意志と表象
様々な無数の事物が入り乱れる私たちの経験世界の根源に在るひとつのものを、ショーペンハウアーは「意志(生の意志)」と名付けます。
宇宙全体の生成をつかさどる根源的な生の力のようなものを指しています。
その根源的な一者が、人間の認識の形式に従い個々のものとして分節化されたものが、私たちの目の前にある経験的事物です。
ただ漠然としたカオスの海である存在そのもの(意志)を、時間や空間の形式によって、分化して個物としてとらえたり、因果律によって関係付けたりして、世界に個と全体が生じ、多様でありながら調和も持つ経験世界が成立します。
この人間の認識の形式(感性と悟性の形式)によって生じた個物が「表象」であり、経験世界とはすなわち表象の世界であるということです。
また、この一者から多様な個物へと分化することを、「個体化の原理(個別化の原理)」と呼びます。
欲望する意志
「意志」とは、ただただ生きることを志向し、生の欲望を充足させるためだけに駆動する制御不能の奔馬のようなものです。
人間においてのこの意志が表れたものが、いわゆるエゴイズムです。
世界とは欲望する意志であり、それは自然界においては生き残りのための弱肉強食の世界であり、それは人間界においてはエゴとエゴがぶつかり合う欲望と快楽の陣取り合戦の闘争世界であり、人生とはただ不断の不満と苦痛、駆り立てられる欲望に満ちた、苦悩の世界でしかありません。
意志からの解脱としての芸術
この不断の苦痛に満ちた荒れ狂うエゴの闘争世界から逃れるには、自我(エゴ)を脱しなければなりません。
それがエゴを忘れる、我を忘れる体験としての芸術です。
美しいものを観賞する時、人は人生(経験世界)のしがらみを離れ、いわば我(エゴ)を忘れてそれに没頭します。
利害にまみれた個体化の原理から離れ、それらを超越したイデア(理想、本質)世界へと至ります。
特に形態を必要としない音楽表現は、他の芸術より一層個体化の原理から離れている分、より高い解脱としての地位を与えられます。
夏目漱石が『草枕』の冒頭において描く、「とかくに人の世は住みにくい、~と悟った時、詩が生れて、画が出来る」という、芸術による現世(苦界)からの離脱です。
芸術の終わりとしての宗教の始まり
しかし、この「意志」から逃れられる忘我の境地は、芸術にふれている間だけに限られてしまう一次的なものです。
この忘我の状態をより恒常的に持続させるための方法として、同情や共感、いわば個体化の原理を超え、我を忘れて他者に感情移入するという生き方があります。
エゴ(我)とエゴ(我)がぶつかり合う世界なのなら、その我の壁を同情と共感により崩し、我と他者を一致させれば闘争はなくなります。
これを徹底した先に、我を滅却するという宗教的な解脱、および生の意志そのものを否定するという諦念の境地が、存在するのです。
おわり