ミルの『自由論』

社会/政治

 

自由と個性と多様性

イギリス経験論の系譜にあるミルは、ベーコン同様帰納法への信頼と自然の摂理への畏敬の念が色濃く見えます。
人間観においてもそれが強く反映されており、自然の生物が自らの自性を発揮する面目躍如とする様が、自由という概念の向こうに透けて見えます。
鳥が飛び、馬が駆け、魚が跳ねるように、それぞれの生物が個性を発揮し、個性をぶつけ合い競争し、多様性を持つがゆえに変革に開かれ、均質でないがゆえにリスクに対して強く、生き生きとした生命の躍動のなかで進化していきます。

人間社会においても自然の摂理と同様に、人間の自性や多様性や自由が抑圧され失われると、社会の停滞と文化の衰退、経済の低迷などのネガティブな問題が噴出してきます。

 

多数者による少数者への強制

以前においては上からの強い権力による支配と自由の抑圧が主であったわけですが、民主化が進んでくると今度は多数者による少数者への強制という横からの圧力が強力になってきます。
それは波のように押し寄せる均質化を目指す同調圧力であって、多数者による少数者への強制です。
必然的にいって物事の新しい価値を提供し前進させるのは少数者であり、既存の価値への反対意見を述べる異端者です。

ミルは知的自由の理想のあり方としてソクラテス-プラトンの弁証法を挙げます。
互いが反対意見をぶつけ合うことによって、その中から新しい発想が生ずるというものです。
しかし、つねに多数者に対する反対意見を述べる異端者であったソクラテスは、現実にはそれを恐れる多数者の圧力によって死刑を宣告されます。
ラジカルでありすぎた異端者であるキリストが、ローマ人によって処刑されたのも同じ多数者による少数者の迫害構造です。

思想の自由や表現の自由は生産的な知的革新を生むための大前提であり、それら自由のない社会に成長はありません。

 

危害原理

では、個人の自由を確保しながら、かつ行き過ぎる自由に強制力を加える場合、その基準「個人にたいして社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界(引用)」はどこにあるのでしょうか。
端的にいえばそれは自分や他者に危害が及んだとき、それを止めさせるための強制力の行使、いわゆる正当防衛です。
逆からいえば、他人に危害を及ぼさない範囲で個人は自由に思考し自由に行為できる、俗に「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」と言われる、いわゆる愚行権です。

私が毎日ひとりで大酒を喰らっても誰にも迷惑をかけないのでそれは自由です。
それで内臓を悪くして早死にしようが風呂で溺れようが自己責任です(自由と責任は表裏一体です)。
しかし私に子供がいれば、酒による横暴な言動で子を傷つけることや、生活力の低下による子の扶養義務の放棄は、他者への危害にあたり、飲酒の自由の強制的禁止を可能とします。

勿論、この個人の自由と他者危害の境界線を定めることは非常に難しい問題で、今日でいえば安楽死や臓器提供、遺伝子操作等の生命倫理の問題などにも直結しています。

 

「本書の目的は、きわめてシンプルな原理を明示することにある。社会が個人に干渉する場合、その手段が法律による刑罰という物理的な力であれ、世論という心理的な圧迫であれ、とにかく強制と統制のかたちでかかわるときに、その関わり方の当否を絶対的に左右するひとつの原理があることを示したい。
その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、他の人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、他の人々に危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。」ミル『自由論』斎藤悦則訳

 

 

 

 

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