第三部、マスメディア、セックス、レジャー
第一章、マスメディア文化
ネオ~(時代錯誤的復活)
文化の消費とは、過去において「消費」というより「完了(完成)された」歴史的意義をもつ文化的出来事を、戯画的・パロディ的に復活させ再現することにおいて消費するものです。
[例:薪の文化を終わらせた石油王のエッソがSSで薪ストーブを提供。]
消費される商品もサービスも時代錯誤的復活モデル(ネオゴールドラッシュ、ネオエスキモーなど)で溢れていますが、それは単なるノスタルジーではなく、現実世界の否定に基づいて記号を賛美する消費の歴史的かつ構造的規定のあらわれです。
先に述べたように(マスコミの記号的劇化による現実の否定~第一部第二章)、現実の事物は消費の記号に包摂されることにより、現実として消滅すると同時に記号的に復活します。
家族愛が記号的に消費される時、すでに現実の家族は崩壊しており、無垢な子供が記号的に消費される時、すでに現実の子供は無垢ではなくなっており、老人に対する同情が記号的に消費される時、すでに老人は邪魔な存在として扱われるようになっており、人間(身体的)の有能が記号的に消費される時、すでに現実の人間の能力は社会に追い詰められ失われています。
文化のルシクラージュ
現代の社会人の特徴は「ルシクラージュ(再教育、再訓練、リサイクル)」であり、知識やスキルを常に更新していかなければ、社会的に落ちこぼれていきます。
この概念はファッションの「シクル(周期、サイクル)」に似ており、これは消費社会における市民権を得るために、洋服や車や持ち物などを流行のサイクルに合わせることを求めます。
ルシクラージュは継続的な進歩であるのに対し、シクルは気まぐれの進歩なきものとされますが、実のところ前者は後者(流行)と同種の気まぐれと強要とめまぐるしい変化を科学的装いによって隠蔽しているにすぎません。
生産と流行のサイクルがモノを計画的に陳腐化(加速的更新~第一部第三章浪費を参照)するのと同様に、人間と知識を計画的に使い捨てるものです。
それは知識の蓄積などという科学的な合理的プロセスではなく、非合理的な消費の社会プロセスなのです。
例えば、肉体のルシクラージュ(再訓練)は、健診や人間ドックなどを通したライフスタイルの改善に伴う産業・消費プロセスであり、自然のルシクラージュ(再開発)は、常に現代的な最新の雰囲気と機能を持つよう管理された自然(緑地公園、自然保護区、田園都市など)の開発に伴う産業・消費プロセスです。
このような原理は今日のあらゆる大衆文化を支配し、人々が受け取るのは文化そのものではなく文化のルシクラージュです(最終的には大衆だけでなくインテリもこの文化化に取り込まれます)。
毎月または毎年、自分の文化的パノプリ(装備一式)を更新することにより、目まぐるしく変化する流行の制約に服従します。
これ(文化化)は、文化(1.作品・思想・伝統の歴史的遺産、2.理論的・批判的継続)とは正反対のものです。
この文化の二つの側面(1.2.)は、使い捨ての文化的要素や記号で構成された周期的に変化するサブカルチャー、現代アート、週刊百科などの文化の現代的形態(ルシクラージュ)によって否定されています。
文化の消費が示すのは、文化の内容とも文化の大衆化(普及)とも関係がなく、文化的なものが毎年モデルチェンジする車と同様の儚い記号になったということです。
文化はもはや永続を前提に創造されるものではなく、今日の普遍性である生産の領域、すなわちシクルとルシクラージュの領域にあるものです。
未だ文化が普遍や理念を主張する姿勢は、もはやそれが実質的な意味を失ったことを示すにすぎず(消失によって礼賛がはじまる)、実際の文化は、物質的財と同じく生産様式に従うのです。
文化的な作品の意味に関わる重要な事実は、すべての意味作用がサイクル的に変化するということであり、コミュニケーションのシステムを通して変転する様式(流行のファッションの組み合わせの変化のような)に従うものとなったということです。
「大衆芸術」と「前衛芸術」との間に違いなどなく、前者が俗っぽいテーマの組み合わせ、後者が抽象的表現形式の組み合わせであるというだけであり、両者共にコードと循環幅と償却の計算に基づいて構成されています。
例えば、現代の文学は、そのような機能的サイクルへの順応(「文学賞」というルシクラージュ)によって、新たな活力を得ています(後世ではなく現在の人々に向けた流行として)。
最小共通文化(P.P.C.C.)
今日におけるコミュニケーションは技術的媒体(マスメディア)を介したものであり、そこで共有されるものは集団の現実的活動でも本来的な意味での知識でもなく、記号や準拠、学校教育の記憶、流行の知的信号などの奇妙な集合体であり、これが「大衆文化」と呼ばれるものです。
それは、消費社会で市民の称号を得るために最低限共通に所有する必要のあるモノを規定する「スタンダードパッケージ(リースマン)」と同様、文化的な市民権を得るために最低限共通に所有する必要のある「正解(正しい答え)一式」を規定するもので、「最小共通文化(P.P.C.C.)」と呼ぶことができます。
必要とされるのは分析的思考でも深い知識でもなく、クイズ番組のように、与えられた選択肢の中から正解を(考えることなく)見て取り、その(思考能力ではなく)反応速度を競い合うゲームの能力です。
他者の間を動き回り、接触と切断、肯定と否定の関係の選択を瞬時に為すことのできる人間(リースマンの言うレーダー型人間)となり、このゲームにおいて高得点をたたき出すことが求められるのです。
コード化された質問と正解の一覧表が最小共通文化であり、この自動化された出題-解答のメカニズムは学校教育の「文化」とよく似ていますが、それは偶然ではありません。
試験は社会的な地位を向上させる最も有効な形式であり、試験そのものがある種の威信を持ち、こうしたモデル(学校のテストからクイズ番組まで)の際限のない普及が社会統合のプロセスを強力に支えています。
究極的には、社会全体がこうした競争に統合され、試験による選抜と組織化の完全なシステム(中国の科挙制のような)が大衆全体に及び、誰もが自分の社会的運命を絶え間ない出題-解答のゲームによって決定することになれば、私たちは時代遅れの社会統制システムなしに済ませることができるかもしれません。
その段階に達していないにせよ、試験万能の状況に対する非常に強い願望を持つことは確かです。
この状況は二重であり、誰もが試験の受験者であると同時に、誰もが試験官・審査員(大衆と呼ばれる集団的権威の審級)であり、この二重人格性は権力の委譲によって大衆を社会に統合する戦術なのです。
マス・コミュニケーションを定義付けるのは、技術的媒体と最小共通文化の結合です。
コンピューター化されたマスメディアは、「最小共通文化」の信号のシステムの技術的な具現化にすぎず、万人各々を同じゲームに参加させるよう秩序付けるものです。
ハイカルチャー(高尚な文化)とマスカルチャー(大衆文化)の間に本質的な違いはありませんが(共にコードと生産サイクルに基く)、後者は単純な要素で構成されているため刺激/反応、質問/回答パターンに簡単に分解することができます。
マスにおいては(後者の典型である)クイズ番組のような機構が一般化し、消費者のあらゆる行動は刺激に対する反応の連続として組織化されており、好み、趣味嗜好、ニーズ、意志決定などにおいて、(モノ関係でも人間関係でも)消費者は絶えず刺激され、質問され、反応および解答を強いられています。
モノを買うということは、モノの有用性に基く個人の欲求充足というより、モノの記号的戯れに基く質問への解答(個人を集団に従属させる)であり、与えられた選択肢の中から一つの正解を選ぶゲームとなっています。
最小公倍数(P.P.C.M.)
[なぜ見出しが「最小公倍数(Les Plus Petites Communs Multiples)」なのかは分かりません。文脈からして、主に美術用語としての「マルチプル(工業的に量産された芸術作品)」を指すものであると思われますが、海外の研究者はP.P.C.M.を「多様(マルチプル)が実は均質的で公的な概念であること」を示す語だと述べています。多分そんな小難しい話ではなく、前の見出しの「最小共通文化(P.P.C.カルチャー)」の下位概念としての「最小共通量産芸術(P.P.C.マルチプル)」と言っているだけだと思われます。]
今日の最小共通文化(最小公文化)には芸術が加わり、芸術作品は何世紀にもわたって特権的な場所に閉じ込められてきた聖域(美術館)からデパートの催事場に移り、作品の複製(版画)が手頃な価格で販売されています。
しかし、芸術を民主化しようとする関係者たちの崇高な努力、「より多くの人々のために美しいモノを創造しようとする」デザイナーたちの努力などは、成功を収めた結果、失敗に終わります。
この矛盾(成功するほど失敗する)は、これら崇高な人々が、芸術を普遍的なものと頑なに主張しながら、同時にそれを製品的に普及させようとすることから生じるものです。
製品的普及によって、これまで消費の論理(すなわち記号の操作のシステム)の対象ではなかった特定のコンテンツや活動を、それに従属させることになってしまうのです。
製品的な芸術作品が、事実上、ストッキングやガーデンチェアなどと同質となり、それらモノとの関係において意味をもちはじめるということです。
完成した製品(objets finis)と対立するはずの、芸術作品の開かれた意味作用としての実体性は失われ、それ自身も閉じた完成品(objets finis)となり、平均的な市民の社会文化的地位を規定するパノプリ(文化的装備)の中に組み込まれます。
同じ問題圏にあるのが、週刊百科や科学雑誌や芸術雑誌などの出版物による、中間層に対する文化芸術の普及です。
彼らは純粋な知的好奇心や教養のためにそれらを購読するのでしょうか。
そこには、特権的文化への憧れと、己の階級的地位の再確認という二つの動機が働いており、購読という行為自体が「メンバー同士の確認のための目印(signe de ralliement)」となっています。
読者は購読(という神話的な秩序への忠誠行為)を通して、己の所属する仮想的集団の存在を抽象的に享受するのです。
無関心な共犯関係でありながら、相互承認、結集、神話への参入といった価値をもたらすのです。
この非現実的でマッシブな関係は、まさにマスコミュニケーションの効果そのものと言えます。
読者(というより信徒)の大半は内容そのものを求めて購読していると主張しますが、この類の雑誌の文化的な「使用価値」および客観的目的性は、社会学的な「交換価値」に基いており、それは激化する地位競争の要求に応じるよう生み出されている文化化の用具です。
こうした文化は、その内容が自律的な実践を支えるようなものではなく、むしろ文化以外の対象(社会移動のレトリック)を志向するものであり、さらに突っ込んでいえば「社会的地位のコード化された要素としての文化」のみを対象とする要求において「消費」されるものです。
ここでは意味の逆転が生じ、純粋に文化的な内容の方が共示(コノテーション)となり、二次的な機能となってしまいます。
洗濯機が生活道具としてではなく、社会的威信のための道具(ステータスシンボル)として消費されるのと同様の形で、文化も消費されるのです。
消費対象としての洗濯機がもはや特定の内実を持たず、他の多くのモノで代替可能であるのと同様、文化が消費の対象となるのは、文化が他のモノと交換可能な同質なものとなる時です。
売られる階層が異なるにせよ、クラシック音楽やファインアートなどのハイカルチャーは、ドラッグストアのモノたちと同様に記号的な競争的需要に従い、その需要に応じて生産されるものとなります。
文化は、私たちの日常生活の雰囲気を構成する諸々のメッセージ、モノ、イメージと同様の適応様式(好奇心の様式)で利用されるものとなります。
この好奇心とは軽薄な態度を指すものではなく、地位継承、シクル、流行の変化という制約を前提としたものであり(特に文化変容の過程にある階層においては情熱的なものとなる)、それは、意味の象徴体系としての文化の実践を、記号体系の組み合わせゲームに移行させるものです。
[象徴体系とはソシュール的世界(ラカンの言う象徴界)、記号体系とはロラン・バルト的世界のこと。]
伝統的な文化に生きる人々を排除した先にあるのは、個々人に対する文化的ルシクラージュ(再教育)、つまりは美的ルシクラージュです。
それは競争社会における個人の個性化(パーソナライゼーション)や文化的自己価値の主張(Faire-valoir)のいち要素であり、コンディショヌマン(包装/条件付/コンディショニング)によるモノの価値の主張(Faire-valoir)に等しいものです。
工業美学(L’esthétique industrielle)、すなわちデザインは、分業体制のうちに明確な機能をもつそれぞれの工業製品を、「環境」や「雰囲気」などのある種の二次的機能によって結びつけ、美的均質性、形式的統一性、遊び心の面をもたらすためのものです。
現在、至る所で見られる「文化的デザイナー」たちの仕事とは、工業デザインがモノに対して行うのと同じ様に、明確な分業体制のうちにある個人を、文化を通してデザインし直し、人々を単一の形式的な枠組みに統合し、文化振興の美名のもとに交流を促進し、人々を「雰囲気」に収めることです。
このコンディショヌマン(つまり文化的ルシクラージュ)は、工業美学が「(あくまでセールスポイントである)美しさ」を与えたグッドデザインなモノと同様に、文化的変容を経たグッドデザインな人々をもたらします。
彼らは、社会的にも職業的にもよりよく統合され、より相性が良く、より時代に馴染みます。
人間関係の機能主義は、文化振興を得意分野のひとつとしています。
今の所、象徴体系に基く伝統的な「文化」に対する、産業化された記号体系に基く「文化」をあらわす言葉はありません。
そのため、機能化された媒体、コード化された創造性と受容性、記号的意味作用とコミュニケーションのための集団的に管理された作業、それらをあくまで「文化」と呼び続けています。
キッチュ
キッチュはガジェットと並ぶ現代的モノのカテゴリーです。
キッチュなモノとは、安っぽい小物やアクセサリー、民芸品や土産物、ランプシェード、模造のアフリカの仮面などの質の悪い紛い物を指し、特に観光地やレジャー施設で多く見られます。
キッチュは特定のモノを指す概念ではなく、いたるところに存在し、モノの細部にも、大規模な住宅地の計画にも、造花にも、ロマンフォト(写真漫画)にも見られます。
「キッチュ」は、擬似オブジェクト(つまりシミュレーション)、コピー、人工的紛い物、ステレオタイプ、リアルな意味の欠如と記号の過剰、寓意的指示、異質な共示(コノテーション)、ディテールの礼賛とその飽和状態、として定義するのが適切でしょう。
キッチュは文化的なカテゴリーであり、その内部構造(雑然とした記号の過剰)と市場における現れ方(雑然としたモノの増殖)は類似しています。
このキッチュの増殖は、あらゆる領域から借用された差異的な記号の産業的増産によるオブジェクト(モノ)レベルでの普及(俗化)、および既成(tout fait)の記号の無秩序な(競売的)競り上げ/エスカレート(surenchère)から生じるものであり、「大衆文化」と同様に、消費社会という社会学的現実をその基盤としています。
多くの人々が社会階層を昇り新たな地位を獲得すると同時に文化的な欲求(己の地位を記号によって示したい)を抱きます。
成り上がった人々は、自分にふさわしいパノプリ(装備一式)をコレクションするのです。
キッチュの増殖を説明するには、大衆の俗物性や紛い物を利用する経営者の冷笑的戦略だけでなく、それに対する需要が必要です。
この需要は社会的移動の関数であり、社会移動のない社会にキッチュは存在しえません。
キッチュとは異なりますが、差異表示素材の増加をもたらしたバロック様式の背景には、ブルジョワジーの台頭による上層階級の相対的混成と社会的プレシャーがありました。
その後、社会的移動がより自由で広範なものとなっていく西洋社会において、小物(bimbeloterie)一般がモノの主要な形態のひとつ、活発な商業分野のひとつとなり(百貨店の登場)、現代社会のキッチュへと続いています。
キッチュは、希少で独自な本モノ(とはいえ工業生産も可能)の価値を高めながら、絶えず変化し増大する差異表示素材の論理に従い、両者で消費の世界を組織化します。
キッチュの差異表示価値は低いですが、誰もが所有できるため統計的に最大の収益性と結びついます。
これは、希少な限られた数の本モノが持つ最大の差異表示価値とは対照的であり、問題となるのはモノの美しさなどではなく、差異表示能力という社会学的機能です。
この意味であらゆるモノは、入手可能性や絶対数に応じて、差異表示価値として階層的に分類されます。
この機能によって、ある社会階層が特定のモノや記号のカテゴリーを通して自らを際立たせ(差異化)、その地位を示します。
より多くの階層が特定のカテゴリーの記号を入手可能になると、上流階級はより数の少ない限られた記号を入手し差をつける必要に迫られます。
キッチュの価値の貧弱さは、キッチュが際限なく増殖する理由の一つであり、それは「反・美的」機能と結びついています。
美と独創性(本モノ)の美学に対して、キッチュはシミュレーションの美学を生じさせるのです。
キッチュはあらゆる場所で、実物よりも小さいまたは大きいモノを複製したり、素材をプラスチックなどで模造したり、形態を不器用に真似たり、ちぐはぐに組合わせたりし、実際に体験したことのない流行を反復します。
それはガジェットがテクノロジーのパロディーであるのと似て、具体的内容を持たない無用な機能のひけらかし的なシミュレ―ションです。
このシミュレーションの美学は、キッチュが社会的に割り当てられた機能(階級への願望と予感、上級文化への魔術的同化を表現する)と深く結びついています。
ガジェットと遊戯性
機械は工業社会の象徴であり、ガジェットは脱工業社会の象徴です。
ガジェットに厳密な定義は存在しませんが、消費対象を、「その客観的機能(道具性)を相対的に喪失し、記号としての機能を増したもの」と定義するなら、ガジェットはまさに消費社会におけるモノの真の姿であると言えます。
消費されるものはまさに「有用なもの」以外の何かであり、消費対象は一種の機能的無用性によって特徴づけられるのです。
ガジェットを定義付けるのは、その潜在的な無用性と遊戯的な組み合わせの価値であり、あらゆるものが(潜在的に)ガジェットになり得ると言えます。
しかし、有用と無用の区別の基準は明確でなく(例:自動車のクロームメッキ塗装は無用なガジェットか有用な耐食材か)、また、いかなるものも何らかの有用性をもつと同時に、本来の用途とされるただ一つの有用性以外の有用性をもたないものもありません。
したがってガジェットは、「二次的な機能(一次に比べて無用な二次的有用性、つまり機能的無用性)を目立って付与されたモノ」と定義するしかありません。
自動車本体すら、流行と威信の論理に組み込まれるとガジェットと化すのであり、現代のモノはすべてこの方向へ進みつつあります。
また、ガジェットは実際には、その使われ方によって定義されるものであり、それは実用的でも象徴的でもなく、遊戯的な使用です。
いまや遊戯性は、モノ、人、文化、余暇、労働、政治などとの関係に拡大し、日常生活の支配的な基調となりつつあり、あらゆるもの(モノ、財、人間関係、サービスなど)がガジェットへと変貌しつつあります。
遊戯性は特殊なタイプの投資(investissement)であり、それは経済的でも象徴的でもなく、組み合わせによる変調、つまり、モノの技術的バリエーションや技術的可能性で遊ぶことであり、イノベーションにおいてはゲームのルールで遊ぶことであり、ディストラクションにおいては究極の組み合わせとしての生と死で遊ぶことです。
[investissement:投資、没入、心的エネルギー備給(精神分析)]
遊戯的情熱は、一般化され拡散されているため、弱く空虚になり、単なる好奇心(無関心と魅了の中間の何か)にまで縮小されており、それは情熱とは対立するものとして規定されるものです。
情熱とは、全人格的に関わるものであり、それは全面的な投資(investissement)を意味し、強烈な象徴的価値を帯びます。
一方、(遊戯的)好奇心は、諸要素(記号)の戯れへの単なる興味です。
遊戯性の活動は、一見情熱と同じもののように見えるかもしれませんが、それは消費活動にすぎません。
ピンボールマシンで遊ぶような電気反応的な抽象的操作であり、流行の変遷に応じた差異表示記号の抽象的操作であり、それ(消費)は情熱の対極にある組み合わせ的な投資なのです。
ポップ、消費の芸術
消費の論理は記号(signe)の操作として定義されます。
内面的な象徴(symbolique)的関係は存在せず、すべては外面的に在ります。
モノは客観的な目的性と機能を失い、単なる関係的価値を持つ対象群の大きな組み合わせの中の一項目となります。
モノは象徴的な意味と何千年にもわたる人間化(anthropomorphique)された地位を失い、全体主義的な文化システムの枠組みの中で、相互に関係しあうコノテーションの言説へと呑み込まれていきます。
モノに関する言説に劣らず、芸術の言説の分析は、多くのことを明らかにします。
現代のポップ・アートにおいて、突然モノは芸術的表現の頂点へとのし上がりました。
ポップ・アートは、記号と消費の論理に基づく現代的な芸術形式であると同時に、それ自体が純粋な消費の対象である流行の産物です。
消費の論理は、伝統的な芸術表現の崇高な地位を排除します。
もはや物体の内的な本質や意味が外的なイメージより優越することはなく、一方が他方の真実だということもなくなり、両者は同じ論理的空間で共存し、そこで(差異化された可逆的で組み合わせ的な関係において)記号としての役割を演じ(Jouent)ます。
ポップアート以前の芸術は、世界の内奥の深みを探り表現する態度に基づいていたのに対し、ポップは、すべてを同質(均質)に記号の秩序(産業的大量生産・環境全体の人工的性格・文化化された抽象作用)に収めようとします。
[キュビズムは空間の本質を、ダダやシュルレアリズムは失われた物の本質を求め不条理の下に表現します。ポップ以前の芸術はすべて超越性(此岸と彼岸を分け此岸から彼岸を求める態度、典型がプラトンやキリスト教)に基いています。]
はたしてポップアートは対象の全面的世俗化を完遂し、過去のすべての芸術の威信であった「内なる光」を消失させるほど純粋な外在性を実現できているでしょうか。
ポップアートは、遠近法の終焉、喚起(l’évocation)の終焉、証言(témoignage )の終焉、創造的行為の終焉、(芸術による)世界の転覆(subversion)と呪詛の終焉、を意味します。
そこには、文化全体の華美を廃し、世界への完全な統合(超越の実現-つまり超越性の解消-)を果たそうとする狂気じみた野望(あるいはイデオロギー)が存在しています。
消費社会が自らの神話に囚われ自身についての批判的視点を欠く以上、現代の美術は、その存在と実践においてこの現実と共犯関係にあるしかありません。
アーティストたちは、「難しい意図はない。楽しんでいるだけ。周りにあるものを絵に描く。自然発生的リアリズムだ」と言いますが、それは楽しみでもリアリズムでもなく、消費社会の真実を承認することであり、モノの真の姿はその記号(marque)にあるという真実を認識することなのです。
だからこそ彼らは、対象のロゴやマークや宣伝文句を優先的に描き、究極的にはそれだけを描くのです。
「ポップはアメリカ的な芸術」というより、アメリカ的なものが現代文化の論理そのものであり、彼らはその(消費社会の)神話以外の真実を持たず、自分自身をその中に組み入れることでこの神話的言説を完成するほかないのです。
これはポップ以前の芸術の偽善と矛盾の終焉でもあります。
過去(特に19世紀末から)の絵画は天才性と超越性をもつにもかかわらず、サインの力によって販売されるサイン入りのモノであったのに対し、ポップアートは芸術的対象としての絵画とモノ(商品)としての絵画を調和させます。
たとえこの論理的な試みが、私たちの伝統的な美意識に反するとしても、全面的に認めざるを得ません。
[ここでポップアートの作家たち”当人が”意図する試み(ポピュラー化)が不可能であることが語られ(長いので割愛)、ポップを以下のように定義付け直します。]
ポップは、さまざまなレベルの知覚のゲーム(遊戯)および操作であると定義できます。
それは一種の精神的キュビスムであり、キュビズムが空間の分析と回折(diffracter)を為したように、ポップは、何世紀にもわたって文化全体で発展してきた知的技術的装置(客観的現実、反射像、描かれた形象、技術的形象(写真)、抽象的図式化、論証的言表など)に基く知覚様式に従いモノを回折させようとするものです。
ポップアートに現実の秩序および現実の空間は無く、意味の階層秩序および記号要素の羅列とその関係性の空間があるだけです。
また、現実の時間とも関りがなく、ただ読み解きの時間(モノとそのイメージの差異を解析する知覚の時間)があるのみです。
それは、精神をイメージとモノへ順応させるのに要する時間です。
ポップアートは「美的感情」とはかけ離れた「クールな」芸術であり、美的陶酔や感情的・象徴的な深い関りを要求せず、ある種の「抽象的な関与」、つまり器械道具的な好奇心を要求します。
ポップアートは消費社会のエピナル版画のようなものであり、記号のコード解読などの知的反射機能を刺激するものです。
[エピナル版画(19世紀フランス)は、ペーパークラフト、ボードゲーム、着せ替え人形などを版画によって刷ったもの。学習雑誌「小学〇年生」の付録に似たもの。]
つまり、ポップアートはポピュラーアート(大衆芸術)などではないのです。
なぜなら、大衆文化のエートスとは、明快なリアリズム、直線的な叙述、寓意と装飾(本質的な「何か」を指示するもの)、道徳的展開と結びついた感情的合一、に基づいているからです。
[これらはポップとは反対の要素です。ポップアートは、非リアルで、回析的で、本質とは切り離され、非感情的なクールなものです。]
メッセージの編成(orchestration)
メディア(テレビ、ラジオ、新聞など)において、記号及びメッセージが非連続的に編成されており、あらゆる領域が等価に扱われています。
[例えば、ニュース番組は、政治やスポーツやお天気や娯楽など様々な異なるものが、さらに様々な広告によって挟まれ、連続性のないものを繋げる構成になっています。ここで実際のラジオのニュース番組の構成がオーケストラとの類比で語られますが割愛します。]
それは非常に巧妙な効果を持ち、(非連続的な)メッセージを組織的に連続させ、歴史と三面記事、事件とスペクタクル、ニュース情報と広告の、記号レベルでの等価性を押し付けるものです。
消費の真の効果は、広告のメッセージ内容にではなく、この等価性にあるのであり、テレビやラジオといった技術的な媒体の力によって、バラバラにした世界を非連続的な組織的連続による矛盾のないメッセージへと仕立て上げ、(放送番組という)抽象的な次元の中で並置・結合可能な記号へとすることにあるのです。
私たちが消費するのは、特定のスペクタクルやイメージ自体ではなく、スペクタクルやイメージの(組織的)連続の可能性と、それらがあくまで記号のひとつとしてしか現れないという確実性なのです。
メディアはメッセージである
消費分析の基本として、マクルーハンの「メディアはメッセージである」を認めざるを得まえません。
メディアによって伝えられる真のメッセージ(無意識の底で解読され消費される)は、その明示的な内容ではなく、メディアの技術的本質(現実を等価な記号へと分解し連鎖させる)と結びついた強制的枠組み(schème)であるということです。
ベトナム(戦地)とミュージックホールが、抽象化によって移行可能なものになるという奇蹟です。
メッセージの組織的な並置的連鎖がメディアの言説の形態であり、それこそがメディアの真のメッセージ(「メディアはメッセージである」)となっています。
[詳細はマクルーハンの頁を参照。内容など何でもいい、問題は形式自体にある、というフォーマリズム的発想です。]
それ(メディアのメセージ)は、世界を切り貼り(デコパージュ)し、スペクタクル化し、誤認(メコネサンス)し、情報を商品として価値づけ、その内容を記号として礼賛する、というメッセージなのです。
つまり、メッセージ(内容としての)の消費のメッセージ(形式としての)です。
それは、条件付け(広告の意味での条件付け)と誤認(無意識の戦略的な「隠蔽せねばならない現実」の否定)の機能です。
マクルーハンは、印刷出版物の出現が文明の転換点であったのは、その情報内容の伝達によるものではなく、その技術的本質によってなされる根本的なシステムの強制によるものだと考えます。
印刷出版物の技術モデルによるコミュニケーションの秩序(印刷出版物の形式)は、コミュニケーションの明示的な言説内容(象徴、観念、幻想)よりも、長期的に広く深い変革をもたらします。
「テクノロジ-の効果は、意見や概念のレベルでは見えないが、感覚的関係や知覚モデルを無意識的に変化させる(マクルーハン)」。
コンテンツ(明示的メッセージ)はそのメディアの真の機能(明示的メッセージがそこから生じる深層的メッセージ)を隠しており、それは人間の関係の深部に生じる構造的変化(判断基準、モデル、ハビトゥス)をもたらすものです。
[ハビトゥス:無意識の知覚、思考、行動のパターン(性向)。]
テレビの「(真の)メッセージ」とは、それが伝える映像内容ではなく、それが課す、関係と知覚の新しい様式であり、伝統的な構造の変化なのです。
マスメディアの真の機能は、生きた、独自の、出来事としての世界の本質を中和し、均質で相互に意味づけ合い参照し合うマルチプルなメディアの世界に置き換えることにあり、これこそが消費社会の全体主義的な「メッセージ」なのです。
テレビというメディアがその技術的構成を通して伝えるのは、「意のままに視覚化でき、切り貼り(デコパージュ)でき、映像(イメージ)で読解可能な世界」という概念(イデオロギー)です。
それは、記号体系となった世界に対する読解体系の全能性というイデオロギーを伝えます。
テレビ映像は、不在の世界(現実)のメタ言語活動(ランガージュ)であろうとするのです。
イメージ/記号は、世界の徹底的な虚構化、現実を全面的にイメージに同化することを前提としています。
「イメージの消費」の背後には読解システムの帝国主義があり、ますます読めるもの(読まなければならないもの)だけが存在するようになりつつあります。
もはや世界の真実や歴史など問題ではなく、読解システムの内部的な整合性のみが問われることになります。
こうして、混乱と対立と矛盾に満ちた世界(現実)において、各種メディアはより抽象的でより首尾一貫した自己論理を押し付けます(マクルーハン的に言えば、メディアそのものをメッセージとして押し付ける)。
この記号のコードに従って断片化され、濾過され、再解釈された世界こそが、私たちが「消費」するものなのです。
世界のあらゆる物と文化は、産業的に加工された最終生産物、記号の用具となり、文化的であれ政治的であれ現実の出来事に基づく価値は消え去っています。
記号表現(シニフィアン、意味するもの)と記号内容(シニフィエ、意味されるもの)の混乱には二種類のものがあります。
一、記号表現の消失。
原始的な状態では、”記号表現が記号内容に取って代わられ”消失することがあります。
例えば、自分自身の像を別の生き物だとみなす子供や、映画の画面端から歩いて外に出て行った(フレームアウトした)登場人物に対し「その男はどこへ行ったのか?」と真顔で尋ねる未開民族。
二、記号内容の消失。
逆に、自己中心的なイメージやコードを中心としたメッセージでは、記号表現それ自体が記号内容となり両者の間に循環的な混合が生じ、”記号内容が記号表現に取って代わられ”消失し、記号表現の同義反復が残ります。
この第二の混乱が消費を、即ちマスメディアのレベルでの体系的な消費の効果を規定するものです。
(記号表現となる)イメージを媒介して(記号内容となる)現実世界に向かうのではなく、記号内容というアリバイ工作の裏で(記号表現となる)イメージが(記号内容となるはずの)現実世界を迂回して自らに回帰するのです。
記号内容を中心としたメッセージから記号表現を中心としたメッセージへと移行、イメージによって示される出来事からイメージそのものの消費へと移行するのです。
それは出来事とは異なる、スペクタクルな「料理のような(ブレヒト)」ものとして、消化吸収される時間で自らを消尽し、それ以上の何ものも示すことはありません。
[ブレヒトの言う「料理のような(culinaire dirait)」演劇とは、美味しい料理を食べるような刹那的な快楽と満足を与えるだけの、消費されるだけの芸術を指します。一時的な感情移入的陶酔を得るだけの受動的鑑賞。]
メディアは出来事の独自性(歴史的、社会的、文化的)を見出すことも理解することもなく、イデオロギー的構造かつ技術的構造に拠るコードによってすべての出来事を無差別に再解釈してそのまま消費者に提供するだけです。
ここでいうコードとは、テレビの場合、大衆文化のイデオロギー構造(道徳的、社会的、政治的価値体系)と、メディア自体の技術的構造(分節化とデコパージュの様式)のことであり、それはメッセージの多様で変化する内容を中和し、特定の言説性を押し付けます。
イメージの明示的な言説とは異なり、このメディアの深層的な言説性は、無意識のうちに解読されるものです。
広告メディア
広告は、個別のモノについて語りながら、事実上すべてのモノを礼賛するモノとマーク(商標)によって総体化された宇宙について語ります。
それは同時に、個別の消費者をターゲットに語りながら、事実上すべての消費者をターゲットに語ることでもあり、消費者の総体をシミュレートし、消費者を再部族化(マクルーハン)します。
[マクルーハンは、活字メディア(印刷技術)による情報の個別化が人々の脱部族化を生じさせ、その後、電子メディアの電子的相互接続が再部族化を生じさせると考えました。]
消費者は、広告のメッセージを解読することにおいて、それに組み込まれているコードに自動的に同意するよう強制されています(潜在的、無意識的に)。
広告の機能は、その内容、方法、目的(経済的、心理的)から生じるものでも、視聴者側から生じるものでもなく、自律的なメディアの論理、すなわち、現実世界と関わらず迂回し、ある記号から別の記号へ、あるモノから別のモノへ、ある消費者から別の消費者へと関係する自律的な論理から生ずるものです。
本(印刷メディア)も、読者をそれを読むすべての人に関係付ける場合(意味内容の理解ではなく、文化的共謀-complicité-関係の合図としての読書)、広告と同様のマスコミュニケーションの手段となります。
マスコミュニケーションは、現実世界によってではなく、メディア(媒体)そのものの論理に基き発信されるメッセージの体系的な生産によって規定されます。
[村上春樹を読む人は(潜在的に)ある種のサブカル部族に所属し、スタバのタンブラーを持つ人は(潜在的に)ある種の意識高い系部族に所属します。村上春樹もスタバのコーヒーも、面白さや美味しさより、ステータス(所属部族)の徴として消費する動機の方が強い商品(知らんけど)。]
疑似イベントとネオリアリティ
ブーアスティンの論じた、擬似イベント、擬似歴史、擬似文化の世界とは、流動的で矛盾に満ちた現実の経験から生ずるのではなく、コードの諸要素とメディアの技術的操作によって人工物として生産されたイベント(出来事)、歴史、文化、概念の世界であり、これこそがあらゆる意味作用を消費可能なものとして定義付けるものです。
[複製技術の発達(グラフィック革命)によって、「現実の事物」を「鮮やかなイメージ」が圧倒するようになり、現代人は現実的出来事よりもメディア(複製技術)によって作られた疑似イベント(疑似出来事)を現実として捉えるようになり、もはやそのような神話的世界の方が現代人にとってのリアルになってしまっているというのが、ブーアスティンの『幻影(イメージ)の時代』の主旨です。]
参照する対象を(現実ではなく)コードに置き換えるというこの一般化こそが、マスメディア的消費を規定します。
(交換そのものであり、交換の素材にはなりえない)生のイベントは、マスメディアという産業生産系全体によって濾過され、断片化され、再加工されて(工業生産に類似した)完成品となり、組み合わせ的な記号の素材になった時に「消費可能」になります。
これは化粧と同じ操作であり、現実の不調和な特徴を、技術的要素と(押し付けられた)意味のコード(美のコード)に基いた抽象的で一貫性のあるメッセージのネットワークによって組織的に置き換えるのです。
日常生活を浸食する、このような人工的・化粧的・擬似的モノやイベントを生産する巨大システムは、単なる”本物の内容”の歪曲や偽造や偏向などではなく、そのような次元をはるかに超えた(マスメディア的消費に拠る)意味の乗っ取り、政治の非政治化、文化の脱文化化、身体の脱性化(désexualisation)などをなすものです。
現実は、コード化された要素の組み合わせに基く「ネオリアリティ(新現実)」に置き換えられています。
日常生活のあらゆる領域で、(科学的なシミュレーションモデルに似た)大規模なシミュレーションプロセスが進行しています。
そのモデルは、現実の特徴や要素を組み合わせ、未来の出来事、構造、状況を「再現(jouer)」させ、そこから現実世界に対する戦術的な結論を導き出すことによって構築されています。
ここにおいて現実は抹消され、メディア自体によって具現化されたモデルによるネオリアリティが上書きされます。
真実と虚偽を超えて
広告はこのプロセスの重要な戦略上のポイントであり、広告はモノをイベント(出来事)へと変容させます(当に疑似イベントの典型)。
モノの客観的特性を排除することでイベントにし、モデルとなるスペクタクル的ニュースとして作り上げます。
現代の広告は単純な告知ではなく、ニュースと同質であり、両者とも同じ神話的プロセスに従うため、メディアにおけるそれらの連続と交替(例えばニュース番組)はむしろ自然に見えます。
両者は同じ好奇心とスペクタクル的没入感を生じさせるものであり、ジャーナリストと広告業者は神話的世界のオペレーターとなっています。
彼らはモノやイベント(出来事)を演出し、再解釈して提示し、究極的には意図的に捏造します。
したがって、客観的にいえば、ここにおいては神話のカテゴリーを適用しなければならないのです。
[消費社会における広告は、そのモノの使用価値を告知してももはや意味がなく(そんな基本的欲求は既に充足されている)、その商品が消費者の生活や人生に意味を与えるドラマティックなモデル(新たな精神的渇望を起動させ、自己成就的予言となるべき)となる必要があります。現代の広告は必然的にニュース(疑似イベント)と同じく、一種の神話(製品を取り巻く)を演出し提供する必要があるのです。]
ブーアスティンは、広告による欺きは、広告業者の良心の欠如によるものではなく、消費者が欺かれることを喜んでいるから可能になるのであり、誘惑したいという願望に誘惑されたいという願望が先行していると考えます。
しかし、このような真偽(つまり欺きの可能性)をめぐる倒錯(サドマゾ)的関係は、神話においては問題になりません(神話は真偽とは別の次元にある)。
実際には広告(および他のマスメディア)は、真実と虚偽を超越しており、欺くことなど不可能なのです。
ちょうどファッション(モード)が美しさと醜さを超越しているように、あるいは、記号的機能を持つ現代のモノが有用性と無用性を超越しているように。
「広告の技術は、真実でも虚偽でもない説得力のある言表を考案することにある(ブーアスティン)」のであり、それは本物や現実に基く検証とは関係なく、神話や呪文と同様に自己成就的予言に基づく検証を拠り所とするものです。
[予言的言説を信じた人々が、その予言内容が生じやすい状況を自ら作り出し、予言が現実と成る社会的現象が「自己成就的予言」です。詳細はマートンの頁を参照。]
「成功した広告業者は、新しい技術のマスターです。それは物事が真実であると宣言することによって、物事を真実にする技術です。彼は自己成就的予言の技術の信奉者なのです(ブーアスティン)」
広告は、学習でも理解でもなく、期待を提供する予言的言葉であり、その言葉は、先行する事実(対象の使用価値)ではなく、後行する追認(予言的言葉の事実確認)を前提とするものです。
広告の効果の様式とは、モノを疑似イベント(神話)に変え、消費者がその言説(予言)に従うことで、それが日常生活の現実のイベント(出来事)に成る、というものです。
ここにおいて、日常生活がシミュレーションモデルの複製(自己成就)となるのです。
自己成就的予言はトートロジー(同語反復)的様式であり、もはや現実はモデルの独白に過ぎず、いたるところで反復が効果的な因果関係を生み出しています。
この効果的な言葉から真実の「人工合成」が行われるのです。
広告の言説は説明や意味を提供せず、真偽の区別に関わりません。
それらは意味と証明を排除し、反復的な命令に置き換えます。
消費者は、ただ購買行動によって、神話的世界の出来事を聖別(consacrer)するだけです。
[カトリックが、単なる物であるパンやワインを聖別(聖なるものとして選別)することによって、宗教的世界に没入するように、消費者はその商品を選び所有(広告の予言の自己成就)することで神話的世界に没入します。]
広告に限らずあらゆるメディアを分析すれば、真偽に基づく意味と解釈の伝統的な論理は根底から覆り、モノの生産と同様、産業化された言説の生産に従う神話(あるいはモデル)自体が出来事(現実)と成っていることがわかるでしょう。
第三部二章につづく
