実利的に考える
前項では本人の意志や態度を中心として、いわば観念的な問題として偽善について考察しましたが、実際的な問題として考えれば、端的に「善いことをする人は善い人、悪いことをする人は悪い人」です。
実利的に言えば、心の内容は外的な結果によってはかられるものです(プラグマティズムの項を参照)。
[ここで言うのはその社会(場所、時代)における法や道徳の基準に則った実際的な善悪のことであり、前項のような普遍的な問題、抽象的なものを指しているのではありません。]
例えば、二人の男性が、仕事で失敗をして上司に怒られたとします。
部下Aさんは、上司が怒ることを躊躇するくらい自罰的に「反省」を口にし、謝罪します。しかし、彼は同じ失敗を何度も繰り返します。
部下Bさんは、「反省」を口にせず、むしろ不満げで生意気な態度です。しかし、彼は次の機会までに必ず修正をし、二度と同じ失敗はしません。
実利的に見れば、心に反省の観念を持っているのは、反省が結果として現れているBさんだけです。
Aさんはただその場をしのぐために「反省しています」という言葉を使用しているだけであり、心に持っているのは反省の観念ではなく、いかに相手の怒りをかわすかの逃避の観念です。
人間の心というものは実際の結果から推論されるものであり、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」「恐いから逃げるのではなく、逃げるから恐い」となります。
勝つ者が強い奴で、負ける者が弱い奴であり、現実の結果として現れない隠れた実力など、単なる想像の産物です。
要は、現実に善いことをする人が善い人であり、悪いことをする人は悪い人なのです。
善い思いを持つがそれを行動に現さない者は、ただ、想像の中で自分は善い奴だと思っているだけです。
信頼できるものは結果のみ
「普段悪いことばかりしているが、本当は善い奴」みたいなキャラが漫画やドラマによくいますが、悪いことをする奴はあくまでも悪い奴です。
「9の善いことをして1の悪いことをする奴」より、「9の悪いことをして1の善いことをする奴」の方が善い奴に見えるという、悪漢小説の作劇術(例、北野武の演出)に、結構みんな簡単に騙されます。
普段悪さをしつつ校舎の裏で野良猫を可愛がる不良少年はとても善い奴に見えますが、普段から普通にしている奴の方が本当ははるかに善い奴です(DV男によく引っかかる女子は、この辺きちんと自覚しておいた方がよいです)。
人間の意図や心ほど曖昧なものはありません。
はっきりしているものは現実の結果のみです。
そういう意味で今流行の「やらぬ善よりやる偽善」という言葉は誤りです。
やらぬ善は善でもなんでもなく、ただの思考です。
善をやったなら偽善もくそもなく、ただの善です。
心に善の観念をたくさん持つが一銭も寄付をしない者より、心に悪の観念を持つが寄付する者の方が善人です。
見えない心の中身など何とでも言えるので、信頼できる情報は現実に現れた結果のみです。
現実を知らず夢想の中で生きる道徳屋たち
最近は、善を行動に移すのは面倒くさいので、善の観念をたくさん持つことで、それを代償しようとする道徳屋で溢れかえっています。
そして現実では何もしない道徳屋(想像だけの善人)が、現実の善人の善行を、「偽善」と言って叩き、想像だけの優越感に浸ります。
彼らは、善の思考(アイデア)だけはいっぱい持ってるので、他人の現実的な善行に満足できません。
なぜなら、現実化する善行というものは、現実の制約によって、無数のアイデアの一部を実現しただけの不完全なものであり、それは想像によって無限に肥大化した道徳屋の善の理念(理想)を満足させることが絶対にできないからです。
美少女アニメのような理想の女性が現実に存在しないように、道徳屋の描く理想の善など現実にはなく、想像の中にしか存在しません。
非暴力運動の聖人であるマハトマ・ガンジーは、家に帰ったらお嫁さんに対しきつい暴力を振るっていたわけですが(『ガンジー自伝』を参照)、別に彼が偽善者であるわけではありません。
そういう現実の善にあるざらつきを許容できない者は、生涯、実物の善に出会うことはないでしょう。
現実の女性の肌に産毛があることに幻滅して、恋から冷める男のように。
誰かを聖人扱いすることは最大の差別だ、と心理学者のE・フロムは言います。
聖人扱いすることで、99の善行の努力は当たり前のものとみなされ、たった1つの悪行を為しただけで、嘘つきの悪人や偽善者と罵られ、99の功績や努力はすべて無いものとされます。
道徳屋はただありもしない純白を求め、意地の悪い姑のように、そこに一片の塵を必死で探し、批判する機会をひたすら探します。
ただ理想を主張するだけで現実を見ず、実になった部分(9の善いこと)を評価せずに、ただありえない完全に照らしてその不完全性(1の悪いこと)を批判するだけの、非生産的な世界に生きる人々です。
善人悪人関係なく真っ直ぐに生きる
善人や徳行がムカツクのであれば、本当は好きでもないのに無理に善や道徳を語るひねくれた道徳屋のようになる必要はなく、堂々と悪を賛美すればよいのです。
善人は善人として、悪人は悪人として、それぞれその道を極めればよいだけです。
現実で善いこともせずに善人に見せようとしたり、現実で悪いこともせずに悪人に見せようとしたりすることは、非常にみっともないことです。
自分の善行あるいは悪行の現実的な結果を引き受けられる覚悟がないのなら、無理に善人悪人ぶったりせずに、普通の人として普通に生きるのが、本人にとっても周りにとっても幸せなことでしょう。
結論
実際的に見れば、このような結論になります。
心という曖昧なものを中心にすると、どうしても問題が複雑になり、解決が難しくなってくるので、現実社会は「結果」に絞って物事を判断する傾向にあります。
例えば、犯罪者は悪いことをしても、素直に認めず、それは偽の悪行だと主張します。
殺意を持って人を殺したとしても、殺意はなく偶然だの過失だのと主張します。
一体、誰がそれを信じるでしょうか。
その悪が真か偽かを決定するのは、外的な状況、結果、要は証拠です。
それは善においても同様で、その善が真か偽かを決定するのは、外にあらわれたもの(証拠)のみです。
私が飢えた子供のことを本当に思っているかどうかは、現実のボランティア活動や寄付金の受領書など、外にあらわれた証拠によってのみ証明されるのです。
現実では何もせずただ口だけで憐れむ者の言葉など、信じようがありません。
それに則して考えれば、必然的に「善いことをする奴は善い奴、悪いことをする奴は悪い奴」となります。
具体例
最後に具体例で考えてみます。
少し前、子供の貧困問題の慈善活動をしていたあるタレントが偽善者だと叩かれていました。
自分の豪邸を誇らしげに自慢していたからです。
「本当に貧しい子供のことを考えているなら、豪邸など買わずそのお金を寄付し質素な家に住むはずだ」「慈善活動の広告塔になって稼いだ金で買った豪邸だ」などと言って批判されていたようです。
しかし、そのタレントが先頭に立ったことによって、より多くの人がその活動に協力したのであれば、家一つ買って自慢したことなどどうでもいいレベルの話です。
これは先ほどのガンジーの例(非暴力を謳いながら暴力を振るっていた)と同じで、善の中のザラつきにすぎません。
もしその活動が7の善いことを生んだ証拠があるのなら、3の悪いことを含んだ証拠があっても善行の範疇です。
悪を含まない善は存在しない
私たちは、ありもしない純白(完善)を求めすぎな訳です。
ありもしない純白(完善)を基準にすれば、あらゆる善行を偽善だと言って叩くことができます(実質的に現実世界から善行が消失する)。
善悪はよく白黒のイメージで捉えられますが、現実世界には純白も純黒も無く中間トーンしか存在しないように(光を100%吸収するブラックホールを除く)、現実にはある程度善かある程度悪、いわば両方を含んだものしかありません。
幅のない線や厚みのない面が現実世界には存在しえないように、悪を含まない善など頭の中にしか存在しない抽象観念です。
その抽象観念を実在と信じるのは、よほど幼稚な人間か、極端にナイーブな人だけです。
そして、多くの場合、偽善者叩きに躍起になるのはそういう幼稚でナイーブな人々です。
おわり