鈴木大拙の禅

二に分かれる前の一を見る

鈴木大拙のよき生徒であった現代音楽の巨匠ジョン・ケージは、巧みなイメージによってこの世界観を説明します。
私たちがぼんやり無数の星が瞬く夜空を見上げるとき、それはひとつの全体としての星々を見ています。
それを、二に分かれる前の一、分割以前の世界ということで「無分別界」とイメージしてください。
その星空全体から、星座という一定の形あるものを分割し切り出した世界が、二に分かれた世界「分別界」になります。

ここで重要なことは、星座の切り出し方は恣意的であり、どのような形にでも分節できるということです。
二十世紀初頭に国際的に共通の星座が取り決められるまでは、同じ星が国や時代によって様々な形と名称の星座として親しまれていました。
この恣意的に分節された世界「分別界」を私たちの日常生活(ソシュールの項を参照)と喩えるなら、分節以前の世界「無分別界」を見ることがいわゆる悟りの境地と喩えられます。

私たちは世界を認識するためにどうしても分別する必要があります。
善悪、真偽、快苦、天地、自他、左右、心身、等々、極め付きは零と一のデジタル信号の二分節でしょうか。
しかし、この分別が恣意的であり、かつそれが二に分かれる前の一を共通の土台としているということを忘れたとき、人間的な世界(娑婆)の中で分節された価値観同士が争いを起こします。

色即是空、空即是色

例えば、「長所」と「短所」は分別された後に対立するものと考えられてしまいますが、その根は同じひとつのものです。

漫画ドラえもんの主人公であるのび太君は弱虫で臆病です(短所)。
しかし、それがゆえに人に優しく愛されるキャラクターです(長所)。
それに対し出来杉君は全てにおいて完璧な優等生です(長所)。
しかし、ロボットのように出来過ぎるがゆえに人間味がなく、いつも孤独です(短所)。

これら長所短所は別々のものでありながら底でつながるひとつのもので、長所短所という分別はたんなる恣意的な観点の違い、いわば同じひとつの坂道で下から見る人にとってはそれが上り坂に、上から見る人にとっては下り坂に見えるのと同じです。
観方によって向かい合う顔と壷に変化するだまし絵「ルビンの壷」のように、片方がなくなればもう片方もなくなってしまう、同じひとつのものなのです。
長所短所という二に分かれる前の一を見れば、そこにはただ動きが緩慢で、涙を出しやすく、運動の起点がつねに外部にあり(受動)、のび太と呼ばれれば振り返る細身の少年がいるだけです。

分別された個々の事物の個性が輝く「色」の世界は、全ての個別性が解体し一体となった無分別の「空(くう)」の世界とつながる同じものだということです。
だから仏教ではそれを「色即是空、空即是色」と表現します。
「色の世界はすなわち空、空の世界はすなわち色」ということです。

つながりの世界

このように個々に分節された事物という星座は、その根にある無分別のひとつの星空として同時(共時)的につながっています。
しかし、このつながりは時間(通時)的にもつながっています。
それは因果、業、縁、輪廻、等々、様々に名を変える仏教の基礎となる根本原理です。

「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざにもあるような、非常に低い確率で起こる因果の無数の選択肢の複雑に絡んだ編により、世界は構成されています。
蝶の羽ばたきが大気の大循環を変え(バタフライ効果)、葉から落ちる朝露の一滴が大河を生み出します。
私が今、勉強をせずにテレビアニメを見ることを選んだ瞬間、それは過去から未来へ因果の鎖輪をめぐって将来の貧困生活へとつながっていくかもしれません。

即非の論理

悟りの境地へいたるための道はいくつもありますが、特に禅の根幹となる論理として「即非の論理」というものを挙げます。
「AはAだというのは、AはAでない、故に、AはAである」
公式化すると、「AすなわちA、Aすなわち非A、故にAすなわちA」。
具体的にいうと、「竹は竹である、竹は竹にあらず、ゆえに竹は竹である」。

言葉だけを捉えれば、矛盾だらけで何を言っているのか分かりません。
そこで先ほどの星座の話(分別界と無分別界)を思い出していただきたいのです。
「竹は竹である」というのは、分別界にある日常的な事物としての竹です。
「竹は竹にあらず」というのは、竹という分別が解体し無分別界が発露した状態です。
「ゆえに竹は竹である」というのは、一度解体した日常的な竹が無分別界をいったん通って、もう一度竹として再分別(再構築)された状態です。
無分別を経た分別という意味で、「無分別の分別」といいます。
公式化すると、「分別-無分別-無分別の分別」という弁証法に似たサイクルになります。

無分別智

具体例で説明してみます。

ある農夫が、おとなしく可愛いAという生物を「良」、常日頃から可愛いAに危害を加え大切に育てている作物まで喰い荒らすBという生物を「悪」、と分別していたとします。
ある時、作物の三分の一をBの群れによって駄目にされたことに腹を立てた農夫が悪であるBを全て捕獲し殺処分したとします。
それで平和が訪れると思いきや、可愛いAを捕食していた凶暴なBが居なくなったことにより、Aの繁殖に歯止めが利かなくなり、やがて無数のAにより作物はすべて踏み潰されてしまいました。

これにより良-悪と単純に分別していた価値観が瓦解し、AとB(良と悪)はひとつにつながる生態系のいち環境でしかないという無分別の世界が発露し、それによりAとBという生物はこれまでと違った価値観で見られることになります。

「AはAである」・・・恣意的に可愛いAを「良」としていた農夫の先入観(分別)。
「AはAにあらず」・・・その先入観が瓦解し、無分別界が発露する瞬間(無分別)。
「ゆえにAはAである」・・・一度無分別を通り、Aがより根本的な価値観の中で見られるようになる(無分別の分別)。

だから農夫がはじめからこの無分別の分別という知を所有していれば、可愛いAの被害とたまに起こる三分の一の作物の被害はあくまでも環境の一部として自然に任せていたことでしょう。
これが「二に分かれる前の一を見る」、具体的な「無分別智」のありかたです。

おわり

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