バークリの『ハイラスとフィロナスの三つの対話』(2)

哲学/思想

(1)のつづき

第二対話

ハイラス
遅くなってしまって、申し訳ありません。
昨日のことをずっと考えていて、余裕がなくなってしまいました。

フィロナス
いや、それだけ熱心になってくれれば嬉しいよ。
では、早速、考えたことを教えてくれないか。

ハイラス
何度も考え直しましたが、結局、あなたの言ったことがより明確になっただけで、あなたへの同意が強くなってしまいました。
しかし、感覚や観念を説明する上で、あなたの正しさとは別の、正しく思える考え方(デカルト、ロックのこと)があり、そちらの方をどう否定すればよいか分からないのです。

フィロナス
どんな考え方だい?

ハイラス
心は、人間の脳の部分にあって、全身と神経を通じてつながっている。
外的な物体が感官に与えた様々な刺激が、神経を通って、脳、つまり心に伝達される。
その伝達された刺激の痕跡や印象によって、心に観念が生じる、という考え方です。

フィロナス
それが説明になっているのかい?
脳の中の痕跡が観念の原因というが、脳は可感的事物だろう。

ハイラス
ええ。

フィロナス
可感的事物は直接知覚するもので、直接知覚されたものは観念だけのはず。
可感的な脳は心の中にしか存在しないはずなのに、それが心の中のすべての観念を引き起こすという想定は、矛盾しているだろう。

ハイラス
感官で直接知覚できる脳とは別の、想定(想像)された脳で、観念の起源を説明することができます。

フィロナス
しかし、想像されているものも、心の中にあるものだろう。
可感的な脳であれ想像された脳であれ、同じことで、それは観念によって観念の起源を説明することになる。
「観念の原因としての脳」という観念を想定すればおかしな堂々巡りが生じるだけだし、かといって脳を想像しなければその仮説すら作れない。

ハイラス
・・・どうやら私の持ってきた仮説も、おとぎ話にすぎなかったようです。

フィロナス
当世の哲学者たちは、目に見えるこの世界の素晴らしい美しさを誤った輝きだと吹聴し、可感的事物の実在性を奪いとってしまう。
君もそんな懐疑主義者になるつもりかい?

ハイラス
私はともかく、あなたも一緒に今回の議論の帰結として、懐疑主義に行きついたではないですか。

フィロナス
議論のはじめを思い出してみよう。
君の主張は、「可感的事物の実在性は心の外の絶対的存在にある」というもので、この定義にしたがうと、必然的に可感的事物の実在性の否定、つまり懐疑主義を帰結するというだけの話だよ。
僕はこんな主張に端から同意はしていない。
僕の主張は、「可感的事物の実在性は心の中のみに在る」ということだよ。

ハイラス
詳しくお聞かせください。

フィロナス
観念がその人の心の中にしか存在しないことは確実だ。
反面、観念をその人の心の中だけで完全に自由に決定する能力は無い。
目を開けた時、その人の心に関わらず、見たいものも見たくないものも知覚され、観念を得る。
しかし、外的物体が存在しないことは、これまで十分議論してきた。
つまり、観念の作者は、その人自身でも外的物体でもなく、何かもっと別の”大きな心(無限な遍在する精神)”が存在し、それが僕たち個々の人間に観念を開示するんだ。
個々の人間が意志や想像力の働きによって、ある程度多様な観念を作り出せることを考えれば、”大きな心”が観念を作り出すということに不思議はない。
個人が意志や想像によって作る観念は、不明瞭で不安定なものだが、感官によって直接知覚される観念は明瞭で安定している。
後者が一般に実在物と呼ばれているもので、この観念を与えてくれるものが”大きな心”、つまり神なのだ。

ハイラス
それは理解できます。
神があらゆる事物の原因というのは、私たちの考えに合っています。
しかし、精神と観念に次ぐ第三の自然として、物質の存在を認めても良いのではないでしょうか?

フィロナス
君は何度も同じ所を廻るね。
心の外の物体が存在しないことは、何度も検討しただろう。
君の主張する物質は、感官によっては直接知覚できないが、理性による推論によって獲得可能なものだと結論付けただろう。
とりあえず、君の物質に対する信念がいかなる推論によって形成されたものなのか、教えてくれないか。

ハイラス
私に与えられる観念の原因が、自分で無いことは明らかです。
そうであるなら、私の観念の原因は私の外にあるはずです。
そこから、観念の原因としての物質が想定されるのです。

フィロナス
どんな言語であれ、言葉の定義をコロコロ変えてしまえば、議論は不毛なものになってしまうだろう。
普通の意味として「物質」とは、「延長(空間)と固性と運動を有し、思考せず、自ら能動的に活動しない実体」のことを指す。
しかし、原因になるためには能動的なものであらねばならない。
また、思考しないものがどうして観念の原因になりうるのか。
もし、物質が観念の原因であるなら、「思考し、自ら能動的に活動するもの」というように、物質の定義を正反対のものに変更しなければならない。
このような物質は、果たして適切に「物質」と呼ばれうるものだろうか?

ハイラス
・・・、その通りですね。
では、第一の原因である”大きな心(無限な遍在する精神)”に従属する制限付きの劣った原因としての”物質の活動”つまり運動が、観念を協力的に生み出すと想定するというのはどうでしょうか。

フィロナス
すべての観念は、非活動的な受動的ものだね?

ハイラス
はい。

フィロナス
可感的性質は観念以外の何ものでもない。
そして、運動は可感的性質だね?

ハイラス
ええ。

フィロナス
では、運動は非活動的な受動的ものになる。

ハイラス
おっしゃることは理解します。
私が指を動かしたとき、指の運動自体はたしかに受動的です。
しかし、私の意志は能動的ですよね?

フィロナス
「運動」と「活動」を一緒にしてはいけない。
意志の伴わない物質の受動的運動と、意志を伴う能動的活動は違う。
精神(意志)による活動以外に、観念の作用因や原因となることは不可能だろう。

ハイラス
物質の運動が観念の原因でないとしても、観念の生産の際に、”無限の遍在する精神(神)”に従属する道具として、物質が使われると考えればよいのではないでしょうか。

フィロナス
道具とは、一体どういうものなのか教えて欲しい。

ハイラス
何も分かりません。
心の外の物質が可感的性質をもたないということは、今までの議論で私自身納得していますから。

フィロナス
では、形や延長のようなあらゆる可感的性質を有さないその得体のしれない未知の「道具」とやらの思念を、どうやって持てばいいんだい?

ハイラス
何の思念も持てません。

フィロナス
では、君は、その想像できないような何かが存在すると、どうやって信じだしたんだい?

ハイラス
・・・。
私の信念の根拠よりも、逆にあなたがなぜそれを信じないのかを訊きたいですね。

フィロナス
信じるための理由が無ければ、それ自体、信じないことの理由になるだろう。
君が信じるための理由を教えてくれないから、信じようがない。
そもそも、何も知らない未知のものを信じるという君の姿勢は、常識はずれだろう。

ハイラス
何も知らないわけではありません。
私が物質は道具だと言う時、個別具体的にではなく、すべての道具に共通する、道具一般としての抽象的な思念を持っているんです。

フィロナス
道具共通に言えることは、意志の活動だけでは遂行できないことをなす時に使うもの、ということだね。
たとえば、指を動かす際は道具を使わないが、大きな石を動かそうとする場合は、道具を必要とする。

ハイラス
ええ。

フィロナス
しかし、それは人間が有限な能力しか持たない存在だから、遂行できないことをするために、道具を必要とするだけだろう。
制約の中で目的を達成するために道具を使う有限な存在者(人間)と異なり、無限の全能の精神(神)は、道具など手段として必要としないはず。
意志は手段無しに即実現されるだろう。

ハイラス
そうですね。
しかし、物質が原因でも道具でも無いとしても、機会因である可能性はあります(マルブランシュの機会原因論)。

フィロナス
君は言葉の定義を一体どれだけ変えるつもりなんだい?
その新しい物質の定義を教えてくれないか。

ハイラス
はい。
物質と私たちの精神の間に因果的な関係はなく断絶しており、物質は観念の原因ではありえません。
しかし、無限の全能の精神(神)が、その間を仲介し、物質の運動を機会(きっかけ)として人間の精神を変容させます。
逆に、精神の意志を機会として、神は仲介的に物質を変化させます。
私たちの見るすべての因果関係は”ただそう見えてしまう”だけで、本物ではなく、真の原因は神だということです。
それが、物質は「機会因」だという意味です。

フィロナス
では、その活動も思考もしない、そして知覚されることもない、未知の機会因である物質の存在を認めるようになった理由を教えてくれないか。

ハイラス
私たちの観念は規則的で安定した仕方で与えられるので、それに対応する規則的な安定的な機会的存在を想定することが自然だからです。

フィロナス
神が全能であるなら、機会因に頼ることなく、規則的で秩序だった自然な経過の観念を作ることは、造作も無いことだろう。
それに、神がいつ何をするかについて、物質の指示を待ち、動機付けられるなどと言う考えは、神の属性を貶めることにならないだろうか。
そもそも、機会因としての物質を想定したところで、それは何ら有益な意味をもつとは思えない。

ハイラス
・・・私はもう、分からなくなってきました。
まだ物質のようなものがあるという漠然とした考えを捨てることができませんが、この問題についての私のアイデアはもう出し尽くしました。
物質は、実体でも、性質でも、原型でも、思考するものでも、延長でも、原因でも、道具でも、機会因でもない、何ら肯定的に語ることのできないということ、つまり私の無知だけがよく分かりました。

フィロナス
要するに、議論の結果、無であることが分かったと。

ハイラス
いいえ。
肯定的に把握できないからと言って、それがその存在可能性を全否定することにはなりません。

フィロナス
それはそうだろう。
私が言いたかったのは、君のアイデアを検討するとすべて無に行きつく無意味なものであり、君がわけの分からない言葉や理屈を用いていたことを結論付けただけだよ。

ハイラス
確かにあなたの議論は正しかった。
しかし、私の未知の物質に対する信念を完全に放棄させるほど強いものではなかったですね。

フィロナス
正しいものを見つけるためには、正しい対象が目の前にあるだけでは駄目で、先入観や偏見によって曇っていない目がなければならない。
その曇りを晴らすためには、それなりの時間と苦労を必要とするだろう。
なぜ君がそれだけ強い先入観を得たのか、教えてくれないか。

ハイラス
私の目の前の物の実在性は、物質の存在を想定せずには維持できないからですよ。

フィロナス
いま僕の目の前にある手袋を、この見て触っていること(可感的なもの)だけで、手袋の存在の十分な証拠になるだろう。
なぜ、わざわざ未知の場所で未知の仕方で在る未知のもの(物質)を想定する必要があるんだい?
見えないものの実在性を想定することが、見えるものの存在の証拠になるということの理屈が分からない、
それはおとぎ話の怪物を信じるのと変わりないだろう。

ハイラス
おっしゃるとおりです。
しかし、私たちの議論は、物質が存在可能だということを、完全には否定していません。
“可能性としては”存在しているかもしれないからです。

フィロナス
僕はその存在可能性とやらを否定しますよ。
普通いわれる「物質」という言葉の意味は、延長(空間)、形、固性、運動、外的実体、であり、それらすべてを今まで議論で否定し、君もそれに同意したのだから。

ハイラス
それは「物質」という言葉の意味の一部にすぎず、私の言う「物質」は通常の意味とは異なるものです。

フィロナス
言葉の定義を勝手気ままに変える人に対しては、いかなる証明も意味をもたないだろう。
これまでの議論でも、ずいぶん君は物質の定義を変更し、僕はそれに対し一つ一つ丁寧に反論を加え、否定してきた。
こんなに議論を長引かせたのは、君のそういう誤魔化し癖のせいなのではないかね。

ハイラス
しかし、抽象化された不明確な意味での漠然とした「物質」の可能性だけは、否定できないのです。

フィロナス
では、どうすれば、納得するんだい?

ハイラス
その定義の内に含まれる観念の間に矛盾が示された時です。
例えば、「怪物ケンタウロス(半人半獣)」は、全世界全歴史を通して可能性としてはいるかもしれない。
しかし、「丸い四角」は定義の内に矛盾があり、絶対的に存在可能性がない。
後者が示された時、私は完全に納得します。

フィロナス
では、どうすれば、君の言う”漠然とした未知の不明確な意味での「物質」”とやら、つまり何の観念ももたない無意味な定義の内の矛盾を示すことができるのかを、教えてくれないか。

ハイラス
・・・。
もう、物質を擁護するために、これ以上言えることはありません。
いま私の中で、物質という思念の明らかさと不合理さが、同じくらいの力でせめぎ合っています。
明日の朝までによく考えておきますので、もう一度ここでお会いして、その結果をお話ししたいです。

フィロナス
では、そうすることにしよう。

 

第三対話につづく