プラトンの『ゴルギアス』(1)ゴルギアス編

哲学/思想 社会/政治

哲学者とソフィスト

「哲学者(フィロソファー)」は英語で「philo(愛)+sophy(知)+er(人)」、「ソフィスト」は「sophi(知)+ist(人)」です。
「哲学者」とは知を愛する者、「ソフィスト」は知の専門家(知識人)や学者といった意味を持ちます。

当時のアテナイでは、このソフィストという人達が非常に強い力を持っていました。
高度に発達した民主制のポリス(都市国家)では、誰もが政治に関わり、選挙や法廷で力を持つための弁論術が必要とされました。
そんな中、ソフィストは、社会的成功を望む者から高い謝礼をとって、弁論術(詭弁術)を教えていたのです。

ソフィストも元は純粋に教養を持った啓蒙的知識人であったのですが、戦争による政治の混乱や、人々の道徳的退廃が、ソフィストたちの機能を変えていきました(知的啓蒙→弁論術→詭弁術)。
それはやがて、個人の利益や自己主張のためにクロすらシロにする詭弁術の横行、大衆の無知につけ入りそれらしく見せる雄弁術(ハッタリ)で支持を得ようとする権力者(デマゴーグ-扇動的指導者)などを生み出します。

それが共同体組織であるはずのポリスをいずれ崩壊させるものであると予見したソクラテスは、ソフィストを相手とした戦い(論争)を開始します。

 

カリクレスの思想

本書はプラトン対話編の中でも『国家』に次ぐ力作で、ソクラテスが三人のソフィストと戦います。
当時最も高名なソフィストであった老大家ゴルギアス、その熱心な弟子である若いポロス、学者や教師ではなく現実政治の世界で弁論術を駆使してのし上った気鋭の政治家カリクレス、の順に対話します。

タイトルであるゴルギアスではなく、最終対話者のカリクレスがこの対話編のメインとなり、哲学者VSソフィストのエッセンスがここに詰め込まれています。
カリクレスの思想は後のニーチェを熱狂させ、その哲学の形成に多大な影響を与えました。
その思想は非常に強い説得力を持ち、ソクラテスの対話者中で最も強力で魅力的な人物となっています。

ソクラテスがソフィストと論争する時はただひたすら質問者、批判者の立場に立ち、一方的に相手を追いつめるずるい戦法「イロニー」を使います(常に質問・批判する位置にいれば、論争において絶対に負けない)。
しかし、この対カリクレス戦は特殊で、共に対等な対話として進められます。

本頁ではこのカリクレス戦(第三幕)を中心に、その思想を対比的に見ていきます。
当時の混乱した知的状況は、人間同士の対立が量産されていく現代の状況に酷似しており、この対話が非常にアクチュアルなものとして映ります。

以下の文章は編集した翻訳(抄訳)ではなく、読みやすいように内容を対話風にまとめただけです。
確固()内の数字はステファヌス版プラトン全集の頁数です。

 

『ゴルギアス』

<第一幕、対ゴルギアス戦(447a~461a)>

ゴルギアス
弁論術とは、他人を説得する技術、相手に信じさせる能力であり、それは自己の自由と主体性を確保する最重要の術である(他者に従うのではなく、他者を従わせる力)。

ソクラテス
説得の術というのは他にもあるわけだが(数学の論証など)、弁論術の説得とはどのような性質でどのようなものを扱うのか。

ゴルギアス
法廷や集会などにおいてなされる説得で、扱うものは主に正しいことや不正なことに関しての説得だ。
また、弁論術は武術のように強い力を持つため、それを悪用する者も出てくるが、それは彼らが不正な人間であるからであって、弁論術を教える側が悪いわけではない。

ソクラテス
普通、自分のあつかう事柄に対して知識を持ち、それを人々に教え理解させるのが説得なわけだが、あなたの言う弁論術(説得術)は、その事柄についての知識は持たないで、ただ信じこませるためだけのものに映る。
それは知識の伴わない空疎な信念だけを植えつける技術であるように思えるが、あなたが先ほど扱うと言った正・不正や善・悪などについても知っておく必要はなく、ただ知識を持っているように見せかければ良いだけなのだろうか。

ゴルギアス
いや、それは知っておく必要がある。
もし弁論術を学ぶならば、それらも同時に学ぶことになる。

ソクラテス
それはおかしい。
先ほどあなたは弁論術を心得る者の中には、不正に使用する者があると私に忠告した。
弁論術が正・不正をきちんと教えるものでありながら、なぜ不正を行うのか。
音楽のことを学んだ者は音楽家になるように、正しいことを学んだ者は正しい人になるのが筋ではないだろうか。

ゴルギアス
そうだ・・・。

(ここでゴルギアスの弟子ポロスがたまらず乱入する)

 

<第二幕、対ポロス戦(461b~481b)>

ポロス
ソクラテス、あなたはなんて意地の悪い人だ!
先生(ゴルギアス)が高名であるがゆえに、知らないなどと言い難いことを分かっていながら、正・不正の知識の有無を問うて、矛盾に導いたのですね。
それなら、逆にあなたに問いますが、弁論術とはどういう技術ですか?

ソクラテス
弁論術はいかなる技術でもなく、単なる経験、慣れにすぎない。
人を喜ばせるための経験知であり、それはひとつの「コラケイアー(迎合、おべっか、へつらいの意)」の術なのだ。
それは、お化粧のようなものだ。
本来、身体への気遣いと努力から生まれる健康的な肌色を、化粧によって偽装し、人を欺き、本来の美しさをなおざりにする。
あつかう事柄の本質を理解し理論的な説明もできるのが本当の技術だ。
弁論術やソフィストの術は、本当の技術である政治術に偽装し、相手の好みの経験的な知識だけで釣る詐術なのだ。

ポロス
あなたは社会の中で最高の実力者である弁論家をおべっか使いとして見下すのですか?

ソクラテス
それどころか弁論家は社会の中で最も弱い存在だ。

ポロス
何と!弁論家は独裁者のように、思いのままに誰かを死刑に追い込んだり、国外追放したり、財産を取り上げたりできるのですよ?

ソクラテス
そう、思いのままにやっている。
ただ自分が善いと勘違いしていることだけを。
人間の行為というものは、それ自体ではなく、その先にある目的に向けられるものだ。
誰かを死刑にするのも、そうした方が善いと思う目的があるからこそ為すのであって、生かしたほうが善いと思うなら死刑にしない。
だから、もしその目的とする善いと思うものが誤りであり、むしろその行為が自分が本当に望んでいることと正反対の結果をもたらすとしたら、どうだろうか。
彼は思いのままに振舞いながら自分の首を絞めることになる。
彼らは善悪の判断に関する技術を持たないがゆえに、身体の不健康さを化粧で誤魔化す者の様に、本当に望んでいることを思いのままの振る舞いで覆い隠してしまうのだ。
だから彼らは一見強そうに見えて、実は弱い存在だと言うのだ。
思い通りにはしても、望み通りには振舞っていない。

 

(2)へつづく