偽善とは何か

偽善という言葉の難しさ

最近、「偽善」という言葉がやたらと使われます。
しかし、多くの場合、適切でない文脈で使われているため、何を言っているのかよく分からないことがあります。
そこで「偽善」という言葉の意味を少し考えたいと思います。

まず「偽善」という言葉を聴いて感じるのは、ある種の傲慢さです。
他者を偽善と批判するためには、当然その真偽を判断するための基準「真の善」を知っていなければなりません。
しかし、偽善だと述べる人に「では、真の善とは何ですか」と問い返しても、まず答えられません。
彼らは何の根拠も持たずに他人を偽であると断罪しているのです。

そもそも「偽善」という言葉のうちには、「真・偽」「善・悪」という、二つの難題が含まれています。
「何が真で何が偽か」「何が善で何が悪か」という問題は、人間の有史以来の難問であり、明確にそれに答えられた知者はいません。
それにもかかわらず、したり顔で他者に「偽善」という言葉を安易に投げかけるために、そこにある種の傲慢さを感じるわけです。
「私は正義だ」と言い切る人の胡散臭さと同様のものを、別の形で隠し持っているのです。

善行の疚(やま)しさ

通常、社会の中で中身のない批判というものは受け入れられません。
例えば、会社内の議論で代案も持たずに批判すれば、まったく相手にされません。
仮に私が「1+1=2だ」と提言した時に、「それは偽だ」と批判されれば、当然どこが間違いであり真の解答は何であるのかを、誰でも問い返します。
しかし、これが善の問題になると、「偽善だ(その善は偽だ)」と批判された時、多くの人は相手に真の善とは(代案は)何であるかを問い返すどころか、黙ってバツが悪そうに沈黙しているだけです。
それはなぜかというと、善行を行う人の中に確固とした自信がないからです。

「1+1=2だ」ということには、みんな圧倒的な自信をもっているため、それを批判されれば、どこが間違っているか問い返します。
ですが、善行に関しては、直感的に善悪というものの不確実性を本人がうすうす感じているため、「偽善」だと批判されれば「やっぱり自分は間違いなのかな」と不安になって沈黙するわけです。

善行においてついてまわる「疚しさ(ニーチェ)」の正体は、本質的には善悪のその不安定性であり、善行に対しての疚しさを感じず善を為す者は、えてして反省という契機を失った独善に陥りがちです。

無意味な批判を排除する

偽善だと批判された時、先ずなすべきは、「では真の善とは何なのか」を謙虚に問い返すことです。
それで相手が答えられなければ、ただそれは善人を批判したいがためだけに「偽善」という言葉を使う、より性質の悪い偽善者にすぎません。

善行を行う者がいると、自分に劣等感を感じ、出る杭を打つように善人を叩きたくなるのが平均的な人間です。
善行を行う者より立派な善行を行うのは面倒なので、相手を「偽善者」と罵れば、何の努力もなしに善人より優位に立つことができます。
巷にあふれる「偽善」という言葉の大半が、「私はあの善人よりさらに上の人間である」という宣言です。

そういう中身のない批判や、意味の伴わない空虚な「偽善」という言葉は、無視して構いません(代案も持たずに批判だけしたがる新入社員のように)。

真の批判を受け入れる

しかし、もし偽善と批判する者が、代案となる善の形を提示してくれるのであれば、それをきちんと検討しなければなりません。
うんざりするほど纏わりついてくる「偽善」という言葉を振り切るために、「やらぬ善よりやる偽善」などという言葉によって開き直って、それらを一掃したくなるのは分かります。

しかし、そうなると反省の契機を欠いた善は独善となり、やがて本当に偽善になってしまう可能性があります。
歴史の教科書に載るような極悪人も、みんな真剣に善かれと思って行為を起こした結果、そうなってしまったのです。
反省の契機を欠いた独善の先には、悪が生じるのです。

自分が偽善者であると知る者のみが真の善人である

ソクラテスに「無知の知」という概念があります。
それは、自分が無知であることを知る者のみが、真の知者である、ということです。
様々な意味が込められていますが、まずそれが無知の自覚(反省)を促すものであり、つねに最新のデータによって更新される知の状態を生むということです(それは同時に他者の意見に開かれていることでもある)。
さらに無知の自覚は、知への扉を開くきっかけであると同時に、原動力でもあります。
自分が無知であると知るからこそ、人は一生懸命勉強しようとするのです。

これはあらゆる概念に適用できます。
例えば、「自分が臆病であると知る者が真の勇敢である」「自分の不誠実さを知る者が真の誠実である」などです。
これを本項の主題に当てはめると、「自分が偽善者であると知る者のみが、真の善人である」となります。

フランスの実存主義思想家シモーヌ・ヴェイユは、「私は右手で善を為すと同時に、左手で悪を為している」という主旨のことを述べます。
この自覚を持てるかどうかが、ある種の試金石になってきます。

善の相対性

「正義などというものは、ほんの少し緯度が変われば逆転する(パスカル)」ようなものであり、善悪の問題もそれと同様、時代や場所によってコロコロ変わってしまう相対的なものです。

例えば、ある伝染病者達を助けるために、その当時の最新の知識に従い、人里はなれた場所で患者の看病にあたる医師や看護師がいたとします。
誰もが嫌がる仕事を引き受け、自分達の命も懸かるような状況にあえて進み出る彼等は、善人以外の何者でもありません。
しかし、時代が少し変わり、その病気の伝染力が予防できる程度のものでしかないことが分かると、彼等は不当に患者を隔離(差別)し自由を奪った加害者として糾弾され始めます。

彼らのように善のために一生懸命に生きても、それが逆の結果となって帰ってくることもあります。
偽善というものは、本人の意志(本心のものか嘘のものか)により決定するだけでなく、それは社会的な文脈にもよるのであり、今日は善であったものが、明日は偽善や悪として捉えられるようになるかもしれません。

返る矢を引き受ける

自分の意志によって起こした行動が、どんな形になって返って来たとしても、それを避けずに引き受けることが、真に尊敬すべき者の条件であると、ある思想家は言います。

また、そういう結果をおそれ、行為を先延ばしにし続ければ、より悪い状況になっていってしまうだけです。
「何が善で何が偽善か分からない、だから僕は苦悩する」と、悲劇の主人公のようにしていれば、あらゆるものから逃げ続けることができますが、最終的にはすべてのツケを支払う時がやってきます。

可能なことは、決断ギリギリまでデータを集め、考え、最善を尽くし、タイムリミットが来た時に、行動に移すことです。
動かなければ善も悪も、成功も失敗もなく、ただ風葬のように野ざらしで朽ちていくのを待つだけです。
そして自分の意志によって決断し行動した結果、その放った矢が自分に真っ直ぐ返ってきたとしても、引き受けることです。

そもそも、自分の善行に対し良い見返りを求めることは、単なる取引であって、純粋に善の定義から外れます。
自分の善行が、自分にどういう結果をもたらすかを問わないことが、必然的に要請されるのです。

まとめ

最初に述べたように、偽善とは何であるかを定義づけるためには、真の善が何であるかを定義づけなければなりません。

真の善の一般的な特質を考えた場合、以下の三点になります。
1.自分が偽善者であることを知っている。
2.善悪は状況によって変化するものであることを知っている。
3.考え抜いた末の決断に対し、どんな結果が待っていようとそれを引き受けられる(分かりやすく言うと、見返りを求めないということです)。
これらを知った上で、それでも善を為そうとする者は、本当の善人であると私には思えます。

逆に、偽善だと思えるものは、これらと反対の特質を持っています。
1.自分が善人だと思っている。
2.自分の信じる善が絶対だと思っている。
3.何も考えず行動を起こし、善行に対し良い見返りを求め、得られない場合は善行を止め、悪い見返りがくると逃げる。

勿論、これらは概念を整理するための極端な類型であり、すべての人間はこの両方の間にいます。

私の経験上、優れた人物は「偽善」などという生産性のない言葉を積極的に使うことはありません。
彼らが他者の善行を批判する時には、きちんとした代案を立てそれを実行することによって、批判するからです。

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