山本七平の『「空気」の研究』

哲学/思想 社会/政治

※難しいのが苦手な方は、かんたん版をご覧ください。

第一章、「空気」

山本は、教育雑誌の記者に日本の道徳教育についての意見を問われ、概ね以下のようなことを答えます。
日本の道徳は「差別の道徳」であり、「知人(内集団)は助け非知人(外集団)は助けない」という規範で動いているため、まずはそれを批判的に自覚するべきだ、と。
記者は、「差別の道徳」なんて現場の空気として言えないと狼狽します。
さらに山本は、日本では現実に行っていることの規範を公言すること自体が不道徳行為であり、その口にしてはいけないことを口にしないこともまた日本の道徳だと述べます。
それに対し、記者はその意見自体には賛成しながらも、また「そんなことを言える空気ではない」と、困惑します。

この例に見られるように、日本人は論理的な議論の結果ではなく、得体のしれない「空気」なるものに支配され、意志決定(自由)を拘束されています。
結論を下す際、論理的帰結ではなく、空気に適合することが第一になるのです。
空気の前に議論(論理)は無効化し、無色透明の空気は、意識的にその存在を確認できない漠然としたものとして人間を包囲し、絶対的に拘束します。
人間が最終決定者なのではなく、空気が決定者なのです。

戦艦大和の特攻出撃(1945年)に関しても、それが無謀であるという論理的なデータや根拠を押しのけて、「空気」がその決定を下したのであり、日本では大きな事件から日常の問題まで、この「空気」なるものが人々を規制し、行動に駆り立てるのです。
いかに現実を志向する意志を持っていたとしても、いざ、その空気に包囲されると、意見をひるがえし、意思に反する行動を為し、事後的に「あの時の空気ではそうせざるを得なかった」と弁解します。
「空気」は絶対的な権力を持つ妖怪であり、海軍の専門家集団が「作戦として成り立たないことが明白」だと考えることを強行させ、理由を説明できない意志に反する行為へと駆り立てます。
ある特定の主体の意志ではなく、実体なき「空気」の強制である場合、責任の追及が困難になります。
戦後も変わらずこの空気の支配は続いており、時に戦後らしく英語で「ムード」と呼ばれたり、時に「空気」が竜巻のように「ブーム」になったりします。
それらはすべてを統制し、強い規範となり、人々の現実的な言論を封じます。

「空気」には気圧のような圧力がありますが、その空気が無くなった後の時代の人にとっては、当時の空気の圧力の存在が分かりません。
ですから、当時の空気に抗った当時の人々の異常なほどの必死な反抗が、奇妙に見えるものです。
なぜ、そんな当たり前(現実)のことを一心不乱に叫ぶのか、と。
裏を返せば、その当時の人々の必死さが、当時の空気の圧力の存在を証示しているのです。

「空気」に対する反抗が成功し、空気の決定を覆すことに成功したとしても、そのために膨大なエネルギ-が無駄に費やされることになります。
つまり、「空気」の存在によって、当たり前のことを述べたり実行することが、極めて困難になるということです。

第二章、空気の支配

「空気」は絶対的な支配力を持つため、その判断基準に抵抗する者は、いわば「抗空気罪」に触れる異端の罪人として、社会的に抹殺されることになります。
私たちは、客観的な状況把握による論理的な帰結として判断し決定を為すのではなく、空気への順応によって決断するのです。
そして、この決断の基準は、口にされることはありません。
なぜなら、説明のためには論理が必要であるため、論理を排した「空気」は説明不可能だからです。

人間は「論理的判断基準」と「空気的判断基準」のダブルスタンダードのもとに生きており、普段表面的に口にするのは「論理的判断基準」であっても、本当の判断基準は「空気的判断基準」なのです。
「空気が許さない」という言葉が出るように、論理よりも空気の方が強いのです。
現実には、論理と空気の判断基準は、そう明確に分かれているわけではありません。
例えば、議論の場における空気が論理を誘導し、空気の判断基準が醸成されたものとしての論理的判断基準(つまり、空気によって歪められた論理)が生ずる場合もあります。
日本における科学的根拠とは、空気に適合するよう再構成されたものであることも多いのです。

では、「空気」はいかに生じ、作用し、消滅するのでしょうか。
基本的に「空気」は、人間のコミュニケーションのうちに不作為に自然発生するものですが、人工的な操作によって意図的に作り出すことも可能です。
先ずは人工発生的な空気について簡単に考察し、次章で重要な自然発生的な空気の成り立ちを見ます。

例えば、裏に経済的な意図(金儲け)を隠して人為的に作られた環境問題などの場合、ある物体(例、プラスチック)や言葉(例、地球温暖化)が物神として人格化され、その神の臨在感(不可視な神が傍にいる感覚)的な把握として、「空気」を醸成します。
「鰯の頭も信心から(信じれば何でも尊い、の意)」と言われるように、人々はこの見えない神(物神)の臨在、つまり「空気」によって物神論的宗教者となるのです。
こうして獲得された宗教性は、人々(信者)を強く拘束します。
勿論、この宗教的拘束力は、善用も悪用もできます。
しかし、ある底意をもって宗教的感情を作為的に利用し、人工的に醸成された空気は、「底が割れやすい(隠し事は見破られる)」ため、自然発生的な空気に比べれば、霧散しやすく、害は比較的小さくなります。

第三章 空気発生の条件その一、歴史の忘却

日本人とユダヤ人が共同でイスラエルの遺跡を発掘し、無数の人骨を扱うことになった際、日本人のメンバーのみが病人同然になってしまうという事例がありました。
日本人のみが「骸骨」という物質から、心理的、宗教的な影響を受け、その人骨だらけの現場の空気に耐えられなくなってしまったと推察されます。
ユダヤ教は厳しく偶像崇拝(いわば物神崇拝)を禁じているため、人骨に臨在感を感じることはありません。

ここで問われるのは、「なぜ日本人のみが、物質の背後にある非物質的なもの影響を受け(先の臨在感的把握)、身体にまで影響を被るほどになるのか」ということです。
しかし、この問いは、超能力の問題などと同様、科学的な探究の対象とはなりません。
なぜなら、現代の日本で一般的にとらえられている科学は、明治的啓蒙主義(実利、合理、功利、経験主義による文化的水準の向上)という狭隘な学問にすぎないからです。
その狭隘な学問的探究の枠から排除されたものは、逆に根深く潜在し、無言の影響力をもつことになります。

臨在感的把握の前提となるものは「感情移入」です。
臨在感的把握とは、ある対象への感情移入が強力になり、感情移入だと考えられないほど絶対化してしまう状態です。
感情移入が無意識化、常態(日常)化し、その対象なしには生きている実感が失われてしまうような世界観です。
そして、この感情移入の能力に秀でた文化、民族が日本であるということです。
例えば日本人の特徴である親切さの根底には、欧米的に主体が別の主体を支援するという自立した親切の構図ではなく、感情移入によって私と対象が合一し、対象(他者)を助けることが即わたしを助けることになる親切の構図です(例えば、悲しそうな他人を見ると自分の内に悲しみの感情が生じ放っておけなくなる)。
そして、物神化とその支配が絶対化されると、自己と対象が合一化するため、その状態を壊そうとする障害をすべて悪として排除しようとする心理状態が生じます。

自然発生的な空気、即ち臨在感的把握は、歴史の所産であり、善かれ悪かれその存在は何らかの意義をもちます。
しかし、その歴史性を反省的に把握しておかないと、やがてその出自の相対性は忘却され、絶対化が生じ、逆に対象に人間自身が支配されてしまうことになります。
日本では伝統的に「霊は遺体周辺に留まり、その霊は人間と交流しうる」という世界観を持ちます。
それに対し、西欧では伝統的に「肉体は魂の牢獄であり、死と共に魂は解放され天へと昇る(つまり残った遺体は魂の抜けた単なる物質)」という世界観を持ちます。
先の例の日本人が人骨というただの物質に何かが臨在すると感じたのは、この歴史的出自の相対性を忘却したことによって生じた絶対性によるものです。
【ミニ解説】
絶対性が歴史的出自の忘却によって生ずることを暴き出したのがニーチェの系譜学です。後天的(歴史的)に獲得されたはずの相対的なものが、その獲得されたことの記憶を失った時、先天的に有った絶対的なものとして存在感を発揮し、運命のように逃れられない支配力をもつことになります。
【解説おわり】

この自然発生的な空気に対し、昨今の公害問題のような短期間で醸成された空気は、歴史的過程が明瞭であるため、その相対性が把握しやすく、その空気は比較的簡単に霧散します。

第四章 空気発生の条件その二、概念の分断による絶対化

これまで述べたことは対象がひとつである一方向支配の空気という単純なものです。
しかし、現実の人間は、双方向的感情移入や、複数対象による複数方向からの支配の網によって、複数の空気によりがんじがらめに縛られています。
この網すべてを解きほぐすことは難しいので、二方向(二極)的な臨在感的把握によって縛られる人間について記述します。

空気支配の成立条件として重要なもののひとつ目は「歴史的出自の忘却」でしたが、ふたつ目は「”対立概念で対象を把握すること”の排除」です。
【ミニ解説】
対象は常に対立概念の両方を有しています。
地球上に完全な白や完全な黒は存在せず、すべての物はその中間にあり、白と黒の両方を含んでいます。それと同様、いかに優しい人間といえど、ある程度の厳しさを有しており、いかに臆病な人間といえど、ある程度の勇敢さを有しています。山本七平の言う「対立概念で対象を把握すること」とは、「対立概念[の両方]で対象を把握すること」を指すのであり、「対立概念[の片方]で対象を把握すること(例、勧善懲悪もの)」ではありません。
【解説おわり】
いかにその対象が臨在感的把握を強制しようとしても、受け手に対象を対立概念で見る力(対象が対立概念両方を有する相対的な存在であることの認識)があれば、相対化することが可能であり、その空気が絶対的な支配力を振るうことはありません。
しかし、対象を対立概念で把握せず、分断された両極的対立の一方のみで対象を把握すれば、必然的に絶対化されることになります。

例えば、ある戦争が起こった際、A国軍は善かつ悪であり、B国軍も善かつ悪であるのが、客観的な現実です。
しかし、この相対性を忘却し、A国軍は善玉、B国軍は悪玉というように概念を分断し絶対的に把握してしまえば、自己は二方向からの空気によってより強化された拘束を受けることになり、身動きが取れなくなります。
善玉A国軍という対象が生じさせる臨在感的把握(空気)と、悪玉B国軍という対象が生じさせる臨在感的把握(空気)とによって二方向から拘束される時、その空気の支配の強度も倍加し、拘束される人はその空気から逃れることがより難しくなります。
三、四方向ともなると、もう抵抗不可能です。

以上の条件から分かることは、空気に抵抗するために必要なものは、1.臨在感を歴史的に把握し直すことと、2.対立概念によって対象を把握すること、の二点です。

第五章、現代の空気と古代の空気

「空気」は日本だけに存在するものではなく、世界中にあります。
問題はその支配を許すか許さないか、またその拒否における対処法の違いです。
「空気」に相当する西欧の語は、古代ギリシャ語の「プネウマ(空気、風、気息、精気、霊気、魂、精神的存在などの意)」、またそのラテン語訳である「アニマ」です。
【補足】
厳密に言うとこの訳語の関係はやや異なるようです。以下の図は古代キリスト教思想史研究梶原直美氏によるものです(『スピリチュアル』の意味-聖書テキストの考察による-試論)。

【補足おわり】
このアニマから生じた語が「アニミズム(万物に霊魂が宿るという考え方)」であり、これは物神崇拝につながります。
気体のように捉えられない実体から生ずる目に見えない力で人々を呪縛、支配し、宗教的狂乱状態(エクスタシー)に陥れる「空気」は、古代の「プネウマ」と非常に似た概念です。
古代の人々は、判断や言論や行動の自由を失わせ、自分たちを破滅に導くような決定すら行わせる奇妙な見えないものの支配、つまり「霊(プネウマ)の支配」があるということを、よく理解していたということです。

明治的啓蒙主義(つまり現代の日本の学者)は、「霊の支配」など非科学的、非現実的だと言って、嘲笑的に否定し、存在するはずのものを存在しないことにしてしまいます。
あるものをないことにすれば、当然、その存在から生ずるものに歯止めが効かなくなり、「空気の支配」は猛威を振うことになります。
その存在を否定し続ける限り、「空気」は私たちを拘束し続け、再度、太平洋戦争と同じような悲惨な運命に日本人を追いやるかもしれません。

第六章、相対化の力その一

福沢諭吉に代表される明治的啓蒙家が、在るものを無いことにして放置した結果、その悪性腫瘍の拡大によって日本はボロボロになりましたが、戦後また昭和的啓蒙主義として同じ轍を踏んでいます。
科学は空気の支配下にあり、論理や自由は封じられ、すべては空気による超法規的、超科学的な決定により進められることになります。

絶対化された対象に対する感情移入によってモッブ然とした狂乱的陶酔にある人々は、甚だしい不寛容を示し、対象を対立概念によって相対化しようとする理性的で現実的で大局観をもつ人間を、徹底的に排除しようとします。
対象を絶対化し盲目的に信じ命がけでその指令を遂行するような者を「純粋な人間」、そうでない人間を「不純な人間」と見なし、さらにその「純粋な人間」を臨在感的に把握し絶対的に善なる対象として称揚し、さらに「不純な人間」は絶対的な悪の対象として排撃します。
この全方位的な複数の空気の圧力の中で、相対的に物事を見ることのできる理性的な人々も、口をつぐまざるを得なくなります。

対象の相対性を排し、絶対化すると、逆に人間はその対象に支配され、自由を失い、その対象に関わる問題を解決できなくなるのですが、空気に支配された人々にはそれが理解できません。
例えば、公害問題を絶対化し、熱狂的に解決しようとすればするほど、逆に解決できなくなっていくのです。
公害問題を相対化して見る人が公害問題を解決しようとする際、”公害問題”の対立項である”経済発展”との調和をはかろうとします。
しかし、公害問題を絶対化する人は、対立項である経済発展を絶対的な悪と見なし、それを叩き潰すことこそが公害問題の解決だと考えます。
それは、将棋の盤ごとひっくり返して、問題を消滅させる行為であり、”公害問題の解決”とは無関係な行動です。

「空気」は、相対化によって対象から自由になり客観(大局観)的、論理的に問題を解決する能力を、全員から奪い取るのです。
空気の拘束によって自由を失い、さらに問題解決能力まで失った者は、盲信する物事を命の限り遂行することによって”玉砕”することだけが、問題解決の代わりとなります。

対象の相対化を許さないなら、いかなる問題であろうが、人々に知徳があろうがなかろうが、いかなる民族であろうが、結果は同じです。
「人間なんて皆同じだ」と考えてしまいそうになります。
しかし、それは「絶対化された対象が生じさせる空気による支配は、人間を同じ行動パターンに統御する」という意味において正しいだけです。
もし、反対に絶対化が許されず、空気に従うものは皆、処刑される国があるとすれば、その国の国民は、違った行動パターンで動くはずです。

一神教(及び偶像崇拝の禁止)を採用する国であれば、絶対である一者(神)以外は相対化されます。
相対化されない対象が原理的に存在しないため、対象的な「空気」も発生しにくく、発生したとしてもすぐに相対化され霧散します。
それに対し、日本はアニミズムの世界であり、物(対象)を神と見なす物神崇拝にも密接に関係します。
先に述べたように「アニマ」の意味は精気を持つ空気を指すので、アニミズムは「空気主義」ともいえます。
この世界観においては、対象の”内”に相対化はなく、絶対化の対象が無数にある、ということになります。
臨在感の対象が次から次へと移り変わるため、絶対化の対象が”時間的経過によって相対化される”世界観なのです。
一時的に強く対象に呪縛され、目移りした瞬間、前の対象はけろっと忘れます。
しかし、この目移り(方向転換)が無ければ、対象の絶対化は悲惨な状況をもたらします(後述)。

先に述べたように、現実的な人間であれば、公害問題と経済成長を同じ対象の中に相対的に把握し、その調和によって解決しようとします。
しかし、日本の場合、先ず経済成長が絶対化され、その次の瞬間には公害問題が絶対化され、次いで資源問題が絶対化され…、後になってふり返ってみれば、時間の契機によって公害と経済が相対化されている、ということになります。
軽々しく浅はかだとも言えますが、その場の空気に従い巧みに舵を切っているとも言えます。

これがアニミズムの世界観を採用する社会の伝統的あり方であり、先の「純粋な人間」とは、その時点、その時点において絶対化された対象に対し忠実な従僕であるというより、この民族的伝統そのものに対し忠実な人なのだと言えます。
【例えば、”我こそは純粋な天皇主義者”と述べていた者は、天皇に忠実だったのではなく、このアニミズムの伝統に忠実であったにすぎません。ですから、敗戦後彼らはすぐに転向し”我こそは純粋な民主主義者”と正反対のことを平然と述べることができたのです。】
問題は、全民族を包み込むような空気の支配が、制度的に固定化され半永久的に永続化し、空気の入れ替え可能性が無くなった時に生ずる、破局的な危険です。
それはファシズムよりもさらに厳しい「全体空気拘束主義」となります。

アニミズムにある自由なジグザグ状の変遷による相対化は、平和を保障された環境における成長・転換期においては、有効に機能します。
これが明治と戦後の発展を可能にしました。
しかし、これは短期的な作戦において有効ではあっても、持久・維持を前提とする長期的な計画は立てられないため、変化の落ち着いた成熟した社会では、上に述べたような危険が生じます。
これを回避するには、時間に頼る通時的相対化ではなく、共時的に対象を対立概念で把握する「空気の相対化」が必要になってきます。

私たちの生きる社会は、常に絶対的命題を持っています。
例えば、「忠君愛国」や「正義は勝つ」などというような命題を絶対化し、そうでない社会は「悪」であると、疑うことなく信じる「空気」に支配されています。
相対化して対象(世界)を見ることができないため、現実の世界の一部しか、存在として把握することができないのです。
それが日本という国なのです。

第七章、相対化の力その二

天皇制とは、典型的な「空気支配」の体制です。
人間でありながら神である「現人神」とは偶像であり、それは仏像のように人々が感情移入する対象であり、自らの意志で動いたり、意思を話し出してはならないのです。
そうなれば、臨在感的把握(空気)を壊してしまいます。
天皇制を定義づければ、「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」です。

偶像化の対象は、物や人間だけでなく、言葉やスローガンも可能です。
「言葉狩り」は、悪として絶対化された言葉であり、その存在が、逆照射的に善として絶対化された言葉の存在を証明しています。
【例えば、差別用語の言葉狩りを為す人は、”平等”という概念を絶対化しています。】
それに対し、一神教的世界観である場合は、神の名のみが絶対化され、残りのすべての言葉は、対立概念によって相対化されます。
一神教においては”神の名をみだりに口にすること”を禁じられるため、事実上、人間が口にする言葉のすべてから「絶対」が無くなります。
【神の名をみだりに口にすることは言葉の偶像化であり、逆に偶像崇拝として神を冒涜することになる。】
このように、すべての言葉が対立概念として把握される時、人は言葉を支配することができるようになります。
そうでなければ、逆に人は言葉に支配されて自由を失い、言葉を把握できなくなってしまいます。
【神の名をみだりに唱える者が、名を偶像化し、本当の神を見失うように、言葉を絶対化する者は、その言葉の指すものを本来的に把握することができなくなります。】

例えば、しばしば絶対化される「正しい者は必ず報われる」という命題を、ユダヤ教(一神教)は旧約聖書ヨブ記において「では、報われなかった者は皆不正な者なのか」と、相対化した問いとして、主題化します。
正論のように見え絶対化されやすいどんな命題であっても、対立概念によって相対化することが可能です。
このような相対化によって、言葉の偶像化による空気支配を防ぐことができます。
勿論、空気を全て無くすことは出来ませんし、むしろ必要な状況もありますが、「その場の空気でどうにもならなかった」というような悪い状況は防げます。

特に多数決の原理で決定がなされる状況や社会において「空気」は致命傷になるため、徹底的に「空気」を排除する必要があります。
「空気」は多数決の原理を空洞化し、人々の意志の代わりに空気の意志が決定を為すことになります。
人間に対し非常に強い臨在感をもたらす対象が「死」です(例えば、犠牲者が偶像化され醸成された空気は、抗いがたい圧力を生じさせます)。
ユダヤ教聖典タルムードのサンヘドリン(裁判に関する記述)においては、死の臨在が生じやすい決定(殺人罪、死刑など)に対し、非常に慎重な手続きを設定し、空気の生成を防いでいます。

そもそも多数決の原理は、対象を対立概念で把握した上で、その質を数量に還元し、決定する方法です。
相対化された命題の決定にだけ使えるものであり、正誤の判断(論証)に関わるものではありません。
「多数が正しいとは限らない」とよく述べられる意見は、多数決の本質を見誤っています。
ですから、「空気」によって相対化を許されない問題において、多数決は方法として全く機能していないということです。

日本の空気支配とジグザグ型相対化は、大した問題を起さない状況(例えば、江戸時代のように運命的な決断を長い間必要としない状況)や、有益に機能する状況(例えば、明治時代のように先進国を臨在感的に把握し急成長-変化-する状況)であれば、「空気」任せ(無責任)でいても支障はありません。

第八章、相対化の力その三

自然の堀(海)によって防衛されていた安全な日本と異なり、自集団の存続を賭けた争いが絶えなかった西欧や中東のような国々では、決断は命がけの緊張感をもつものとなります。
彼らには「空気の支配」などというものを採用する余裕などないのです。
常に対象を対立概念で見る現実性によって虚構性を排除すると同時に、対象に従属しない主体的な決断(対象に支配されるのではなく対象を支配する)が、その生き方として必要とされるのです。
聖書やアリストテレスに見られるような、対象を徹底的に相対化して把握する姿勢が、その基礎としてあります。
しかし、その聖書(相対化の世界観)が日本へ入ってくると、相対性が排除された解釈による日本式聖書物語として絶対性を付与され、臨在感的把握の対象とされてしまいます。

人間が人間である限り、二千年以上経とうとも、この相対化の構造は変わりません。
問題となるある対象を絶対化すれば、人はその対象に支配され、問題の解決が不可能になります。
「差別」を絶対化すれば、差別問題は解決不能になり、「敵」を(悪として)絶対化すれば、客観的な視点から争いを解決する自由な視座が失われ、結局は一億総玉砕まで突き進まねばならなくなります。
絶対化された公害問題を無くすために工場をすべて破壊するという発想は、一億総玉砕と同じ型の発想なのです。
対象の絶対化、つまり「空気」の支配が続く限り、あらゆる場面でこれと同じことが行われるでしょう。

しかし、私たちの祖先が、空気の支配に完全に無抵抗であったという訳ではありません。
少なくとも明治までは「水を差す」ことによって、「空気」を霧散させる方法を知っていました。
「空気」の研究に次いで、「水」の研究が必要となるでしょう。

おわり

※【】内の記述は、当サイト管理人による解説、補足です。

 

「水」の研究につづく