メイロウィッツの『場所感の喪失』第二部、印刷から電子へ

社会/政治 芸術/メディア

第一部のつづき

序章、新しいメディアの登場

新しいメディアは、古いメディアが構築したコミュニケーションの在り方を”変化させる”ことによって、その新しさの効果を発揮します。
印刷機の速さは、写本の遅さによって生じていた情報の独占を解放し、宗教改革と科学の発展を可能にしました。
新しいメディアの価値は、それ自体に内在する固有の可能性によるだけでなく、古いメディアとの関りによって生じるものでもあるため、同じメディアが異なる社会で異なる効果をもたらすこともありえます。
第二部では、印刷メディア(古)に電子メディア(新)が加わることによって、メディアのネットワークの機構や社会のコミュニケーションの在り方に、どのような変化をもたらすかを探究します。

第一章、領域の融合

一節、アクセスコード

あるメディアにおけるメッセージのコード化(送信)とコード解読(受信)に必要な技能は、そのメディアの送信者と受信者を限定します。
複雑な筆記コードは、それに習熟した学習レベルの高いエリートのみにアクセス権を与えることになります。
印刷社会において社会の情報ストックにアクセスするためには、ある程度の読み書きの能力が必要です。
読み書きの習熟には、かなりの年数と段階化された順序に従う学習プロセスを必要とします。
識字率の高い社会であっても、高度な読み書きの技能を有する者はごく僅かであり、筆記システムは話し言葉に比べて選択的かつ排他的です。
「各種のコード解読能力の有無そのものによる制限」と、「コード化の複雑さ(難易度)の段階による階層化」のかけあわせにおいて、多くの異なる情報システム群が構成され、そこに属する人々を排他的にグループ化します(例えば、英検二級の人は、英語のコードの解読能力を有し、高校卒業レベルの段階の情報システムに属します)。

書き物とは対照的に、テレビにアクセス(視聴)するためのコードは非常に易しく、二歳の子供でも視聴者と成ることができます。
モンタージュのように高度な映像技法であっても、一度体験(視聴)すれば済む話で、複雑なシンボルの体系(読み書き)のように学校で何年も学ぶ必要などありません。
基本的に映像の技法は自然の経験に基づいているため、恣意的なコードである読み書きの解読より、はるかに容易です(実生活とコードが共有されているため、既にかなりの程度学習されている)。
テレビには「コード解読の能力の有無そのものによる制限」が弱いだけでなく、「コード化の複雑さ(難易度)の段階による階層化」もありません。
書物と異なり、複雑な番組の前に簡単な番組を観て学習し、徐々に高度な視聴が可能なっていく、などという段階的順序などもありません。
子供は大人向けの番組を普通に楽しんで視聴していますし、大人も子供向け番組を楽しみにしています。

印刷におけるコードは詳細な階層によって区分され、読者を分離します。
複雑なコードの読解に必要な努力は、特定の読者を特定の情報システムに集めます(例えば、ジョイスの『ユリシーズ』の読者の多くは、知的ないわゆるエリート層に属する人々です)。
長い時間の積み重ねによって専門化された印刷特有の情報システムは、部外者には理解できないものとなり、分野間を横断することが極めて難しくなります。
その結果として、社会学者や心理学者や哲学者など、様々な分野の学者が同一の現象を異なる言語で議論し、分野間のコミュニケーションが困難になっています。
その分野にアクセスするためには、情報システムの階段をいちから昇って行かなければなりませんが、時間や労力やプライドの問題により、自身の分野に留まらせてしまうことになります。
この知識の分割(専門家)システムは意識に深く根をはっており、自身の専門領域の防衛のために、独特のジャーゴンや特殊な方法を採用し、部外者に対し自己の領域を、神秘的で価値あるものに見せようとする傾向にあります。
難解な印刷コードの熟練度(学習段階)は、各集団内の社会化の諸段階および地位や権威のレベルを規定します。

印刷文化における知識の分割や段階化(順序化)は、自然なものではなく、ひとつの革新です。
口誦文化においては、教育過程の順序は少なく、年齢や学習年数によって分割することはほとんどありません。
テレビなどの電子メディアにおいても、知識の区分や段階はほとんどありません。
印刷文化のリニア(線状、直線)性とは異なる、非リニアな情報です。
各々一長一短があり、印刷の複雑な段階性は、拡張(延長)され筋の通った分析を発達させる反面、その情報へアクセスする人々を細かく分割します。
印刷コードのリニア構造は、必然的にその線路をたどる、異なる諸々の路線の専門家を生じさせます。
それに対し、テレビは異なる分野間や段階間の壁を壊し、印刷のような拡張された分析や議論ではなく、単純に情報塊を提供します。

新しいメディアの影響を理解するためには、こうした”形式”にある複雑性と、特定の考えの”内容”そのものにある複雑性を区別しなければなりません。
例えば、靴紐の結び方(内容として単純)を、図解や映像ではなく、印刷の記述(形式として複雑)のみで教えるなら、紐靴を履けるのはある程度の教育水準のある人だけに限定されることになります。
電子メディア(主にテレビを指す)は、印刷の専門分化した情報システムを解体し、誰でも情報にアクセス(コードを解読)できるようにすると同時に、(装置さえあれば)比較的簡単に情報を発信(コード化する)できるようにしました。
印刷のコード化のような特別な教育を受けることなく、カメラとマイクさえあれば誰でも発信者と成れるのです。
勿論、子供の撮影したホームビデオと映像専門家のドキュメンタリーでは技術的な差はありますが、子供の作文と大学教授の論文ほどのギャップはありません。
現状(1985年当時)電子メディア(主にテレビ)は受信者に対し障壁のない情報を与えるだけですが、インタラクティブテレビやコンピューターにより双方向的につながれば、全ての年齢や社会的地位の人々を、垣根のない単一の情報システムに接続することになります。

二節、メッセージの入手

電子メディアとは異なり本は物理的な制約により、メッセージの限定を生じさせます。
本は個別に購入したり借りたりする必要があり、能動的かつ選択的に入手する必要があります。
見つけ出し入手するのに必要な時間や費用は、より情報を選択的にします。
場所的な制約も、情報の入手に制限を与えます。
例えば、近隣の書店の規模や図書館の立地や、子供には手の届かない書架の位置や入れない場所にある大人の本などの、物理的な場所的制約です。
電子メディアはこれらの物理的制約をもたず、ひとたびテレビという装置が置かれれば、誰でも無数の異なる種類のメッセージにアクセスできます。
主体的な選択性や特定の関心は薄れ、あまり注意を払わず、空いている時間帯などの偶然的要素によって漠然と選択される傾向にあります。

また、所有により物理的環境の一部となる本に比べ、テレビ番組は消えて無くなるものである為、主体ともつながりが弱く、それは路上の大道芸を立ち止まって見るかのようなコミットメントの在り方に似ています。
テレビでは下品な番組を観ることはできても、その下品な内容の本を書斎に置くことはできません。
同一の内容でも、メディアが異なれば、反応も異なるということです。
本を読むには意識的な努力が必要であるため、努力を動機づけたり正当化できるような特定の本(メッセージ)を能動的に探そうとします。
それに対し、努力なしに向こうからやってきてくれる電子メディアのメッセージに対しては、人は受動的になるため、通常努力して手に入れようとはしないような情報に晒されることになります。

本のメッセージは情報システムを分割するため、人々の間に層を生じさせます。
多くの場合、自己の個人的あるいは集団的アイデンティティが反映された本を読む為、本は読者の数とタイプを限定することになります。
テレビは表面的ではあっても広汎なメッセージを広汎な人々に提供するため、自己と他者の層は薄くなります。
本のベストセラーが国民の数パーセントの読者数を獲得するのに対し、テレビのベストセラーは国民の50パーセントを超える視聴者数を獲得します。
印刷の情報アクセスのパターンを壊すこの広汎性(メッセージ内容の広汎性と大規模な情報共有)は、社会化の段階や権威の位階や集団的アイデンティティに影響を与えます。

テレビ番組の内容は、この共有的性質によって拘束されているため、ジレンマに陥ります。
本のように特定の読者に絞られた特殊な内容のものを放送すると、批判の的になってしまうのです。
マジョリティにとってノーマルなものを描く時、マイノリティは除外されていると感じ抗議しますが、マイノリティをノーマルとして描くとマジョリティは自分たちの世界が侵略されてると感じ抗議します。
大人向けの真面目なニュース番組や成熟した娯楽番組を、”本当に”作ってしまえば、若者の心が汚されると言って抗議を受けます(前章で述べたように、大人と子供を分ける情報のアクセス権が侵略されると感じる為)。
ハッピーエンドで終わらせれば、理想的で普通でつまらないと非難され、現実的なバッドエンドで終わらせると、善良な人々に絶望を植え付けると非難されます。
このように、番組制作における問題は、内容それ自体と言うより、メッセージの伝達システムに起因するものが多いということです。

テレビの新しさとは、それまで分割されていた情報システムが統合されるという点にあり、テレビは文化のあらゆる面をいくらか含むごった煮のようなものとなります。
衛星放送や光ファイバーなどの新しい技術によって、こうしたテレビの統合的性質は、すぐに過去の分離型情報システムに還ると、単純に考える識者もいます。
しかし、いかにチャンネル数が無数にあろうが、個々人が各々の視聴端末を持つ時代が来ようが、先に述べたように印刷特有のコードによる制限やコミットメントの強さが欠如している以上、伝統的な分離型情報システムに回帰するとは考えにくいでしょう。
本を読む際の関心は、主に自分特有のアイデンティティという内的現実に関わるものであり、テレビ視聴の際の関心は、主に暇つぶしや話題のタネや時事的関心などの一般的な欲求を満たす外的現実の”観察”に関わるものです。

テレビの共有的性質は、視聴者とは直接関わりのない”モニタリングされる外の世界”と”他の無数の視聴者たちとのつながり”の感覚を与えます。
テレビの社会的意義は、内容そのものより、この「共有アリーナ」としての機能にある可能性があります。
性別や人種や職種や階級を問わず、テレビの前で視聴する数千万人の観客が一体となり、同時知覚的に外部世界をモニタリングするのです。
テレビという共有アリーナは、出来事の現実性の宣言、およびそと確認のためのものです。
テレビで報じられない出来事は、起こったようには見えなくなります。
例えば、ベトナム戦争のデモが社会的現実になるのは、デモの参加者が街に出た時ではなく、それがテレビで報じられた時です。
新聞報道(印刷メディア)よりもテレビ報道の方が、強い現実性のイリュージョンを生じさせます。
客観的現実がいかなるものであるかということに関わらず、テレビニュースで宣言された現実性が無数の人々に同時的に知覚された時、それが社会の現実となるのです。

三節、情報アクセスの明示性

印刷の分離型情報システムは、多くの異なる情報アリーナを生じさせ、各々異なる行動パターンを導出します。
「他の集団の成員がいかなる情報を持っているかということの知識」の欠如は、行動パターンの相異(類型的差異)を際立たせます。
それに対し、テレビは、あらゆる人々にあらゆる情報を公然と与えるため、そういう行動の明確な区別を崩していきます。
情報的な区域化によって伝統的に不可視にされていた死や性や暴力や社会的不正などの話題を、今や誰もが知っているということを誰もが知っているということを誰もが知っています。
男性はテレビCМによって、女性が寄せて上げるブラを着けていることを知っていますし、そのことを女性も知っています。
さらに、そのこと自体を男性は知っていますし、それを女性は知っています。
重要なのは、他集団の人間が実際に不可視であるはずの知識を持っているかどうかではなく、その知識を持っていること自体が明示されているかどうかです。
例えば、小学生の子供の部屋に性に関する本があることを親が知らなければ、親の行動が変わることはありません。
しかし、子供が子供には不可視であるはずの性の知識を持っていることを親が明示的に理解していれば、両親の振る舞いは変容します。

第二章、公的行動と私的行動の不明瞭化

一節、情報の形式

印刷メディアによる情報と電子メディアによる情報の差異は、以下の三つの形式の違いとして説明できます。
1.コミュニケーション-意図的表出-(印刷) 対 表出-非意図的表出-(電子)
2.言説的(印刷) 対 現示的(電子)
3.アナログ(印刷) 対 デジタル(電子)

1.コミュニケーション 対 表出

アーヴィング・ゴッフマンによると、「コミュニケーション(意図的表出)」は、主に言語や、言語に近いシンボル的なものの使用(例、身体言語)による意図的な伝達を差します。
高度に抽象化することが可能で、いま目の前にないもの(過去、未来、他所、可能性、概念など)について伝達可能です。
これは主体が意識的に情報を与える作業です。
公的性質を持ち、”事実”を提供します。
印刷メディアが伝達可能なのは、この「コミュニケーション」のみです。
それに対し、「表出(非意図的表出)」は、意図することなく、ただその人が居るだけで生ずる情報伝達を指します。
例えば、声のトーンや姿勢や目つきや仕草や物腰や身なりなどの、非意図的なものです。
常に現在進行中の具体(今・此処)に属し、表出者が居合わせていないと得られない情報です。
これは無意識的(意図せず)に与えてしまう、与えることを止められない(コントロール不可の)ものです。
個人的性質を持ち、”印象”を提供します。
電子メディアは、この個人的な表出を伝達可能にします。
直接的に観察することでしか得られなかった個人的情報を、公的に交換可能にするのです。

2.言説的 対 現示的

スーザン・ランガーによると、言語のような「言説的シンボル」は、抽象的かつ恣意的で、記述する対象との類似性はありません(ここでいう言語は主に表音文字を指しています)。
恣意的な言語と対象の結びつき(例、”dog”は犬の像とまったく似ていない)と、恣意的な文法による独自の構造に従う世界描写によるものであり、現実とはまったく異なる抽象空間に還元されたものにすぎません。
印刷メディアは、この言説的シンボルによってメッセージを伝達するものです。
それに対し、絵や写真のような「現示的シンボル」は、表す対象との直接的なつながりがあり、具体的かつ非恣意的で、記述する対象との類似性があります。
言語は、現実ではなく、恣意的な文法的コードと言う配列パターンに従った時に意味を獲得するのに対し、絵における線や筆跡は、現実の配列パターンに則した時に意味を獲得します(例えば、二本の線が現実の十字架のクロス状の配列に則した時、十字架の絵になるのであり、そうでなければ、何も表現しないただの混沌とした線の散らばりにすぎません)。
絵は対象自体を現示するもの(あるいは代替不可能な特有のメッセージを伝えるもの)であり、言語のように翻訳や言い換えの効かないものです。
電子メディアは、言説的シンボルに加え、豊かな現示的シンボルによってメッセージを伝達するものです。

3.アナログ 対 デジタル

ポール・ワツラウィックらのコミュニケーション理論によると、人間のコミュニケーションには、「デジタル」と「アナログ」の二つのタイプがあります。
「デジタル」は語源的に離散した数を指し、その特性は、二者択一、不連続、離散的、明確、です。
言語と論理によって、「内容」を伝えるコミュニケーションを指します。
「アナログ」は語源的に関連性、連続性、類似性を指し、その特性は、非二者択一、連続、隣接、不明瞭、です。
身振りや姿勢や表情などの非言語的なものによって、「関係性」を伝えるコミュニケーションを指します。
印刷メディアはデジタルコミュニケーション、電子メディアはデジタルとアナログの両方のコミュニケーション、をもちます。

二節、個人的反応と非個人的反応

以上のような形式の違いにより、同じ対象の伝達でも、異なるメッセージ、および異なる反応を生じさせることになります。
例えば、「逃亡」や「犯人」という観念そのものは映像によって表現することは出来ませんが、逃亡犯そのものは防犯カメラの映像による現示的表現の方が遥かに多くの情報を伝えます。
現示的シンボルによる表現は概念的には不明瞭であるため、特定の意味を決定する際には、言語による補助が必要になります(微笑みや頷きで契約を結ぶことなど出来ません)。
言説的メッセージは非個人的で抽象的なものであり、その個人とは切り離すことが可能な知識や主張などの観念的なものを示し、現示的メッセージは個人的で具体的なものであり、その個人とは切り離すことのできない感官や感情や直感を通して与えられる経験的なものを示します。

このように、現示的メッセージは、個人的で私的な経験におけるコミュニケーションの在り方ですが、テレビはそれを公的アリーナに持ち込み、公私を不明瞭にします。
例えば、テレビの選挙運動において重視されるのは、何を語ったかということより、いかに語ったかということです。
観念的に得られる政策内容についての情報ではなく、経験的に得られる候補者のパーソナリティーやスタイルについての情報が優先されるのです。
アルバート・メラビアンの研究によると、対面的なコミュニケーションにおいて、メッセージの重みは、言語が7%、声のトーンが38%、顔の表情が55%であり、90%以上の情報が非言語的な現示的表出から得られているということを示しています。
例えば、「好き」と言葉で言いつつ、声と表情が嫌っている印象を与えるものである場合、言語情報の信頼性は7%しかなく、受け手は93%の重みのある非言語情報の「嫌い」というメッセージの方を受け取ります。
言語そのものが重視されるのは、非言語的な情報がない印刷メディアなどの場合であり、対面などにおいても言語の重要性は声色や身振りなどの非言語情報の量に反比例する形で低下します。
個人間の距離(私的レベル-親密さ-)が近く、非言語的情報が多い場合、言説的メッセージはほとんど意味をもたなくなります(例、つうかあの仲)。

テレビは対面コミュニケーションより現示的メッセージが強くなります。
クローズアップ(近距離撮影)などのカメラの技術によって、通常であればあり得ない観察が可能になり、また、マジックミラー越しに被験者を観察する学者のような一方通行的コミュニケーションによって観察に集中することができる為、より多くの現示的情報を得ることができるのです。
電子時代には、人々は言説的メッセージよりも現示的メッセージを重視するようになります。
有権者は政策よりも人物を重視して政治家を選ぶようになり、ベストセラーとなるコンテンツは、内容そのものではなく、いかに表出(現示)されているかが問題となり、人々は論理的な説得の広告によって商品を選ぶのではなく、微笑みや抱擁や水しぶきなどの現示的印象によって購入するようになり、テレビの報道番組は、大量の現示的情報によって極わずかな言説的情報を伝える”ニュースショー”となります。
現示的メッセージのコントロールの難しさ(嘘の吐き難さ)は、翻ってある種の信頼性を獲得します。
例えば、紙に書かれた自白よりも、録画された自白の方が、証拠としての信頼性が高くなります。
視聴者がテレビを信用してしまうのは、現示的に示されるパーソナルなものに対する親密感から生ずる信頼です。

印刷メディアから電子メディアへの変化は、フォーマルで社会的な表領域に、インフォーマルで個人的な裏領域のメッセージが侵入し、公的領域と私的領域を融合させるものです。
電子メディアの現示的性質は、情報へのアクセス権を均質化する(現示的メッセージは誰でも解読できるため)と同時に、様々な人々の雑多な価値観が公的領域において融合されることになります(現示的メッセージは誰でも発信が可能であるため)。
テレビ番組はすべて、人間の身振りや感情などの現示的表出によって構成されており、誰でも視聴可能なものと成っていると同時に、現示的表出は高度な訓練を必要としない(つまり特化されない)ものであるため、幅広い人々の同質的な(広く浅い)メッセージが中心となります。
印刷メディアが作り上げた特権的な公的フォーラムは、電子メディアの一般的な公的アリーナに取って代わられ、高名な学者も小さな子供も同等の表出者となります。
情報へのアクセスの容易さは、専門家の媒介なしに物事を理解できると、視聴者に思わせます。
むしろ専門家よりも一般人の現示的メッセージによる真実性や現実性を受け入れやすい傾向を生じさせます。

三節、遅いメディアと速いメディア

あらゆるメディア(媒体)は、現実の諸側面を排除するフィルターとして働き、ある特定の形式に整理されたメッセージを提供します。
印刷のように、抽象的で遅いメディアであるほどメッセージは現実に似ていないものと成り、様式化、理想化されたものとなります。
反対に映像のように、具体的で速いメディアは、現実をそのまま活写したようなものとなります。

複雑なコード化の作業を必要とするメディアでは時間と努力を必要とし、発信者を現実の進行状況から引き剥がします。
それと同時にその現実との遅延によって、現在に依存する現示的メッセージはすべて隠されてしまいます(例えばその場で伝えるはずのことを後日手紙で伝えれば、感情的なものや私的なものはすべて消え、フォーマルな調子のものとなります)。
メッセージのコード化(発信)と解読(受信)がスローになれば、必然的に現実の出来事を要約し編集整理することになり、反対にファストな場合は、出来事の雑多な即時的な写しとなります。
前者は周到に準備されたフォーマルな表領域の視座であり、後者は未整理のインフォーマルな裏領域の視座です。
メッセージの速度は、ゴッフマンのいう裏舞台での準備時間を制限する(つまり表舞台のパフォーマンスを制限する)のです。

事後的(遅延的)に整理された明確な事件像を描く新聞報道よりも、刻々と変化し混沌とした不明瞭な状況を写す生放送のテレビ報道は、より裏領域的なものとなります。
テレビの生の報道は、以前(新聞報道)には報道されていなかったであろうような裏領域的事件を可視化し、取り挙げることになります。
伝統的に濾過(編集)され零れ落ちていた、現実の細部や不正確さがニュースとして公開されます。
メディアの性質に即した諸々のニュースの形式によって、その内容も大きな影響を受けるのです。
テレビは公的領域と私的領域を混在させ、公的メッセージと私的で現示的な表出行動との関係の中で、人々は振る舞いを決定することになります。

第三章、社会的状況と物理的場所の分離

一節、物理的移動と社会的移動

過去においては、物理的場所と社会的状況のつながりは強く自然なものでした。
例えば、「学校」という言葉は、物理的な敷地を差すと同時に社会的な相互行為の状況を同時に指しています。
過去の情報システムは、時間的・空間的に他から隔てられた「場所」によって、意味付け(状況付け)られていました。
そのため、ある状況から別の状況へ移動するには、時間をかけて空間的に移動するしかなく、距離は社会的な壁を作る手段でした。
伝統的に、ある状況、行動パターンは、それにふさわしい明確な場所と、その移行ルート(場所から場所へ)が秩序立てて用意されていました。

かつてのコミュニケーションは、道路や水路(船)や線路などの空間的な移動のスピードに規定されていましたが(例、新幹線の有無によって私の交際の範囲は大幅に変わる)、電子メディアは社会的な壁としての物理的距離を極端に短縮し、空間的場所に関わらず異なる社会的状況にある人々を結び付けました。
電子メディアはこの物理的場所と社会的状況の連結を壊し、社会的状況(社会的地位、役割)の移動に必然的に伴っていた場所の移動を無くします。
電子メディアの介入によって、もはや状況の定義や行動の定義は物理的位置に決定されることはありません。
物理的に一人であることが、必ずしも社会的に一人であることを意味せず、物理的に学校に居ないことが、必ずしも学生でないことを意味する訳ではありません。

電子メディアは場所の情報システムを変えることにより、社会的状況と社会的アイデンティティを作り変えます。
かつて物理的に隔離され、社会的状況の移動に制限を伴っていた人々(病人、障碍者、貧困者、囚人など)は、もはや社会から隔離された存在ではなくなりつつあります。
勿論、電子メディアを介した情報や経験やコミュニケーションを、生の経験や相互行為と同格に扱うことは出来ませんが、少なくとも印刷メディア(活字)によって伝えられる情報や経験に比べると、かなり生に近いものであると言えます。

二節、メディアフレンズ

場所へ侵入する電子メディアによって、生の出会いの経験と、メディアを介した経験との重要な差異を溶かしてしまいます。
生の現場(場所)にしか生じ得ないインフォーマルで親密な相互行為を、特別なものから、現場に居合わせることなく誰でも体験できる一般的なものにします。

テレビの向こうのパフォーマーや著名人が、自分の友人のように感じられ、第一次集団(家族など日常的に接する集団のこと)と同じような反応を生じさせます。
これを「パラソーシャル的相互行為(ドナルド・ホートン、リチャード・ウォールによる概念)」と呼びます。
パラソーシャル的パフォーマーは、パフォーマンスの中身より親密性が重要になるため、伝統的な人々でさえ、電子メディアにおいては、才能だけでなくパーソナリティーを活用することになります(そうせざるを得ない)。
ミュージシャンは個人的なテーマに頼り歌を作るようになり、政治家は公的演説において私的情報を加えるようになるのです。

特に社会的に孤立し、生の相互行為から排除されている人々は、パラソーシャル的相互行為に大きな影響を受けます。
パラソーシャル的きずなによって、見知らぬファンが或るアイドルを殺し、メディアフレンドであるそのアイドルの追悼に、数百万の人々が友人として泣く、というような、新しい形の相互行為が生まれてきています。
電子メディアは、見知らぬ人と友人の境界を曖昧にし、こことあそこの場所の区別を弱め、直接的コミュニケーションと間接的なそれとの違いを覆い隠してしまいます。
異なる場所にいる人々が、あたかも同じ場所にいるような相互行為が成立する時、人々の社会行動がどうように変化するかを見極める必要があります。

三節、メッセージと状況の再結合

電子メディアは社会的状況の決定因である場所の重要性を弱めましたが、別の面では、メッセージと場所の関係を強化します。
例えば、印刷メディアにおいては、発信者の場所とメッセージは切り離されているため、大統領は散髪しながら記者に声明を出すことができます。
しかし、テレビは発信者の場所とメッセージがセットになっているため、それらしいしつらえの場所でないと発信できません。
メッセージが場所に縛られるという点において、現実の相互行為と重なっています。
印刷メディアでは、メッセージが発生する状況や場所と、提示される状況や場所が分離していますが、テレビはそれらを結び付けます。

TVインタビューする人とされる人と視聴者は、同じ場所を経験しており、インタビューされる人はインタビュアーに公的堅さで話しつつ、視聴者に向かっても親密さをアピールしなければなりません。
インタビューにおけるファーマルとインフォーマルの混合は、かつては別々のものであった社会的状況が混ざり合った結果であり、この新しい状況に合わせて行動スタイルも変化します。
メッセージが場所に縛られるという点の克服のために活字メディアが発明され、場所とメッセージを切り離しました。
それによって、メッセージの公(表領域)と私(裏領域)が生じますが、電子メディアはその切断を再結合します。
しかし、それは生の現実に戻るということではなく、かつての場所の神聖さは失われ、それはシーン(状況とメッセージ)によって変化する背景のようなものとなります。

四節、場所観の喪失

空間的時間的に他から区別され限界付けられた場所においては、ある特定の状況の定義で満たされやすくなります(例えば空間的に限界付けられた僻地では強い村社会的な掟が充満する)。
どんなメディアであれ、場所に縛られたこの状況の定義から、個人を引っぱり出すことができます。
印刷メディアはある種非社会的なもので、個人を現実の相互行為から隔離し、リニアな道(言語や論理の線状性)で夢中になることを求めます(例えば、テレビと異なり、本は”ながら視聴”ができない)。
読書は、社会から隔離された個人席の中で、新しい状況の定義を作り出します。
電子メディアは、場所を侵略し状況の定義を変化させますが、それは読書のような隔離的で個人的な場所の占領とは異なり、不定形に変化するものです。
チャンネルを変えることにより、状況の定義はコロコロと変わり、場所や経験の機会の重要性は希釈されます。
また、”ながら視聴”の複合的状況自体が、不定形で散漫な性質を持っています(例、晩ご飯を食べながら著名人の葬儀を観る)。

電子メディアは、場所と時間の特別さを壊し、公的な空間に私的なものを侵入させ、私的な空間に公的なものを侵入させます。
あらゆる場所の出来事が、私がどこに居ようと、私の下で起きており、いたるところに居る私は、いかなる場所にいるわけでもない、ということになります(場所観の喪失)。
かつては全く異なっていた場所が、電子メディアによって繋がれ、類似したものとなっていき、どこに行っても以前どこかで見たようなものと感じるようになります。
子供部屋も司祭の部屋も囚人の監房も、いまや電子メディアという同じ基礎の上に建つものであり、物理的場所とそこでの特別な経験に依っていた社会的なアイデンティティやヒエラルキーの諸局面は、変えられてしまうことになります。

第二部おわり

第三部へつづく