定義とは
定義とは、明確に定められた(限定された)ある言葉(概念)の意味・内容のことです。
例えば、三角形の定義(明確な意味)は、「三本の直線で囲まれた形」で、正三角形の定義は、「三本の同じ長さの直線で囲まれた形」です。
ですから、国語辞典はその国の人々の使用する一般的な言葉の網羅的な「定義集」と言えます。
ある国語辞典で「人」の意味内容(定義)を調べると、「二足歩行で道具を使用し、発達した脳で高度な思考や言語を用いる、霊長目の生物」というような定義付けがなされています。
勿論、語の定義は、使用者によって異なります。
国語辞典の「人」の定義のように、人間は、ホモ・サピエンス(思考する存在)であり、ホモ・ファベル(工作する存在)であり、ホモ・ロクエンス(言葉を使う存在)であるだけでなく、ホモ・モラリス(倫理的存在)であり、ホモ・リデンス(笑う存在)であり、ホモ・アマンス(愛する存在)です。
倫理を欠いた殺人鬼に対し、人々は「ひとでなし(人の定義から外れた存在)」と呼ぶように、愛や笑いを失ったロボットのような人は、何か人でないような印象を与えるかもしれません。
そう感じるということは、裏を返せば、その人は「人」の定義に、愛や笑いや倫理の有無を用いているということです。
このように、語の定義は、使用者によって異なるので、対話する際は互いの定義のアウトライン(限定)を擦り合わせ、合致させる必要があります。
定義は反対のもので成り立つ
言語は、差異の体系などと呼ばれます。
ある語の意味は、別の語との差異(違い)によって成り立つ、ということです。
「北」とは「南でない」水平方向であり、「陸」とは「海でない」地上です。
語の意味を限定すること(アウトラインを定めること)は、だまし絵ルビンの壺のアウトラインのように、「それ自体(壺)」と「それ自体でないもの(顔)」の中間に発生するものです。
正確に絵を描ける画家は、内側の形(壺)だけを見るのではなく、外側の形(顔)を見ながら描きます。
それと同様、語の意味を正確に限定するためには、その語とは反対の語をよく検討しなければなりません。
勿論、上の例の白黒二色の図のように、二項対立的に明瞭に分けられる言葉は少ないでしょう。
言葉の対義語を探すことは、反転した定義付け作業で、なかなか難しい仕事です。
しかし、差異は基本的に0と1の二項に還元できます。
「固体」の反対は「液体」と「気体」で、三項じゃないかと思われるかもしれませんが、「個体」⇔「流体(軟体)」の二項にし、流体の下位の二種として「液体」⇔「気体」とすればいけます。
生物学的な「人間」の定義は「動物界、脊椎動物門、哺乳綱、霊長目、ヒト科」となっています。
「動く多細胞生物⇔動かない多細胞生物」「脊椎がある⇔脊椎がない」「乳で育つ⇔乳で育たない」「霊長である(一番偉い)⇔霊長でない 」「ヒト(に近い存在)である⇔ヒトでない」という、五段階の二項関係によって、生物学的な人間の定義が決定されています。
これにより、無数にいる生物の中での人間の差異(定義)が決定できます。
定義付けは曖昧である
数学の概念のように明確な取り決めによって決定された定義を除き、あるひとつの言葉には複数の意味内容(定義)が存在しているのが普通です。
言葉の意味や定義が複数あるということは、対義語も複数あることになり、時に対義語間に矛盾が生じ、語の定義というものの曖昧さが如実に表れることがあります。
何に対して絶望するかによって、(建前ではない)その人の真の希望や欲望が明確になる様に、対義語を訊ねれば、その答えから、その人がその語をいかなる定義によって捉えているかが分かります。
例えば、アメリカの対義語辞典を調べると、「資本主義」の反対は「社会主義」「非市場経済」など挙げられています。
ある経済番組で、経済評論家が「社会主義も資本主義なので対立させて考えるのはおかしい」と批判します。
市場経済の主体を、自由な個人にするか、国家にするかの違いにすぎず、社会主義の国もやっていること自体は資本主義国と変わらないという訳です。
つまり、この評論家は「資本主義」の対義語を「非市場経済」と考えており、資本主義の定義を字義通り「市場経済」的な意味で捉えています。
勿論、「資本主義」を「経済的個人主義」的な意味で捉えている人からすれば、あくまで対義語は「社会主義」です。
彼らは異なる視点から得られた異なる定義で争っているだけであり、同じひとつの坂道の定義を、上り坂(下にいる人の視点)であるか、下り坂(上にいる人の視点)であるかと、言い争っている子供のようなものです。
定義付けは恣意的である
定義付けは非常に恣意的なものであり、文化や個人によって相当異なります。
例えば、身体の内的構造を定義付けに用いれば、イルカは人間の仲間なので「食べない方が良い」となり、外見や生態環境を定義付けに用いれば、イルカは魚の仲間なので「食べて良い」、というような文化的違いが生じます。
先述の「霊長-Primate-である(生物上一番偉い) 」かどうかなどの弁別基準は、人間の恣意性の極致ともいえる判別基準です。
血統を人間の定義に用いたナチスドイツの人々にとって、ユダヤ人はひとでなしの家畜以下の生物として葬り去られます。
個々人の「愛」の定義も恣意的に決定されており、激しいDVや虐待やストーカー行為を本気で「愛」であると考え行動する人もいます。
言語の恣意性は必然であるからこそ、コミュニケーションを成立させるために、定義付けの恣意性が逸脱しすぎないようにすり合わせる作業が重要になり、その共通の参照枠として、国語辞典のようなものが編纂されます。
「愛」は共通の定義としては基本的に善いものですが、個人の歪んだ恣意的な定義の愛を共通に合わせず放置すれば、「愛」という善行の名の下に悪行が為されることになります。
階層と反対概念を明瞭にする
定義を明確にするには、先の生物学類型のように、その語の”階層”と”反対概念”を認識する必要があります。
そうでなければ、語の使用において誤謬や詭弁が生じます。
例えば、「勇気」はその反対の概念である「怖気」と同じ階層にあります。
それに対し「恐いもの知らず」の反対は「恐いものを知っている」であり、「勇気⇔怖気」の対概念は「恐いものを知っている」の下層にあります。
「恐いものを知っている」上で、前に出るのが「勇気」、後ずさりするのが「怖じ気」です(恐さを知っていながら、それでも前に出るのが勇気です)。
「恐いもの知らず」はただの「無知」でしかなく、赤子が殺人鬼に向かって笑顔で歩いて行っても「勇気がある」とは言いません。
このように、語の”階層”と”反対概念”を明確に理解しておかないと、「恐いもの知らず(無知)」と「勇気」を混同し、単に無知なだけの無能な人間を英雄視しリーダーを任せるような危険が生じたりします。
反対概念は詭弁として悪用される
意図的に為される誤謬が詭弁であり、人は人を騙すために語の階層や反対概念を意図的に誤って使用します。
意図的に無知と勇気を混同させ、無能な人間がリーダーに成りおおせるように、善い印象を与える言葉によって悪いことをしたり、本来は悪いはずのものを善いもののように見せたりすることができます。
私たち個人が、言葉の定義を明確に把握した上で、発信者のメッセージを読解するメディアリテラシーの能力を持たなければ、広告屋や政治屋の詭弁にまんまとハマり、悪い政策や悪い商品を、自ら望んで選択するという現象が生じます。
コピーライターのように定義をずらしたり書き換えたり、扇動政治家の演説のように政敵に誤った対義語のレッテルを貼って叩き潰したり、そうした詭弁によって本物の商品や善い政策は根絶やしにされ、偽物の商品や悪い政策が幅を利かすことになります。
善用も出来なくはない
勿論、詭弁術はただの技術にすぎず、善用することも悪用することも出来ます(人間は力を持つと悪い方向に流れやすい傾向にあるので、詭弁の力も大抵は悪用されます)。
例えば、「好きの反対は嫌いではなく、無関心だ」とよく言われます。
しかし、正しくは「関心⇔無関心」の二項対立の「関心」の下位にあるのが「好き(ポジティブな関心)⇔嫌い(ネガティブな関心)」です。
意図的にこの階層を入れ子にさせ「好き⇔無関心」の対立にすることにより、詭弁的な効果が生じます。
元々は「愛の反対は憎しみではなく無関心である」というマザーテレサの言葉ですが、その詭弁の狙いは、貧困や被差別問題などに無関心な人々に対しての気付きや問題提起を与えることです。
これにより無関心は、嫌いや憎しみよりも悪いものであるという印象と罪悪感を与えることができます。
これは、善い目的のために利用された詭弁ですが、詭弁であることに違いはありません。
おわり