ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』

意志と表象

カントの項で解説したように、私たちの世界は「物自体」が人間の感性の形式に沿って形作られ「現象」として認識されます。
ショーペンハウアーはこれを言い換えて、「物自体」を「意志」、「現象」を「表象」として捉えます。
私が経験する世界(現象の世界)は、「意志(物自体)」が人間の感性の形式に従って形(固体化)を与えられ、表象(現象)として認識されます。
ここまでは単なるカントの焼き直しです。

欲望する意志

しかしショーペンハウアーは、カントにおいては認識しえないものであった「物自体」は、知的レベルではなく人間の身体レベルにおいて「意志」の表現として感得できると言います。

フロイトは人間の活動の源泉として、無意識の底に「イド-本能的衝動 (リビドー)」を仮設しましたが、それはかなり「意志」のイメージに近いものです。
感性の形式に従って型にはめられる「固体化の原理」によって統制されていない「意志」は、盲目的で混沌とした生のエネルギーの塊として、全ての存在者いわば世界の根底にあり世界を動かします。
「意志」はただ、何の目的もなく欲望を充足させるためだけに駆動する制御不能の奔馬のようなものです。
フロイトの快感原則のように、欲求不満と快楽の追求とその充足、を永遠に繰り返す無際限の欲望する意志です。

人間においてのこの意志のあらわれが、いわゆるエゴイズムです。
世界とは欲望する意志であり、それは自然界においては生き残りのための弱肉強食の世界であり、それは人間界においてはエゴとエゴがぶつかり合う欲望と快楽の陣取り合戦の闘争世界であり、人生とはただ不断の不満と苦痛に満ちた世界でしかありません。

意志からの解脱としての芸術

この不断の苦痛に満ちた荒れ狂うエゴの闘争世界から逃れるには、エゴを脱しなければなりません。
それがエゴを忘れる、我を忘れる体験としての芸術です。
美しいものを見る(聴く)とき、人は人生のしがらみを離れ、いわば我(エゴ)を忘れてそれに没頭します。

意志やそれに追従する利害にまみれた知性(固体化の原理)から離れ、それらを超越したプラトン的イデアの純粋観照という古代ギリシャ的理想の境地です。
特に音楽は、絵画のように固体化されたイデアの描写、いわゆる「形」を必要とせず、よりエゴから遠く離れた解脱として高い地位を与えられます。

私たち日本人に合わせていえば、夏目漱石がその芸術論ともいえる『草枕』の冒頭において描く、「とかくに人の世は住みにくい、~と悟った時、詩が生れて、画が出来る」世界です。

芸術の終わりとしての宗教の始まり

しかし、この「意志」から逃れられる忘我の境地は、芸術にふれている間だけに限られてしまう一過性のものです。
この忘我の状態をより恒常的に持続させるための方法として、同情や共感、いわば我を忘れて他者に感情移入するという生き方があります。
エゴ(我)とエゴ(我)がぶつかり合う世界なのなら、それを同情と共感により我の壁を崩し一致させれば闘争はなくなります。

ここまではあくまでも道徳レベルの世界です。
この忘我による他者への移入というものが極まった時、我を滅却するという宗教的なエクスターゼ、および生への意志そのものを否定するという宗教的禁欲の世界へと至ることとなります。

ヨーロッパ人であるショーペンハウアーが、仏教的な諦念(生意志の否定)や我からの解脱を理想として挙げる理由がここにあります。

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