第六章、暴力的メディア内容がもたらす効果
マスコミの効果に関する人々の大きな関心として、メディアにおける犯罪と暴力の描写が視聴者(特に若年層)に影響を与える、という問題があります。
客観的な統計により、すべてのメディアでおびただしい数の犯罪と暴力の描写があることが確認されています。
しかし、「メディア」や「暴力」をいかなる範囲で規定するかによってその数は変化しますし、現実とフィクションの相違の問題もあり、そもそもメディアにあらわれる暴力の程度と現実の効果の間の関係は未解明です。
メディアにおける犯罪と暴力の描写がいかなる効果を生じさせるかの関係は、以下のように想定(つまり実証的裏付けがない)されています。
1.人々の漠然とした思い込み的常識として、メディア内容が影響を与えると考える。
2.メディア内容を直接的な原因として、模倣的に行動が生じる。
3.直接的な影響を与えるのではなく、犯罪と暴力の描写が”犯罪学校”として機能し、徐々に悪に対する傾向を育て上げていく。
4.何らかのストレス状態にあり、道徳的な抵抗力が弱まっている人々の”トリガー”として作用する
5.模倣的に悪い行為が生じるのではなく、生活に付与している価値観が望ましくない(不道徳)方へと書き換えられる。
6.むしろ、メディア内の人物との代理的同一化によって、現実社会で表出されるはずだった暴力が代理的に発散され、その捌け口となる。
現時点(1960年頃)で、暴力的メディア内容に対する受け手の直接的反応に関するデータはあまりありません。
そのため、暴力に限らない広範な研究である『テレビと子供:青少年に及ぼすテレビの影響に関する実証研究』(Himmelweit, H.T., Oppenheim, A.N., & Vince, P. 1958. “Television and the child: an empirical study of the effect of television on the young”)を、今後の参考のために以下にまとめます。
調査対象となった子供の約四分の一が、テレビに映された暴力によって恐怖を示しました。
映される暴力の量(どれだけ為されるか)よりも、その質(どのように為されるか)が重要であり、四つの明確な形式が抽出されます。
1.「子供たちの恐怖の程度は、危害が加えられる際の手段に関係する」
例えば、銃撃戦の描写は脅威になりませんが、ナイフによる危害は恐怖を生じさせます。
2.「結果が予測可能なありふれた型の暴力は、子供たちを脅かさない」
例えば、予定調和的に暴力と大団円が約束された、紋切り型の西部劇や刑事物などのドラマ。
3.「子供たちは、肉体的な攻撃より言葉での攻撃に脅威を感じやすい」
たとえば、大人たちの怒鳴り合い。
4.「ノンフィクションの暴力は、フィクションの暴力より、子供たちの脅威となる」
例えば、ニュース映画における事件や事故の危害的状況。
その他、内容的なものではない外的要素として、「コミュニケーション状況は、直接的反応に影響を与える」ということが発見されています。
例えば、視聴する際の人数やメンバー、部屋の光量など。
いくつかの研究により、メディアで描かれる犯罪や暴力は、(単なる直接的情動反応ではなく)受け手の価値や態度や行動におよぼす効果の、決定的要因ではないことを示しています。
メディア内容に対する接触量の多いことが非行の十分な原因でないことが明らかで、暴力メディアに頻繁に接する子供とあまり接しない子供と全く接しない子供の間の非行傾向に、有意な差はありません。
犯罪歴をもつ子供たちが、暴力的メディアの頻繁な接触者である場合が多いという研究もあり、これらを考え合わせると、個々の受け手の持つ心理的問題が、暴力メディアに対する反応を決定すると推察され、またそれを支持する研究もあります。
仲間集団から孤立していたり、何らかの理由で神経が高ぶっていたり、欲求不満に陥っている子供は、暴力メディアの内容に対し強い欲求をもち、それを反社会的、逃避的、病理的なファンタジーとして利用することが明らかにされています。
つまり、暴力的なメディアは、非行を触発する一次的作動因とはならず、個々の受け手に内在する既存の行動傾向を補強するよう働き、時にそれが実行へと移されます。
環境に良く適応し欲求不満の少ない子供に対しては、メディア内容は悪い影響をもたず、むしろ社会的に有用なものとして選択的知覚がなされます。
暴力メディアが有害となるのは、社会的不適応、欲求不満状態にあるごく少数の子供に対してだけですが、それが彼らの状況を悪化させる因子である以上、この問題を無視するわけにはいきません。
本章の内容は、第一章の一般則のうち、1、2、4、5を直接支持し、3の妥当性も示唆しています。
第七章、逃避的メディア内容がもたらす効果
評論家や学者は、現実逃避的なメディア内容が受け手に与える影響について関心を持ち続けてきました。
論者たちが、「逃避的メディア内容」と呼んでいるものは、逃避という効果から定義されているのではありません。
何が逃避的メディアになるかは相対的であり、効果から考えれば、あらゆるメディア内容は逃避メディアになりうるからです。
例えば、強制的(仕事的)にシェークスピアを読む人と、遊びや楽しみとしてそれを読む人では、効果(現実的-逃避的)が異なりますし、知的水準の程度によって、いかなるメディア内容が逃避的になるかが変わります。
論者たちは、”現実にあり得ない内容でありながら、それが現実の世界を描いているかのように受けとられるような内容のもの”の効果に関心を持っています。
典型的なものとして、テレビや映画やラジオの、コメディ、 ドラマ、ミュージカル、冒険劇、マンガなどです。
逃避的内容のメディアは、世界の非現実的な像を作り、人々を虚構に熱中させ病みつきにし、精神的成熟を遅らせたり妨げたりし、受け手を現実問題から逸らし、現実の生活に直面する力を失わせ、社会的無関心を作り出す麻薬のようなものだと論じられます。
一方で、同じ内容のものが、健全な休息を与えたり、攻撃的な衝動にはけ口を与えたり、非現実の代理経験により成熟を促され、生活や自我を社会適応的にするという治療的な機能をもつ、とも論じられています。
分析によって明らかなったことは、多くのメディア内容は、われわれの周囲に存在する現実のものとは、異なる世界を描いているということです。
現実社会と比べ登場人物の構成は不釣り合いで、人間の複雑さは単純化され、ほとんどの社会的問題が欠落し、一義的なモラルに合わせた世界が描かれています。
いくつかの研究は、逃避的メディア内容によって果たされる種々の機能を明らかにしており、それは以下のようなものとなっています。
a.気晴らしの提供。心理的、生理的休息を与える。
b.想像力の刺激。創造性を育む。
c.代理的相互作用の供給。孤独な人に対し、他者や世界との代理的な接触手段を与える。
d.社会的相互作用のための共通の基盤の提供。いわゆる話のタネとして、円滑な人間関係を結ぶツールとなります。
e.情動的解放。共感や代理的満足や代理的代償など、物語に存する精神医学的治療効果による情動の解放。
f.現実生活の教科書。現実の諸問題の助言や教訓の源泉として作用します。
メディア内容がこれら機能の一時的な作動因となることはなく、コミュニケーション外の諸条件およびその条件下にある個々の受け手の欲求に従い、結果として生じるにすぎません。
逃避的メディアの過度の消費と、コミュニケーション外の原因に由来する個人の特性の間には、密接な関係があります。
逃避的メディアの熱中者は、不安性向、社会的不適応、 欲求不満、低い自己肯定感、依存性(受動性)などを持っています。
同じメディア内容であっても、そのような個人の特性によって反応(つまりメディアの効果、機能)が異なり、その特性によって、いかなるメディア内容を選択するかの傾向も変化します。
同じ作品が、ある子供にとっては自己同一化的な逃避の術になり、別の子供には助言の源泉として社会的に利用されたりします。
メディア内容は、ある特定の生き方の一次的原因となることはなく、受け手の持つ心理的欲求に奉仕し、その人自身の特徴的な生き方を補強すると考えられます。
人はその人の性質ゆえに逃避的メディアの熱中者となるのであり、メディア内容は人の志向を”作り出す”というより”利用される”のです。
勿論、メディア内容がその人の世界観の一次的な原因ではなくとも、その世界観を確認し強化するものである以上、批判を完全に免れるものではありません。
精神的不安を抱えてモルヒネ中毒になった者は、近くにモルヒネが無ければ、別の解決法を見出していた可能性もあるからです。
逃避的メディア内容の氾濫は、社会的無関心を促進すると、学者や評論家は述べます。
逃避的メディア内容が、ストレスや緊張を解消する習慣的様式となり、社会的緊張に対するガス抜きの弁として機能し、社会的な問題意識や建設的な批判が生じることを著しく減じている。
また、社会的問題を回避、排除、隠蔽した逃避的内容の世界観に絶えず接触することにより、現実に存在している社会的問題を認識することがなくなる。
以上が二点が、彼らの論旨です。
しかし、この仮説に対する実証的な証拠は提出されておらず、既存の研究から論理的に導き出すしかありません。
それは、逃避的メディア内容は、既に社会的関心が高く活動的な人々を無関心にすることは少ないが、既に無関心の傾向をもつ人々の無関心を補強するであろう、ということです。
本章の内容は、第一章の一般則のうち、1、2、4を直接支持し、3、5の有効性も示唆しています。
第八章、成人向けメディア内容がもたらす効果
子供の発達に関心を持つ人々の間では、成人向け内容(日本で言うアダルトではなく、子供向けでない一般的な作品のこと)を長期間視聴することの子どもに及ぼす影響が共通した問題になっています。
これらの問題についた為された多くの研究では、子供は実際に成人向けメディア内容に頻繁に接触し、その視聴に多くの時間をさいていることが明らかになっています。
その動機についての研究が示唆するのは、メディア内容が第一原因となっているのではなく、コミュニケーション外の要因によって生み出された欲求を満足させることだということです。
メディア内容自体が子供の好奇心を刺激するものとして有力な誘因になっていますが、それ以上に、成人向け番組が、成人の世界の仲間入りをしたい知りたいという子供の欲求を満足させ、視聴すること自体が子供にとって成人の活動として考えられているのです。
成人向けメディア内容に子供が接触することを危惧する人々が目を向けるのは、成人番組が多くの場合、葛藤状況にある大人を扱い、人生の困難さと無力感を印象付けるものとなっている点です。
それが現実を垣間見る窓として作用し、成長への目覚めとして、有益に機能すると考える学者がいる反面、そのような内容を続けて視聴することは、成人環境との衝突を不必要に速め、子供を、当惑させ、成人への不信、大人の問題の皮相的な理解、偏った大人観を植え付け、現実問題の解決への追及心を弱めてしまう可能性があるとも考えます。
子供は大人に追いつこうと、こうした葛藤にあこがれを抱く一方、成人になることを嫌がり恐れるようになる場合もあり、いずれにせよ、早熟を強制された子供に見られる望ましくない行動傾向を導くことになります。
成人向けメディア内容によって、大人の無能を知り、子供は成人(特に親)を全能であるものとして見る時期を短縮させます。
メディア内容の大人と現実の大人との比較が生じ、前者に魅力を感じている子供の場合、現実の大人に対する不満と不信が生ずるということになります。
また、現実の大人(特に両親)の言動と、メディア内容に描写された大人の言動との著しい相違は、子供を当惑させ、いかなる態度や価値が社会的に受容され認められるかという知識に関する葛藤を、生じさせます(メディアを通さずともいずれ生ずる葛藤ですが、早すぎるということです)。
これらの問題に関する調査研究を、以下にまとめます。
Robert Bolesław Zajoncの研究(1954)によれば、メディアにおける成人の描写は、若い聴取者の価値に対し直接的で強い効果を、一時的に与えることが示されています。
しかし、既に若い人びとの中に強力に形成されいる文化的規範的な価値にたいする攻撃である場合、抵抗を示す(つまりメディアの影響を受けない)傾向にあります。
Lotte Bailynの研究(1959)によれば、一定の心理学特性をもち(先述)、暴力的な内容の視覚メディアに多く接触した少年は、非現実的な内容を現実のものとみなし、現実世界の成人をキャラクター的なステレオタイプで判断する傾向があることを示します。
この傾向は、接触量の増大とともに強くなります。
Himmelweit、Oppenheim、Vinceの研究(1952)によれば、成人向けテレビ番組の内容は、人生の不条理性をあまりに早く気付かせ、大人になることへの不安をもたらします。
また、職業的な可能性の呈示により、彼らの職業にたいする願望の水準を上昇させる傾向にあります。
この調査研究において、成人向けメディア内容が子供の価値や態度に影響を与える一般則が、以下のように導き出されました。
・何度も放送された場合(特にドラマチックな形式で)に影響を及ぼす。
・受け手の見方が固まっていない時、あるいは受け手の知らない新しい情報である場合に、影響力を持つ。
・提示されたトピックや態度に対する適応年齢にある時、影響を及ぼす。
つまり、ある種の条件の下、ある種の子供に、ある程度、影響を及ぼすということです。
本章の内容は、第一章の一般則のうち、1、2、を支持し、3に若干の修正を要求します。
第九章、マスメディアの受動性
マスメディア(書物を除く)、特にテレビの視聴は、受動的活動であり、それは人びとの批判力や創造力を萎えさせ、甚だしく依存的で受動的な行動パターンに陥ると、学者や評論家は主張してきました。
さらに悲観的な者は、人びとは無気力な盲従におちいり、能動的な民主主義が萎縮してしまうロボットのような国民になりさがると予想します。
「価値に対する感覚、驚きの感情、持続的興味を何ひとつ持っていない。ものの考え方、感じ方はいちじるしく浅い(Robert Lewis Shayon.1951.”Television and Our Children”)」
しかし、彼らは実証的な証拠を提出しておらず、仮説にとどまります。
心理学者、精神分析学者たちは、「受動的状態の興奮」は子どもたちに有害である可能性はあるが、少数のケースにすぎないと述べます。
子供が適応状態にあり、度を超してテレビを見ない限り、「受動的状態の興奮」は健全なものとなります。
それは、代理的な役割演技を行なう機会を提供し、想像力を刺激し、子供の中にあるものを水路付け、構造化を促し、自己の殻に閉じこもることを防ぐという、生産的な社会化の機能を有している、と考えています。
しかし、彼らも実証的な証拠を提出しておらず、仮説にとどまります。
方法論的に実証的な調査の難しい問題であるため、参考になる研究は限られています。
・Robert.V.HamiltonとRichard.H.Lawlessの研究(1958)では、テレビ視聴者は、環境に対する認知的把握能力が減退し、創造的な活動を失う傾向にあることを実証していますが、データを越えた推論があり仮説の域を出ません。
・William Albert Belsonの研究(1957)では、テレビは視聴者の興味を浅くし、活動性と自発性を減退させることを実証しますが、彼の述べているデータからそれを正当化することは出来ません。
・Lotte Bailynの研究(1959)によれば、視覚的マスメディアに頻繁に接触している子供は、接触の程度の低い子供よりも、高い社会的地位を望む傾向が少ないことを示し、そうした態度を受動性の指標とみなしています。
しかし、これは極めて特殊な受動的観念に限ったものにすぎません。
・Himmelweit、Oppenheim、Vinceの研究(1958)は、テレビ視聴における受動性のタイプを五つ(1.無批判な一方通行的取り込み、2.番組内のモデルの模倣による人生の選択の受動化、3.見世物的興味による自発性の減退、4.刺激の連続による興味の希薄化、5.既成の想像を与えることによる想像力の退化)に分けて調査し、すべてにおいてその効果の明確な証拠が見いだせないことを明らかにします。
最終的に、次のようなことが示唆されます。
テレビ視聴は、それまで能動的であった人を受動的にするのではなく、個人的特性およびその個人の外的要因によって引き起こされた受動的(あるいは能動的)志向を助長するようなプロセスで反応を形成する、ということです。
テレビ番組の同じ物語が、仲間集団の遊びの源泉となることもあれば、個人主義的なファンタジーに源泉となることもあります。
つまり、マスメディアは、既存の傾向と環境的要因に基づく志向を補強し実現させる方向で、選択的に利用されるということです。
おわり
<読書案内>
翻訳書は、J.T.クラッパー著、NHK放送学研究室訳『マス・コミュニケーションの効果』日本放送出版協会のみです。
絶版で、古書でも手に入りにくい希少本ですが、国立国会図書館デジタルで全文読むことが出来ます。