使用価値を超えて
マルクスの使用価値は特定の目的に従い具体的かつ個別的に規定されているのに対し、交換価値は抽象的かつ一般的なものです。
使用価値なしに交換価値はありえず、両者は結びついていますが、互いを含意する強い結合(A⇔B)ではありません。
[使用価値は交換価値の必要条件ではあっても十分条件ではなく、交換価値があるなら必ず何らかの使用価値はありますが、使用価値が必ず交換価値をもつわけではありません。]
「商品の概念を定義するためには、その商品が何であるかや、どのような用途をもつかを具体的に知る必要はない。必要なのは、それが交換価値の担い手となりうる程度に、何らかの社会的欲求を満たす(一般的)有用性をもっていることだけである」~『資本論』第1部、第6章
とあるように、具体的な使用価値は、一般的な等価性の論理である交換価値の論理には組み込まれていないのです。
(具体的で固有の目的をもつ)使用価値は交換価値なしにも存在しえ、使用価値は本質的には市場の領域に属するものではないのです。
だからこそ、交換価値(市場)に支配されず、人間が自分の労働や生産物と直接結び付く自律性の中で使用価値が再び現れることへのマルクス的希望が宿るのです。
したがって、「商品フェティシズム」(社会的関係が商品それ自体の性質であるかのように装う)は、交換価値に対してのみ作用するものです。
使用価値はフェティシズム化の場とならず、意図された用途という客観的かつ目的論的な関係の形式(有用性一般)は、歴史を超越して存続するのです。
ここ(有用性一般の歴史超越的)にこそ、マルクスの論理をより急進的な結論へと推し進めるべき点があります。
すなわち、使用価値(有用性そのもの)は、商品の抽象的な等価性と同様に、フェティッシュ化された抽象的な社会的関係なのだという結論です。
それは「欲求の体系」の抽象化であり、財や生産物が本来的に目的を備えているという目的論な虚構を生じさせています。
等価性(交換価値)の論理を支える社会的労働の抽象化が、商品の本来的価値という幻想の背後に隠されていたのと同様です。
[マルクスは、使用価値の本質は具体性にあると定義しておきながら、革命後を語る段になると、その具体性を捨象した有用性一般を歴史を超えた本質として持ち出しています。それはもはや使用価値ではなく「使用価値という形式」あるいは「有用性という抽象」です。これを支えるものが「欲求の体系」という抽象です。欲求と財の目的性が一体となった関係の枠組みにおいて世界を抽象化します。]
抽象的社会的労働の上に交換価値の体系が成立するように、欲求の体系の上に使用価値の体系も成立しています。
使用価値と交換価値は、同一のコード化の原理(抽象的な等価性の論理)によって組織されています。
有用性のコードも、対象相互間、主体相互間、主体-対象関係間における抽象的な等価性で結ばれ、あらかじめ組み合わせ可能性と計算可能性を前提としたものです(後述)。
フェティシズムの対象となるのは、つねにこのような体系的抽象なのであり、使用価値のフェティシズムと交換価値のフェティシズムが結びついて「商品のフェティシズム」が成立するのです。
[マルクスは、商品の交換価値が自然な属性として実体化されることを「フェティシズム」と考えましたが、ボードリヤールは抽象的体系が自然な現実として実体化されることであると考えます。]
マルクスは、交換価値を、生産物が抽象的社会的労働を基礎として相互に等価となりうるという事実によって規定する一方、使用価値は互いに「比較不可能」であると考えます。
しかし、次の四点を考えなければなりません。
第一
経済的交換および交換価値が成立する基礎として、先ず対象や生産物が「有用性」という原理に還元されていなければなりません。
生産物が抽象的・一般的に交換可能となるためには、「役に立つもの」という観点から合理化されていなければならないのです。
第二
交換の原理と有用性の原理とが深く結びついているのは、(マルクスが使用価値は互いに比較不可能だと考えたのとは反対に)等価性の論理がすでに有用性そのものの内部に働いているからです。
使用価値は、数量的等価性でないにしても、「有用なもの」という価値をもつ限り、互いに比較可能であり、同じ機能的・合理的な共通基準、すなわち同じ抽象的規定へと還元されています。
これに対し、象徴交換に組み込まれた対象や財は不等価で比較不可能です。
人格的な関係(非経済的交換)が、それらをかけがえのない固有の存在にしているからです。
対象が「有用な価値」として捉えられた瞬間、象徴的機能を切り捨て、抽象的普遍性を獲得するのです。
第三
問題となるのは、一般的等価物が有用性である「形式/対象(形式として現れる対象と、対象として現れる形式)」です。
単なる交換価値との類比ではなく、同一の論理形式です。
あらゆる対象(物)は「有用性」という抽象的一般コードに基き、その対象の存在理由、客観的法則、意味が決定されます(誰が何のために用いるかとは無関係に)。
現実の対象も可能的な対象も、すべて機能性そのものがコードとなった体系に属します。
経済は、当にここから始まるのであり、商品形態とは、この有用性の論理がさらに発展した形態にすぎません。
第四
使用価値(有用性)は、人間の欲求と対象の有用な性質との個人関係などではなく、社会関係なのです。
交換価値において、人間は創造主体としてではなく抽象的に社会化された労働力として現れるのと同じように、使用価値においても、人間は欲求充足する主体としてではなく、抽象的に社会化された欲求力として現れます。
抽象的な社会的生産者とは、交換価値という観点から捉えられた人間、抽象的な社会的個人(欲求をもつ人間)とは、使用価値という観点から捉えられた人間のことです。
欲求をもつ個人が一個の自律した主体として「解放」されたことと、対象が使用価値として機能的に「解放」されたことには、構造的対応があります。
対象の解放は、かつての儀礼的・象徴的な関係(象徴交換)を破棄し、対象を客観的・合理的・機能的に組織し直すことによって生じます。
それまでは、(現代人が自明視する)客観的対象としての地位を、そもそも持たなかったのです。
こうして対象は、理想的(しかも観念論的)な政治経済学の「約束」となります。
[対象(モノ)は、「欲求に応じて対象が供給されれば、人間は幸福になり、理想的な社会が到来する」という政治経済学の約束を体現する存在になる。ということ]
人間は、古い共同体的な絆、象徴的・人格的な関係から「解放」され、一個の私的で自律した個人となると同時に、自然を「客観的」に変形する活動(労働)によって自分自身のために有用性を消費すること(欲求、満足、使用価値)によって定義されるものとなります。
有用性、欲求、使用価値、これらが表すのは、主体と対象との間の両義的で豊かな関係でも、主体と主体との間の象徴交換でもなく、主体と経済システムとの関係なのです。
個人が経済システムの中で自らの欲求を表現するというのではなく、経済システムが「個人」という機能(同時に対象-欲求の機能化)を生じさせます。
個人とは、一つのイデオロギー的構造であり、商品形態(交換価値)と対象形態(使用価値)に対応して成立する、ひとつの歴史的な形態なのです。
個人とは、経済学的な観点から捉えられた単純化され抽象化された主体なのである。
[生産的消費と、個人的消費との間に根本的な違いはありません。例えば工場で、鉄→加工→鉄が製品になる場合、鉄という使用価値が生産過程で消費されます(生産的消費)。実は、個人がパンや服を消費するのも、同じ構造にあります。経済システム⇒欲求をもつ個人を生産する⇒個人が消費する⇒経済システムが再生産される。]
そして、意識と道徳の学問的歴史は、主体についての政治経済学の歴史にすぎないのです。
使用価値とは有用性形而上学の表現であり、(主体の欲求が目指す目的に応じて)対象の内部に刻み込まれた一種の道徳法則としてあります。
主体の内部に刻み込まれた道徳法則(カント的、キリスト教的な)を物の内部へと写したものです。
その道徳法則とは、主体を積極化しある目的論的な関係(神や超越的実在に対する関係)の中に位置付けます。
それと同様、対象を積極化し目的論的な関係(有用性)の中に位置付けます。
「道徳」という徴のもとで主体と神的法則との一致を保証するのと、「機能性」という徴のもとで対象との欲求との一致を保証するのは、同じ摂理的なコードによるのであり、それが(両方の)価値の循環を規定しています。
[摂理的なコード=存在を目的論的関係において結びつけ目的論的な秩序を形成する規則です。人間⇔神(道徳)、物⇔欲求(機能性)]
主体は、超越的な目的を基準にして、己の本質(何であるか)を規定すると同時に、自己同一性(一貫的自己)を獲得します。
対象(物)は、機能性(有用性)を基準にして、己の本質(何のためか=使用価値)を規定すると同時に、透明性(合理的・自然的に自明なものに見える)を獲得します。
これを同時に成立させるのが、目的論(finalisme)です。
これにより、主体と対象に潜在するあらゆる象徴的可能性を祓い除け、意味の多様性が単一の目的性に従う単一の意味となり、ここに等価性の原理(同尺度によって評価できる)が開かれます。
絶対的に単純化・抽象化された、「有用性」に規定された対象(モノ)と、「良心」と「欲求」によって規定された主体(個人)とが、政治経済学の価値と実践の体系の中へ入り込み、そこにおいて肯定的・自己同一的に位置づけられます。
対象の使用価値(有用性)は、対象の交換価値と同じく、等価性の論理によって支配されているのであり、双方、政治経済学の領域にあるのです。
マルクスが商品の二つの側面として区別した、使用価値と交換価値の両方に同一の論理(同一のフェティシズム)が作用しているのです。
この有用性の抽象的な等価性を「形態/対象」と記述するなら、それは、社会的労働に基づく交換の抽象的等価性である「形態/商品」が、より全面的に展開された完成形態にほかなりません。
マルクス主義の分析は、使用価値のこの等価性を無視し比較不可能なものとしたことで、神話(使用価値として捉えられた個人と物との関係を、人間固有の欲求と物固有の機能との間に成立する具体的で客観的な「自然な」関係として捉える)を作り出します。
交換価値としての商品と人間の関係は疎外、物象化、抽象化されたものとして捉えられ、私的で具体的な関係の領域(使用価値)は、市場という社会的で抽象的な関係の領域に覆われるとします。
しかし、個人が交換価値の体系によって疎外されているとしても、少なくとも自分の欲求において使用価値の領域において自分自身を取り戻すせる、と考えています。
このような形而上学に反し、実態としては、抽象化、還元、合理化、体系化は、商品の領域と同じ程度に欲求の領域においても深く広範に進行しています。
欲求は、主体自身の欲望や固有の要求に基づいて組織されているのではなく、その整合性は一般化された一つの体系のうちにあります。
交換価値の体系に対して具体的労働がもつ関係と同じように、使用価値の体系に対して欲望は価値の源泉となっています。
主体の投資(心的エネルギー備給)の全プロセス(欲動、倒錯、象徴的関係、対象-物-関係)は抽象化され、有用性と欲求(ニーズ)の体系の中に「一般的等価物」を見出すことになります。
主体から生じるあらゆるものは切り離され、対象によってあらかじめ規定された欲求へと取り込まれます。
あらゆる欲動は「欲求(ニーズ)」の中で合理化され目的を与えられ客体化されることで、象徴性を破棄され、あらゆる両義性は等価性へと還元されます。
一般的等価性の体系であると言うことは、政治経済学の領域にあることを意味します。
欲求が、等価性の原理と一般的な組合せの原理によって規定される抽象的な体系なのであれば、交換価値の体系と同じフェティシズムが、ここでも作用することになります。
より深く完成度の高いフェティシズムの現れとして。
交換価値が生産物の内部に実体として備わるものではなく社会的関係を表現する一つの形態であるのと同様、使用価値も対象に内在する固有の機能ではなく、一つの社会的規定(主体、対象、及びその関係を規定する)です。
商品の論理が人と物を無差別に覆い、人々を単なる交換価値として現れさせるのと同様、「有用性」という限定された目的性も人々と対象(物)の双方に押し付けられます。
現代の人文主義(ヒューマニズム)は、機能性を通じて外部世界を実用的な目的へと組織することによって、人間は人間として自己を実現すると考えますが、
人間の「欲求(ニーズ)」を満たすものとして捉えられた対象を使うことで人間が「使用価値をもつ存在」以上のものとして自己を実現できると言うのはあまりに非論理的でナイーブです。
真実はまったく逆であり、商品と交換価値に囲まれた人間は自分自身もまた交換価値・商品となり、機能し「役に立つ」物たちに囲まれた人間は自分自身もまた最も機能的かつ従属的な物となります。
資本主義的生産過程において、「ホモ・エコノミクス(経済人)」が全面的に使用価値へと回帰するだけでなく、この功利主義的な要請は、個人と自己との関係さえも構造化します。
人間は欲求充足の過程において、自らの快楽の可能性を資本化し最大化し、自身の「享受する能力」を生産力として扱いながら最もよく実現させ管理します。
人文主義的な道徳とは、「自己を正しく使用すること」に基づいているのではないでしょうか。
マルクスの「生産は財を生産するだけではなく、それを消費する人間および、それに対応する必要をも生産する」という命題は、「操作的に人工的な必要が作り出されている」という単純な意味に歪曲されています。
しかし、商品体系がその一般的な形態において生産するものは、個人という構造そのものを成り立たせている「欲求」という概念それ自体、つまり生産されるのはひとつの(社会的)人間という歴史的概念です。
象徴交換との関係を断ち切ることによって自律した「個人」となり、自らの欲望、他者との関係、対象との関係を、欲求・有用性・満足・使用価値などによって合理化するのです。
象徴交換との断絶から生まれるのは、交換価値か使用価値かどちらか一方というものではなく、交換価値/使用価値という二つの価値の構造的な対立そのものなのです。
この二つは同じ論理形式をもつ二項的な編成によって、経済的なものの領域を区切ります。
これは、『フェティシズムとイデオロギー』で分析した記号論的還元の図式です。
[本来は両義的・多義的で、矛盾を含んだ象徴的現実を、明確な二項対立構造へ還元し、さらにその一方を特権化することが「記号論的還元」です。この特権化が、現実の権力関係を支えるところまで進んで「イデオロギー」として完成します。フェティシズムは、ある特定の物を神聖化することではなく、差異を明確に整理してくれる閉じた体系そのものへの魅惑です。]
構造化は、決して純粋なものではなく、その論理には常に戦略が伴います(例えば、男性/女性の二項対立は男性優位、意識/無意識では意識優位を前提に戦略的に構造化されています)。
VE / VU = Sa / Sé
[交換価値 / 使用価値 = シニフィアン / シニフィエ]
交換価値とシニフィアンが戦略的(全体的,支配的,目的的)であるのに対し、使用価値とシニフィエは戦術的(局所的,補助的,手段的)です。
この二極構造は階層化されており、絶対的な優位を占める前者に対し、後者は前者が生み出す効果にすぎません。
使用価値とシニフィエという、それ自体で自立した現実がまず存在し、その現実を交換価値やシニフィアンが自らのコードによって表現し翻訳しているのではないのです。
根本的には、それらは交換価値やシニフィアンの働きによって生み出されたシミュレーションモデルにすぎません。
それは、交換価値や「シニフィアン」が、自らが生み出した使用価値やシニフィエを通じて、現実、生きた経験、具体性である保証(客観的現実としての保証)を確保するためのモデルです。
そして、それらの体系(システム)は、客観的現実に代わって自らの全面的な論理を据えてしまうのです。
勿論、「代わる」と言っても、体系が歪曲する根源的現実が存在するということではなく、体系が最初から自らの理想的な指示項として生産する現実とは別の現実は存在しません。
要するに、使用価値やシニフィエは、交換価値やシニフィアンに対して「別の場所」(客観的かつ具体的な場所)を構成しているわけではなく、単にそれらのアリバイにすぎないということなのです。
使用価値の体系を通じて政治経済学の領域が一般化され、社会全体を覆いつくすということです。
価値と生産力の体系として「欲求」の体系を構成することによって、抽象化と生産的合理性が消費の全領域にまで拡張されるのです。
この意味で、使用価値は交換価値(政治経済学一般)を全面的に実現するものとなります。
使用価値のフェティシズムは、交換価値のフェティシズムを強化し深化させるものであると同時に、交換価値の体系をイデオロギー的に保証するものでもあるのです。
使用価値は根本的に、その前ではすべての人間が平等であるような審級として自然化されるイデオロギーです。
欲求は、(それを満たすための手段とは異なり)万人に平等に分け与えられているものとされ、人間は財を交換価値として見るかぎり平等ではないが、財を使用価値として見るかぎりでは平等だ、とされるのです。
誰もが、幸福や満足を得る可能性(財を使用する潜在的な能力)という点では、同じように豊かなのです。
これは欲求の民主主義であり、神の前における全人間の平等の世俗化なのです。
交換価値によって社会的に分断されている人々を、普遍的な次元の下に和解させるのです。
交換価値は、商品という次元において現実の労働過程を抹消し、商品があたかもそれ自体で自立した価値をもつかのように現出させます。
使用価値はさらに一歩踏み込み、抽象化されて非人間的なものとなった商品に「人間的」な目的を付与します。
交換価値において社会的労働が消去されたように、使用価値の体系において消去されるのは、主体に、自分自身を「欲求と満足によって定義される個人」として考えさせ、それによって商品構造の中へ観念的に統合させるに至った、イデオロギー的・歴史的な形成過程そのものでし。
こうして使用価値の体系は、交換価値の体系を自然なものとして見せ、それに普遍的かつ超歴史的な保証を与えるのです。
使用価値とは政治経済学の完成であり、政治経済学が現実の日常生活の内部にまで浸透し、人間が「自分自身として在る」と信じる行為の中にまで及ぶことです。
人間は、対象をそれが何の役に立つかという形でしか見出さず、また自分自身についても、自分が何の役に立つかという形でしか自分自身を見出しません。
[社会的な役割(機能性)として人間自体が使用価値になるという古典的批判に留まらず、人間は自分の個人的に自由な欲求充足の領域(自分らしく生きる)においてさえ、己を一定の能力を発揮し一定の満足を生み出す〈機能的な存在〉となります。<私には欲求Xがある⇒対象AにはXを満たす機能がある⇒Aを使用する⇒Xが満足される>という関係そのものが、主体と対象を機能的なものとして規定するコードです。人間は生産能力(社会的機能性)を外れた個人の欲求充足の領域において人間は自分を取り戻す、のではなく、それすら消費能力として機能化されており、それにより経済的体系そのものが成立・再生産されるのです。生産する私も、消費する私も、享受する私も、自己実現する私も機能的、なのです。]
使用価値は、生産と交換のシステムをイデオロギー的に固定化するためのものです。
それは、使用価値と欲求(ニーズ)を歴史から切り離し、機能性の形式的永遠性の中へと位置づけ観念論的人間学を打ち立てることによって遂行されます。
交換価値や商品の神秘は、比較的解明しやすく社会的な関係として意識化できますが、使用価値の場合、人類学に根拠を置き自然的自明性という原初的な根拠を装うため、神秘のヴェールに包まれます。
人間と自然、人間と対象(物)、自己と身体、自己と他者など、あらゆる関係が目的性の秩序(等価性、調和、経済性、均衡といった理想的関係)に基づくものと成ります。
使用価値の体系は交換価値の体系によってイデオロギー(アリバイ)として産出されているなら、使用価値を交換価値に代わるものと想定することはできません。
政治経済学の終焉において、欲求を解放し対象(物)を管理し使用価値を「回復」するなどという革命的な展望は不可能です。
革命的展望は、有用性という合理化的・還元的・抑圧的な形而上学の批判、および〈形態/対象〉の分析によって開かれます。
マルクス主義にはこの分析が欠けていた結果、あらゆる幻想が使用価値へと集中することになり、使用価値は交換価値に対置され理想化されることになったのです。
[マルクスは〈形態/商品〉つまり対象を交換可能な「商品」として構成する社会的形式を分析するだけでなく、その対象そのものの〈形態/対象〉を分析し、対象を有用なものとして構成する社会的形式を明らかにしなければならない、ということです。]
記号の政治経済学批判へ
「政治経済学批判」が〈形態/商品〉を分析しようとしたのと同様に、「記号の政治経済学批判」は〈形態/記号〉を分析するものです。
商品の交換価値と使用価値を同時に分析する必要があったように、記号もシニフィアンとシニフィエを同時に分析しなければなりません。
1.交換価値(VE)の体系と使用価値(VU)の体系との関係(形態/商品〉と〈形態/対象〉との関係)。
2.シニフィアン(Sa)の体系とシニフィエ(Sé)の体系との関係(この二つのコードの関係によって〈価値/記号〉と〈形態/記号〉の区別を規定する)。
いずれの場合にも、この関係は支配的な形態とそれに従属するアリバイ(ないしは衛星的な形態)とのあいだの、階層的な機能関係を成しています。
しかも後者は、前者に従属しながら同時に前者を論理的、イデオロギー的に完成へと導くものです。
イデオロギーの魔術的思考
もはやイデオロギーは、物質的生産(生産システムおよび生産関係)と記号の生産(文化など)との間の「下部構造/上部構造」という関係(前者の矛盾を表現しつつ隠蔽する関係)に立脚するものではありません。
実際は、物質的生産も記号生産も、同じ形態(形式)、同じ論理によって支配され、「一般政治経済学」の領域に等しく属しています。
イデオロギーに関する伝統的な見解は、絶望的ともいえる理論上の曲芸「上部-下部構造的」「弁証法的」「支配的構造(structure à dominance)」等を必要としてきただけでなく、イデオロギー的機能を、シニフィエの水準(意味内容の水準)でしか捉えられなくしてきたのです。
[下部構造が上部構造を規定する単純図式(マルクス)から、両者の相互作用を認める弁証法(後期エンゲルス)へ進み、さらに複数の審級が相対的自律性を保ちつつ一つが優位を占める「支配的構造」(アルチュセール)へ精緻化、という流れです。]
伝統的イデオロギーは、常に国家、道徳、家族、人間主義、幸福、消費といった壮大なテーマ、内容、価値に関わるものでした。
現実の社会的状況において、そうした内容をもつ寓意的な力(イデオロギー=現実に対し後から被せられる寓意的な物語)が人々に外から働きかけ、人々を社会秩序のなかへ統合する、というイデオロギー図式です。
従来のイデオロギーは、経済的現実から派生した文化的な思想内容が、人々の意識に働きかけることによって、再びその経済的現実を支え返す作用、と定義されているのです。
しかし、イデオロギーとは、記号の生産にも物質的生産にも等しく貫かれている、形態(形式)そのものだということです。
それは、論理的に二つの項へと分裂することです。
交換価値(VE)/使用価値(VU)
シニフィアン(Sa)/シニフィエ(Sé)
これは、形態が自らを再生産するための機能的かつ戦略的な分裂にほかなりません。
イデオロギーはすでに、交換価値と使用価値との関係(商品の論理)そのもののうちに、シニフィアンとシニフィエとの関係(記号の論理)そのもののうちに、全面的に存在しているのです。
物質的生産と記号生産が同じ価値形態によって構成されている以上、マルクスが生産物について物質的内容から社会的形態へ分析を移したのと同じように、イデオロギーについても思想内容から、それを成立させる社会的形態へ分析を移さなければなりません。
イデオロギーの客観性は、その観念にあるのではなく形態にあるのです。
従来のイデオロギーの批判は、魔術的思考の上に成り立っています。
そこではイデオロギーは形態としてではなく、内容として解読されます。
あらかじめ与えられた超越的な価値をもつ、国家、家族、道徳、幸福などのマナのような力が宿る表象として、「意識」と呼ばれる浮遊し神秘化された主体に浸透するという図式です。
あたかも欲求が「主体の要求」と「対象の有用性」との関係として提示されるように、イデオロギーも「意識」と「観念や価値(表象の意味と価値)」との関係として現れます。
どちらの場合にも、人工的に切り離された二つの概念を結びつける魔術的な架け橋があるのです。
イデオロギーとは、象徴的なもの(両義的、非等価的、非コード的なもの)を一つの形態へと還元し、抽象化していく過程のことです。
この還元的な抽象化によって、自律的価値、超越的内容、意識の表象(シニフィエ)として姿を現します。
例えば、対象の形態(交換価値)への還元と社会的労働の抽象化によって、対象(商品)はあたかもそれ自体で自律した価値と超越的現実性をもつかのように捉えられます。
文化は、「形態化(コード化)された表象を介して意識と結びつき、超越的内容をもつ確定的な価値であるかのように意識間を流通するもの」として定義されます。
内容の自明性の中に自らを絶えず覆い隠すこと(自然化)が「形態」の策略であり、価値の自明性の中に自らを覆い隠すことが「コード」の策略です。
[形態とコードは同じもの異なる側面です。形態=構造的な枠組み、コード=その枠組みを作動させ差異と価値を配分する規則体系で、前者は対象の意味(定義)を決定し、後者は対象の価値を決定します。]
形態は、内容の(まるで物そのもののような)具体的実在性のうちで自らの抽象化を完成させ自己(形態)を再生産し、それと同時に、それを受け取る意識をも生産します(生産体系が、商品と同時に対応する欲求をも生産するように)。
こうして文化は、二重の超越性(それ自体で価値をもつものとされた諸内容と、それを受け取る意識)の交換関係による形而上学と成ります。
ブルジョワ的通説も、それをイデオロギーとして批判するマルクス主義的通説も、同じ魔術的思考に篭絡されています。
現代思想のほぼすべては人為的な分断や区別に由来する終わりのない論争の中にいます。
1. 主体/対象の分断~主体(求める人間)と対象(有用性をもつ物)を分断し「欲求」という魔術的概念によって接続する。
選択は自律的か、操作されているか、需要と供給はどう結びつくか、などと言う疑似問題。
2. 下部構造/上部構造の分断~下部構造(物質的生産・経済)と上部構造(文化・表象・意識)を分断し「イデオロギー」という魔術的概念によって接続する。
経済と文化のどちらが決定するのか、両者はどう影響し合うのか、などと言う疑似問題。
3. 搾取/疎外の区別~搾取と疎外を区別する。
搾取が疎外を生むのか、疎外は搾取に続く資本主義のより高度な段階なのか、などと言う疑似問題。
[1.2.のような二極的分断ではなく区別なので魔術的概念による接続はありません。2.の物質的生産/文化記号の分断が3.の基礎になっています。]
どちらも形態という観点からは分析されず、単なる内容(一方は物質的生産の内容、他方は記号的意味作用の内容)として措定されているがゆえに、物質的「搾取」と記号的「疎外」との間に区別が設けられることになります。
[「疎外」は一般的には「自分自身が生み出したものが、自分から独立した力として逆に自分を支配する」ということですが、消費社会においては記号化された商品が逆に人間を支配するという逆転が生じ、この文脈においてはそれを疎外とします。]
真のイデオロギーとは、社会的生産のあらゆる領域を貫いている、同一のただ一つの形態そのものなのです。
[1・2・3の分断・区別そのものが、本来のイデオロギー(形態)の作用であり、2で従来論が用いる「(魔術的)イデオロギー」概念は、真のイデオロギー的形態を隠蔽するイデオロギー的表象にすぎません。]
1. 商品や政治経済学の論理が、記号の核心(シニフィアンとシニフィエの抽象的な等式関係および記号の差異的な組み合わせの中)に位置しているからこそ、記号は交換価値(コミュニケーションの言説)としても、使用価値(合理的な解読や社会的差異化の使用)としても機能することができるのです。
2. 記号の構造が「形態/商品」の中心に位置しているからこそ、商品は意味作用の効果をもつことができます。
それは、単に、商品にメッセージやコノテーションという意味が生じるということではなく、商品は形態そのものにより社会的交換の全体を統御する全体的な媒体、コミュニケーション体系として成立するということです。
「形態/記号」と同じように、商品(形態/商品)もまた、諸価値の交換を秩序づけるコードなのでです。
その内容が物質的(生産)であろうと非物質的(意味)であろうと違いはありません。
一方はシニフィアンのゲームを支配する規則であり、他方は交換価値のゲームを支配する規則です(両規則は同じコードの別の面での現われ)。
このコードこそが、政治経済学の体系全体へと一般化され、記号の領域でも商品の領域でも、あらゆる象徴的両義性を還元し、規則化された価値の等価性にもとづいて、その合理的な流通と交換を成立させるのです。
「まず独立した意識があり、その意識の前に(原始社会の)神話という内容があり、意識がそれを神話を信じる・内面化することで、共通の信仰によって集団が統合される」と考えられますが、実際はコードによる記号の交換と循環による運動そのものが集団を統合しているのです。
同じように、現代社会の基本的コード、すなわち政治経済学のコード「形態/商品」と「形態/記号」も、交換そのものを合理化、規則化し、人々を相互にコミュニケーションさせるのです(コードの法則と意味の制御の下において)。
[コードによって社会関係が組織されることは両者(原始、現代)に共通ですが、「一般的等価性によって社会関係を組織する」ことは現代の(政治経済学的)コードに固有のもので、同じという事ではありません]
機能的分業(労働)も分割(記号)も、人間を神秘化(背後には本来的で全体的な人間いるという疎外論的発想)するものではなく、人間を社会化し、抽象的・一般的なモデルに従って人々の交換を形成するものです。
「個人」という概念はこの一般的交換体系の産物にすぎず、「全体性」(意識の主体であれ歴史の主体であれその理想的なあり方としての)という観念も、この体系が生み出す効果、症候、投影でしかないのです。
回復されるべき自己の「全体性」に基く「疎外」という魔術的概念そのものが、イデオロギー的なのであると同時に、イデオロギーを「上部構造に属する意識内容」として捉える従来型のイデオロギー概念そのものが、すでに疎外された概念なのです。
[従来的な疎外という概念(社会的に作られた主体を自然化する)そのものがイデオロギー的であり、従来的なイデオロギーという概念(本来一体的な「対象-内容・物質性-」と「主体-意識・観念性-)」を二つに切り離し外在的なものとして対立させる)そのものが疎外的であり、自己破綻(というより共犯関係)しているという話。]
「疎外」という概念そのものが、意識主体の形而上学に基く不可能なものなのです。
「消費」という語に何らかの意味があるとすれば、商品が即「価値/記号(記号価値)」として生産され、同時に文化(記号)が商品として生産される段階を指します。
分断的な、「生産」(経済・下部構造)の専門家とイデオロギー(記号・文化)の専門家や、無際限な「全体性」の弁証法家は、このごく単純な現実に目を向けねばならないのです。
今日、生産され交換されるもの(モノ、サービス、身体、性、文化、知識など)の内、純粋に記号としてだけ解読できるものも、純粋に商品としてだけ計量できるものもありません。
記号化された商品の背後に、何らかの客観的な生産物そのものが決定的な審級として存在していると考えたり、交換価値の論理に従属した文化の背後に、変質される前の崇高な使用価値を持つ文化が決定的な審級として存在すると考えたりしますが、実際は、すべては一つの一般化された政治経済学に属しています。
この一般化された政治経済学の対象とは、商品でも記号でもなく、その両者が不可分に結びつき、(商品と記号という)固有の規定性としては互いを無効化しつつも「形態」としては存続しているようなもの、つまり「形態/対象」です。
そこには、使用価値、交換価値、価値/記号が収斂しており、そのあり方こそが、政治経済学のもっとも一般的な形態を示しています。
[形態/対象(forme/objet)は、以前、使用価値を支える対象形態(VU=forme/objet)として語られていましたが、ここでは、交換価値、記号価値・使用価値を統合する一般的対象形態と、一段上の概念に昇格しています。図式化すると以下のようになります。
一般化された政治経済学=〈形態/コード〉
↓
〈形態/対象〉(現代社会の最小分析単位)
↓
├─ 機能的差異として組織される → 使用価値(ベンツ=移動)
├─ 経済的等価性として組織される → 交換価値(ベンツ=1000万円)
└─ 社会的な記号的差異として組織される → 記号価値(ベンツ=成功者)
以前は、対象=有用な物という特殊な規定で扱われており、今回は、対象=商品・記号・有用物の規定が収斂する現代社会の基本的単位、という文脈として語られています。]
記号の形而上学
商品がその交換価値を自明(自然)なものとして呈示するように、記号は意味価値(valeur de sens)を自明なものとして呈示します。
政治経済学と同様に記号論も、それらの流通と構造的機能を記述するだけです。
先述の通り、交換価値の体系がもつ抽象性は、使用価値と欲求が生み出す具体的な現実性と客観的な目的性の効果に依拠しています。
これこそ商品の戦略的論理であり、第二の項(使用価値)は第一の項(交換価値)の従属項であると同時に、そのアリバイとなっています。
記号も同様の戦略的論理をもち、記号の恣意性(ソシュール⇒バンヴェニスト)という公理はこれによって覆されます。
[商品の交換価値 ← 使用価値による自然化。シニフィアンの意味価値 ← シニフィエによる自然化。]
記号の恣意性の本質はその無動機性(目の前の木は「日本語/ki/」「英語/triː/」「ドイツ語/baʊ̯m/」と恣意的に結びつく)にあるのではなく、特定のシニフィアンと、特定のシニフィエとのあいだに、等価関係を設定することそのものにあります。
象徴の恣意性の本質もその類推性にあるのではありません。
[ここでいう「象徴」は、古典的な記号論における記号の類推的な変種としての象徴。これら記号の根本的な対立物・代替原理としての「象徴」「象徴的なもの」「象徴交換」とはまったく異なります。つまり(古典的)象徴は記号と同じ批判対象です。]
恣意性とは、ある一つの離散的なシニフィアンと、一つの離散的なシニフィエとのあいだに、厳密な対応関係を打ち立て制度化することにあるのです。
この離散性こそが、「これ=これ」という記号の等式的な関係の可能性を基礎づける唯一の根拠であり、記号の合理性の原理そのものなのです。
[離散性とは、「言語は連続体を離散的な単位へ分節する」という構造言語学の設計特性です。例えば、色の場合、本来は連続的な波長(青━━黄━━赤)としてがありますが、境界を設定し分割して把握(青 | 黄 | 赤)します。これが「離散化」です。]
記号は、シニフィアンとシニフィエを等価的・鏡像的に対応させ、この対応関係に収まらないあらゆる意味の潜在的可能性を捨象し、一義的なSa=Séの関係へと普遍的に抽象化し、それ以外の意味をそこへ還元する装置として機能するのです(還元的合理化)。
具体的現実を捨象し記号が抽象化するという意味での合理化ではなく、等価性と意味作用という図式外のすべてのものを捨象する合理化です。
記号の合理性は、あらゆる象徴的両義性を排除し、代わりに固定された等式的構造を確立するものです。
記号とは、差異を選別する装置であり、それは排除することによって自らを構造化し、シニフィアンとシニフィエを相互に統制された体系内の位置へ割り当てます。
その結果、記号は、充溢した、肯定的で、合理的で、交換可能な「価値」として姿を現します。
こうして、意味がもちえたあらゆる潜在的可能性は、「構造」の刃によって切り捨てられるのです。
シニフィアンとシニフィエを一項ずつ対応させる関係は、曖昧で多義的な関係へといくらでも複雑化することができます。
一つのシニフィアンが複数のシニフィエを指し示すことも、その逆も可能ですが、恣意性の基礎となっている等価性の原理そのものは変わりません。
等価性が多価性へと変わっただけであり、て両義性(ambivalence)とは根本的に対立したままです。
そのような曖昧さによって意味作用が希薄化しても、記号の合理性の原理に問題は生じません。
複数の結びつきが生じても、シニフィアンとシニフィエが「離散性」を保っているかぎり、意味作用のコードは依然として意味を統制する体系として働き続けます。
これに対して、両義性(価値の断絶、記号価値の手前あるいは彼方への移行、象徴的なものの出現)だけが記号の読み取り可能性、その偽りの透明性を根底から問い直します。
[記号価値の手前とは、まだコードによって差異・意味・価値が固定される以前の、両義的・象徴的な関係。彼方とは、その固定された価値が、象徴的なものによって解消され再び等価的ではなくなる状態。]
両義性は、記号の使用価値(合理的な解読)と、記号の交換価値(コミュニケーションの言説)をともに破壊する。
[これは、先の「使用価値 | 交換価値 | 記号価値」の分類のうちの記号価値の下位概念としての、記号の使用価値と交換価値です。]
それは記号の政治経済学を終わらせると同時に、シニフィアンとシニフィエという規定(構造言語学的な記号モデル)そのものを終わらせます。
両義性と象徴的なものの論理において起こるのは、記号を成立させている等式(Sa ↔ Sé)そのものの解消です。
完全に統合され透明(自明)に見えれば見えるほど、それを作っている構造は不透明(問われなく)になる、つまりコミュニケーションの言説の内部では決して解明されない等式です。
もう一つのメディアである「商品」も同様にあらゆる価値を抽象的に等価化する等式の上に成立しています。
交換価値の水準でマルクスによってなされた政治経済学批判は、その射程を使用価値にまで徹底して拡張するならば、まさに商品と、それが暗黙に含む等式の解消となります。すなわち、一般的等価性の形態およびコードとしての商品そのものの解消です。
この同じ批判的解消を、「記号の政治経済学批判」においては、意味作用(記号)の領域にまで拡張しなければなりません。
[この記号の解消は、シニフィアンとシニフィエをそのようなものとして廃止することを伴う。しかしそれは、意味の素材や意味の作用を、何らかの神秘的な無へと廃絶することではない。意味の象徴的な作用もまた、音声的・視覚的・身振り的(そして社会的)な素材に対して働く。ただし、それはまったく別の論理に従っており、この点については後に再び論じる。]
指示対象の蜃気楼
記号が、意味の「離散的」で機能的な単位として現れるところでは、シニフィアン(記号表現としての「木」)はあるシニフィエ(意味概念としての「木」)を指し示し、さらにその両者からなる全体が、ある指示対象(現実としての「木」)を指し示します。
抽象的構造としての記号は、客観的現実の一断片を指し示すのです。
ソシュールを修正したバンヴェニストは、記号の恣意性を「Sa⇔Sé」から、「[Sa⇔Sé]⇔指示対象」の関係に移し替えます。
恣意的なのは、記号(Sa⇔Sé)とそれが指し示す事物との関係だと。
シニフィアンとシニフィエはいずれも心理的な性質をもち、主体の精神のうちでは同質性によって必然的に結びついているからです。
[言語内部の恣意性を外に排除することにより、言語は体系内部の差異によって決定するという構造言語学(ソシュール)の論理的必然性を確保できるとバンヴェニストは考えます。Sa⇔Séの結合は言語の歴史的起源においては恣意的ですが、私たちが言語を学び用いる場合は既に体系的で必然的な結合となっています(事後的必然性)。丸山圭三郎『ソシュールの思想』第三部第2章「シーニュの恣意性」においてこのソシュールの修正が徹底的に批判されています。]
しかし、恣意性を記号の外へ追放することは、問題を別の場所へ移したにすぎません。
他の言語学者や記号論者と同様、有縁性(現実と記号の間には何らかの根拠・類似・動機づけがある)と恣意性(その結びつきには自然的根拠がない)という概念によって形而上学的な仕方(記号以前に存在する指示対象-現実-という形而上学的実在論を前提)でこの問題に取り組んでいます。
実際の切断線は、記号(Sa⇔Sé)と現実の指示対象との間にあるのではなく、形態としてのシニフィアンと、シニフィエ+指示対象(概念+現実知覚という内容)との間にあります。
[ボードリヤールの分割は、「Sa=形態 | (Sé + 指示対象)=内容」です。]
指示対象は、シニフィエ以上に記号の外部にあるわけではなく、指示対象もまた記号によって統御され、事前に記号に応じて切り分けられているのであり、記号の背後に透かし模様のように在る現実以外のいかなる現実もありません。
指示対象は記号を反映しており、両者の同じ形態に属する深い共謀関係を、話す主体は、言語と現実との間の完全な適合関係ととらえています。
(バンヴェニストはその話者の素朴な感覚を否定し記号と現実の間の恣意性を論じますが)話者はある意味で正しいのです。
バンヴェニストが想定する恣意性は存在せず、現実の方がすでに記号形態によって構成されているからです(つまり現実は記号に適合するように生じているため、話者の素朴な感覚も結果としては正しい)。
ソシュールに反し(バンヴェニストのように)、シニフィアンとシニフィエが不可分だとするなら、シニフィアンから指示対象に至るまでの連鎖が連続することになります。
したがって、次の二通りの言い方をしても、結局は同じことなのです。
1.連鎖の端から端まで、全面的に「有縁性」が支配している。
2.逆に、この連鎖全体を支配するのは、記号の恣意性(規約性)である。
[同じコード支配を、成立根拠の側(2)から見るか、作動結果の側(1)から見るかの違いです。恣意性の側から見る場合、世界の分節そのものに記号以前の自然的必然性はなく、どのように切り分けるかはコード(記号)の規約・恣意性によります。有縁性の側から見る場合、Séも指示対象もそのコードに従って同じように分節され、Sa→Sé→指示対象の全体に形式的な必然的対応が生じます。]
「具体的なもの」は、それ自体として存在することはなく、その知覚そのものにおいてシニフィアンの抽象性と離散性に依存しています。
シニフィアンの「スペクトル=亡霊」は世界全体を覆っているのです。
シニフィアンは世界をスペクトル的に分割・分析すると同時に、亡霊(スペクトル)のように世界に憑きまとうのです。
[スペクトル的に世界を分析分解(分節)すると同時に、その分節原理が見えない亡霊のように世界全体の背後に憑きまとう、という言葉遊び。]
記号と現実世界との分離とその対応という思考が虚構(一種のサイエンス・フィクション)なのです。
等価性、抽象化、離散化、分節化という記号の論理は、シニフィエだけでなく指示対象をも等しく包み込んでおり、「世界」なるものは、実際には記号の効果、記号の縮図的な投影にすぎません。
「シニフィアン」の投影として機能する「シニフィエ=指示対象」という単一の内容が、シニフィアンの戯れを展開させると同時に、それがあたかも独立した現実に基づいているかのように見せる「現実効果」となるのです。
意味作用の論理においてそれ自体の作動や構造には、指示対象は本質的には介入していないのと同じく、政治経済学の論理においてそれ自体の作動や構造には、欲求(ニーズ)および使用価値は本質的には介入しておらず、排除されています。
それでいて欲求と使用価値は政治経済学の「形態」のうちに全面的に組み込まれており、指示対象も同じく記号の論理のうちに全面的に組み込まれています。
二つの支配的な形態(交換価値の体系、シニフィアンの体系)は、自らに指示対象的な根拠、内容、アリバイを与えます。
どちらの場合にも、支配的な体系とその外部的な根拠(アリバイ)との結びつけは、欲求および有縁性という形而上学的徴によって行われます。
[アリバイの類同的対応としては「欲求+使用価値」≒「指示対象」ですが、それを自然化する原理の対応としては「欲求」≒「有縁性」です。「欲求(ニーズ)が異なる階層で用いられています。」]
古き良き心理学の全体が、この構造物を支えているのです。
[古き良き心理学とは、まず主体の前に現実の対象があり、それが知覚・生きられた経験として受け取られ、その知覚内容が心の中で概念化されてシニフィエとなり、さらに記号によって表現される、というモデルです。現実→知覚→概念→記号という一方向的な流れを前提とし、現実・意識・記号を別々の段階として結びつける古典的な観念論・連合主義的心理学を指します。]
有縁性を否定するソシュールの場合であれ、象徴においてそれを相対化あるいは程度化する場合であれ、それを肯定するバンヴェニストの場合であれ、現象的なもの(指示対象)と記号との接合を考えるために用いることのできる唯一のものは「有縁性」という魔術的な概念です。
[例えば、Sa(天秤という視覚的形象)⇔Sé(正義という概念)という象徴的対応がある場合、天秤は左右を釣り合わせるもの→公平や均衡→正義という類比・連想的な理由づけがあり、有縁性がある程度あります。恣意性と有縁性の中間に位置するものです。]
記号と世界の間にありもしない分離を抽象的・形而上学的に設けてしまった以上、魔術的な橋渡しが必要になります。
政治経済学も同様、主体と対象を分離したものと設定した以上、欲求という橋が必要になります。
記号と現象的な指示対象との区別が成立するのは、記号と生きられた世界の双方を同時に観念化・抽象化する形而上学的な観点によってであり、一方を形態、他方を内容とし両者を形式的に対立させます。
このような虚構の区別を設定してしまえば、それを解消するために用いることができるのも、虚構の概念だけです。
実在しない分離を埋め合わせようとする概念が何をも意味しない空虚なものになるのは必然です。
この区別は戦略的であり有効に働いており、それら魔術を解くことは、記号の恣意性と有縁性をめぐる疑似問題を解消する唯一の方法であると同時に、あらゆる記号論そのものの成立可能性を破壊することにもなります。
有縁性や欲求という空虚な概念が描き出すのは、(戦略的に)形式的に対立させられた二つの項の背後で作動する一種の循環(同一の形態の二つの様態間に生じる鏡像的かつ同語反復的な過程)です。
[この二項対立は、先述の形而上学的基本図式「主体|対象」と「記号|現実」のことではなく、その政治経済学的具体的形態「VE体系|VU体系」と記号論的具体的形態「Sa|Sé+指示対象」の方を指しています]
内容(さらに言えば現実)を迂回し、一つの体系的な抽象(交換価値やシニフィアンの体系)を自身で再生産しているにすぎません。
欲求(使用価値)は政治経済学の外部にある具体的現実を構成するものではなく、交換価値の体系によって誘発され同一の論理に従って作動するするものであることを見てきました。
交換価値と使用価値という二つの体系が同一の「形態」の中で結合されているのだとすれば、欲求(ニーズ)という概念が何の分析もしていないことは明らかです。
見せかけの分節と接合関係のもとで、同じ一つのモデルが全体を循環し、その内部的作動の描写にすぎません。
欲求(ニーズ)についての同語反復的な定義「人々がある物を使用価値として自分のものにするのは、それを欲求しているからだ」が、その証左です。
バンヴェニストの有縁性においても、同じ循環と同じ心理学的な同語反復が見られます。
1.SaとSéの結びつきは人々の心理的合意(話者間で共有された心理的対応)によって正当化され、2.そのSéが対応する「現実」の客観性は人々の知覚上の合意によって正当化され、3.その知覚上の合意はSaとSéを結ぶ心理的合意によって支えられている、という循環論法です。
[2.は、複数の主体が同じものを同じ対象として知覚しているという一致によってその対象が客観的な現実として扱われる、ということ。3.は、人々が同じSaとSéの結びつきを共有しているから現実も同じ意味で知覚しやすくなる、ということ。]
現実によって記号を正当化し、同時に記号によって現実を根拠づける円環です。
当にこの循環性こそが、あらゆる形而上学的(イデオロギー的)な作用が有効性を発揮する秘密そのものなのです。
「欲求」が主体から自在に湧き出す根源的なものではなく、交換価値の体系によって規定された使用価値の体系によって機能的に還元されたものであるのと同様、「指示対象」も自律的で具体的な現実を構成するものではなく、記号の論理によって設定された分節を、事物の世界(知覚の現象学的世界)へと外挿したものにすぎません。
[数学的な「外挿」は、ある範囲で成立している規則・関係をその範囲の外にも延長して当てはめることです。それを比喩的に用い、記号内部の分節原理を現実世界の側にも延長して適用し「現実も同じ区切り方でできている」ように見える、という話です。]
それ(指示対象としての世界)は記号を通して解釈された世界、潜在的に分節されかつ必要に応じ分節しうる世界です。
現実の机など存在せず、もし机がそれ自身として同定可能(つまり存在)であるならば、その机を自己同一的なものとして確立する分節作用によって名指され抽象化され合理化されているからです。
[ボードリヤールは註で、”「現実」とは、記号が自分自身を象徴的な解体から守るために作り出す幻想である。”と言い、記号の背後に想定される現実(現実を実体として崇拝するフェティシズム)を批判します。]
この意味でも指示対象とシニフィエとのあいだに根本的な差異はなく、両者が自然に混同されていることは徴候的です。
指示対象はシニフィエの実体的な裏付けであろうとしますが、シニフィエを抽象的に延長したものにすぎず、シニフィエがもつ価値以外は何ももちません。
使用価値は交換価値の体系によって統御されている形式的な同質性をもつにもかかわらず、交換価値に対して「自然的」な保証を与えるアリバイとして機能するのと同様、シニフィエ+指示対象はシニフィアンと同一の論理形式によって統御されているにもかかわらず、シニフィアンに対して「実体的」な保証を与えるアリバイとして機能しているのです。
ソシュールの「一枚の紙」の理論ように、シニフィアンとシニフィエを表裏一体の対等なものとすることは、意味作用の戦略的仕組みを覆い隠すことになります。
この戦略は、二項の非対称性とその一方の支配的項が作り出す循環の上に成立しているからです。
シニフィエ(+指示対象)は、根源的な現実、価値の実体、そしてシニフィアンの戯れが繰り返し回帰してくる最終目的と考えられています(デリダによる一般的な記号論に対する批判、超越論的シニフィエ)。
同様に、使用価値もまた、経済過程の起源かつ最終目的であるかのように提示され、欲求は経済を動かす根本的動機とされ、交換価値の循環は本来の目的には属さない迂回路であるかのように見られます。
[この相同性は、「表向きには内容が目的として特権化されている(実際には形式が体系を支配する)という構造」を指しています。VU/VEはSa/Séのように一枚の紙(対等)ではありません。商品と異なり記号は、「ソシュールの対等性は戦略を覆い隠す」「一般的な記号論ではSéが形而上学的に特権化され戦略を覆い隠す」という二重の隠蔽構造です。]
しかし実際には、内容(使用価値およびシニフィエ)に与えられたこの形而上学的特権は、形態(交換価値およびシニフィアン)がもつ真の特権を覆い隠しているにすぎません。
交換価値とシニフィアンこそが、それぞれの合理的な体系全体を組織する根本原理なのです。
この戦略は現代社会のあらゆる水準で、サイバネティクス的なプログラミングから官僚制の諸システム、さらには「消費」のシステムに至るまで効果を及ぼしています。
[具体的内容がシステムの根拠に見えるが、実際には形式的システムの方が内容を作り出し、分類し、処理可能なものにしているという点で、技術・行政・経済の三領域も共通の戦略に基く、という話。]
外示(デノテーション)と共示(コノテーション)
メッセージの水準では、これと同じ形而上学が外示と共示という概念のうちに作動しています。
外示は、言語記号であれ写真や図像であれ、その全体が「客観性」という神話、「あるシニフィアンが特定の現実と直接に対応している」という神話に支えられています。
[外示:直接的に何を示しているか。共示:そこに付加される二次的意味。例えば「青」の外示は「青い色」、共示は「若さ」。]
イメージの場合には、シニフィアンとシニフィエが離散的な単位ではなく連続体をなし複雑ですが、二つの項を特定して対応づけるという原理は変わりません。
記号として切り取られたイメージに対して、ある構成的な現実(記号の外部として仮構されたアリバイとしての現実)を対応させることが可能になっており、意味全体を合理化し統御することができます。
[例えば、言語記号なら、Sa「猫」⇔Sé「猫という概念」というように離散的な単位として切り分けられますが、写真(イメージの一種)では、猫の耳、餌、背景、光、姿勢など無数のものが連続的につながっていて、「ここまでが一つのSaで、一つのSéに対応する」と明確に切り分けることはできませんが、どのような分節であれ画像(イメージ)をある「現実」と対応させるという等価化の原理自体は記号と変わりません。]
共示のシニフィエの場合は、最初の意味作用(外示)から切り離され、新たな意味作用の過程(共示)が成立すると、その新しい過程における「外示効果」へと再び変わります。
[パスタ屋の広告なら、広告写真イメージSa₁→「トマト、パスタ、買い物袋」Sé₁という外示です。共示では、この一次の記号全体が二次の意味作用のSa₂になり、「イタリアらしさ」というSé₂を意味するものとなります。
Sa₁ / Sé₁
─────
Sa₂ / Sé₂
という図式です。]
パスタの広告イメージの共示の「イタリアらしさ」は、見かけ上は一つのシニフィエ、一つの概念的内容などであるように見えますが、実際には、それ自体が一つのコードを構成しています。
「イタリアらしさ」は何らかの意味内容そのものなのではなく、さまざまな記号を一定の位置に割り当て、相互に分類し、その関係を社会の中で反復・流通させる意味秩序そのものです。
そこで決定的なのは、何が語られているかという内容ではなく、諸記号をどのような関係に配置するかという「形態」であり、そのような秩序を神話と言っても良いでしょう。
[ここでの「神話」は、ものごとを一定の意味関係に配置してしまう社会的コードの運動であり、それに基き構成(仮構)されるものが記号の外部・指示対象としての(アリバイ的)現実です。]
もし、共示がイデオロギーの場であるとすれば、それは決して、客観的な外示あるいは記号の基底構造としての外示の上に、別種の意味を接続するからではなく、共示がまさに、シニフィアンどうしを連鎖させ、交換させる戯れであり、コードを際限なく再生産していく過程だからです。
イデオロギーは内容ではなく「形態」に結びついていており、それはコードへのフェティシズム的情熱です。
[従来のイデオロギーは、マルクスの物神化(フェティシズム)に見られるようにシニフィエ(意味内容)のフェティシズムです。例えば、商品というSaの背後の社会関係の産物「価値」「威信」「有用性」などのSéをモノの中に実体化することです。しかし、真のイデオロギーはシニフィアンのフェティシズムであり、それは差異のコードそのものに熱狂しその体系に従属することです。例えば、高級車Saの内の成功Séを実体化することがイデオロギーなのではなく、高級/大衆や成功/失敗という差異の体系そのものに対するフェティシズムがイデオロギーです。]
以上を踏まえれば、外示は共示と何も変わらないことが示せます。
先述のように、外示のシニフィエ、つまり「客観的な現実」そのものが、一つのコード化された形態にすぎず、外示の過程にも、共示と同じような全面的イデオロギーが浸透しているのです。
さらに言えば、外示とは、もっとも見事で巧妙な共示にほかならない、と言えます。
[(先々述)客観的現実そのものがコードの効果である→(先述)共示もコードの連鎖・再生産である→外示も共示も結局コード作用であり本質的に変わらない→外示は「最も巧妙な共示」にすぎない。という論理の流れです。]
バルトは『S/Z』でこう述べています。
「外示は最初の意味なのではなく、最初の意味であるかのように装っているにすぎない。実際には、それは読解を根拠づけ、同時に閉じる「最後の共示」である。つまり外示とは、言語があたかも自然そのものへ戻り、単純で字義的な〈真実〉を語っているかのように見せる、高次の神話なのである。」
[例えば、街角に赤いランプが点灯している場合、外示は「赤い光」であると考えます。しかし「これは信号機である」「赤という区別された色である」「点灯している」という認識自体、すでに知覚や社会的分類のコードに拠るものです。赤は「止まれ」も意味するため、 普通は「赤い光」が自然な外示で「止まれ」が共示だと考えます。しかし、「赤い光」も文化的コードによる解釈にすぎず、「止まれ」と同種のものです。つまり、共示=解釈だと自覚されている意味、外示=解釈であることを忘れさせるほど自然化された意味、という話です。だから、外示は最も巧妙な共示な訳です。]
これは使用価値についても当てはまります。
「有用性」はバルトのいう「字義性」と同じく自然そのものではありません。
それ(有用性のコード)は他の様々な可能なコード「美的コード、道徳的コードなど)を差し置いて、自然に自明であることを成立させるものです。
自分だけが合理的なものだと特権付け、他のコードは多かれ少なかれイデオロギー的な目的を合理化したものにすぎないように見させます。
外示(記号領域)であれ使用価値(政治経済学領域)であれ、そこにあるのは「現実/自然」として自明化されたものと、コードとの共謀関係です。
そして、対象の(字義のように)理想的な目的とされる使用価値が、交換価値のネットワークから絶えず立ち現れてくるのと同じように、〈具体的である〉〈現実的である〉〈外示的である〉という効果もまた、コードに基く共示のネットワークが複雑に重なり合うことから生み出されます。
スペクトルを構成する色の重なりから白色光が生じる(加法混色)ように、外示という白色光(基底)は、共示というスペクトルの戯れにほかなりません。
外示/共示という区別は、それ自体がイデオロギー的なものです。
外示が他の共示的な意味作用から区別されるのは、イデオロギー的な過程の痕跡を消し去り、客観的で無垢なものとして提示し直す機能によってです。
外示は、イデオロギー的な共示に対置される客観的な項などではなく、むしろイデオロギーの過程そのものを自然なものとして見せる、最もイデオロギー的な項、バルトの言う「高次の神話」なのです。
交換価値に対する使用価値も同様の戦術的機能を果たしており、記号作用と政治経済学という二つの領域は、イデオロギーの全体的な過程をめぐって、互いを照らし合う(互いが互いの隠れた構造を可視化する)のです。
[先述の有用・美・道徳などのコードは対象を一次的に意味づけるのに対し、科学・言語学などは、すでに意味づけられた対象や記号全体を新たな「研究対象=Sé」として記述するメタレベルのコードです。そのため、そのイデオロギー性を示すには、共示とは逆向きの以下の式が必要になります。
Sa/Sé
───
Sé /Sa
科学も学問も客観的なものではなく、自分の対象を自らのコードに拠って構成するというわけです。メディア(主に報道)はこのメタレベルのコードを社会的に拡張したものであり、「歴史的出来事は、メディアによって次々とコード化されていくなかで揮発してしまう。 出来事そのものが、コードの単純な操作によって作り出され、操作されるのであり、さまざまな言説の組み合わせが生み出す効果となる」のです。]
記号を超えて~象徴的なもの
記号の政治経済学を批判する以上、その克服の可能性を見なければなりません。
記号価値(valeur/signe)の意味作用の過程を超えることが問題となります。
一般に、記号(その抽象的合理性と恣意性)を批判的に乗り越えようとする立場は、二手に分かれます。
一つは、シニフィエ(あるいは指示対象)の名において、シニフィエをコード=シニフィアンの支配から解放しようとする立場。
もう一つは、シニフィアンの名において、シニフィアンをシニフィエの支配から解放しようとする立場。
第一の立場(シニフィエの側に立つ立場)は、意味に道徳的・形而上学的な地位が与え、記号はその形態を犠牲にして内容の側から価値づけます。
こうした意味作用の「自然哲学」は、必然的に「指示対象の観念論」を伴います。
記号の抽象性と恣意性を、具体的現実(抽象的コードに還元される以前の豊穣で流動的な生の現実)の名において批判する立場です。
そして、シニフィエ(主体、歴史、自然、社会的矛盾など)を、その流動的で弁証法的で真正な姿において、直接に立ち現れさせようとします。
この真正な価値の多くは、実際にはブルジョワ的個人主義の価値体系から汲み取られたものにすぎません。
それは、システムによる疎外をめぐる壮大な道徳的連祷句である、システムの拡張と共に、一種の普遍的言説となっていきます。
[Séの側に立つ立場とは、「現代社会では制度・言語・官僚制・商品・メディアなどの抽象的コードが人間を覆っている⇒そのため、本来の人間的経験、自然、歴史的主体、真の欲望などが疎外されている⇒この抽象的媒介を取り除けばコード以前の真正な現実(Sé=指示対象)を回復できる」というものです。]
シニフィアンをシニフィエ(あるいは指示対象)の名において批判し、記号の形式的な戯れに対する理想的な対抗物として「現実(リアル)」を据えようとする誘惑は、先に「使用価値の観念論」として分析したものと全く同じです。
(両者の共謀関係を見ずに)交換価値の体系に対抗して使用価値を救おうとする観念論です。
共に、「内容」を超越論的な根拠として救済しようとする人間主義です。
「現実」を解放しようとするこの衝動の中に、すでに記号作用のイデオロギーが全面的に内在しています。
政治経済学のイデオロギーが、使用価値を独立した理想的領域として立てることのうちに全面的に内在しているように。
記号の政治経済学を乗り越えようとする企てが、記号を構成する二項のどちらか一方を足場にするかぎり、記号の論理を成立させている分離そのものを追認することになり、結局は記号の恣意性(イデオロギー)を別の形で再生産する運命にあります。
記号に根本的な問いを突きつけうるのは、記号が成立する(Sa/Sé が独立した項として構造的に割り当てられる)その瞬間に排除し消し去ってしまうものです。
記号作用のプロセス(意味を作り出す巨大なシミュレーション・モデル)によって廃棄されるものは、「現実」や指示対象(記号の外部へと追いやられた価値の実体のようなもの)ではありません。
それは「象徴的なもの(ル・サンボリック)」です。
記号につきまとい、シニフィアンとシニフィエの形式的な相関関係を解体し続けるのが、この「象徴的なもの」にほかなりません。
「象徴的なもの」は、記号的意味作用を覆す別様の意味生成の潜在力であり、意味作用の通常の仕方では名指すことができず、暗示や侵犯によってしか名指されえません。
[暗示は、例えば詩のような特殊な記号の使用によって、コードの限界を言語の内部から示すもので、侵犯は、ポトラッチ的な贈与などの行為によってコードそのものを実際に破るものです。]
意味作用(あらゆるものを自らの意味作用の論理に従って名づける)は、価値しか語ることができないからです。
[記号作用により意義として確定(自己同一的な項として固定)された瞬間、即、価値(体系内の位置)が与えられます。それを圧縮して「価値しか」と述べています。]
しかし、「象徴的なもの」は価値ではなく価値の喪失であり、価値と記号の肯定性そのものの解消なのです。
問題となるのは記号の肯定性による「価値の獲得」です。
[肯定的な定立によってある項が自己同一性を獲得し差異が決定⇒体系内での位置が決定⇒価値の生成。]
記号の外部について何も語ることはできず、ただそれが両義性(アンビヴァレンス)である、分離された項として区別し肯定的なものとして定立することが不可能である、と言えるだけです。
[記号という形式では、記号形式自体を超える関係様式を、肯定的対象として記述することはできません。]
この両義性の上に、価値(交換価値や記号価値など)の交換とは根本的に異なる種類の交換(象徴交換)が成り立っています。
この交換は、記号が成立する際に、次の二つが同時に制度化されることによって排除されます。
1. 分離、すなわち差異化の構造。
2.二項の間に設定される肯定的な関係。両者の構造的な結合であると同時に、二項の分離の永久化。
この結合は、シニフィアンとシニフィエの間に引かれた、構造的包含を示す横棒(Sa/Sé)によって客観化されています。
[1.の分離は、個々の記号間の分離(Sa₁|Sa₂|Sa₃…、Sé₁|Sé₂|Sé₃…)を指します。2.の二項は直接にはSa/Séを指しますが、これまで論じられてきた使用価値/交換価値、形式/内容など、価値体系によって分離・確定される二項構造一般を含むものです。]
[ここで長い註が入ります。Sa/Sé の横棒は「二項を結ぶ線」ではなく、実は象徴的な両義性を抑圧・排除する境界線なのだということ。また、ラカンのS/s(Sa/Séの書き換えでシニフィアンの優位性を視覚化するために大文字/小文字にしている)の横棒の下には「抑圧された意味内容」が残り、まだ甘い。記号によって排除されたものを、隠れたSéや潜在的意味として保存しては駄目で、さらに潜って、意味内容として固定できない「象徴的両義性」を置かねばならない。と言う主旨です。]
記号を価値たらしめるのは、この肯定的な関係です。
恣意性や有縁性の概念は、すでに成立している記号の論理の内部へと問題を移し替えることによって誤魔化すものであり、記号を合理的なものとして成立させているもの(真の恣意性あるいは真の有縁性)とは、この肯定化そのものなのです。
この肯定化とは、二重の抽象化を通して、あらゆる両義性(具体的意味関係)を還元することにほかなりません。
[この二重の抽象化は、たぶん先の1.の分離(離散化)と2.の二項化(分離かつ結合)を指すものと思われます。]
記号の有縁性とは、記号を構造的に結晶化させる戦略(Sa/Séの/はその装置)であり、価値を固定することによって両義性を消去するのです。
この(真の)有縁性は、記号形式の(真の)恣意性を通じて実現されます。
[この恣意性はソシュール的な記号論理内の恣意性を指すものではなく、そもそも意味を Sa/Sé という二項へ分割し、両義性(象徴的なもの)を排除して記号形式を成立させること自体が恣意的だという話です。]
恣意性と有縁性は矛盾するものではなく、戦略的に相補的で合理的なものなのです。
交換価値と同じく記号価値も自らがもつ還元的な抽象性を、十全に認めることはできないため、自らが抑圧したものを排除しつつ(無害なものへと還元し)自らの働きのなかへ取り込もうと試みます。
それこそが「現実(指示対象)」であり、それは常に「象徴的なもの」のシミュラークル(擬像)にすぎず、象徴的なものが記号によって還元された形態にほかなりません。
この指示対象という蜃気楼を介して、記号は自らを全体性として見せかけ、抽象的な超越性の痕跡を消し去り、あたかも自らこそが〈意味の現実原理〉であるかのように装うのです。
意味作用とは、肯定性と価値のもとに意味を統制する機能であると同時にテロル的組織化であり、その点で物象化(Réification)に似ます。
[Réification(物象化=関係を、独立した客体・属性のように固定すること)、Fétichisme(物神化=その客体・属性に、それ自体で価値や力が備わっているように見なすこと)]
それは、意味を原初的に客体化する場であり、意味を枠にはめて統制する社会的・政治的な威圧へと至ります。
権力システムがもつ抑圧的・還元的な戦略のすべては、すでに記号の内的論理のなかに含まれています(交換価値と政治経済学の内的論理のなかの戦略と同様)。
だからこそ、理論と実践の双方にわたる全面的な革命によって、記号と価値を犠牲にし「象徴的なもの」を取り戻さなければならないのです。
記号もまた、燃やされなければならないのです。
[商品や交換価値だけを燃やして(=革命)終わると思うな。記号もまた燃やさなければならない。という締めです。]
おわり
