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ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』

哲学/思想 宗教/倫理

カントの「物自体」と「現象」としての世界

[ご存じの方は読み飛ばしてください]
あらゆる生物は、自己の持って生まれた認識機能や知覚機能の枠内でしか、世界をとらえられません。
世界に色があるのは眼(色覚)のある動物にっとてだけであり、世界に音があるのは耳のある動物にとってだけです。
リンゴが赤く、甘いのは、人間(あるいは似たような感覚器官をもった生物)にとってのみです。
時間や空間や因果律(論理)も、世界に始めからあるものではなく、ある特定の認識機能を持つ生物の脳の中の世界把握の形式にすぎず、それを持たぬ生物に時間や因果など存在しえません。

自己の認識機能とは別の機能を持つ生物に世界がどう現れている(現象している)かは、永遠に分かりません。(『生物から見た世界』を参照
また、私の認識機能というフィルターの向こう側にある得体のしれない「なまの世界そのもの(物自体)」は、決してそのまま把握することはできず、「存在X(エックス)」とでも名付けておくしかありません。
まとめると、私の見ている世界は、「物自体(存在X)」という世界そのものが、私の認識機能というフィルターを通して「現象」することによって、成立しています。

ショーペンハウアーの「意志」と「表象」としての世界

カントの純粋に認識論的な学説を、生命や物理現象などの全体性へと拡張したものが、ショーペンハウアーの世界観です。
カントの「現象」は「表象」、「物自体」は「意志」と呼び変えられて、「物自体と現象としての世界(カント)」は、「意志と表象としての世界(ショーペンハウアー)」となります。

世界の根底には得体のしれないすべてを貫くひとつの巨大な「生きようとする意志」が存在しており、それが時間や空間や因果律のような「個体化の原理(個別化の原理)」によって分節かつ連係され、人間の経験領域に現れた(表象された)ものが、個々の人間や、生物個体や、自然物なのです。
生成消滅する人間や世界の事物を記述するには、「物自体」という静的な概念では難しいため、生や意志などという動的な概念でそれを代替的に表現するしかありません。

例えば、生物学的に見れば、各個体の小さな生の営みも、大局から見れば、世界という大きな自然の営みの一部であると捉えられています。
ライオンがシカを捕食して食べるシーンなどを普段テレビで観る際も、私たちは特定のライオン個体が生きようとする意志に突き動かされて特定のシカを殺すという個的な生命現象であると考えると同時に、種の保存や生態系維持などのもっと大きな生命現象としても捉えています。

それと同じように、世界の中で生き続けようと欲する個々の人間の意識的な意志の営みの根底には、ただ無目的で衝動的なひとつの巨大な「生きようとする意志」が存在していると考えるのです。
因果律も論理的カテゴリーも時間も空間も適用不可能な「世界そのもの、物自体」の領域にあるものに、そもそも目的や理性など存在し得ません。
それは理性では捉え難く、制御の難しいものであり、激しい性衝動や突発的に生じる暴力衝動などの中に垣間見ることができます。

学者は、物理世界(要は現象世界、表象世界)があまりにもうまくできており、まるで計画して合目的に作られたかのように見えると語ります。
しかし、それは世界そのものがそうであるということではなく、人間の認識の機能がそう出来ているからそうなのであり、人間理性が自己の機能を自画自賛しているにすぎません。

人間も世界も、真の姿はおぞましいほど混沌とした荒ぶる何かであり、啓蒙主義的人間やヘーゲルの合目的な理性的世界など、虚構である現象界が生み出す心地よい幻想にすぎないのです。
ショーペンハウアーの語るこの根源的な盲目的欲望、「生きようとする意志」は、後のニーチェのディオニソスの概念、フロイトの無意識の欲動概念、ナチス研究におけるホルクハイマーの野蛮な理性などへと姿を変え、受け継がれていきます。

人生とは終わりなき苦悩

このただ生きようとする、永遠に欲望し続ける「意志」が、個体化の原理(時間、空間、因果律)によって分化し現れたものが個々の人間である限り、人間の世界というものは、弱肉強食の生物界のように、生きようとする欲望の個体同士の激しい我欲合戦の様相を呈します。

また、生の営みの根源は渇望(苦悩)です。
ひもじいから獲物を探し、凍えるから家(巣)を作り、性に飢えるから異性を求めるように、人間行動の本質が渇望(苦悩)である以上、生きている限り、人間はこの苦悩から逃れられません。
特に高度な認識機能を持つ人間は、その分欲望の種類も対象も多く、この欲望は止むことはなく、何かを獲得すれば、もっと大きな何かを渇望し、ある苦悩を逃れたと思っても、別の苦悩へとすぐに変換されるだけです。
それは、まるで穴の開いた水瓶を満たそうとするような、永遠の徒労となります。
やがて、この徒労の果てに、人間は倦怠感と虚無感と厭世観(ペシミズム)に苛まれるのです。

人生とはただ苦悩の連続であることが、他者との関係においても、自己自身の本質としても、決定づけられているのです。

意志と表象とイデアとしての世界

しかし、人間は単に苦悩へと運命づけられた存在ではありません。
ショーペンハウアーはプラトンに倣い、「意志(物自体)」と「表象(現象)」の間に第三の領域として「イデア」というものを措定し、この領域との関りにこそ、人間が苦悩から解脱する方途があると述べます。

「イデア(idea)」とは観念、理念、本質、理想などの意味をもつ語で、現在の「アイデア」の語源にもなっています。
それの対となるものが、目の前に現実にあらわれる象(かたち、ありさま)としての「現象(phainomenon)」です。
例えば、チワワとドーベルマンとチャウチャウは、目の前の現象としては、形も大きさもかなり違う生き物です。
しかし、私たちはそれを同じ「犬」として認識できます。
その時、頭の中にある犬のイメージや参照枠のようなものが、犬のイデアです。
分かりやすくいうと、動物ビスケットのような、犬すべてに共通する原型のようなものが頭の中になければ、これら形の違う生物を同じものだと認識できません。

物自体が直接的第一次的に形となって表れたものがこの「イデア」であり、その「イデア」がさらに分有(似姿)分化(特殊化)された二次的な表れが、「現象(表象)」です。
「物自体(意志)」→「イデア」→「現象(表象)」の三層構造によって、私たちの認識可能な経験世界が立ち現れます。

苦悩(意志)からの解脱

私の目の前にある現象(表象)世界は、人それぞれ、その時々の欲望に従い現れた事物の世界でしかありません。
この世界で物事を考え続ける限り、人は永久に生の欲望に駆り立てられたまま生きざるを得ません。
しかし、この私個人の欲望によって意味付けられた現象(表象)世界の奥にあるイデアの世界を観ずることが出来れば、その分、欲望の世界から一段抜け出ることができます。

例えば、子供が先ほどのライオンがシカを捕食して食べるシーンを観れば、多くの場合、悲しんだり怒ったりします。
なぜなら、自己の欲望に従い、「可愛いシカさんを凶暴なライオンがイジメる」と、表象してしまうからです。
しかし、その奥にある普遍的(イデアル)な世界を知っている人は、怒ったり悲しんだりしません。
生態系という普遍的な生命現象を観じているからです。
こんな風に、現象(表象)の領域からイデアの領域へと接続することが増えるほど、人はその分、欲望と苦悩にまみれた表象世界から解脱していくことになります。

芸術による一時的解脱

このイデアを最も端的に表現するものが芸術作品です。
芸術は物事の本質や普遍や理想を表現したものです。
例えば、ギリシャ彫刻は人間の形態の理想(イデア)を表したものであり、シェークスピアやドストエフスキーは人間の本質(イデア)を表したものであったりします。
エロティシズムにおける芸術と猥褻論争においても、問題となるのは、それが人間の普遍表現と性欲望の利害関心との、どちらに軸があるかです。

利害関心の直接的な表現である表象(現象)の領域から解脱し、イデアの領域へ導くものが芸術作品であり、私たちは芸術の享受によって、苦悩の世界から抜け出すことができます。
エクスタシーという語は、「我を忘れる」という意味です。
優れた芸術作品に接し、「うわーっ」となって我を忘れる時、私たちは芸術作品を契機として、自己の利害関心に即した我欲と苦悩の世界(表象の世界)を脱するのです。

特に音楽はその表現の際に形態を必要とせず、最も個体化の原理(表象の世界)から離れた、より普遍的抽象的でイデアルなものである分、あらゆる芸術表現の中で最も優れたものとなります。
ショーペンハウアーは、音楽を物自体の直接表現とまで言います。

しかし、芸術の享受は、束の間の出来事にすぎません。
人生という苦界から逃避するための、一時のオアシスにしかなりえません。

芸術の終わりに宗教の始まりがある

欲望と利害関心に基づく表象の世界に溺れる一般人と異なり、哲学者や芸術家などは、表象的事物の奥にあるイデアの領域を垣間見ることができます。
自己の専門領域や関心領域を超え、万物全てにおいて、この奥にあるものを見ることができるようになった時、芸術は終わり、宗教がはじまります。
私の経験世界は、ひとつの「意志(物自体)」が個体化の原理によって分化した表れである「マーヤーのヴェール(幻影の覆い)」に過ぎないと見破った時、人は永遠に欲望と苦しみの表象世界から解脱します。

対立し合っていた事物はすべて同じものの表れであり、自我(エゴ)や他者という対立も幻影にすぎないと悟った時、他者の苦しみは私の苦しみとなり、同情と共感を基礎とする宗教的愛の営みが、必然的に実践されることとなります。
そして、表象の世界の事物の対立に悩まされていた私自身も、その苦悩を拭い去り、永遠の心の平安の境地へと至ることができるのです。

おわり

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