森田正馬のあるがまま

宗教/倫理 心理/精神

 

理論

あるがままに生きることの自然(ナチュラル)さを失うときに、人の心は病む。
思考に囚われた不自然な心を解放し、あるがままの生をおくることによって、治癒する。

 

具体的には

・思考に囚われた状態の具体例

百本の脚を持つムカデ(百足)にクモが言います。
クモ「ムカデ君はすごいね、僕なんて八本の脚でも大変なのに、君は百本もの脚を上手に動かして走る。いったいどうやっているんだい?」
ムカデ「えっと、そんなことを意識したことはなかったけど、えっとこうやって、こっちを動かして、あっちを・・・」
考えはじめたムカデはやがて脚がもつれだし、歩くことができなくなってしまいました。
あるがままで自然な生をおくっていたムカデが、不自然な考えに囚われた瞬間から、生きられなくなってしまったのです。

・生と思考が一体となっているあるがままの状態の具体例

船をを操縦している人は船酔いすることがありません。
「もうすぐ波が来て船が浮くぞ」「島が見えたから右に30度舵を切るぞ」など、船(自分)の動きと思考が合致しているため、酔いにくいのです。
しかし、船底にいて波の動きも船の針路も見えない人は、思考と動きがずれているために、酔ってしまいます。

・生活レベルでの具体的な事例とその解決法

授業中におなかが鳴ります、恥ずかしいからおなかに意識を集中するともっと鳴ります。
おなかが鳴らないように休み時間にこっそりおやつを食べると、今度は消化音でおなかが鳴ります。
意識すればするほど、解決策を弄するほど、おなかが余計に鳴ります。
(意識しすぎて歩けなくなったムカデと同じ状態です。)

では、どうすればいいのか。
「あるがまま」になればいいのです。
おなかが鳴ることは人間にとっていたって自然なことで、まったく恥ずかしいことではありません。
だから授業中におなかが鳴ったところで、気にしなければいいのです。
そうすると身体のサイクルが自然になって、おなかの鳴る頻度は減るでしょう。

問題はおなかが鳴ることではなく、それを恥ずかしいと思う思考にあります。
現実をリアルで生きる自分と、頭の中にある「絶対に授業中におなかが鳴ってはいけない理想像としての自分」が分離しているから問題が起こるのです。
(思考と動きが分離して、船酔いしている人と同じ状態です。)

思考と動きが一体となっている自然(ネイチャー)のように、自然(ナチュラル)な生をおくれば、問題は解決するのです。
自分自身の生を因果の流れと同化する、仏教における悟りにも似た安心の境地が、あるがままの本質にあります。

・その他の具体例

講義中に手が震えて、黒板に字が書くことが困難な先生がいます。
生徒に見られることを意識するあまり、手が震えてしまいます。
ここでも、あるがままになれば問題は解決します。
授業の本当(あるがまま)の目的とはなんでしょうか。
教えることによって生徒を知的に成長させることです。
けっして先生が生徒にいい格好をすることではありません。
それを自覚し、可能な限り生徒を成長させることに目的を向け、教えることに集中すれば、自然と手の震えは止まります。
教師のあるがままの目的から、よい先生に見せたいという不自然な目的の思考へと遊離して、それに囚われ、問題が起こっているのです。

 

(関連記事)仏教哲学とは何か(3)諦観と安心