ベルクソンの『時間と自由』第二章

哲学/思想 心理/精神

一章のつづき

第二章、意識の諸状態の多様性について

一節、数的多数性と空間

「数」は、一と多の総合、単位の集合です。
単位は、相互に同一なものであると仮定されており、個体の差異は無視し、共通のもののみ考慮します。
個体の特徴に注視するなら、総合が成立しません。
しかし、単位(総合の部分)である以上、諸単位が同一であると言っても融合して唯一の存在となってはならず、何らかの区別が必要になります。
例えば、完全に同じ羊が群れを成していたとしても、空間の中に占める位置として異なっており、それが「群」の成立条件になっています。
これを観念的に把握する場合、二つの途が考えられます。
理念的な空間内に50の羊のイメージを並置するか、一頭の羊のイメ-ジを50番目まで繰り返すか、のどちらかです。
前者は空間の内に、後者は持続(いわゆる時間)の内にあるように思われますが、そうではありません。
後者は、次々現れる一頭の羊のイメ-ジを記憶によって保持し、記憶によって並置しているにすぎず、あくまで空間的なものであり、純粋な持続においてあるのではありません(喩えるなら、映画のセルロイドフィルム50コマに50匹の羊が並んでいるような、いわゆる空間化された時間です)。
物的対象を数えるという心的操作は、このような空間的並置の表象を前提せずには成立しません。
純粋な時間内において、「総和」は成り立ちません。
次々現れる一瞬間を空間内のどこかに位置付け、保持しておかなければ、継続的な加算は不可能です。
子供の頃はボールを並べて数を扱い、やがてそれは点となり、最終的には具体的なイメージは消え、抽象的な数のみが残ります。
この瞬間から、数は想像されることも思考されることも無くなり、計算に必要なただの記号、数の表現である「数字(数の”字”)」となったのです。
しかし、数字や記号としてではなく、数そのものを思い描こうとすれば、その表象の為にはどうしても空間的(外延的)に展開されたイメージに立ち戻ることになります。

【ミニ解説】
ここで言う「持続」とは、私たちが直接捉えている生(なま)の時間の流れを指し、「時間」とは、その持続を空間化したもの(つまり空間化された持続)を指しています。漢字では「時の間」と書いて「時間」ですから、日本語としては元々空間的な意味合いが含まれています。本章の内容は、空間化の過程で持続(本来の時間)を見失い、時間(空間化された持続、記号化された持続)で全てを捉えようとする既存の時間の概念に反省をうながそうとするものです。
【解説おわり】

数は単位(単一性)を総合した集合体です。
単位には二種類あり、ひとつは、それ自体は不可分で自分に自分自身を加えることによりある数の構成要素となる決定的単位、もうひとつは、それ自体は多数(可分)でありながら知性の作用によって単一性を貸与される暫定的単位です(例えば数”1”は前者、数”10″は後者)。
しかし、さらに深く考察すると、全ての単位は知性の作用による暫定的単一性であることがわかります。
数は無際限に分割していくことが出来るため、決定的単位など確定できず、それもまた暫定的(仮設的)なものでしかありません(例えば、”0.1″を構成諸単位とする多数総合的単位”1”)。
必要に応じて便宜上、そう見做している(仮設している)にすぎません。
精神的直観(非延長)においては単一でありながら、空間(延長)においては多数であるという暗黙の前提によって、数は成り立っています。
“3”を暫定的単位、”1”(三つ)をそれを構成する決定的単位(厳密に言うと暫定的な決定的単位)とするのは、「数3自体」や「1の内の多数性」の用途よりも、「3の作られ方」に関心が向いているからであり、関心が変更されれば、その仮設性、暫定性は解除され、単位は別の軸に移ります。
例えば、”3”の構成単位を”1”から”1/2″に飛躍させた場合、今度は”1/2″が(仮設的に)分割不可能な単一の要素である決定的単位と成ります。
ある特定の構成単位に関心を向け、ある一つの数を概念化することによって、その数の単一不可分性を生じさせます。
その数を取り扱っている間は、不可分のものであり、別に関心が移ると、飛躍的に別の不可分な数へと移動しますが、これは空間の空隙によって分け隔てられる数学的な「点」、離散的(非連続的)なものとして表現されます。
そして、ある「点」から関心を失い注意が離れるにつれ、空虚な空間に並ぶそれら数学的点の列は、互いに結びつこうとするかのように空隙を埋め、点(非連続)は一本の線(連続)となります。
だからこそ、ある一定の規則に従い構成されたはずの数が、任意の規則に従い分解することが可能になるのです。
思考の対象となっている時の形成途上の数・単位は、分割不可能で離散的(非連続的)、思考された後(形成後)の客観化・事物化された単位は、無限に分割可能で連続的です。
空間とは、精神が数を構成するための素材であると同時に数を配置する場(媒体)です。

本来、精神に属するのは、注意を集中させることによって、その場から部分を引き離すこと(数の形成)です。
しかし、その部分は保持され、事物化され、後に他の部分と結合し、様々な形の分解が可能になります。
主観的なものとは、現在十全に認識されているもののことであり、客観的なものとは、絶えず現れる新しいものによって現在のものが置換されうるという形で認識するもののことです。
分割不可能な個体の中に、単なる潜在可能的ということではなく顕在現実的に、その下にある要素群を統覚(個々の知覚を反省的・再構成的に統合した意識内容と機能を指す)することが、客観性と呼ぶものです。
この主観と客観の関係は、先に述べた単位の主観・客観性に対応します。

【ミニ解説】
私たちが数を扱う際、直接的に捉えている数や単位の固有性を捨象し、共通の機能のみを取り出します。
固有の数は「空間」という等質的媒体に並置され、無際限に分割可能な相互外在的な単位・数に変換されます。
ある特定の法則のもとで形成されたはずの固有の数の観念は、構成された後、ある種の”痕跡”のようなものとして共通化され、この空間上で、任意の法則のもとでの分解が可能となります。
演算の対象となりうるのは、生成した瞬間の単位そのものではなく、それらが(空間というフォーマットに)残していった記憶的な痕跡です。
この「空間」は、単位の二重性(不可分性と可分性の統合)によって成り立っています。
精神による「関心」が、暫定的に、不可分なものと可分なものという二重の単位をを決定します。
喩えるなら、無数にある無秩序な星の中から、関心が「ひしゃく(北斗七星)」に向く時、ひしゃく形は不可分なある特定の構成を持つ単位ですが、同時にそれは、さらなる分割、あるいは加算が可能なものとしても存在しており、関心の向け方によっては、ひしゃくが分割された「おわん」に成ったり、加算された「クマの尻尾(大熊座の部分)」になったりする可能性を持ちます。
ある特定の規則に従う構成を持つ不可分な単位が直観的に表象され個別性を与えられた後(数単位の観念の形成過程)、すぐに「空間」という形式上に居場所を与えられ、任意の規則に従う分割や加算が可能な別の構成単位へと成ります(数単位の観念の分解過程)。
形成途上の数と、形成され終わった数とを区別する必要があります。
精神の一次的な機能は、継起的に関心を限定していく過程であり、その後の二次的な機能として、限定された諸部分の痕跡が保存され、他の部分と並置できるものとして均質化され、分解や加算が適用可能になります。
「空間」は精神が数を形成するための素材であると同時に、数を位置づける環境(媒体)なのです。
「主観的なもの」とは、それを完全に認識(明確な分割)できているように思えるものであり、「客観的なもの」とは、現在の(主観的)分割において認識されている以上のものがその内裏に存在しており、常に変化しうる不完全なものであると認識されているものです。
この恒常的な不完全性(つまり客観性)が、自由に物事を分割したり加算したりできる客観的空間なるものを成立させます。
質的多様性が数量的多様性に均質化されることによって、含有関係や連続性が生じ、一つの秩序、理想的空間にすべての事物が配置されます。
【解説おわり】

具体的な物を数える時、直接的に眼に見え触れられるような物の場合は眼前の媒体(空間)のうちで扱えばよいだけですが、直接的に観たり触れたりできない物や、心の内のものを扱う場合、記号や象徴に依る形象化に頼らねばなりません。
例えば、遠くの足音が近付いてくるのを数える時、想像的な外的空間の路面上に生じる靴音をイメージし把握しています。
しかし、多くの人は、その音を想像的空間ではなく、持続(時間の流れ)のうちに数えていると思い込んでいます。
しかし、これは(楽譜のような)空間化された時間の中に、等質化された”先行する靴音の痕跡”と”現行の靴音の痕跡”とその間の”空隙”を整列的に配置することで、靴音を数えているのであり、純粋な持続の中においてではありません。
純粋持続(生の時間)において空隙など存在し得ず、数を数えるために必要不可欠な空隙は、等質的空間を前提にしなければなりません。
特に、靴音などと異なり、空間的性質を持たない心の奥底の意識的事象を数えるためには、この空間化が必須です。
直接的に数を形成する物質的対象の多様性と異なり、意識的事象の多様性は、記号的・象徴的表象を媒介(等質化、空間化)することで数えられているということです。

物質の第一性質と考えられている不可入性(二つの物体が同時に同じ場所に存在することは出来ない)は、感覚によって捉えることは出来ません。
目の前で物体Aに物体Bが侵入しても、物体Aの粒子の隙間にBの粒子が入り込んだと考えるだけであり、不可入性を断固として認めないために、この細分化の操作を無限に続けるだけです。
物理学的な化合や混合によって、感覚的には物体の不可入性は破られており、結局の所、「不可入性」は物理的必然性ではなく、論理的必然性です。

【ミニ解説】
「論理」を成立させるには、いくつかの暗黙の規則が必要であり、これらは不可入性の条件とほぼ一致しています。
1.網羅性…その外部に何も残らないように、すべてのものがひとつの大きな容れ物の中に統括されていること。
2.排他性…その空間の中でそれぞれのものの分類が、互いに重複してはいけない。
3.一貫性…分類されたものがすべて同じ階層にあり、その階層を越えたメタレベルの分類をしてはいけない。
人間はこの論理の規則に合わせて現実を都合よく解釈(誤解)しているにすぎず、それによってこぼれ落ちる重要なものをベルクソンは救おうとしています。
【解説おわり】

この「不可入性」という論理的要請は、空間の観念と数の観念の連結(表裏一体の関係)を暗に示しています。
数の観念は空間上での並置を前提としており、例えば「二」という数は、空間における二つの異なる位置の表象です(つまり不可入性を前提にしないと数の表象が成立しない)。
不可入性は物質の第一特性などではなく、数(と空間)の特性であるにすぎません。
そして、数の特性によって物質を解釈するにとどまらず、意識の内にある感情や感覚など複雑に相互侵入し合う心的事象まで、不可入的なものとみなし数え上げようとします。
これは先に述べた(第一章を参照)、意識の諸状態の数量化された強度の問題であり、反省的意識によって心的事象の純粋な質は捨象され、概念(記号)化・空間化され、多様性というものが根本から変質します。

「時間」についても同様であり、意識的事象が空間の中で一列に並置された数珠上の多様性(つまり楽譜のように空間化された時間)を思い描いているだけです。
意識の諸状態を数えられる分明なものとし、それが個別に継起する場(媒体)として、反省的意識によって「時間」は表象されています。
それは名を変えた空間にすぎません。
反省的意識は、時間を思い描くためのイメージを、空間から拝借しているだけであり、純粋な持続(生の時間)とは異なるものです。
心的諸状態の質的多様性が、数量的多様性に還元されてしまったように、真の持続は、本質から隔絶した記号や象徴に変換されてしまっています。
私たちは、本来の意識状態の多様性や、純粋持続とはかけ離れたものと関係付けられており、本当の自分の姿を知らないままでいるのです。

二節、空間と等質的なもの

空間に関して二つの仮説が主張されています。
ひとつは経験的なもので、「空間」は諸事物から経験的に抽出される抽象物であり、表象的感覚が捉えるものの共通点を表現するものです。
もうひとつはカントが提示した生得的なもので、「空間」は人間に生得的に備わった感性の形式であり、次元は異なれど諸事物を捉えている感覚と同程度に確固とした実在性をもつものです(例えば、人間の眼が見る物体は生得的な視覚の形式によって嫌でも”色”を持つように、嫌でも物体を空間と言う生得的な形式において捉えざるを得ないよう、人間は出来ている)。
経験的な「空間」は、物理的質の中のひとつの質(抽出された質)ですが、生得的な「空間」は、非延長的な物理的質に対して付加される自立したものです。

カントの登場以降、生得論者だけでなく、空間の経験説を唱える者も、意識的・無意識的問わず、カントの空間概念を前提にしています。
感覚を広がりのない非延長的なものとし、表象の質料(素材、内容)と形式を本質的に区別するという、カント的枠組みの中にいます。
「空間」は諸感覚の結合によって生成するという、昨今の心理学者らの経験論的・発生論的な考えは、諸感覚の共存から空間を成立させる精神の作用を前提としており、これはカントが述べるア・プリオリな形式(先に述べた先験的な感性の形式のこと)と酷似しています。

この「空間」なるものは、質的差異化とは異なる差異化の原理によって、(質をもたない)実在性を生じさせます。
紙面に打たれた左右の二つの点は、その質的差異によって視覚に異なる印象を生じさせます。
しかし、これはすぐに反省的思考によって”等質的な二つの点の空間的位置の差異”として解釈され直します。
等質的空間の観念を有するのは、知性を持つ生物の中でも最も進化したものだけであり、多くの生物は人間の等質的空間概念とは異なる延長的知覚(質的なもの)によって運動しています。
視覚、聴覚、触覚、磁覚(磁気の感覚)、その他、生物それぞれが有する様々な感覚によって、延長の質的な差異を捉え移動します。
反響定位(エコー)や磁覚など特殊な空間把握能力を持つ動物がいることが特異なのではなく、質のない「空間」という特殊なもので延長を知覚する人間こそが、特異なのだということです。
これは人間の抽象する能力に拠るものではなく、抽象能力が等質空間を前提にしています。
人間は、異なる二つの実在を認識しています。
ひとつは、質的な(つまり異質性をもつ)実在、もうひとつは、質を持たない(つまり等質性をもつ)実在です。
感覚質的にとらえられる前者と違い、後者は知性によって明確に理解されるものであり、個別化、抽象化、数量化、言語化を可能にするものです。

「空間」が質をもたない等質的な媒体(環境)であるなら、等質的媒体のもう一つの形式である「時間」との区別が付かなくなります(質を持たないため区別が付かない)。
共存的に等質的なものを「空間」、継起的に等質的なものを「時間」と考えられるかもしれません。
しかし、「時間」を継起的に繰り広げられるものの等質的な媒体(環境)として、時間的に物事を意識した瞬間、それは持続(生の時間の流れ)からは引き剥がされ、共存的なものとして一挙に与えられます(私たちの言う「時間」とは、記憶や期待など過去と未来の事象を整列的に共存させ並べた歴史年表のようなもの)。
気付かぬ内に、私たちは、継起(時間)を、共存(空間)として把握しています。
意識的事象に継起あるといっても、相互に浸透し合っており、最も単純なものにさえ、精神の全体が反映されています。
意識的事象を外的事物のように相互外在的に並べられるのは、「時間」と言う名の空間(等質的媒体)に拠ってです。
空間概念の方が基本的所与であり、時間は姿を変えた空間に他なりません。

三節、等質的時間と具体的持続

空間化された持続に対し、純粋な持続とはいかなるものでしょうか?
純粋な持続とは、自我が現在の状態と先行(過去)の状態を区別せずにあるがままに生きる際に、意識の諸状態の継起がもつ形式です。
それは、現在経験している感覚や観念に没入することではなく(むしろそれは持続から離れる)、また、先行の諸状態を忘れろということでもありません。
ただ、先行の状態を思い出す時に、過去から現在に数珠上に整列する点と点として考えるのではなく、或るメロディーを思い出す時のように、過去の諸状態と現在の状態が有機的に統合されたものとしてとらえればよいだけです。
私たちは、メロディーを聴く時、現在の音と先行(過去)の音を相互的に統覚しており、個々の音は相互浸透し切り離せない一個の”全体”であり、二つに割れば死んでしまう生命体のようなものです。
例えば、あるメロディーの一音を伸ばすと違和感を覚えますが、これはメロディーに質的変異が生じ、いわば別の生命体になっている状態です。
このような個別化されない継起(純粋な持続)があるのです。
そして、この多数の要素が相互浸透した有機的統合体は、反省的理性の抽象的思考によって、切り離され、区別され
、個別化された継起(空間化された持続)とされます。

純粋な持続のように、自己同一的でありながら変化する存在、空間の観念を必要としない存在、があるのです。
しかし、空間の観念で物事を捉えることが習慣化している私たちは、その固定観念によって純粋な持続を解釈(誤解)してしまいます。
意識の諸状態を、一方をもう一方の中にではなく、一方をもう一方の横に隣接するよう並置して(つまり空間的に)統覚するのです。
時間を空間的に解釈し、持続を外的延長によって表現し、継起は、諸部分が相互浸透することなく隣り合う一本の連続線や数珠状のものとして把握されます。
この際、時間は継起的にではなく、前後(未来と過去のこと)について同時(並存)的に知覚されており、この瞬間にしか在りえないはずの継起を、未来や過去の位置にも配置し、それら複数の継起(とそこに含まれる事象)を同時に包括します。
継起の「順序」というものが論じられる際、継起が同時存在的に並置されている事、つまり継起を空間に投影し比較することが必要となります。
延長(空間)の成り立ちを持続(時間)の継起順や可逆性によって説明しようとするイギリスの心理学派(ミル、ベイン、スペンサー)は、ある種の循環論法に陥っています。
そもそも時間が直線的だという時点で、「直線」と「それを俯瞰する視点」という空間観念を介在させています。
空間化しない純粋な時間(継起)は、メロディーのように、次々と現れる質的変化を、相互浸透的なものとして有機的全体として統合していくものです。
いわば「純粋な異質性」とでも呼ぶべきものです。

四節、持続は計測可能か

時間(持続)は空間と同様、計測可能なものでしょうか?
時計の振り子が一秒ごとに一回振れ、それが六十回で一分であると私たちは時間を計測します。
ここで行われるのは、六十回の振れを一挙に統覚するという作業ですが、それは継起や持続とは何のかかわりもなく、ただ一本の直線状に配置された六十個の点にすぎません。
私たちは、現在の振れとひとつ前の振れの記憶を保持する際、上のような直線的並置によって統覚する場合が多いですが、あまり自覚されていない別の様態があります。
一つがもう一方の中にある相互浸透的な有機的統合としての記憶です。
メロディーのある音を聞いている時、それは前の音によって変質されており、その前の音はその前の前の音に変質されており、現在のひとつの音の中にメロディーを構成する音の全体が包含されています。
このような不可分の多様体を「質的多様体」と名付けます。
例えば、振り子時計を前に眠りにつく時、振り子を意識した最初の一振(一音)と眠りに誘った最後の一振は、質的に相当異なります。
もし、この振り子の運動が等質的なものであるなら、決してこの振り子の反復は私を眠りに誘うような質を獲得することはありません。
最後の一振が眠りに誘うような質を獲得するためには、それに先行する無数の音の無数の絶えざる変質の効果が無ければなりません。

つまり、私は現在において、分割可能な数的多様性とは異なる、分割することのできない質的多様性をとらえています。
純粋持続のイメージはこのようなものであり、記号によって持続を表象することをやめれば、継起の様態は常にこのようなものであることが明確になるはずです。
振り子の揺れをすべて同じ感覚だと思うのは、感覚を感覚そのものではなく、空間において展開しているからです。
しかし、私たちは、持続を本来の純粋さで思い描こうとすることに困難を感じます。
外的事物も私と同様に持続しているように思えるため、時間はこれらに共通の等質的環境に見えるからです。
ですから、内的持続が意識的諸事象の相互浸透と漸次的な自己の豊饒化であるとしても、それとは別に等質的・可分的で計測可能な別の持続(時間)が存在するのだと頑固に主張するでしょう。

五節、運動は計測可能か

振り子の揺れに合わせて回る針の運動を見る時、持続を計測しているのではなく、同時性を数えているにすぎません。
私の外部(空間)”のみ”を考えると、ひとつの振り子の位置と或る角度を取る針がただひとつあるだけです(過ぎ去った振り子や針の位置は消えているため)。
私の内部に目を向けると、振り子と針の諸状態が相互浸透し有機的に統合された状態で継起が生じ、持続(時間)が形成されています。
私が持続しているからこそ、振り子の現在の揺れを知覚したり、以前の揺れを併せて表象したりできます。
仮に内部(内的持続-時間-)を消去したとすれば、残るのは特定の位置の振り子ただひとつであり、外部(空間)を消去すれば、残るのは絶えず変質する持続のみです。
つまり、人間の自我の内に相互外在性なき継起が、自我の外に継起なき相互外在性があると言えます。
自我の働きのない後者の場合、現在の揺れが消えた先行の揺れとは完全に切り離された相互外在的関係にあり、純粋な継起のような相互侵入関係が無いばかりでなく、揺れを等質空間と言う補助装置を利用し記号的に継起を捉えることすらできません。

内部の外在性なき継起と外部の継起なき外在性の間には、ある種の対応関係があるため、前者を後者と同じような形式で捉えてしまうということが生じます。
相互浸透する継起の諸々の局面は、振り子時計の諸々の位置に対応しているため、不可分のはずの継起自体を針の位置の区分に従い、分割的に捉えてしまうよう習慣づけられます。
振り子の揺れが、私たちの内的生を相互外在的な部品のように分解してしまうのです。
これにより、純粋な持続は等質的時間として解釈され直します。
この等質的時間は、私の外部に自立的に存在するということではなく、既に消えたはずの振り子の揺れを意識が記憶によって並べるからこそ生ずるものです。
つまり、振り子の揺れのために、三次元(空間)に新たな軸を加え、四次元(等質的時間)を創出してあげるのです。
一方で持続なき空間というものが実在し、もう一方で内的な持続というものが実在します。
そしてこの二つの実在の同時性、つまり交わり(時間と空間の交差)から、「等質的時間」という想像物が生じます。
二つの実在の同時的対応関係を見ることから、内的な持続が分割可能なものとして解釈(錯誤)され、持続に等質性(空間性)が付け加わり四次元化し、空間に由来する持続の記号的表象が生じます。
こうして、分割可能な等質的持続(空間化された時間)という媒体が生じます。

六節、エレア派の錯覚

運動は空間の中で生じ、等質的で分割可能なものだと考えられています。
しかし、実際は、運動そのものは内的な持続のうちにあるものであり、観察する意識主体が先行のある位置と後行のある位置を心的プロセスによって統合することによって生じるものです。
分割可能な空間中の運動というものは、先行位置から後行位置へ通過した空間の”軌跡”にすぎず、この軌跡空間を運動そのものだと勘違いしているのです。
例えば、早い速度で運動する光を観察する場合、動きそのもの感覚と一本の線(光の軌跡)の感覚を得ることになります。
軌跡が明確に観察できない場合も、想像的にこの軌跡が作られ、私たちは運動そのものの感覚より運動の軌跡を重視してしまいます。
運動には二つの要素があり、一つは軌跡空間および軌跡を通過する働き、もう一つは運動体が取る諸々の状態およびその有機的な統合です。
前者の運動は等質的な量的存在であり、後者の運動は質的存在です。
そして、この二つ、運動性についての強度(内包)的な感覚と、軌跡空間についての外延的表象は、混同されることになります。
分割できないはずの運動そのものに外延的な分割可能性を取り込み、その反面、運動そのものを外的空間に投射し軌跡として固定化します。
エレア派のアキレスと亀のパラドクスは、この混同によって生ずる錯覚です。

七節、持続と同時性

科学が扱う時間や運動も、質的な要素を(時間から持続を、運動から運動そのものを)無かったことにしておくという条件の下で扱われるものです。
科学の扱う時間は同時性の記録とその軌跡です。
始点の同時性(外的状態と内的状態との交わり)の記録と、終点の同時性の記録と、その間(空間の間隔)の軌跡の計算にすぎず、内的な持続(時間)とは無関係のものです。
私たちの外には、空間(同時存在するもの)以外に見出すことができす、持続(時間)の間隔は、意識状態の相互浸透のうちの現在と過去の直接的な比較によって生ずる継起においてしか実在することが出来ません。
急に宇宙のあらゆる運動が等しく三倍の速さで進行したとしても、物理学の公式や代入する数を変更する必要はないという事実が、これを物語っています。
意識はこの急な変化に対し、質的な変化を感じるはずです。
本来の持続(時間)の間隔を無視することによって、科学の時間や運動の概念は成り立っているのです。

八節、速度と同時性

等速運動も不等速運動も、その定義付けのために空間と同時性の概念以外を必要としません。
動体の軌跡の空間と、諸々の同時的位置さえあれば分析可能です。
これらは常に完了した事態を表現するものにすぎず、絶えず生成途上にあることを本質とする持続や運動を捉えることは出来ません。
同時性における瞬間(無時間)的な空間を無数に記録したものにすぎず、いかに精細に微分化しようが、それは間隔の両端でしかなく、間隔そのものを捉えることは出来ません。
空間内には持続も継起も存在せず、外的世界で継起や時間と呼ばれているものは、内的意識の内にある現在と過去の有機的統合の記憶を、空間(等質時間という媒体)上に個別(区別)的に並列し、その多数体を統覚することによって生じているものです。

九節、内的多様性

多用性には、まったく類似性を持たない、質的多様性と量的多様性という二つの多様性があります。
後者は数量的なものであり、前者は質的なものであり、可能態(いわゆる可能性-アリストテレスの概念-)において数を含む(数に展開可能な)ものです。
私たちは、この同じ「多様性」という語の二つの意味を混在させて物事をとらえるよう習慣付けられているため、二つの多様性を区別することに(特に言語的に)強い困難を憶えます。
言語表現そのものが空間内に展開された可分(弁別)性に基づくものである為、純粋持続のように不可分な質的多様性をもつものを語ることが困難です。
「いくつかの意識状態の有機的統合、不可分な相互浸透」と説明しても、「いくつかの」という語が意識状態を個別的並置的なものとして相互外在化してしまいます。
質的多様性は、自身の内においてはいかに明晰に表象されていようとも、それを言語的に外的に表現することが困難であるという、ある種の原罪を背負わされているのです。
そもそも、個別(区別)化された数量的な多様性は、質的多様性を併行的に用いずには、その観念を形成することが出来ません。
数(単位)そのものは等質空間に並列することによって得られますが、諸単位の加算などの操作は、単位同士が有機的に統合していく動的プロセスであり、持続によってその質が決定されます。
等質的に並置される存在でありながら、加算されていくたびにその全体の性質や様相が変化していきます。
質を持たない数量の観念の形成は、その隠れた前提として質に依存する、妥協の産物です。
数的多数性と質的多数性は対等なものではなく、前者は等質空間と持続(質的多数性)がなければ成立しないものです。

十節、真の持続

時間の記号的表象化によって、継起する諸々の事項(事象)は、等質的媒体上において互いに外在的なものとなります。
持続が等質的環境のなかに投影・定着されることによって、明確な区別と輪郭を持つ固定的なものとなります。
この際、質のニュアンスにひとつの名が与えられ、変化し続ける生の現実は記号的に置き換えられ、もはや人間は記号を通してしか現実を把握することが出来なくなります。

各事項(事象)は意識に対し二つの様相を取り、一つは対象となる事項それ自体の同一性の相であり、もう一つはその事項が他と結合する有機的統合全体の変化に由来する特殊性の相です。
この二つの様相が必然的に記号的表象化を招来し、数的多数性と質的多数性の混在を生じさせます。
この二重性が顕著に表れるのは、外的現象の知覚(それ自体としては認識不能だが人間の意識において運動という形をとる知覚)においてです。
運動体は同一性を保持しながら、意識によって呼び出された記憶による過去の位置と現在の位置が統合され、そのイメージは相互浸透し連続体となります。
運動を媒介することで持続は等質的形式を持ち、時間は空間に投影されます。
仮に遠方で響く金槌の音のように、運動のない外的表象の反復であったとしても、それは有機的に統合されひとつの動的進展(旋律)になると同時に、すぐに個々の局面に分割裁断された音がその外的原因を同一性の基とし、空間内に展開されるものとなり、等質時間の観念を形成することになります。
等質時間とは、真の持続の記号的イメージです。

自我はその表層を通し、外的世界に接しています。
表面的な心理生活は、等質空間の環境の内に繰り広げられ、大きな問題が生じることはありません。
しかし、意識の深みに入れば入るほど、持続において経験しているものと記号的表象によって捉えられているものとの齟齬が大きくなります。
深層において密接に相互浸透し合っているものを強引に分割し等質空間内で展開すれば、深刻な変質が生じます。
表層の自我と深層の自我は二つで一つの人格を構成しているため、相互外在性は表層に留まらず深層にまで反響し伝播していきます。
睡眠時にこの事実が明瞭にあらわれます。
私たちは夢を見る時、自我が外界との調整に使用している心的事象の表層部分の機能を停止させるため、夢の中では持続が計測されることなく、ただ感じられるだけであり、量は質的状態に戻り、本能的な持続へと還ります。

持続は常に無媒介的・直接的に意識にあらわれており、外的延長から借用した記号的表象で上書きしない限り、その形態を保持しています。
私たちが普段考える時間とは、真の持続を等質空間に投影した外延的記号にすぎず、自我の表層の分明な数的多様性の下には、継起する心的事象を融合し統合し続ける質的多様性のもとにある自我が隠されています。
自我の表層にある意識は、物事を区別する飽くなき欲求をもっており、現実を記号によって置き換え、記号を通してしか現実を見られなくなります。
一般的な社会生活や言語的営みなどにおいて、この記号化は上手く適合し有用である為、表層の自我が優先され、内面深くにある真の自我を徐々に見失っていきます。

十一節、自我の二つの様相

諸知覚、諸感覚、諸情動、諸観念は、二重の様相で私たちの前に現れます。
一方は明確な輪郭と区別を持つ非個性的様相(数量的多様体)、もう一方は渾然と融合し動的で言語的に表現の困難な様相(質的多様体)です。
意識的事象の一つ一つが、質としての時間において見られるか、それが投影された量としての時間において見られるかで、異なった様相をとります。

外的な社会的な生活は、内的な個人的生活よりも実践的な重要性を持つため、私たちは自分の印象を固定化し、それを言語で表現することを無意識に選択しています。
そのため、絶えざる生成変化にある自己の内にあるものを、外的で不変的なもの及びそれを表現する言語と混同することになります。
持続が等質空間に投影され固定化されるように、絶えず変化する私たちの内の印象も、その原因である外的対象に絡みつき、確たる輪郭と不動性を己がものとし固定化されます。
同じものごとに対する印象は日々変転していきますが、同じ名を持つ固定化された同一性の印象によって上書きされてしまい、私たちがその変化に気付くことは稀です。
例えば、毎日通る道にある同じ名の建物の知覚は日々進展し徐々に変化していますが、意識的に反省し記憶を丹念に廻らない限り、その変化は意識できません。

子供の頃に嫌いだった匂いや味などが、大人になると好きになることはよくあります。
この時、感覚は同じで好みが変わったのだと認識されています。
純粋に観察するなら、感覚は反復しながら変化し、日々進展していますが、その感覚に対する名付け(言語)の同一性によって”変わらない同じもの”と上書き的に認知されます。
この感覚の変化が大きく無視できないものとなると、今度はその変化そのものに新たな名を与え固定化し、「好み」というカテゴリーによって処理しようとします。
本来、同一の感覚や多様な好みなど存在せず(名付けによって与えられた仮初めの事物性にすぎない)、在るのは絶えざる進展のみです。
言語の影響は深刻で、感覚の不変性を信じ込ませるだけでは済まず、感覚そのものを欺きます。
賞賛の名を与えられた評判の料理を食べる時、自然な感覚では不味いと感じていたとしても、感覚(味覚)と意識の間に言語が介入し、美味いと感じてしまいます。
明確な輪郭(区別)を持ち、人間の諸印象を安定化し共通化した非個人的(非人格的)なものを蓄積する「言葉」は、個人的な意識の繊細で捉えがたい印象を圧し潰したり隠蔽したりします。
このような言語の暴力と対等に張り合おうと思えば、個人的印象を適切な言語で表現しなければなりませんが、言語である以上、それが生まれた瞬間、感覚に背くものになるという矛盾を抱えています。
進展・変化・融合し続ける感覚を、不変性と区別性をその本質とする言語のうちに収めることは困難です。

激しい愛や深い憂いなどの心全体をとらえるような感情においては、無数の様々な心的要素の輪郭が分からないほどに相互浸透し、ひとつの融合を果たしており、それがかけがえのない独自性を生んでいます。
しかし、私たちはその感情を認識する際、諸要素を相互に引き剥がし、等質的な場に展開し、名を与え、言語的に把握しようとします。
すると、かけがえのない統一性のもとで輝いていたものたちは、急に生気を失っていきます。
感情は、持続において自ら進展させる生き物のようなものであり、その持続という相互浸透をブツ切りにし等質場の俎上に並べた時には、亡くなっています、
私たちは自らのうちの感情を分析したつもりになっていますが、実際にやっているのは、言語に翻訳できる部分(遺りかす)を並べているだけです。
この遺りかすは、社会全体で共有される、非個人的な、印象の共通の要素であり、それにより心的状態を論理的に扱うことを可能にします。
心的諸要素を相互に分断し孤立させることによって”類”へと引き上げ、演繹に使えるよう整えるのです。
言語芸術は、感情を等質時間のうちに展開し、諸要素を言語よって表現する以上、感情の影や遺りかすを提示することしかできません。
しかし、一部の型破りな小説家は、論理的で整合的な外部表現のうちに、非論理的で矛盾した心的要素の相互浸透を垣間見せることができ、私たちに気付きと反省を促します。
言語芸術家は、意識と私そのものとの間にある幻影のヴェールを一瞬間だけめくり、私を私そのものと出会わせてくれるのです。

諸知覚、諸感覚、諸感情のみならず、諸観念も同じ問題を抱えています。
観念を構成する要素を分解し抽象化することは、日常的にも学問的にも当たり前のこととなっています。
実際には諸要素が相互浸透することによって形成されている具体的観念を、記号的配列の連合関係に分割する事によって抽象的に再構成し、”同等のもの”として扱う誤謬をおかしています。
明らかに知性にも(知性に反する)固有の本能的とも言えるような性向があります。
その人が最も固執し続ける意見というものは、最も説明が難しく、その意見を正当化するために用いられる理由が本当に決断の決め手であることは稀です。
論理的な理由なしにその意見を決定しているのであり、実際は、その意見のニュアンスが、その人全体が持つ多くの他の観念共通の色合いに呼応し、よく馴染むから選択されているだけです。
最初からその意見に自分らしさを見出してたのであり、内的な持続における相互浸透の進展が、その決断のための躍動を準備していたのです。
意見(観念)は、その各々が有機体のうちの一つの細胞のように生きているものであり、自我の全般的状況に変化があれば、同時にその観念も変容します。
さらに言えば、生命体の一部分の機能を占めるだけの細胞と異なり、ひとつの観念は、自我全体に浸透しています。

勿論、多くの観念は、そのように自我に融合しているわけではなく、水面に浮遊する落ち葉のように浮遊しています。
精神がそれらの観念を見る時、外的で不動のものとして見出されます。
自我に未だうまく統合されていない既成観念(他人のものである観念)や、統合の維持を怠り打ち捨てられている観念などです。
有機的相互浸透が強い自我の深層から遠ざかる(自我の表層)ほど、意識状態は数的多様性のかたちをとるようになり、等質空間のうちに展開される不活動で非個性的なものとなります。
その人に属することが希薄な観念ほど言語的・論理的に上手く表現可能です。
相互に外在的なこれらの観念は、内的本性とは関係のない、分類表に収まるような関係性を有するだけであり、それはもともと隣接関係や論理的関係によって連合されているのです。
観念が有機的統合、生命的組織化のうちに活動している知性の深層にあるものが、表層に引きずり出される過程でバラバラに分解され、二つのものの融合が論理的に矛盾する項・語とされ、互いに相容れない相互外在的なものとなります。
私たちは、外的世界およびそれに接触する表層から解き放たれる睡眠時の夢の中で、知性の深層で為されている活動(観念の重層的な相互浸透)を、視覚的イメージに基き、夢なりの仕方で再現しています(例えば、のび太君がよく見る夢では、「ママ」と「怪獣」がイメージ的に融合した一体の生物となり、追いかけてきます)。
夢のイメージは、言語的分割と論理的連合に慣れ切った私たちに、諸観念の相互浸透とはどういうものかを漠然と示してくれます。

仮に人間が、社会も言語も無い完全に個人的な生を営んでいたとしても、渾然とした内的状態を純全に捉えることは出来ないでしょう。
そのような状況でも人は等質空間の観念を持ち、諸対象を明確に区別しています。
また、意識が重層的で渾然とした内的状態をとらえるために易きに流れ、それを等質空間上に配列し単純な項へと分解するのは自然な傾向です。
等質空間の直観は、社会的生への第一歩です。
人間以外の動物は、諸感覚とは別の、自らと明確に区別され、他の意識的存在にも共有されている、「外的世界」というものを表象することはおそらくありません(外的世界の存在が社会と個人の成立条件であるということ)。
社会的生の諸条件が整えば整うほど、意識の状態を内から外へと追いやる流れも強くなり、意識状態は諸対象・諸事物へと変換されます。
意識状態が自分自身から離れていき、最終的には、人は自らの意識状態を、等質的媒体上の個別的に凝固された言語というものを介してしか捉えることができなくなります。
こうして、原初的な自我を覆い隠す第二の自我というものが形成されます。
それは個別化された諸瞬間を生きる、言語で簡単に表現可能な自我です。
これは人格が二つあるということではなく、意識が自我を捉える際の見方の違い(質的多様性か数的多様性か)です。
社会的生の要請に応じるためには、第二の自我を優先した方が適合し、利益になるため、必要なものでもあります。

心理学が第二の自我の心理現象の記述だけに留まれば問題は起こりませんが、静的研究の範囲から動的研究の範囲に越境し、具体的に生きて働いている自我の、(遂行された事象ではなく)遂行されつつある事象を扱う時、数々の乗り越えがたい難問が生じることになります。
心理学が、時間を空間のうちに展開することを隠れた前提とし、原初の自我を忘却している限り、探究の努力は、不条理さを通してその過ちを間接的に示すことくらいの結果しか生みません。
因果性や自由をめぐる問題を追究した際に生じる不条理は、ここに起因するものです。
この問題を解くためには、自我の記号的表象ではなく、具体的で実在的な原初の自我と向き合う必要があり、次章でそれを見ていくことにします。

 

おわり

第三章につづく