藤原基央の『天体観測』

芸術/メディア

 

 

BUMP OF CHICKEN 『天体観測』作詞・藤原基央

 

解説(仮説)

 

1.「午前二時 フミキリに 望遠鏡を担いでった」
踏み切りで向かい合う男女、それを遮る列車の流れ、みたいなシーンはよくありますが、午前二時に踏み切りで待ち合わせする彼等は、さながら天の川で出会う織姫と彦星といったイメージでしょうか。

2.「ベルトに結んだラジオ 雨は降らないらしい」
このラジオの天気予報は、11.の予報外れの雨にかかっています。

3.「二分後に君が来た 大袈裟な荷物しょって来た 始めようか 天体観測 ほうき星を探して」
<大げさな荷物>によって期待の表れと彼女さんが天体観測の素人であることが示されています。
彼氏さんの趣味か夢である天体観測に彼女を誘ったのでしょう。
また、ほうき星(流星)は願いごとの象徴であり、流星探しは夢を追う姿に重なります。

4.「深い闇に飲まれないように 精一杯だった 君の震える手を 握ろうとした あの日は」
これも11.にかかっています。
後でわかりますが、握ろうとしたが、握れなかったあの日です。
二人だけのイマを取り巻く深い闇ですが、精一杯なのは彼氏さんの方です。
<あの日は>まだ弱かったという自分の回想です。

5.「見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ 静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ」
この声は星を見つけた時にあがる彼等の歓声が、静寂の夜に響く場面です。

6.「明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった イマという ほうき星 君と二人追いかけていた」
イマ、この瞬間という無時間的な二人だけの世界に夢中になっています。
明日からの呼び声とは、目的(スケジュール)によって組まれた現実社会からの呼びかけですが、二人のセカイから無視されます(まさにセカイ系)。

7.「気が付けばいつだって ひたすら何か探している 幸せの定義とか 哀しみの置き場とか 生まれたら死ぬまで ずっと探している さぁ 始めようか 天体観測 ほうき星を探して」
彼氏さんにとって天体観測(流星探し)は生涯の課題であり、非常に重要なものであることが示唆されます。

8.「今まで見つけたモノは 全部覚えている 君の震える手を 握れなかった痛みも」
これも11.にかかっています。
手を握ろうとして握れなかった、別れのあの日の痛みです。

9.「知らないモノを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ 暗闇を照らす様な 微かな光 探したよ そうして知った痛みを 未だに僕は覚えている イマという ほうき星 今も一人追いかけている」
彼女との天体観測のあの日を思い出しながら、いまも一人で星を追いかけ続けている姿が描かれます。

10.「背が伸びるにつれて 伝えたい事も増えてった 宛名の無い手紙も 崩れる程 重なった」
背が伸び、成長し、時間は流れ、別れた彼女に送ろうと思って送れなかった手紙が積もっています。

11.「僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ ただひとつ 今も思い出すよ 予報外れの雨に打たれて 泣きだしそうな君の震える手を 握れなかった あの日を」
ここで冒頭のラジオの天気予報とつながります。
予報外れの雨(何らかの不意の問題の生起)によって震えていた彼女の手を握ろうとして握れなかった、あの日(別れのきっかけとなった)への後悔が、彼氏さんの中にあり続けています。

12.「見えているモノを 見落として 望遠鏡をまた担いで 静寂と暗闇の帰り道を 駆け抜けた そうして知った痛みが 未だに僕を支えている イマという ほうき星 今も一人追いかけている」
そういう苦しい思いをバネにしてでも、彼氏さんには賭ける何か(星探し)があり、それに向かって走っています。
空ばっかり見て(夢ばかり追いかけて)、目の前の現実のモノは見落として(例えば彼女の気持ち)、それでもイマの中にいることにこだわり、走り続けます。
それに対し、彼女は<明日からの呼びかけ>に応答し、イマを抜けだし、現実社会の中に戻っていったわけです。

13.「もう一度君に会おうとして 望遠鏡をまた担いで 前と同じ 午前二時 フミキリまで駆けてくよ 始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも イマという ほうき星 君と二人追いかけている」
自然な流れとしては、ついに彼女への手紙を出し、もう一度同じ場所・時間で待ち合わせることを頼み、彼女は来るのか、来ないのか、という場面で終わります。
仮に来なかった(ふられた)としても、今も君と二人で追いかけ続けている(君への想いを持ち続け走っている)、ということが述べられ、冒頭への想起につながります。

 

まとめ

何らかの夢を追い続ける僕がいて、その夢を一緒に追いかけようと、彼女を連れ出す。
けれど、彼女はその世界についてゆけず、弱い僕はそんな彼女の手を握ることができず、離れていってしまう。
別れた彼女を想いながらも、夢を追いかけ続け、出すことのできない手紙だけが溜まっていく。
成長して自分はついに手紙を出す。
また同じ時間場所で待ち合わせることを書いて。
彼女が来るかどうか分からないまま、待ち合わせ場所の踏み切りへ走りながら、あの別れた日を思い出している。

というのが、この歌詞の全体です。
13.のみが現在で、あとは全部そこからの回想や思考の場面です。

 

イマと今

歌詞の中で「イマ」と「今」が使い分けられています。
「今」は、私達が普通に使う現在の時間という意味で使われています。
「イマ」は、時間的な意味ではなく、イマという無時間的な世界です。
「イマ」という無時間的な世界に生きたい僕と、時間(明日)に支配された現実社会の「今」に生きる彼女との、異文化間の恋愛のようなものです。
例えるなら、バンドマンであれば「イマ」という無時間的な世界、会社員であれば時間的な「今」の世界に生きています。
「イマ」を「ユメ」と置きかえて歌詞を読んでも、綺麗に意味が通ります。

これ以上は面倒なテツガク的な説明になってしまうので止めておきます。

 

おわりに

歌の歌詞も文学ですので、取り上げてみました。
ファンではないので、作詞の藤原基央の顔も経歴も知りません(6thまでのアルバムは全部持っていましたが)。
どんな状況と思いでこの詩を書き、表現したかなどの意図も知りません。
ただ、純粋に文学として、この歌詞の600字の文字データからのみ解説したものです。
作品と作家は別物であるというのが、個人的なスタンスですので、むしろ作家のデータは入れたくない派です。
詩の解釈など無限にあり、正解などなく(詩とは何かを参照)、あくまでもこれは私個人の解釈です。

 

別の解釈

ラストシーン13.は、彼氏さんが「イマ」にのめり込みすぎて、幻想の中で彼女と出会っているとも解釈できます(笑)

 

藤原基央の『カルマ』へつづく