フロムの『正気の社会』(2)第五章前半

哲学/思想 社会/政治

(1)のつづき

第五章、資本主義社会における人間(前半)

一節、社会的性格

現代人の精神的健康を考察するには、先ず、社会的な条件が人間に及ぼす影響(いかなる社会様式が人の正気を助長し、また失わせるか)を研究しなければなりません。
この研究の際、特定の社会的状況下で生ずる平均的な人間の性格である「社会的性格」の把握が基礎になります。
同じ文化に属しながら互いに異なる「個性(個人的性格)」とは対照的に、「社会的性格」は同じ文化のほとんどの成員が共有する性格構造の核を指します。
社会的性格は、単なる統計的な概念ではなく、本質的な”機能”から理解するのもです。
いかなる社会も構造化されており、諸々の客観的条件(例えば、資源・技術・気候・人口・地理・伝統などに規定される生産流通システムなど)の要求を満たす特定の方法で運営されています。
社会一般というものは存在せず、具体的な方法で機能する特定の社会構造があるだけです。
社会の成員は、この社会構造に合致するような、それぞれの地位や所属集団に応じた役割に従い、行動しなければなりません。
「社会的性格」は、社会構造の要求するパターンに従う行動を無意識的に志向せざるをえない、かつその振る舞いに満足するよう働きかけるものです。
社会が継続的に運営されるよう、成員の動因とエネルギーを形成し、導くことが、「社会的性格」の機能です。

このように、人間のエネルギーを、社会の歯車を回すことに集中しなければ、現代の高度な産業社会は成立しません。
現代人は、自分のエネルギーのほとんどを仕事に費やし、規律や秩序や時間を厳守するよう訓練された人間として、形成されます。
個人の勤労意欲や勤勉さや意志などの意識による動機付け、あるいは脅迫や暴力などの外的強制としての動機付けでは、不十分です。
社会が必要とする努力を無尽蔵に引き出す、「社会的性格」という内的衝動が必要となるのです。

社会的性格の起源は、社会の経済的構造単一では理解することは出来ません。
個人も社会も主に生存を課題としているため、確かに経済的要素はある程度の優位性を持っています。
しかし、政治的、宗教的、哲学的なものが、単に経済構造に規定され生じる二次的な派生物という訳ではありません。
経済構造というひとつの極(物的・生理的)に対する、もうひとつの極(精神的・心理的)である人間の本性を考慮しなければなりません。
外部条件の性質と人間の本性の相互作用によって、人間社会は形成されているからです。
人間は外的条件に対する柔軟な適応力を有していますが、だからといって外部条件の操り人形だという訳ではありません。
人間に本質的な欲求(幸福、調和、愛、自由など)を動因として、それに適したような外部条件を生じさせる傾向もあるからです。

社会構造によって規定された社会的性格の内容は、家族という社会の代理的な機関によって、子供に伝達されます。
第一に、その文化の社会的性格を既に習得した両親の性格構造が子供の人格生成に影響を与え、第二に、その文化の慣習的な教育が、社会的性格に準じた方向付けを子供に与えます。

精神的健康を失っている現代人の社会的性格を生じさせている社会的条件を理解するには、資本主義的生産様式および産業化時代の「獲得社会(富の量-スコア-を崇拝し競い合う社会)」を考察する必要があります。

二節、資本主義の構造と人間の性格

A.17世紀と18世紀の資本主義

17世紀以降、西洋で支配的になった経済システムは資本主義です。
このシステム(資本主義)は変化してはいきますが、過去数世紀の歴史を通し残り続けている共通の特徴があります。
1. 政治的および法的に自由な人間の存在
2.自由人(労働者、被雇用者)が契約に基づき、労働市場で資本の所有者に労働力を売るという事実
3.価格の決定、および社会的生産物の交換を統制するメカニズムとしての商品市場の存在
4.個人は自己利益の追求を目的に行動すると同時に、その無数の個人の競争的行動によって、利益は最大化され、万人はその恩恵に与ると仮定する原理

17世紀と18世紀の資本主義においては、まだ中世文化の実践や考え方が残っており、経済行動に大きな影響を与えていたということです。
過度な値下げや宣伝によって他店から客を奪ったり、業界自体を衰退させるような方法で個人の利益を最大化したりするような貪欲な行動は、非キリスト教的で非倫理的であると考えられ、禁じられていました。
また、新しい機械の導入による生産性の向上は、人間を駆逐する有害なものと敵視されていました。
資本主義を警戒する、これら伝統的な考え方の基礎にあるのは、「社会と経済は人間のために存在するのであり、人間が社会と経済のために存在しているのではない」という理念です。
経済的発展も、社会の内の人々(いずれかの諸集団)を傷付けるのであれば、健全ではないと考えられていたのです。
ここには、社会の調和の維持を重視する伝統主義の理想が反映されています。

B.19世紀資本主義

19世紀には、伝統主義的態度は急速に変化し、ビジネスと生産によって、人間は中心から追い出され、もはや人間は経済の尺度ではなくなります。
資本家が利潤追求のために労働力を最大限搾り取り、無数の人々が餓死ラインぎりぎりにあったとしても、それは自然の法、社会の法に基く必然と信じられ、道徳的に正しいことであると考えらました。
経済的弱肉強食の法が支配し、資本家と労働者の間に連帯感はなく、同業者との間には競争的敵対が生じ、他者は搾取すべき存在となります。
各人が伝統的制限を取り払い、自由に自己の利益の最大化を目指すことによって、経済が発展し、ひいては全員の幸福に貢献するという資本主義の原則が、人々の指針となります。
しかし、皆、自分の利益に従い行動していると信じていますが、実際には市場と経済システムの見えない法則によって支配されているだけです。
資本家が事業を拡大するのは、自分がそうしたいと思っているからではなく、事実は、そうしなければならないからです。
カーネギーが述べるように、現状維持は退歩を意味します。
人は伝統的束縛から解放され自由に経済活動を為せるようになったのではなく、背後で働く経済法則に強制され、決定する自由を失っているのです。
現代では、市場の法則それ自体が生命を持ち発展し、人間を支配しています。
これは、科学技術の発展も同様で、現代の科学者は自分で問題を選べない状態にあり、問題自体が強制的に押し付けられ、急かされています。
原子力の発見から水爆の製造に至る過程は、科学者および技術者たちによって選択された道であるというより、人間を超えた背後にある、目的を持たず人間をその部品とする見えないシステムによって強制されたものと言えます。
この人間の無力さについては、後に詳細に述べます。

過去において、社会の富の分配は、基本的に「力(フォース)」によって決定されていました。
特定の階級(特権階級)が社会的産物の最良の部分を自分たちに割り当て、他の階級には重労働の下働きと僅かな残り物の生産物を割り当てる、権限を持っていました。
権力は、社会的伝統および宗教的伝統の下に実行され、精神的な力を持っていたので、物理的な力による脅迫は不必要であることが多くありました。
現代の市場は自己調整型の分配メカニズムであり、伝統的、意図的な計画に従い社会的生産物を分配する必要がなく、「力」を行使する必要性はなくなりました。
人々(労働者)は、伝統的な力とは無縁に、ただ生きるために自ら厳しい市場の条件を受け入れざるを得ないだけです。
彼らの信じている「自由」は幻想にすぎず、伝統的な権力に代わる、背後にある市場の法則による強制力に気付いていません。
しかし、資本主義的分配は、民主主義の基礎となる「個人」を主体にするという点で、伝統的階級に基づく分配に優ります。

資本主義社会は個人の「競争」を基礎にしており、人々は常に競争相手に勝ちたいという欲求に突き動かされており、社会秩序の中で与えられた伝統的地位の中で満足せざるを得ないという封建的態度を完全に逆転させます。
中世の社会的安定とは対照的に、前例のない社会的流動性が生じ、誰もが最高の地位を求めて奮闘します。
人生の最重要事は競争に勝つこととなり、この争奪戦の中で、人間の連帯という社会的、道徳的ルールは崩壊しました。
資本主義社会のもう一つの基礎は、すべての経済活動の目的および動機が「利益」であるという点です。
経済活動は、生業のためでも、社会的有用性のためでも、仕事に対する満足の為でもなく、投資的な利益の増大のためのものとなります。
また、その利益追求の動因も、資本主義の初期段階のような単純な資本家の金銭欲ではなくなりつつあります。
現在、所有と経営は分離されつつあり、資本家にとって重要なことは、資本の増大による企業の発展と拡張です。
所有が労力とサービスから切り離されるということは、労力を収入と交換するという人間の本質的な機能が失われるということであり、労力や奉仕(つまり仕事)なしに莫大な富を所有することや、抽象的に金を扱うことを可能にします。
資本や他人の労働によって、自らは何の労力もなしに利益を得ることができます。
資本家はこれを正当化するために、投資の際に背負ったリスクや、投資のための資本の貯蓄の努力を挙げますが、労力と所有の分離(いわゆる不労所得=労力なしの所有)という事実を正当化する何の理由にもなっていません。
労働者も同様に、所有と労力には何の相関関係もありません。
炭鉱夫の労力とリスクは経営者より遥かに大きいですが所有(所得)は遥かに小さく、医者と教師は同程度の社会的重要性と労力を有しますが所有には数倍の開きがあります。
資本主義における所得分配の特徴は、個人の労力や仕事内容と、それに対する社会的評価(つまり金銭的対価)とのバランスが取れていないことにあります。
それは時に道徳の範囲を逸脱するほどの格差(極端な贅沢と貧乏)をもたらします。
ここで問題となるのは、物的・経済的な不均衡以上に、道徳的・心理的な悪影響です。
ひとつは、人間の努力と技能が過小評価される点です。
もうひとつは、所得の程度は市場状況によって決定されるため、仕事(努力と技能)によって利益を得ようとする欲望に制限がかかり(仕事に対するモチベーションの低下)、その反面、所得が個人の努力と技能に依存しないため、無制限の欲望(市場のチャンスをつかむことで、個人の職能に限らず、誰でも億万長者になれる可能性がある、という期待)が生じてしまうという点です。

19世紀資本主義は私的な資本主義であり、私的な財産を貯蓄する快楽が、この時代の中・上流階級の基本的な性格のひとつとしてあります。
経済発展が進むとともに、この性格特性は後進的なものとなり、現在では中流階級下位のものとなっています。
性格学的には、所有や財産拡大の喜びはフロイトの言う「肛門性格」にあたり、私(フロム)が「貯蓄的構え(貯蓄的な方向づけの枠組み、hoarding orientation)」と呼ぶものです。
この構えの積極面を挙げれば、実践的、経済的、慎重、控えめ、用意周到、粘り強い、冷静、秩序正しい、几帳面、忠実、な点です。
消極面は、独創性の欠如、ケチ、疑い深い、冷淡、心配性、頑固、不活発、衒学的、強迫的、固執的、な点です。
18世紀、19世紀は、貯蓄的構えが経済発展に必要な要素であったため積極面が優勢でしたが、20世紀になると時代と噛み合わない遅れたものとなり消極面が優勢になります。

伝統的な人間の連帯の原則が崩壊したことで、搾取の形も本質的に変わります。
封建社会の君主は、臣民から金・物・サービスを搾取する神聖な権利を持っていましたが、同時に臣民を保護し最低限の生活水準を保証する義務を伝統的な慣習として負っていました。
封建的搾取は、人間的な相互義務の慣習によって、一定の制限をもっていました。
しかし、資本主義の搾取においては、資本家にとって労働者は商品にすぎず、いかに安く買い高く売る(つまり可能な限り低賃金で高い生産性を上げさせる)かの手段(労働力商品)でしかありません。
資本家に互恵性や義務の感覚はなく、賃金を払う(労働力商品を買う)だけの関係です。
労働者が飢餓に瀕していても、それは彼らの能力が劣っていた結果生じた自然の摂理(生存競争)、普遍、必然の出来事であると考えられます。
搾取はもはや個人的なものではなく、市場法則に基づく匿名のものとなったのです。
それは社会の鉄則であると考えられた為、個人には責任も罪もなく、誰もこの条件を変えることはできません。

20世紀には、上述のような露骨な19世紀的資本主義搾取構造は消滅したように見え、自由な雇用関係に取って代わりましたが、「人間が人間を利用する」という本質的な原理は変わっていません。
ある人間(雇用主)は自分の利益のためにある人間(被雇用者)を利用し、ある人間(被雇用者)はある人間(雇用主)の利益のために奉仕する、という関係です。
生きた人間それ自体は目的ではなくなり、他人の利益、自分の利益、あるいは非人格的な経済機構の利益のための手段となる、つまり人間は利益という目的のための手段に堕ちるのです。

ここで二つの批判が考えられます。
一、現代の資本主義においては、自由な契約としての自発的雇用であるため、被雇用者は利用されている訳でも、資本家の商品(労働力商品)である訳でもない、という批判。
しかし、事実上、彼らに既存の条件を受け入れる以外の選択肢はなく、嫌でも自発的に被雇用者となり、自分自身ではなく、資本の利益拡大のための手段とならざるを得ません。
二、原始共同体から社会生活の基本は協力であり、特に高度に産業化した社会においては、個々人が特定の機能を有する専門化した一種の歯車(社会という目的を回すための手段としての人間)にならざるを得ない、という批判。
しかし、社会協力とは、相互扶助に基づき自分の役割(機能)を果たす協力関係であり、「命令(雇用主が被雇用者に対し出す業務遂行のための命令や指示)」がその本質である訳ではありません。
実際、現代社会においても相互扶助に基づく協力関係と、命令に基づくものとが、混在しています。
例えば、親族関係や友人関係においては、相互扶助に基づき、互いに協力し、奉仕し合いますが、それは命令ではなく、愛情や友情などによる自主的で自然に発する努力です。

「人間による人間の利用」は、資本主義の根底にある価値観を表しています。
現在の生きた活力である労働を雇用しているのは、死んだ過去の資本です(資本の回転による拡大-過去の資本を投資し未来において増大させる-が資本主義の本質であり、人間はその回転のための手段にすぎないということ)。
資本は労働よりも高位にあり、蓄積された物体(資本)は生命の表現(労働)よりも価値があります。
すると、必然的に、資本を持った人間は、資本を持たない人間より高位にあり、命令する立場となります。
いかに人間力、活力、創造力(資本のような物的生産力ではなく、非物質の創造的生産力)などの人間的価値を持っていようが、資本持たない者は、ただの歯車にすぎません。
資本家と労働者の対立は、貧富の差をめぐる闘争などという単純なものではなく、「物とその蓄積vs生命とその産出性」との世界観の対立です(フロムの用語で言い換えると「非生産的構えvs生産的構え」)。

搾取と利用には、権威の問題が密接に関わってきます。
19世紀から20世紀にかけて、権威に対する態度は根本的に変化したため、先ずこの問題を考察する必要があります。
権威とは、財産(物)や身体的能力(性質)のように”持つもの”ではなく、一方が他方を自分より優れた者であるとみなす”人間関係”を指します。
権威には、合理的な権威と不合理な権威があります。
例えば、教師と学生の関係は合理的な権威であり、教師と生徒は同じ方向を向いています。
お互い「生徒の能力を伸ばすこと」が成功であり、失敗は教師のものであると同時に生徒のものでもあります。
それに対し、主人と奴隷の関係は不合理な関係であり、主人と奴隷の目的は相反的です。
主人をより豊かにするためには奴隷を搾取せねばならず、奴隷をより豊かしようとすれば主人の豊かさは減じます。

合理的権威の優位性は、権威に従う者を助ける為の条件であり、従者が努力するほど権威との距離は縮み、優劣関係は解消していきます。
心理的には、愛情、賞賛、感謝が優勢であり、従者にとって権威はひとつの模範です。
時と共に(従者が権威の立場に近付くにつれ)、心理的な結び付き(愛や賞賛)は弱まっていく傾向にあります(つまり自立)。
不合理的権威の優位性は、権威に従う者を搾取する為の条件であり、従者が努力するほど権威との距離は広がり、優劣関係は増大していきます。
心理的には、憎悪、敵意、怒り、恨みが優勢ですが、その感情は強い権威との争いをけしかけ、従者の心の内に葛藤を生じさせるものである為、「抑圧」あるいは反対にそれ(憎悪)を盲目的な賞賛の感情に「置き換え」ることになります。
盲目的賞賛へ置き換えることによって、葛藤と危険を生じさせる憎悪感情を取り除き、支配者を神のような必然的な優位者とすることとなり、屈辱の感情を和らげることができます(支配者が完全な者であるなら、それに従う私も恥ではない)。
時と共に(格差が強化されるにつれ)、心理的な結び付き(憎悪、または盲目的賞賛)は強まっていく傾向にあります(憎悪対象への心的囚われ、または賞賛対象への依存)。
勿論、これらは二つの極端な類型であり、現実には二つの権威の型が混在し、その比重によって多くの段階が生じています。

19世紀の社会的性格は、合理的権威と不合理的権威が混在しています。
資本の所有とその階層に基づく不合理的権威と、知性の所有に基づく合理的権威です。
19世紀の人々は、行動と価値判断の指針として「理性」を重視し、理性によって主体的に決定された信念を持つことを誇りに感じていたため、科学者、哲学者、歴史家などの知的権威を尊敬し従っていました。
理性による道徳および知的良心は、19世紀の人間の性格構造において最も重要な位置を占めていました。

19世紀と20世紀の社会的性格および資本主義の特質の違いを予習的に比較すると、以下のようになります。
【19世紀】搾取的・貯蓄的構え、個人的・競争的、公然の権威主義、個人の倫理、プライド
【20世紀】受容的・市場的構え、チーム的・共同的、匿名の権威(世論や市場)主義、集団倫理(適応と承認)、無力感

19世紀の人間の病理は、この社会的性格と密接に関連してます。
搾取的・貯蓄的構えは、人間の価値を無視し利益のための手段にし、人々を苦しめその尊厳を奪いました。
不合理的権威の圧制は、人間の自然な諸々の思想や感情の抑圧を生み、その結果、様々な神経症的病理を生じさせます。
このような社会的問題を解決しようとしたマルクスは、資本主義的搾取構造を壊し、人々の自由と尊厳を回復しようとし、フロイトは、不合理的権威による心理的な抑圧を治療的に開放することによって、精神疾患を減滅させようとしました。

20世紀アメリカでは、以前ほどの露骨な経済的搾取は無くなり、労働者階級も社会全体の経済発展の分け前を受け、しだいに極端な貧困は無くなっていきます。
労働組合の結成が一般化され、労働者は経営陣のパートナーとなり、尊厳を無視した奴隷のような扱いも少なくなっていきます。
職場、家庭、学校、軍隊など、権威関係は以前よりゆるやかなものとなり、尊敬や崇拝や憎悪や怖れなどではなく、平等の精神に則ったチームメイトのような繋がりとなります。
前世紀のタブーや抑圧も時代遅れなものとされ、むしろ禁止されていた欲望を解放した方が健康であると考えられるようになります。
19世紀の基準で見れば、アメリカ人は正気の社会(健全な社会)をほぼ実現していると考え、唯一の脅威はソ連のような残忍な権威主義および経済的搾取構造であると信じています。
それは初期の資本主義に似ており、健全さとして幼稚で劣ったものなのです。

しかし、これは欧米の19世紀の問題を解決しただけであり、普遍的な目で見れば、正気の社会など実現していません。
物質的繁栄や自由を獲得したにもかかわらず、現代(20世紀中葉)は精神的に病んでいます。
私たちは、奴隷を止めましたがロボットになり、暴力的な公然の権威から解放されましたが同調・適合を強制する匿名の権威に引き渡され、個人として権威との葛藤を経験しなくなりましたが自己の個性や信念や主体の感覚を失っています。
正気を実現するためには、19世紀の問題ではなく、20世紀の問題を認識しなければなりません。

C.20世紀の社会

1、社会的・経済的変化

現代西欧社会において、封建的性格は消滅しつつあり、資本主義の姿がより明確になってきています。
特に歴史が浅く封建的遺風の少ないアメリカでそれが顕著で、最も進歩的な形態としての資本主義があります。
封建的遺産には、明らかな否定的性質があると同時に、非常に魅力的な人間的性質を持っています。
アメリカに対するヨーロッパに批判は、主にこの人間的価値観に基づいており、それはヨーロッパに未だ封建的遺産が生きていることを示しています。
ヨーロッパとアメリカの違いは、資本主義の古い段階と新しい段階の違い、封建主義の混合比(つまり資本主義の純度)の違いにすぎません。
急速な技術の発展に伴い、人間の労働は機械によって置き換えられていきます。
仕事に必要なエネルギーの供給比率は、1850年には、人間15%、動物79%、機械6%でしたが、1960年には、人間3%、動物1%、機械96%となりました。
さらに機械の知能による自動化によって、生産工程に革新的な変化をもたらしています。
生産様式の技術的変化は資本の集中によって引き起こされるため、大企業が重要な位置を占めることになり、市場における資産の大半を彼らが支配することになります。
アメリカ(1933年)では、上位200の巨大企業が、全企業(約三百万)の富の約半分を支配しています。
また、上位1%の大企業が、国内全従業員の約50%を雇用しています。
反面、自営業者の数は著しく減少し、19世紀初頭は有業者の内の約5分の4であったものが、1870年には3分の1、1940年には5分の1となっています。
企業の集中に伴い、経営と所有の分離も進んでいきます。
一部の例外を除き、会社の規模が大きくなるほど、経営陣が所有する株式の割合は小さくなります。
現代の資本主義は、大量生産、大量消費の原理に基づき、19世紀の貯蓄と倹約志向とは正反対に、借金をしてでも消費に回るよう誘導されます。
労働者階級の経済的・社会的地位が向上したことによって、一世紀前には考えられなかったレベルの消費が可能になっています。

封建的要素の消滅は、不合理な権威の消滅を意味します。
神の意志や自然法則などによって先天的に与えられた(不合理な)特権によって、誰かに命令したり搾取したりする力はもはやありません。
誰もが自由・平等であり、命令や搾取に見えるものは、あくまで契約上生じる後天的で合理的な、労働やサービスの提供(売買)にすぎません。
合理的な権威(資本家)は、金で、命令される人々(労働者)の労働力という商品を買ったにすぎません。
しかし、この合理的権威も、やがて市場の原理(匿名の権威)に呑まれ、廃れていきます。
何が正しく何が間違っているかは市場が決めることであり、必要なのは、交換が公正であり、ものごとが上手く機能することです。

20世紀の人類は、生産の奇跡により、自然に与えられたものより何千倍も強い力を獲得しました。
それは同時に消費の奇跡でもあり、お金さえあれば誰でも何でも自由に買うことができるようになりました。
社会の上層にいる人も下層にいる人も皆、歩調を合わせて生産し、同じものを消費し、楽しみます。
封建制においては想像もできないくらい、皆が同じようなライフスタイルをもっています。
この時代において必要とされる(つまり20世紀資本主義に適合する)社会的性格とは、いかなるものでしょうか。
それは、集団内でスムーズに協力できる人間です。
より消費への欲求を持っており、好みが標準化されており、影響を受けやすく、予想可能な人間です。
権威や良心(内在化された権威)に服従せず自由独立でありながら、命令あるいは期待されることを自ら為すことで社会機構に順応する人間です。
どうして人間は、力によらず支配され、指導者なしに導かれ、社会的に機能するという目的以外の目的を何ももたないように行動することができるのでしょうか?

2、性格学的変化
a.定量化、抽象化

20世紀資本主義の特徴として、抽象化と定量化(数量化)が挙げられます。
現代の企業経営は、すべてを抽象的に定量化し、経済的過程を貸借対照表のように数字で計算可能なものとして、商売を進めます。
顧客も被雇用者も株主も、抽象的な数字に還元され、それに基づき、経済的決断が為されます。
品物とサービスだけでの交換は無くなり、すべて労働の抽象的表現である金銭の数量を媒介することになります。
事実上、農業従事者を除き、人は金銭を媒介とせずに数日生きることさえできない状況になっています。

社会の基本は分業であり、原始社会でも単純な分業がありますが、現代資本主義の分業は過去とは比べ物にならないほど細分化・複雑化しており、労働者は生産全体と関わる機会を全く持たず、小さなひとつの専門的な機能としてより特化・習熟していく存在です。
人間の労働とは、まだ機械によってはできない、あるいは機械では人より高くつくのでさせられない仕事を補完し全体としての機械を動かす、ひとつの小さな機械として働くことであると言えます。

定量化と抽象化は、経済生産の領域を超え、物、人、そして自分自身に対する態度にまで拡大します。
物事を抽象化する能力は、科学的思考の基本であり、それを失うことは、原始的な思考法に戻ることを意味し、人間にとって重要なものです。
人間が自己を対象に関係付ける方法には二種類あります。
第一は、その対象のすべての性質を備えた固有のもの(同一のものが他にないもの)として関わる”具体的”関わり。
第二は、他の対象と共通するひとつの性質のみを抽出、強調し、他の性質を無視する”抽象的”関わり。
基本的には対象をその独自性(全ての特質を考慮する全体性)において具体的に把握し、必要に応じて一般的なひとつの特質を抽出し抽象的に把握するのが、対象との関りの十全なあり方です。
しかし、現代西洋文明はこれとは反対に、対象との抽象的な関係を基本とし、具体性や独自性との関係付けをなおざり、あるいは無視するという方向に転換します。
もはや人間を含め、すべてのものが抽象化され、多様な質的側面は考慮されず、ただ一つの性質の数量的な側面のみが重視されることになります。
例えば、「100万円の時計」と言う時、その機能性や美しさなどの具体的な諸性質に関心があるのではなく、ひとつの経済的性質のみを重視し量的に表される交換価値に還元されます。
具体的(使用)価値は、抽象的(交換)価値よりも低いものとされるのです。
世界で最も美しい花であっても、それが野生の無料の花であれば、高額なバラの花より美しさを感じることができない、という逆転現象が生じます。
ガートルード・スタインの名句「バラはバラでありバラでありバラである」は、こういう抽象的体験への抗議です。
現代資本主義に生きる人間は、もはや売買する間だけ交換価値(抽象)のことを考えるのではなく、常態的に抽象的関わりにおいて対象と接することになります。
購入した自動車は、常に売却する時の価値を考えながら使用され、災害時には現地の人間の苦しみよりも被害額が強調されて報道されます。
人間も年収額や職業などの抽象的ステータスが前面に出て、その人のかけがえのない個性や心などの人間的性質は背景に追いやられます。
知識も信頼も愛も、すべて人格的な市場における交換価値をもつ数量化された資産としてとらえられます。

抽象化が進むとともに、具体的な関係付けのための参照枠は曖昧になり、溶けていきます。
原始社会において「世界」とは部族という枠組みを指し、文明の発展と共に、大陸→地球(天動説)→宇宙(地動説)へと拡大していきました。
枠組が広がり、輪郭がぼやけていくほど、中心や定位置を定めることが難しくなり、明確さや具体性は失われていきます。
いまや人間は、具体的な関係付けも持たず、軸となる中心も定位置も持たない、漂う塵のような存在となっています。
空間のどこかに価値を持って存在すること(自分の居場所)が困難になってきているのです。
見ることができ、触れることができる人間的な次元の枠組みはほとんど残されておらず、あるのは定量化された抽象概念のみです。
人口何百万人、国債何百兆円、星間距離数千光年など、人間は抽象を語ることに忙殺され、具体が見えていません。
具体的現実においては、人の頬を叩くことすらできない者が、ミサイルのボタン一つで抽象的数字である何万人もの人間を平気で殺すことができます。
科学もビジネスも政治も、人間的に意味のある基礎やバランスを完全に失っています。
私たちは数字と抽象概念の中で生きており、具体にも現実にも触れることはなく、もはや現実に依拠したモラルを持つことができず、おとぎ話のように何でもありの制限なき行動に走ります。
SF小説が科学的現実となり、悪夢や妄想とされたものが次の年には実現してしまいます。
人間は抽象化に忙殺され、自ら作った妄想に追い立てられ、精神的な錯乱の中で、人生や社会を建設的に作り上げていくための現実という土台からどんどん遠ざかっています。

b.疎外

●疎外の原理と偶像崇拝

抽象化は、資本主義が人格に与える中心問題である「疎外」の現象を導きます。
「疎外」とは、人間が自分自身を部外者として体験する経験様式です。
自分自身は世界の中心でも行為の創造者でもなく、行為そのものや結果が主人となり、彼の方がそれに服従あるいは崇拝するような経験です。
疎外された人間は、他人と直接触れ合うことだけでなく、自分と触れ合うこともなく、自己は自己にとって疎遠な存在となり、自分自身とも外界とも生産的な関係が持てなくなります。

「疎外(alienation)」という語の古い意味(15世紀初頭)は、「狂気」を指すものでしたが、ヘーゲルやマルクスによってもっと一般的な概念として使用されます。
疎外とは、「人間自身の行為が、人間に支配されるのではなく、異質な力となり、自身を超え出て敵対する(マルクス)」状態のことをさします。
これは旧約聖書の預言者が「偶像崇拝」と呼んだものと同じ構造をしています。
人間は自分の才能と努力を偶像に注ぎ込み作った後、その偶像を崇拝し、服従します。
彼の生命力は「物」に流れ込み、偶像となった物は、彼(創造者・主人)の努力の産物としてではなく、彼から離れた自立的存在として彼に敵対し、彼を服従させるもの(転倒した主人)となります。
偶像は、疎外された形で表された自分自身の生命力です。
偶像崇拝では、人間は自己の内にある一部の性質を投影したものにひれ伏し、その他の性質の無限の可能性を否定します。
彼の神(偶像)が無限の性質を持たない”物”であるのと同様に、彼も物となり、彼の隣人も物となるのです。

一神教も例外ではなく、その大部分が偶像崇拝化しています。
人間は自分の内にある力を神に投影し、それをもはや自分の力とは感じず、自分が神に投影したもののいくらかでも返してくれるように神に祈ります。
初期プロテスタンティズム的な態度とは、おのれを貧しくし、神が自分自身の性質の一部を返してくれるという恩寵に希望を抱き、信じる、というものです。
この意味で、あらゆる服従的崇拝行為は、疎外と偶像崇拝の賜物であり、「愛」と呼ばれるものの多くが、この偶像崇拝的疎外現象に他なりません。
人間は、自己の内にあるものを他人に投影し、その他人(愛する人)を最高の存在であると経験し、それへの服従と崇拝に満足を見出すのです。
それは、愛する人を現実において体験できなくするだけでなく、生産的な人間の力の担い手としての自分自身をも現実において体験できなくしています。
自分の豊かさを他人(偶像)に預け、その他人に服従することによってのみ、その豊かさの一部を引き出せるという構図です。
現代の全体主義も同じ構図であり、個人は自己の力と権利を放棄し、ひとつの独裁者や国家に投影し預け、疎外された個人がその偶像にひれ伏す、というものです。
ファシズムもスターリニズムも、偶像となる対象が異なるだけで大差はありません。

他人との関係だけでなく、自分自身との関係においても、疎外と偶像崇拝は生じます。
それは、人間が不合理な情熱に支配された時です。
その時、人は、自己の豊かさや無限性を体験せず、一部の欲求の奴隷となり、その欲求は外部の目的へ投影されます。
たとえば、金銭欲に憑りつかれた人にとって金銭は、その欲求の投影として偶像化されたものです。
神経症的人間とは、疎外された人間であり、彼は自分の意志したことを為していると錯覚しながら、その実、自己の背後で働く力に駆り立てられているだけであり、彼の行動は自分のものではないのです。
自己を無意識の力によって歪められたものとして経験し、自分が自分にとって他人となるのです。
狂気の人とは、”完全に”疎外された人間であり、経験の中心である自己を完全に失っています。

神の偶像化、人間の偶像化、国家や独裁者の偶像化、不合理な情熱が外在化されたものに対する偶像化など、様々な偶像崇拝において共通するのは、疎外の現象、つまり自己を豊かな性質や力の担い手として経験せず、外部に投影した(預けた)その力に依存し、自らは貧しい無力な物体であると感じてしまうことです。
現代社会における「疎外」は、人間の仕事、消費する物、国家、同胞、自分自身との関係など、ほぼすべての領域で見られます。
人間は、壮大な人工物の世界を創造しました。
自分たちが作ったマシン(機械)を管理するための複雑なソーシャルマシン(社会機構)を構築しました。
そして、いまやこの創造物は創造主(人間)を超え、反対に人間を支配するゴーレムとなり、人間は己を無力な隷属者であると感じます。
人間は、自分が創造したものの中に具現化された自分自身の力と対立し、彼は自分自身の所有権を失い、創造物に自分自身を所有されています。

●生産者(労働者・管理者・オーナー)の疎外

労働者は、産業の中で、経営の調子に合わせる経済的原子となり、居場所・動作・時間などすべてが規定通りに管理されます。
自由な思考や行動の権利が剥奪されるに従い、主体性、自己統制、創造性、好奇心などを失い、その人の人生は否定され、反復的で無思慮な労働だけが残ります。
その避けられない結果として、労働者側の逃避、闘争、無関心破壊性、精神的退行が生じます。

管理者(manager)も労働者同様、疎外された状況にあり、人間でない巨大な経済システムの奴隷となっています。
市場、競争相手(企業)、消費者、政府、労組、株主などの顔をうかがいながら行動している(させられている)にすぎません。
組織が巨大で分業が極端になるほど、管理者は感情を殺し、人間(被管理者)を数字や物として扱わざるを得なくなり、管理者の”官僚化(役人化)”が生じます。
集団の成員個々人に有機的で自発的な協力関係が存在しないため、集団の維持に官僚的管理者は必須です。
個々バラバラの原子である成員は常に無力感を抱えているため、まるで官僚を聖職者のように尊敬しているのです。
中世で神の意図した秩序を個々人に与えてくれた聖職者と同じ地位を、現代は官僚的管理者がもっているのです。
官僚化した組織、つまり疎外のシステム無しに巨大な組織を支えることはできなくなっています。

企業のオーナー(所有者)である資本家も、彼ら(労働者、管理者)と変わらず、疎外された状況にあります。
企業が大きくなると、所有と経営が分離され、価値の変動する紙切れ一枚(株)がそれをつなげるものとなり、オーナーは企業に対し具体的関係を持つことはありません。
企業に対する株主(オーナー)の態度は以下の七点にまとめられます。
1.かつてのオーナーは、自らが経営の方針を決定し責任を持って積極的に関わった物質的財産を所有していましたが、現在のオーナーは、企業に関する権利と期待(企業の成長=株価上昇)を表す紙切れ(株)を所有するにすぎません。
2.かつては所有権に付随していた精神的な価値が切り離されます。所有者が物質的財産を作り出すことは、収入だけでなく精神的な満足を与え、財産は彼のパーソナリティーの延長として感じられていましが、現在の所有者(株主)は、この直接的な所有の満足を得ることは出来ません。
3.富の価値が自分の努力から離れた力(企業を直接指揮する人間、気まぐれな市場、他の株主の行動など)に依存することになります。
4.個人の富の価値は絶えず動揺し、その評価額の変化を常に見ることができるため、富の使用に際し、その不安定性が著しい影響を及ぼします。
5.個人の富の流動性が高くなり、所有者は富を即座に他の形態の富に変換することができるため、リスクの回避が可能になります。
6.富自体の(自然の性質に拠る)価値に基づく使用が不可能になり、市場での販売を通してのみ価値を持ち使用が可能になります(例えば私は自動車製造会社の株を保有していたとしてもその車を運転する事はできない)。
7.富の所有は象徴となり、所有権に対する直接的な責任・権力・実質に触れることは出来ず、所有物(企業)に対する支配力を持つことができません。経営者を選ぶことはできますが、各々の持ち株が少額である(つまり所有が分散している)為、株主総会での影響力も分散し、所有者個人の力は限定的なものとなります。

●消費者の疎外

消費者も、彼ら(労働者、管理者、オーナー)と変わらず、疎外された状況にあります。
金銭は極めて抽象的(一般的)なものとなり、金銭さえあればどんなものでも手に入れることができるようになります。
本来、物を獲得・利用する際、その獲得物と質的に見合った努力や能力が必要ですが、疎外はこの獲得と利用のつながりを分離します。
私は金銭によって何の絵心もなく美しい絵画を獲得することができ、その場で破り捨てることもできます。
金銭さえあれば、あらゆるものを手に入れることができ、それを好きなように処す権利を与えられます。

もし私が旅行するための貨幣をもっていないとすれば、その私は、旅行しようという要求をもっていないわけだ。すなわち、現実的な、おのれを実現するような旅行要求をもっていないわけである。もし私が勉学の適性をもっているけれどもそのための貨幣をもっていないとすれば、私はなんら勉学の適性をもっていないわけだ。すなわち、なんら効果的な、真の適性をもっていないわけである。反対に、もし私がほんとうはなんら勉学の適性をもっていないけれどもその意志とそして貨幣とをもっているとすれば、私は勉学のための現実的適性をもっているわけである。貨幣は、表象を現実に、そして現実をたんなる表象にする手段と能力~外的な、つまり人間としての人間からくるのでない、社会としての人間社会からくるのでない、一般的な手段と能力として、一方では人間および自然の現実的な本質的諸力をたんに抽象的な諸表象へ、それゆえに諸不完全へ、苦悩に満ちた妄想へ転化させるとともに、他方では現実的な諸々の不完全と妄想、個人のほんとうに無力な、ただ彼の想像のなかにだけ現存しているような本質的諸力を、現実的な本質的力および能力へ転化させる。すでにこの規定からいっても貨幣は、こうしてまったく諸諸の個性の全般的転倒であって、これらの個性をその反対のものに転じさせ、彼らの属性に、矛盾するような属性を付与する。
それからまた貨幣は、個人にたいしても、それ自身本質であると主張する社会的等々の絆にたいしても、この転倒する力として現われる。貨幣は誠実を不誠実に、愛を憎に、憎を愛に、徳を悪徳に、悪徳を徳に、下僕を主人に、主人を下僕に、愚鈍を分別に、分別を愚鈍に転化させる。貨幣は、価値の現存し活動している概念として、すべての事物を混同し取りかえるのであるから、それはいっさいの事物の全般的な混同と取りかえ、つまり転倒された世界であり、すべての自然的および人間的な性質の混同と取りかえである。勇敢を貨幣で買うことのできる者は、たとえ彼が臆病であっても、勇敢なのである。貨幣は、ある特定の性質、ある特定の事物、特定の人間的な本質的諸力とではなくて、人間的および自然的な全対象的世界と交換されるのであるから、したがって貨幣は貨幣の所有者の立場から見るならあらゆる属性を それと矛盾するようなものもふくめてあらゆる属性および対象と、交換する。貨幣は、できぬ事どうしの結合であり、矛盾しあっているものどうしを無理やり接吻させる。人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提したまえ、そうすれば君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、等々というように交換することができる。もし君が芸術を享楽したいと思うなら、君は芸術的教養のある人間であらねばならない。もし君が他の人間たちのうえに影響を及ぼそうと思うなら、君は他の人間たちのうえにほとんうに刺激的促進的にはたらきかけるような人間であらねばならない。君の、人間にたいするそして自然にたいする関係は、いずれも、君の現実的な個性的な生の或る特定な、君の意志の対象に照応するような表出であらねばならない。もし君が愛して、しかも返しの愛をよびおこさないとすれば、すなわち、もし君の愛することが愛することとして返しの愛を生みださないとすれば、もし君が愛しつつある人間としての君の生の表出によって君自身を、愛されたる人間にするのでないとすれば、君の愛は無力であり、一つの不幸である。(マルクス著、藤野渉訳『経済学・哲学手稿』大月書店)

獲得の面だけでなく利用の面から言っても、もはや私たちは、ただ持たんがために、利用しないものを持って満足するという疎外状況にあります。
壊れるのを恐れ使わない高価な食器や、碌に乗りもしない高級自動車、一生開かれることのなく本棚を飾る文学全集、見せびらかしのための大型テレビ・・・。
人々が味と栄養を除外した精白パンを好んで食べる時、それは味と栄養という本来のパンとしての利用ではなく、実物との接触を失った「白さ」の中にある”新鮮さ”と”高貴さ”という幻想を食べているのです。
現代社会において、消費されるものの多くは、実用ではなく、広告キャンペーンによって作り出された虚構を消費するためのものです。
ある人気の清涼飲料水は、味覚によって飲まれているのではなく、大部分が抽象観念(”爽やかさ”や”青春”の広告イメージ)として飲まれています。
本来、消費行為は、有意義で人間的で生産的な経験であるはずです。
具体的に知覚し、感じ、判断する人間としての私が関与していなければなりません。
しかし、現代の消費は、それとは正反対に、人工的に刺激された幻想の満足であり、自己や具体性から疎外された幻想の行動なのです。

私たちは、もはや消費する対象の性質も起源も原理も知らず、具体的な関係付けを持たぬまま、上辺の操作方法だけを学び
消費するだけです。
現実的で具体的な形で対象を消費することができなくなると、必然的に深い満足を得ることができなくなり、人は絶えず何かを欲しがり、ますます消費を求めるようになります。
本来、より良いものをより多く消費したいという欲求は、人間により幸福な生を与えることを目的とするもので、消費は幸福という目的のための手段にすぎません。
しかし、今は消費そのものものが目的となり、欲求は際限なく増大し、ますます努力する必要が生じます。
人は、より良くより新しくより多くのものを購入したい消費したいという強迫的な欲求に支配され、もはや対象を具体的に楽しむことは関係が無くなっています。
買う事の楽しみに比べれば、使う事の楽しみは二次的なものなのです。
販売者は消費者に新たな欲求と快楽を喚起し、新たな依存関係を構築し、経済的破滅に導こうとします(つまりむしり取る)。
消費対象が増すにつれ、消費者を服従させる外的存在は巨大になっていきます。
貯蓄的構えにあった所有物への愛着はもはやなく、人は買ったものの新しさを愛し少しでも古くなったものは躊躇なく捨てます。
「貯蓄的構え(方向付け、態度)」は、常に新しいものを呑み込むために口を開けて待っている「受容的構え」に変化するのです。
19世紀は貯蓄的構えと搾取的構えが混ざり、現代(20世紀中葉)は受容的構えと市場的構えが混ざり合っています。
【ミニ解説】
フロムは五つの性格傾向を類型化しています。
A.生産的構え(Productive orientation)…第三章二節を参照
B.非生産的構え(Nonproductive orientation)
-B1.受容的構え(Receptive orientation)…欲するものを受動的に待つ
-B2.搾取的構え(Exploitative orientation)…欲するものを能動的に奪い取りに行く
-B3.貯蓄的構え(Hoarding orientation)…所有物(物、知識、感情など)を溜め込み保存する
-B4.市場的構え(Marketing orientation)…常に事物を市場的に評価する
【解説おわり】

余暇もまた、商品を消費する時と同じように、疎外され抽象化された形で消費されることになります。
市場によって巧みに操られた興味を受動的に持つだけであり、私が余暇に何かをしたいと思う時、それは事前にそう条件づけられているものです。
広告によって流行のスニーカーを自分の意志で買わされるように、余暇のスポーツや読書やパーティーや登山を買わされるのです。
自発的な興味による行動であれば、読書や登山や社交などを通して、私の内に何かが起こり、その経験の前後で私は変わります。
しかし、受動的に与えられた消費としての余暇は、単なる暇つぶしであり、私を変化させる経験値を与えず、生産的でもありません。

●社会を変える力からの疎外

私たちは、社会およびその中での人々の生活を規定する”社会的な力”からも疎外されています。
社会を規定する法則が、政治権力や伝統に基づく明示的かつ安定的なかつての社会とは対照的に、資本主義には明示的な法則は無く、市場における個々人の利益追求と競争の背後にある見えない経済法則によって、公共の利益や秩序が生じています(資本主義は独立した経済単位の自由な競争と協力によって、全体として秩序を保ちながら絶えず発展する)。
資本主義においては”社会的な力”は匿名であり、私の意志によっては変えることのできない、半ば運命的なものとしてあります。
この無力さは、経済恐慌や戦争などの社会的破局において顕著にあらわれます。
私たちは匿名の法則の奴隷であり、巨大な国家と経済システムは、もはや人間によって制御不可能になっています。

●仲間からの疎外

現代人は仲間とも疎外的関係にあります。
それは具体的な人間としての触れ合いではなく、抽象的記号としての関係性であり、万人は万人にとって商品のようなものとなります。
愛情や憎悪のような強い感情は少なくなり、穏やかな親密さや誠実さが優位となりますが、それは利益になるかどうかではかられた眼差しによるものであり、むしろその根には距離と無関心があります。
現代の大規模な性の解放は、異性間において失われた深い愛情を、性的快楽によって代替しようとする必死の試みです。
人間は社会的絆を失い、原子のような個人が利己利益や利用の必要性に応じて結合する分子のような関係性でつながっています。
人間は社会的な存在であり、独りではなく助け合い、仲間と共にありたいという強い欲求を持っています。
しかし、「個々人が互いに競争し利己の利益を追求することで、全体として成長し、皆がその恩恵に与る」という資本主義の法則下では、個人的領域において利他的関係を優位に置くことは出来ず、他者に対する親切や慈善は、あっても二次的なものとなります。
その代わり、その仲間を求める欲求は、個人的領域から分離した社会的領域で、疎外的に充足されることになります。
私的生活では隣人に一万円も援助しない人間が、同じ制服を着た兵隊(公的生活)になるとその隣人のために命をかけるという現象が生じます。
私生活では孤独と対立に悩まされている個々人が、社会的欲求を充たすための投影対象、偶像として「国家」は機能しています。
それは私生活と社会生活を矛盾するものとして分離することから必然的に生ずる疎外的状況です。
私的存在と社会的存在を矛盾・分離させず、合一する社会を作り、人々が社会的力を自身の内に取り戻した時にのみ、国家崇拝は消滅します。

●自己からの疎外

他者だけでなく自分自身に対しても疎外的関係にあります。
先に「市場的構え(Marketing orientation)」と述べたもので、自身を活動的な主体、力の担い手として感じず、市場で販売される商品のように経験します。
市場で自分自身をうまく売り込むことが目標となり、自己感覚(自己が自己であるという感覚)や自己の存在価値は、考えたり愛したりする主体ではなく、人間的性質から疎外された、社会経済的役割における地位(抽象的記号、ステータス)から生ずるものとなります。
“Who are you?”と問えば、モノは「私はフォードの自動車です」と答えるでしょう。
人間も同様に、私の本質を「私は大学病院の医師です」というように、抽象的記号の集積として経験しています。
私の身体も思考も心も資本であり、人生における使命は、それを有利に投資し、利益を得ることにあります。
親しみやすさ、礼儀正しさ、親切さなどの人間の性質も商品であり、「個性の詰め合わせ」という資産に変換され、パーソナリティー市場での高値を約束します。
人間の価値は、人間とは無関係の要因、市場の気まぐれによって変動する価値に依存します。
パーソナリティーも、商品と同じように、使用価値(そのものが本質的に持つ価値)よりも交換価値(市場価値)が重視されるのです。
いかに人間的に素晴らしいパーソナリティーを持っていても、それが市場価値を持たないなら無意味なものとされる為、人々は市場で高く売れる個性を自ら身に付け、自ら良い商品となり、自身を有利に投資し、成功者に成ろうと躍起になります。
「自己感覚」は、私の”経験・思考・感情・決定・判断・行動”の主体的経験から生じますが、これらから疎外され、私の人格が市場のニーズに応える商品となる時、物に自己がないように、物となった人間は自己の感覚は持てなくなります。
つまり自分自身が唯一無二の存在であるという感覚を失わなければなりません。

精神科医のハリー・スタック・サリヴァンは、むしろこれが人間の自然な在り方だと考え、自己意識の欠如を病的だと考える学者の方を妄想的な人間だと考えます。
彼にとっての自己とは、他者との関係において私たちが演じるさまざまな社会役割、承認を求め不承認を回避する機能を持つものに外ならず、人間は玉葱の皮のようなものであり、様々な社会的記号を剥いていけば中身(本当の自己)など無く、皮そのものが自己であるというわけです。
しかし、問題はこれより深いところにあります。
玉葱の芯の虚無に出会いそうになる時、つまり自己感覚やアイデンティティを失いそうな時、人はこの狂気をもたらす破局を逃れようと、二次的な自己感覚にすがって救われようとします。
自分自身が社会的な抽象的記号として承認され、価値があり、成功した、有用なものであるという経験によって、自己を疑似的に取り戻すのです。
自分が社会に適合した模範的な型として見られること、自分を売れ行きの良い優秀な商品だと見られる経験によって、自己の感覚と存在価値を代替的に得ようとするのです。
玉葱の皮が本体なのは、現代社会のシステムが、あるべきはずの中身を喪失させている疎外のシステムだからであり、それ(玉葱の皮=人間)が人間の自然(本質)な訳ではありません。

●現実(自然世界)からの疎外

現代の社会生活は規格化・ルーティン化され、人間存在の根本問題を自覚することを抑圧します。
為すべき多くの仕事をより効率的に処理するために、社会秩序、個人的慣習、社会的習慣、概念などを構築し、スムーズに社会生活を営むこと、つまり自然の世界の上に人工的な世界を構築することが、文化の特徴です。
しかし、人間は自己の存在の根本的事実と出会い、孤独と切れ切れの個性(抽象化によって捨象されていない混沌かつ豊穣の個性)という悲劇を自覚すると同時に、それを克服する愛と連帯の高揚を経験することで、はじめて自己を満たすことができます。
もし、人工の世界しか見えなくなり、世界そのものとの接触を失えば、その人は永久に自己の理解と満足を得ることができなくなります。
芸術と宗教は、ルーティン化された人工世界から存在の根本的現実の世界へと向かわす水先案内人の機能を果たしていたわけですが(例えば、祭事におけるギリシャ悲劇の上演)、現代ではそれ(芸術、宗教)ら自体もルーティン化に取り込まれその力を失っており、ごく限られた原始的で部分的な面でのみ機能しています(例えば、競技スポーツ観戦における代理的な戦闘体験)。
火災や事故の現場の野次馬や、殺人事件の推理小説の読者、センセーショナルな描写の映画の鑑賞者など、これら多くの人々の動機付けは、単なる悪趣味や煽情的興奮で片付けられるものではなく、生と死、罪と罰、自然と人間との戦いといった、人間存在の根本的現象と接触したいという強い要望にあります。
しかし、人工世界である日常を突き破るギリシャ悲劇などとは異なり、現代の芸術は慣習(社会)や習慣(個人)の、つまり日常の枠内に留まる皮相的で貧弱なものであり、本質的な問題(人工世界に幽閉される現代人)を解決する力(現実世界との邂逅)はありません。

●人生からの疎外

現代人の主要な動因は交換の要求(need)です。
アダム・スミスは、交換の要求を、人間の本質的な性質のひとつだと考えました。
交換は原始社会から存在していますが、資本主義社会における人間(市場的構え)にとって、いまやそれ(交換)自体が第一の目的となっています。
経済的な目的のための単なる手段である交換が、その合理的な機能を失い、それ自体が目的となり、経済的手段という役割を超え、他の領域まで覆い尽くしていきます。
交換への愛着と所有への愛着は表裏一体であり、人は機会があり次第売る(交換)つもりで買う(所有)のです。
対人関係の領域においても交換が第一の動因となり、恋愛も多くの場合、人格市場における自分と相手の価値を考慮して、期待できる最大限のものを得ようとする、二人の人間の間の好都合な交換に他なりません。
各人は、諸々の交換価値(容姿、学歴、収入、将来性など)が詰め合わせられたひとつの包みです。
自身が自身のパーソナリティー(包み)のセールスマンとなり、少しでも値の高い包みと出会い、利益の出る取引を成立させることが目的です。
友人も習慣も感情も思考も、より多くの利益を出すための交換として、次々と新しいものへと変更されます。
交換の要求は人間固有の本質的な性質というより、現代人の社会的性格固有の抽象化と疎外の産物(症状)だとも考えられます。
生活の全過程が、資本投資のように経験され、私の生命と私の人格は投資される資本となります。
私たちは、スーパーで肉を買うにせよ、劇場でコンサートを観るにせよ、講義を聴くにせよ、デートをするにせよ、その対象や経験を金銭的に定量化し、自分の支払った金額以上の価値があるか(つまり投資に成功したか)どうかを、常に気にかけています。
時間も金銭に還元されるため、友人との会話のようにお金を使わない経験も投資だと考えられ、払った時間に値するものかどうかを値踏みします。
自己の資産(時間、労力、容姿、健康、感情など、金銭的に定量化されたあらゆるもの)の有利な投資であるかどうかの損益計算式によって、行動の根拠が正当化され、決定されます。
例えば、散歩は「楽しみ」ではなく、「健康という資産への投資」として動機付けられます。
ひとつひとつの行動において心の中で帳簿をつけ、投資利益の大きい方が価値あるものとして選択され、人生全体がビジネスに似たものとなります。

このような構えで生きる時、必然的に「人生は生きるに値するか(生きる値打ちがあるか)」という問いが、その人の内に起こってくることになります。
企業と同じように、人生にも「成功」と「失敗」という概念が生じ、人生の貸借対照表によって、その人の人生の値打ちが計られることになります。
この人生を事業のように捉える生き方は、欧米での自殺の急増の原因の一つになっています。
「私の人生は失敗だった」「人生はもう生きるに値しない(これ以上生きていても仕方ない)」という感情は、損失が利益を上回り、損失を取り戻す見込みが無くなった時に生じる人生の破産宣告であり、企業が倒産するかのように人は自殺するのです。
しかし、人生を企業経営と同一視することは極めてナンセンスであり、それは特異なひとつの構え(生き方の指針)にすぎません。
人生を定量化し値付けすることなどできず、人生の目的も経済的価値だけに限らず全方向に広がっています。
そもそも、人生を貸借対照表として捉えるなら、人は必ず老いていき死ぬため、人生は負け確定のゲームであり、生きるに値するかどうか計算するまでもありません。
その一方で、愛する人との幸せなひと時や、晴れた朝に散歩したり、深呼吸して新鮮な空気の香りを感じる喜びが、人生に含まれるすべての苦しみや努力に値しないとは誰にも言えないでしょう。
人生はかけがえのない贈り物であり、挑戦であり、他のなにものによってもはかることはできないものです。
「人生は生きるに値するか」という問いに関して、賢明な回答などありません。
そもそも、その質問には何の意味も無いからです。

 

第五章後半につづく