語られます。

S2
5.「くたびれた理由が 重なって揺れる時 生まれた意味を知る」
10.「重ねた理由を二人で埋める時 約束が交わされる」
14.「そうさ 必ず僕らは出会うだろう」
15.「沈めた理由に十字架を建てる時 約束は果たされる」
16.「僕らはひとつになる」

これを安易にキリスト教的なイメージで語っても生産的ではないので、理屈でいきます。
ここではふたつがひとつになるための具体的な方法が語られます。
それは<理由>を葬ることです。
二人のくたびれた(使い古したという意味です)理由を、重ねて、埋めて、十字架(墓)を立て、<理由>から解放された時、二人はひとつになります。

<理由>とはなにかといえば、それは因果です。
ああだからこうなったという、因果の記述が<理由>です。
<理由>こそがカルマ(業)の車輪を駆動させる源です。

因果論のネタとしてよく挙げられる、風と桶屋の関係を見てください。

風が吹いたから、土ぼこりが立つ
土ぼこりが立つから、目を悪くする
目が悪いから、三味線を買う(昔、目の悪い人は三味線を弾いた)
三味線が売れるから、材料になるネコが殺される
ネコがいないから、ネズミが増える
ネズミが増えるから、桶をかじって駄目になる
桶がなくなるから、桶屋が儲かる

因果がすべて「~だから(理由)」の連鎖によって繋がっているのが分かります。
あいつが大学に受かったから落ちたとか、あの子が美人だから私はもてないとか、人間はとにかく理由にこだわり、世界を意味づけます。
その理由という抽象的な幻想の産物の先にあるのが、最初に挙げた運命の車輪やビー玉落しの悲劇です。

そういうカルマの車輪というネガティブな幻想をぶっ壊して、二人が同じ場所で触れ合うためには、<理由>を葬り去らなければならないのです。
本来、顔と壷はひとつのものであったにもかかわらず、抽象作用によって二進法(0と1)的にそれらを分割(抽象)し、そのふたつの間に<理由>を介在させ、つなぎます。
「壷の絵がちょっと膨らんだ<から>、顔の絵がちょっとへこんだ」というように。

とらえ難い世界をより合理的に扱うために、人は世界を分割し、抽象化し、個物としてとらえ、その個物同士を因果律(理由)によってつなぎます。
鏡のように映しあうものであった本当のつながりを隠蔽し、理由という概念的なつながりによって代替するのです。
ビー玉同士の対立は、そん虚構(抽象)が生み出す擬似的な問題であって、それが分かった時、ようやく二人はひとつになれるのです。

おわりに

厳密に言うとこれは因果の意味で使われる通俗的なカルマ(業)を破壊することであり、仏教哲学的な意味での本来的な業とは、このふたつがひとつである根源的なつながりの世界を指しているものであると思われます(井筒俊彦の『意識と本質』の項を参照)。

前項でも述べたように、あくまでもこれは純粋に、この歌詞の518字の文字データのみから、最も合理的に意味がつながる解釈を選びだし、解説したものです。
作者がこれとはまったく別の思いでこの詩を書いていることは、間違いありません。

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