ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』第三部・中

哲学/思想社会/政治

(3)のつづき

第三部、マスメディア、セックス、レジャー

第二章、最も美しい消費の対象~身体

消費のパノプリにおいて最も美しく貴重な対象が身体(精神に対する肉体)です。
宗教的抑圧からの肉体的・性的解放によって再発見された身体(特に女性)は、社会のいたるところに偏在しています。
身体を取り巻く衛生、食事、医療の崇拝、若さ、エレガンス、男/女らしさ、美容、ダイエット、それらに付随する犠牲的な慣習、それらを包み込む快楽の神話。
これは、(魂に代わり)身体が、(道徳的イデオロギー的機能における)救済の対象となったことを示しています。
何世紀にもわたり肉体の無用性を説かれてきた人々は、今日では肉体の重要性を説き伏せられて(プロパガンダ)います。
どの文化においても人間と身体との関係様式は、人間と物との関係様式や社会関係の様式を反映したものとなっています。
資本主義社会においての身体(その精神的表象を含む)は、私有財産一般と同じ地位が与えられます。
伝統的な社会においては、労働および自然との関係による道具的および魔術的な身体観があるだけであり、現代のような身体に対するナルシシズム的投資(investissement)もスペクタクル的認識も存在しません。
[investissement:投資、没頭、心的エネルギー備給(精神分析)]
現代の生産=消費の二重構造は、主体に身体の二重の実践「資本としての身体、およびフェティッシュ(消費対象)としての身体」を促します。
どちらの場合も、(宗教のように)身体は否定されたり無視されたりすることはなく、むしろ肯定的・意識的に身体への(経済的意味-資本-の)投資-investi-と(精神的意味-フェティッシュ-の)没入-investi-が為されています。

あなたの身体の秘密の鍵

[見出しはELLE誌(仏のファッション誌)の記事のタイトルです。自分の身体に関心を持ち、読み解き、日々の勤行(dévotions)を為し、肉体の救済(解放)を得るべきと述べる自己啓発的内容(詳細は割愛)。以下、その引用に対する評。]
このような言説は、自分の身体との和解という名目で、主体と客体化された身体との間に脅威(脅迫、抑圧、被害妄想、ノイローゼ)を再び持ち込んでいます。
それは、自身の身体に熱中しナルシシズム的に投資(investir)せよ、という提案です。
身体を深く知るためではなく、フェティシズムとスペクタクル(見世物)の論理に従い、より完璧で機能的なモノとして作り上げるためのものです。
このナルシズムは、己の身体を処女地・植民地的領土のように優しく開発し、幸福・健康・美・モード市場における流行の記号を引き出せるよう、管理されるものです。

しかし、重要な点は、解放として演出されるこの自己愛的な没頭(investissement)が、実際には常に競争的で経済的な性質を持つ効率的な投資(investissement)であるということです。
再発見・再取得される身体は、資本主義的目的に従う利潤を生むために投資されるものです。
主体の自律性の回復を目的に肉体が再取得されるのではなく、生産消費社会の規範とコードに結びついた道具として再取得されるのです。
人は自分の身体を管理し資産として育て、社会的地位を示す様々な記号の一つとして操作するのです。
享受や社会的威信の誇示の道具として取り戻された投資対象としての身体は、(解放という神話に覆われながら)労働力としての身体の搾取よりも遥かに深く疎外された労働形態のうちにあります。

機能的な美しさ

宗教的「肉」でも産業的「労働力」でもなく、ナルシシズム的崇拝の対象または社会的儀式の戦術として再解釈された機能的身体において、美とエロティシズムは二つの主要なライトモチーフです。
男(ATHLÉTISME-闘技者のような美)も女(PBRYNÉISME-高級娼婦プリュネのような美)も変わらず、美の倫理に従うことを求められますが、特に女性にとって美しさは絶対的な宗教的義務となっています。
このような美は天賦のものでも、付け足される資質でもなく、根本的で必須の資質なのです。
プロテスタンティズムの倫理のように、それは選民と救済の証しであり、ビジネスにおける成功と同じように、卓越性の証明書となります。
美しくあることが絶対的な命令となるのは、それが資本の一形態であるからです。
[ビジネスにおける成功が宗教的救済の証明書になるという動機付けが資本主義の推進力となった、というのがウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。現代の美の追及はそれの延長線上にあるという話。]
この美は、モード(流行)に基づくものであり、身体のあらゆる具体的な価値「使用価値」を、単一の機能的な「交換価値」に還元するものです。
美は、交換される価値記号の素材として機能するだけです。
美の強制は機能的強制の様態の一つであり、モノにも女性(男性)にも当てはまるものです。
企業におけるデザイナーがモノを美しくするように。各々の女性は自身のスタイリストに成るのです。
工業美学に支配的な機能主義的原則は、そのまま女性の美しさにも当てはまります。
「機能と形態の調和的な結合」という同じ美の図式を示しています。

機能的エロティシズム

この美と並び、身体の再発見と消費を主導するのは性です。
ナルシシズム的に身体に投資せよという美の命令は、性の開発としてのエロティシズムを内包します。
本来の欲望の住処であるエロティックな身体と、交換される記号の媒体であるエロティックな身体を区別する必要があります。
前者は欲望の個人的構造が支配し、後者は交換の社会的機能が支配します。
エロティックの命令は、美の命令と同様に機能的命令の変種にすぎません。
マヌカンの身体は欲望の対象ではなく、機能的なモノ、モードとエロティシズムが絡み合う記号の場です。
広告やモードおけるヌード(男女問わず)は、(抽象的な機能的)身体を召喚することによって(本来的な欲望的)身体を祓い除ける昇華過程の道具として用いられています。

快楽原則と生産力

他のモノとの一般化された関係における身体の再発見(身体=モノのモデル)は、身体の機能的利用から購入による商品や物体の利用への移行の論理的必然性をもたらします。
身体の再発見(肉体の解放)はモノの購入を通してなされるのであり、むしろ真に解放されるのは購入衝動のようにさえみえます。
人々は「身体を再発見」したいと願い、オードトワレやマッサージやスパを購入消費します。
身体とモノとが記号として理論的に等価であるということ(身体=モノ)が、魔術的等価性(身体的優良さ=買い物)を生じさせるのです。
身体、美、エロティシズムは「よく売れる」のであり、経済的にもイデオロギー的にも深い意味をもつことが分かります。
これは「身体の解放」という歴史的プロセス全体を導く要因のひとつです。
例えば、労働力としての身体が、生産性のために合理的に搾取されるためには、「解放」されなければなりません。
労働力が賃金に基く需要と交換価値に転換されるには、労働者の個人的自由の形式的原理(自由意志と個人的利益)が必要だからです。
それと同様に、欲望の力が合理的に操作可能なモノ/記号への需要に転換されるためには、個人が自分の身体を再発見し、ナルシシズム的にそれに投資できる必要があります(いわば機能的な快楽原則)。
脱構築(伝統的なものの解体後にその要素によって新たに再構築)された身体およびセクシュアリティ上の経済的収益プロセスを確立するためには、個人は自身をモノとして、最も美しいモノとして、最も貴重な交換素材として捉えなければならないのです。

身体の現代的戦略

しかし、このような生産主義的経済プロセス(生産という社会構造が身体のレベルにまで一般化されるような)は、身体を中心とした神話的・心理的装置による社会的統合と管理に比べれば、二次的なものに過ぎません。

歴史的に、身体に関するイデオロギーは、精神主義的イデオロギー(霊魂や非物質的な原理を中心とする)に対し批判的な価値をもってきました。
中世以降の正統派に対する異端派や、18世紀以降の感覚論、経験論、唯物論などが、伝統的な精神主義を掘り崩してきました。
それは、個人の救済と社会統合の軸であった「霊魂」という根本的価値を解体していく過程であり、この脱-聖化と世俗化の動きは西洋の歴史全体を貫くものです。
身体の価値は体制を揺るがすものであり、最も深刻なイデオロギー的矛盾の源泉でした。
この新たな価値が受容された現代において、一見勝利を収めたかのように見える身体は、「脱-神話化」をなすものではなく、かつての霊魂に取って代わる神話的審級、ドグマ、救済の枠組みとなってしまっています。
聖なるものの批判、神との闘いによる人間の自由と解放であった身体の「発見」は、今や再-聖化となりつつあるのです。
もはや身体の崇拝は霊魂の崇拝と矛盾するものではなく、身体は霊魂のイデオロギー的機能の継承者となっています。

「解放された」身体という物質的証明に騙されてはならず、それは時代遅れの霊魂イデオロギー(高度な生産主義社会においてはもはや不適合な)をより機能的な現代的イデオロギーへ移したものにすぎません。
破壊性を伴う欲望の本質を検閲して除去したうわべの解放であり、身体はせいぜい記号=モノとして解放されただけなのです。
それは霊魂の「超越性」の代わりに、身体の「完全な内在性および自明な実在性」を据えることで、揺るぎない基盤を与えるのです。
勿論、この自明性は虚偽であり、(現代の神話が生み出した)身体は霊魂と同様に物質的なものではなく「観念」にすぎません。
こうした身体は、経済的な基盤として、社会統制の原理として、消費の倫理をもたらす神話になっています(かつての霊魂のように)。

身体は女性的なものか?

身体を美的・エロティックな交換価値へと還元するプロセスは、男(ATHLÉTISME)も女(PBRYNÉISME)も変わりませんが、この壮大な(美的・エロティックな)神話の主役はやはり女性であるということです。
歴史的に女性は悪しき性として道徳的に断罪されてきましたが、それは女性の社会的隷属状態に起因するものです。
搾取される(それゆえに脅威とみなされる)あらゆる社会層は、自動的に性的な規定を負わされるのであり、それは黒人が性的存在として扱われるのと同じ原理です。
女性も黒人も自然に近いから性的なのではなく、隷属的搾取的存在であるからこそ性的なのです。
文明全体によって抑圧され昇華された性は、必然的に社会によって抑圧されている対象(被差別的階層)と結びつくことになるのです。

女性と身体が隷属状態(男性と霊魂に隷属)において結びついていたのと同様に、女性の解放と身体の解放も論理的かつ歴史的に結びついています。
この同時的解放は、女性と性の混同(上述)というイデオロギー的混乱を解消することはなく、むしろそれを深刻化させています。
かつて性として隷属させられていた女性が、今度は性として解放されるに至ります。
女性は自らを解放すればするほど、ますます自らを身体と同一化していくため、この(ほぼ不可逆的な)混同はより深くなっていくのです。
それは、表面上解放された女性と、表面上解放された身体の(変わることない隷属状態における)結びつきです。
これは、「若者」など民主主義的解放のライトモチーフとなっているあらゆる社会階層についても同様に言えることです。

何千年もの隷属を強いられてきた身体、女性、若者が表舞台に登場したという革命的出来事は、既成の社会秩序にとって極めて危険なことのはずですが、「解放の神話」として社会に統合され、体制に取り込まれています。
女性は女性の神話において、若者は若者の神話において、形式的で自己陶酔的な解放が与えられることで、彼らの真の解放は巧みに回避されてしまいます。
それは、「女性」と「性の解放」を混同させることで、両者の真の要求を無効化します。
女性は性の解放を通じて自らを消費し、性の解放は女性を通じて自らを消費します。
確かに現代の女性や若者は具体的な解放(選挙権や職業的自由など)を得ましたが、この「(管理された)解放」は、次のような巨大な戦略的操作の二次的利益およびアリバイにすぎません。
それは、性の解放に伴うあらゆる社会的危険を「女性」とその「身体」という観念のなかに封じ込め(限定し)、また、女性の解放に伴う社会的危険を性的解放(エロティシズム)の観念のなかに封じ込める(限定する)、という戦略です。
同様に、「若者」と「反抗」を混同させる神話によって、両者は無効化されています。
社会全体に拡散していた反抗を特定のカテゴリー(若者)に封じ込める(限定する)ことで無力化されるのです。
[ここ(消費社会の神話-解放編-)において「女性」も「若者」も消費の領域に入り「モノ(消費対象)」となっており、その裏に隠蔽された現実の女性や若者に解放の余地はありません。]

医療崇拝-身体の形

健康との関わりも、通常の身体ではなく、機能的かつ「パーソナライズ(個性化)された」身体との関わりとなっています。
通常の健康は、道具として表された身体の均衡の維持として定義できます。
一方、身体が威信財(ステータスシンボル)として表される場合、健康は地位獲得要求の一機能となります。
それにより健康は競争の論理に組み込まれ、医療や医薬品サービスに対する事実上無制限の需要へと変換されます。
身体への自己愛的投資(investissement)に結びついた強迫的需要であり、個性化とや社会的階層移動のプロセスに結びついた地位獲得要求です。
これは、人権の近代的拡張としての「健康の権利」とは、ほとんど関係ないものであり、基本的価値を求める生物的な生存の要請ではなく、威信の誇示を求める社会的な地位の要請です。
この誇示において「形(forme)」は「美」と結びつき、これらの記号は完璧主義的な個性化の枠組みの中で交換されます。
この事実は、社会的威信の失墜や社会的失敗の際に、それが即座に身体化される(つまり不健康で醜い身体に成る)という現象においても、(逆照射的に)顕わになります。

今日の医療(医師)は「脱神聖化」され、民主化された社会サービスとして多用されるようになった(健康と医療の客観的実践に近づいた)という主張は表面的であり、神聖さや魔術的な機能は過去の医療とは異なる形で生き続けています。
労働道具としての身体の機能不全を回復する医師(兼聖職者)や呪術師などの魔術性は消えつつありますが、現代においてそれが身体の客観的表象に基くものへと移行したわけではありません。
それは、相互補完する二つの様態、「ナルシシズム的投資(心的次元)」と「威信の誇示(地位的次元)」の魔術性へと移行しているのです。
現代において医師と健康は、この二つの方向において再定義されます。
そして、身体の再発見と個人的神聖化を通じて、医療はその本領を獲得するに至ったのです(「個人の魂」という概念が神話的に結晶化した時、超越的な制度としての聖職制度が台頭したのと同様)。
原始的な宗教は集団的な実践であり、秘跡とそれを執行する聖職者が登場したのは、救済の原理が個人化されてからのことであり、さらに顕著な良心の個人化によって、秘跡の典型である個人懺悔が成立します。
身体と医療においても似たようなことが生じており、身体を個人の威信や救済のためのモノとみなす個々人による「身体化(広義のソマティゼーション)」を通してこそ、医師は「懺悔を聴く者」「罪を赦す者」「儀式を執り行う者」となり、医師は現在のように極めて高い社会的な特権的地位を得るに至ったのです。

私有物的に個人化された身体には、あらゆる種類の供儀的な行動(自愛、厄除け、欲求充足、抑圧など)が集中し、実用的な治療目的を欠いた経済的合理性さえも無視するほどの、二次的かつ非合理的な様々な消費が為されます。
こうした行動を突き動かしているのは、「健康という見返りを得るために対価を支払わねばならない(支払いさえすればよい)」という信仰にほかならず、それは医療行為というよりは、供儀的犠牲を伴う消費の一形態なのです。
下層階級は主に医薬品への、上層階級は主に医師への強迫的な需要が見られ、医薬品と医師は治療的機能である以上に文化的機能を帯びた消費の対象となります。
この消費は、「身体は奉仕すべし」と求めた伝統的倫理とは対照的に、「身体に奉仕すべし」と命じるのです。
現代人は、精神的な修練と同様に、身体をケアする義務を負っており、それが社会的敬意を得るための条件となっています。
現代人は、自らの身体を美しく、競争力ある状態に保つマネージャーや巫女(側仕え)であるのです。
ここでは機能的側面と聖なる側面が渾然一体となっており、医師は専門家と聖職者に対する敬意が融合したような畏敬の念を集めています。

痩せへの強迫観念-身体の線

現代の身体の細い線(痩せ)に対する強迫観念も、同様の定言命令(~すべし)により理解可能です。
本来、美と細身の間に先天的(必然的)つながりは無く、それは時代や場所によって変化するものです。
しかし、消費社会において万人の義務となる普遍的かつ民主的な「美」は、痩せていることと不可分です。
形態の調和に基づく伝統的な美の定義においては、太くても細くても美と成り得ましたが、記号の組み合わせ論理に基づく現在の美の定義においては、細身しか許されません。
消費は、モード(流行)の組み合わせプロセスの一般化であり、対立概念を無差別的に交代せるもののはずです。
しかし、モードの典型的な領域であるはずの「身体のライン」の分野においては、この周期的交代(太い⇔細い)が生じていません。
そこには、差異化よりも根本的な何かが存在しており、それは、現代における、自らの身体との共犯関係のあり方と結びついているはずなのです。

身体の「解放」は、身体を気遣い(配慮)の対象とすることになります。
気遣いは両義的なものであり、身体は、二重(肯定・否定)の配慮対象として解放されるのです。
その結果、(これまで記述した)身体の現代的制度である充足的な配慮の巨大なプロセスには、同等の抑圧的な配慮の投資/没頭(investissement)が伴うことになります。
身体をめぐる現代のあらゆる集団的強迫観念において示されているのは、当にこの抑圧的配慮なのです。
この抑圧的な身体への配慮は、現代社会における衛生(清潔、無菌、消毒、予防)への強迫や健康管理への執着として現れます。
そこでは身体は本来の有機的存在ではなく、滑らかで傷の無い非性的(非欲望的)な「対象」として扱われます。
あらゆる攻撃から遮断されるよう配慮され、それによって自身(有機的身体)からも守られた、管理可能な人工的身体へと変えられます。
現代の衛生への強迫観念は、かつての禁欲的なピューリタニズム(身体と欲望の否定、断罪、抑圧)の後継者ではありません。
むしろ身体と欲望を称賛する現代の倫理は、身体を衛生的な抽象化の中に、すなわち「身体性を剥奪されたシニフィアン」としての純粋さの中に神聖化することによって、巧妙に否定・抑圧するのです。
それは、禁欲的な悲劇的道徳ではなく、遊戯的道徳の形をとり、身体を愛しゲームのように管理することによって、有機的身体と欲望の発露を未然に防ぎます。

身体に向けられる攻撃的衝動が顕著なのは、衛生の領域より現代のダイエットです。
古代社会の儀式的な断食の慣習は、身体に向けられる攻撃衝動を集団的に方向づけ吸収する役割を果たしていました。
しかし、このような制度は廃れてしまい、現代の解放された(自由化された)身体は、この衝動を一身に受けることになります。
[前の段落と矛盾するようにも思えますが、「身体の解放によってこの攻撃性が発生したのではなく、昔から存在した身体への攻撃性が、外部制度から解放され、個人の身体管理という形で現れるようになった」と読むべきでしょう。]
「プロポーション(身体の線)」崇拝において、美と抑圧は結合しており、身体はもはや充足とは異なる論理、モードの要請(社会的組織化の原理)と死の要請(精神的組織化の原理)の媒体となっています。
細身への執着がこれほど深いのは、儀式​​的な生贄のように、身体が文字通り犠牲にされ、完璧さの中に凍りつくと同時に暴力的に活性化させられるからにほかなりません。
[死の要請とは、生きた身体の偶然性や奔放な欲望を制御し、完全で固定されたもの(フロイトの死の欲動が目的とする涅槃-ニルヴァーナ-状態)としようとする精神の原理のことです。]

セックス-エクスチェンジ・スタンダード

[見出しをどう訳せばよいのかわからないので、カナ表記です。邦訳は「セックス交換基準」となっていますが、たぶん適切ではありません。仏語版:Le Sex Exchange Standard、英訳版:The Sex-Exchange Standardであり、たぶん、「金為替本位制(The Gold-exchange Standard)」をもじった語です。フランス語に敢えて英語を混ぜており、経済用語としてのExchange Standardである可能性が高く「性為替本位制」と訳した方が良いかもしれません。]
日常の必需品は、自動的に性的な商品化がなされています。
「性の爆発(explosion sexuelle)」が至る所で話題になり、それは消費社会の最前線にあり、マスメディアのあらゆる意味作用の領域を規定しています。
見るもの聴くものすべてに性的ビブラートがかけられています。
勿論、同時に、性そのものも消費対象となっており、「若者と反抗」「女性と性」に関して論じたのと同じ操作がここでもなされています。
性をますます体系的に商業化・産業化されたモノやメッセージに結びつけることで、客観的な合理性から逸脱させ、性は本来の爆発的な目的性(finalité)から引き離されていくこととなります。
こうして、社会と性の変容は、既定の道に沿って進行していきます。

もし、この性の過剰増殖が、伝統的なタブーからの解放(脱昇華)の表れなのであれば、いずれ一定の飽和レベルに達し(我々ピューリタニズムの継承者の欲望が満たされ)、解放された性は生産・産業主義的スパイラルから切り離され、自律性を回復し均衡を取り戻すことが想像できます。
しかし、反対に、この性の過剰増殖は、国内総生産や宇宙開拓やモードや新製品の開発などと同様の生産・産業主義的エスカレーションであり、性は生産と限界的差異化(marginal differentiation)の無限のプロセスに不可逆的(後戻り不可能)に巻き込まれている、とも想像できます。
なぜなら、生産システムの論理が、性を体系的な消費の機能として「解放」したからです。
[限界的差異化(限界的特殊化):リースマン『孤独な群衆』における概念。どうでもいいような僅かな違いに個性化(差異化)を見出す、という同調と競争を両立させる(つまり限界-同調-内での差異化)ための現代的な社会現象。ボードリャールの「最小限界差異」のベースとなる概念。]

性が祝祭のしるしとなる、歴史的隆盛を体現する「堕落(corruption)」とは異なり、社会の衰退期にはその亡霊である死のしるしとしての性が現れます。
階級や社会の解体による成員の個々人への分散化は、個人的な衝動(であると同時に社会的な雰囲気)である性の蔓延をもたらします。
過去から切り離され、未来への展望を失った深刻な分裂状態にある集団は、利己利益と性の即時的要請を熱狂的な欲求不満の中に混ぜ合わせ、純粋な衝動の世界へ入り込みます。
経済(資本主義)世界の不安定な結合と熾烈な競争の空気において、性は社会的結束や共通の高揚感を生むもの(祝祭)ではなく、個人的利益追求のための狂乱的・強迫観念的なものへと変化し、むしろ人々を孤立させます。
それが激化するにつれ、人は性そのものに対して不安を抱くようになります。
この性的解放を制裁するのは、伝統的な公的規範から成る恥や罪悪感などではなく、
抑圧という個人的な作用(内面化された検閲)です。
検閲はもはや、性に対立するもの(宗教的、道徳的、法的)として設けられることはなく、今や個人の無意識の深層に潜り込み、性と同じ源泉に在ります。
公然とした抑圧は存在しませんが、検閲は(性の氾濫する)現代の日常生活のいち機能となっています。
意図的に仕組まれた性的錯乱とそれに伴う密かな不安は、ランボーの言う感覚の錯乱的解放による生の変革(changer la vie)などとは何の関係もありません。
むしろ、既成の社会秩序が、人間の全体性を解放する危険な弁証法に対抗する手段として(道徳的には非難しつつ)「性的解放」を利用しているのです。

広告における象徴と幻想

消費対象としての性を規定するこの日常的な検閲を、道徳的な検閲と混同してはなりません。
現代において、意識的な性的行動を罰するようなものはなく、性に対する(見せかけだが)寛容さが作法となっています。
現代の社会が課す検閲は、もっと巧妙で、幻想そのものと象徴的機能のレベルで作用しており、伝統的な検閲に対して用いられてきた対抗策は何の意味ももちません。

精神分析家たちは、広告に見られる様々な性的幻想(口唇性欲、肛門性欲肛、男根崇拝など)を大真面目に研究し、(広告の性的幻想によって)操作されるのを密かに待ち望んでいる消費者の無意識へと、すべてを結び付けます(性的象徴や幻想を好物とする隠された本質としてのフロイト的無意識)。
ここにおいては、個人的機能としてステレオタイプ化された無意識と、広告代理店によって完成品として提供される幻想が結合し、互いに照合し互いに定義付け合う悪循環を形成しています。
それら(無意識と幻想)を、記号の意味作用の機械的プロセスの中でスペクタクル的に具現化することによって、無意識や象徴機能の論理が提起する真の問題をすべて回避するのです。
「無意識が存在し、それに結びつく幻想があり、この奇跡的な結合が商品を売る」という素朴な思考です。
しかし、広告が売上に直接的影響を及ぼすかどうかについては疑念が抱かれ始めており、広告主と精神分析家のアリバイとして機能しているこの素朴な思考を再検討しなければなりません。

実のところ、これは、単なる「ファンタスマゴリー(幻灯機による見世物)」を、真正な「ファンタジー(幻想)」と見せかける二次的な神話作用によるものです。
その仕組まれた象徴作用を通じて、個々人を個人的無意識という神話のなかに絡め取り、消費活動の一環としてそれに投資するよう仕向けるものなのです。
人々は、自分たちが「無意識」を持っている、その無意識は広告のエロティックな象徴作用の中に投影され客観化されている、よってそれが無意識の実在を証明し、それを信じることは正当であり、幻想を担う商品の所有を通してそれ(無意識)を受け容れることもまた正しい、と考えるのです。
ここには、象徴も幻想も存在せず、氾濫するエロティックな素材は完全に文化化されており、(真の幻想や象徴に関わらない)単なる「雰囲気」作りのためのものにすぎません。
そこで語られているのは「欲望」でも「無意識」でもなく、陳腐化したお決まりのレパートリー、見世物小屋的レトリックへと堕ちた、精神分析的サブカルチャーなのです。
この寓話的に語られる「エス(無意識)」は、今日の文化システムの中に組み込まれた精神分析を指すに過ぎず、それは分析的実践ではなく、文化化され、美的対象とされ、マスメディア化された精神分析の機能と記号を指すものです。
広告や現代のエロティシズムは、意味ではなく、記号によって作られているのです。
広告におけるエロティシズムの過熱する内容すべては、唯一の真のメッセージである「ブランド」という超記号へと収斂していくよう並べられた記号にすぎず、そこに言語(langage)など存在するはずもなく、まして無意識など存在し得ません。
50人の女性の臀部を並べたエアボーン社(フランスの高級家具メーカー)の広告は、
何の危険もなく、我々の深層にある何ものをも呼び覚ましはせず、イメージとして即座に消費されるだけです。
それらは単なる文化的なコノテーション(共示)であり、流行の最先端を行く文化の性的神話を示しているだけで、現実の肛門性欲とは何の関係もありません。

真の幻想(ファンタジー)は表象不可能なものであり、もし表象できたとしたら耐え難いものとなるでしょう。
ジレットの剃刀の刃に縁取られた女性の唇を映し出した広告を見ていられるのは、それが去勢するヴァギナという耐え難い幻想を実際には表現していないからです。
統辞法を剥ぎ取られ孤立した記号同士を、組み合わせ的に結びつけているにすぎません。
それらの記号は無意識的な連想など引き起こさず(むしろ体系的にそれを回避し)、ただ「文化的」な連想のみを喚起する、孤立しカタログ化された記号の集まりです。
それは象徴の蝋人形館であり、性的欲動の作用を何ら留めていない、記号としての幻想です。
エロティックな広告装置によって人々が受ける真の条件付けは、深層レベルでの説得や無意識への暗示などではなく、反対に、深層的な意味や象徴的機能、そして分節化された統辞法における幻想的表現(性的シニフィアンの生きた発露)に対する検閲なのです。
性的記号のコード化された戯れの中で、性的なものはすべて検閲され無効化されています。
そこでは、統辞法の脱構築によって、閉鎖的かつ同語反復的な操作の余地しか残されません。
意味作用のレベルで機能するこの体系的なテロリズムにおいて、あらゆる性はその実体を失い、消費の素材と成り下がります。
ここにおいて性は消費過程に回収されるのです。

性器付き人形

[これは大人向けのダッチワイフのことではなく、1960年代半ばからフランスで作られた性教育的な目的を持った児童向けの人形(陰茎あるいは外陰部付き)です。]
この新しい人形は、消費社会における私たちと性との関係の一般的な性質を反映しています。
それは、シミュレーションと再構成(復元)のプロセスに支配された関係であり、その原則は(疑似)リアリズムによる人工的な眩暈(めまい)にあります。
そこでは、性が性器という「客観的」な現実と混同されています。
テレビの色(光の三原色による加法混色)、広告のヌード、労働者の経営参加、観客参加型の前衛演劇など、私たちの周囲には人形と同じパターン、「真実」や「全体性」の人工的復元、分業と機能に基づいて体系的に全体性を復元しようとする試みが見られます。

まず「性」の全体性(全体的交換という象徴的機能)を解体し、「性」を記号(性器、裸体、二次性徴、あらゆる事物に付与される性的意味)の枠内に限定し、それらを私有財産や属性として個人に割り当てることを可能にします。
伝統的な人形に特定の性的記号を付与することによって、象徴的機能を遮断し、「スペクタクル(見せ物)」としての性的機能に限定し、性から(象徴)交換としての地位を剥奪します。
[ボードリャールの象徴交換は、ほぼ使用価値+交換価値の対義語として用いられています。マスクスは使用価値を一次的なもので交換価値はそこから派生した二次的なものとみなします。しかし、ボードリャールは使用価値と交換価値は共犯関係にあり、交換価値のアリバイとして使用価値が要請され生じていると考えます。交換価値のみならず使用価値も社会的に決定される価値の体系であり、根源的な事物のあり方(象徴交換)を隠蔽するシステムであるというわけです。象徴交換については後日詳細に書きます。漠然としたイメージは「意味や価値が固定されない、かけがえのない交換による、人と人との関係の形成そのもの」です。]
これは分業化の延長線上にあり極限まで進むと(労働だけでなく人格・身体まで専門化され)「性」は断片化された機能となり、「私有財産」として個人に帰属することになります。

それは象徴的交換(機能的な分業を超越した全体的プロセス、つまり、体制を転覆させる力)としての性の否定です。
その解体により、性は「使用価値」と「交換価値」という二元的な枠組み(モノの概念の特性)へと転落します。
使用価値において、性は欲望(désir)ではなく、「性的技術」や「性的欲求(besoin)」を満たすための機能として理解されます。
[欲望(besoin)が必要・需要(besoin)に還元されるということ。]
交換価値(象徴的交換ではなく経済的交換)において、性は社会的ステータスを示す記号として消費されます。

リアリズムの形而上学に基く人工的なシミュレーション(偽装現実)を通して、性の検閲(何を隠すかでなく何を誇示し性を定義付けるかという検閲による抑圧)が働いています。
ここでの「現実」は、「真実」の対極にある「物象化されたもの」となっています。
現実の記号や属性を付け加えるほど、人工的現実が完成度を高めるほど、真実は検閲され遠ざかります。
真実が持つ象徴的なエネルギーが、物象化された現実という文化的形而上学の方へと逸らされてしまいます。
今日では人形に限らずあらゆるものが、本来のリビドー的機能や象徴的機能を祓い除けるために、人工的に性的なものへと仕立て上げられています。
(隠すのではなく)性的記号に過剰に晒すことによって、抑圧し、去勢するのです。

 

三章に続く