<第四部、自由>
行動の条件
行動の本質は志向的であるということです。
欠如(満月と半月)の認知と、それを充たすための意識的な企てを、実行したものです。
たばこの不始末で火事を起こしても行動したことにはなりませんが、予定通り火をつける放火犯は行動したことになります。
未来の目的として描かれた状況に照らして現在の状況を見る時、はじめて欠如というものの認知が生じます。
この欠如の認知がなければ、どんな悲惨な状況でも、単なる状況にすぎません。
だから行動の基本としては、1.いまだあらぬものとして理想的な状態を立て、2.それと比較して現在の状況を否定する、必要があります。
ひとつの行為は、このあらぬものへ向かっての投企、および欠如を生成させる対自の無化作用を条件にしています。
要するに、あらゆる行動の条件は、人間の自由です。
情念も自由によるもの
これら条件は意志的な行動に限ったことではなく、心的なもの全体に関わるものです。
自由は意志においてだけでなく、情念においてもあらわれます。
例えば、ある脅威に遭遇した時、抵抗し闘う者は意志的であり、逃げ出す者は情動的だと言われますが、根本的には、どちらも同様に自己の定立した目的に照らして行為決定しているだけです。
意志も情動も根拠は同じ自由であり、逃げ出す者も、事前に身の安全を第一にした自己の未来の目的、自己の世界観に沿って動いているにすぎません。
一般に言う意志的な行為というものは情動に比べて、状況を技術的、客観的に捉えるだけであり、根本的な部分で違いはありません。
情動の直接的な様相を選ぶか、意志の間接的(客観的)な様相を選ぶかは、そもそもが対自の自由な自己投企なのです。
恐怖に際してすぐに失神するような直接的で逃避的なあり方を志向するのは、私自身の責任であり、情念の所為などではありません。
自由のありか
例えば、友人と山登りに出かけ、私は途中でくじけて座り込んでしまったとします。
「次の休憩所まで我慢して歩くこともできただろう」と思われるかもしれません。
しかし、私は私の世界観を構成する企ての全体を変更せずに、別様に行うことはできなかったはずです。
疲労はただの身体の状態であり、それだけでは私の決定を生じさせることはできません。
登山家の私の友人は、むしろこの疲労を愛し、登頂にいたるまでの心地よい疲労(熱い風呂に入るような)として、克服していきます。
それに対し私は、この疲労、困難は、耐えるに値しないものとして自分の世界内に位置付け、座り込みます。
山の征服者となることを企て、その未来に合致しようと行動する彼と、レジャーや気分転換などの企てで登っている私とでは、その道のりの意味は全く異なっています。
そもそも根源的な企てが彼と私では違っており、私が座り込むことを拒絶できるのは、この企ての突然の変様、私の「世界-内-存在」の全面的な転換によってのみです。
自由というものはこの投企(企て)においてあるのであり、私が座り込むか歩き続けるかなどという行為の末端にあるものではありません。
人は末端のみ見て、行動の可能性を制限された監獄の囚人を不自由だと言いますが、囚人はシャバと変わらずに自由です。
囚人はいつでも脱獄を企てることも、刑務官に取り入り刑期を短くするよう企てることも可能です。
自由とは、「自分の欲したことを何でもできる」ということではなく、「自分の欲することを自分自身で決定する」ということです。
人間はいかなる状況であれ、自由であることをやめる自由はないのです。
自由へと呪われているのです。
状況とは何か
自由を否定する人々は、事物や状況による抵抗を挙げます。
しかし、私の行動に対し抵抗してくるものは、事前の私の企てによって生じてくるものでしかありません。
山の向こうへ行こうとする行商人にとっては、山は障害ですが、登山家にとっては絶好の環境です。
私の人生が逆風(抵抗)ばかりで私が劣等者であるのは運命などではありません。
状況を逆風にするのは私の投企であり、環境そのものには順風も逆風もなく、ただ私の針路、帆の立て方の問題です。
優等・劣等も同じく私の投企の問題です。
偶然、私の人生に与えられたものは、対自の自由が未来の目的の光に照らして彩色する基底材のような、単なる充ちた存在にすぎません。
この彩色され、意味付けられた状況(対自を取り巻く事物の様態)は、順風の部分、逆風の部分があり、私の世界観を描き出します。
即自の偶然性(与えられた基底材)と、それを彩色する対自の自由は、共同で私の「状況」を生み出すのであり、自由(対自)と即自の分担幅を分けることは不可能です。
自由は状況のうちにしか存在せず、状況は自由によってしか存在しません。
自由でない状況など存在しません。
私の状況が抵抗や障害だらけだとしても、それは自由が自己の企てによって照らし生み出したところのものでしかありません。
隣人と生きる
私の自由な企てが与える意味以前に、諸々の事物(道具的)には、既に隣人によって意味が担わされており、私はその世界に拘束されています。
街路、掲示板、汽笛、ラジオ等々、世界は私に対し、様々な意味を語りかけてきます。
私が人の世に所属するということは、この意味作用の共有です。
例えば私は、言語を使用することにおいて人類(人間)に所属し、日本語を使用することにおいて国籍(日本)に所属し、方言や職業用語を使用することにおいてさらに細かなカテゴリーへ所属します。
私(対自)は自らの投企(企て)以前に、その基底材として他者によって他有化された世界の意味の中にいるのです。
世界は全方位、すでにまなざしが向けられ、探索され、道が引かれ、耕されたものとして与えられます。
この隣人の存在は、私の自由に対してひとつの限界を与えようとします。
私がユダヤ人であったり美男子であったり障害者であったりするのは、隣人たち(社会や文化)が与えた意味であり、私がこれを直接的に捉えることは不可能であり、変えようとしてもどうにもなりません。
私の自由のひとつの限界は、他人が私を対象としてとらえるということ、私の状況は他人にとっては状況ではなく対象的な形態に変わってしまうということにあります。
私の自由の制限は、「私の自由は、自由であることをやめることができない」という内的有限性と、「他者の自由は、自由に私の自由を把握する」という外的有限性にあります。
私(対自)はそもそも何者でもありません。
ユダヤ人でも教授でも美男子でも障害者でも高貴でもありません。
それらは私には直接把握できない、実感されえないものであり、私はこの無数の「実感されえないもの」に包囲されています。
その内のあるものは、特に合致せぬもの(不在)としてあらわれ、私を苛立たせます。
しかし、私の自由は、他人によって限界づけられたこの自由(実感されえない限界)を、自ら選び取ることによって自己の責任において取り戻し、私の状況のうちに組み込むことができます。
【解説】
生まれ落ちた瞬間は何者でもない無垢な存在であった私は、他者たち(社会)によって、生物学のカテゴリーに従い女性(セックス/生物学的性差)として扱われ、さらに女性(ジェンダー/社会学的性差)としての振る舞いを強要されます。
この他者たちが私に与えた「女性」という性質や意味に、私が齟齬を感じ、違和感と苛立ちをもったとします。
もし、このままの状態でいれば、私は永久に他者の自由によって与えられるものと、私の自由との間の葛藤の中で、生き続けねばならなくなります。
しかし、この他者の自由が私に与える限界付け、束縛を、自ら引き受け、自己拘束(アンガージュマン)した時、それは私の自由のための踏み台へ変化します。
主人と奴隷を分けるものは環境そのものではなく意志(自由の別名)の有無であり、山頂まで荷物を運ばされる奴隷と、重い荷物を背負って山頂を目指す登山家の違いは、その意志、自己の責任においてその行動を為しているかどうかです。
私は齟齬を生じさせる「女性」をあえて引き受け、善き女性として振舞うことで、その見返りとして社会の中で安定した地位を得るか。
私はあえて「女性」という苦役の十字架を背負い、この烙印を消し去るために、フェミニズム活動に身を投じ闘うか。
これらは行動としては正反対であるにしても、私は自分の責任において「女性」を引き受け、対峙し、その上で身の処し方を自由に決断しています。
こうなった時、他者が与えた拘束は、私の自己拘束(アンガージュマン)となり、私の自由の、私の状況のいち素材でしかなくなるのです。
【解説おわり】
私の自由および状況の彼方に、別の自由と状況(他者のこと)が存在し、その彼方からは私の生ける状況は、対象的なものとして与えられます。
この事実を「限界状況」と呼びます。
私の死
私が生まれたということが不条理であるように、死ぬことも不条理な出来事です。
私は知らぬ間に生まれ落ち、ある日突然連れ去られます。
「死は生を運命に変える」とアンドレ・マルローは言います。
私(対自)の活動が完全に停止する時、私の人生はすべて即自の中に沈んでいき、もうそこから脱する無化する存在(自由、対自)はどこにもありません。
私の人生はただ存在した通りに存在するだけの死んだ人生となり、後は他者の世界の対象(事物)として好き勝手に意味付けられ、変化させられるだけです。
それは私の観点の消失に対する、他者の観点の勝利であり、死者になるとは生者の餌食になるということです。
責任
人間は自由へと呪われた存在であり、自分の置かれた状況に対して全責任を負っています。
状況の抵抗がいかに苦しいものであっても、自分が状況の作者であるということを自覚し、言い訳も後悔もなしに引き受けねばなりません。
私の人生に起こることに偶発的なことなどなく、すべて自分自身が選び取った必然です。
「戦争においては、罪なき犠牲者は存在しない」とジュール・ロマンが言うように、私は戦争に反対せず、逃げもせず、黙認することによって参画したのです(黙認は現状肯定の選択および行為です)。
もし、私がこの戦争に動員されても、この戦争は私の戦争であり、私の選びとったものであり、その責任を負わねばなりません。
おわりに
[最後はサルトル自身の言葉でまとめてもらいます。「即自-対自」というのは、対自と即自が合一して完全(全体、先に挙げた満月)になった状態のことです。]
人間存在は、自己自身の対自を「即自-対自」に変身させようとする直接的な企てであると同時に、一つの根本的な性質という相のもとに、即自存在の全体としての世界を我がものにしようとする企てである。あらゆる人間存在は、彼が、存在を根拠づけるために、また同時に、それ自身の根拠であることによって偶然性から脱れ出ているような即自すなわち宗教では神と名づけられている自己原因的存在者を、構成するために、あえて自己を失うことを企てるという点で、一つの受難である。それゆえ、人間の受難は、キリストの受難の逆である。なぜなら、人間は、神を生れさせるために、人間としてのかぎりでは自己を失うからである。けれども、神の観念は矛盾している。われわれはむなしく自己を失う。人間は一つの無益な受難である。(松浪信三郎訳)