バークリの『ハイラスとフィロナスの三つの対話』(1)

哲学/思想

はじめに

本書は、バークリの主著である『人知原理論』を、一般の人向けに対話編の形で解説したものです。
大学の構内で、研究員のフィロナスと学生のハイラスが出会うところからはじまります。

第一対話

フィロナス
おやよう、ハイラス。
こんなに良い天気なのに、浮かぬ顔だね。

ハイラス
ええ、昨夜議論していた懐疑主義者のネガティブな考えで頭がいっぱいになっていたんです。

フィロナス
なに、気取りや自惚れのために哲学をやっている者など放っておけばいいよ。

ハイラス
よかった、例のうわさが嘘だと分かって安心しました。

フィロナス
どんな噂だい?

ハイラス
あなたは、「世の中に物質的実体などない」というトンデモない主張をしている、という噂です。

フィロナス
それなら、噂ではなく本当のことだよ。
僕はそう確信している。

ハイラス
なんですって!
そんな主張は、懐疑主義の最たるものではありませんか。

フィロナス
待ちたまえ、ハイラス。
むしろ僕は、「物質的実体がある」という主張の方がよほど酷い懐疑主義で、常識はずれの不合理なものだと考えているんだよ。

ハイラス
一体それは、どういうことですか?
お話をうかがいましょう。

フィロナス
まず、懐疑主義者とは何を意味するものだい?

ハイラス
すべての物事を疑う人です。

フィロナス
では、疑うとは、肯定と否定のどちらに立つものだい?

ハイラス
どちらでもなく、肯定と否定の間で決断しないままにしておくことです。

フィロナス
ということは、肯定と同様に、否定をする人は疑いではなく確信をもって決断するので、懐疑主義者ではないということだね。

ハイラス
ええ。

フィロナス
それなら、なぜ物質の存在を否定することが懐疑主義になるのだろうか。

ハイラス
・・・、私の定義が少し甘かったようです。
では、こう補足しましょう。
懐疑主義者とは、物事の実在性と真理を否定する人であると。
あなたのように、可感的事物の存在を否定するような主張は、懐疑主義者と呼ぶにふさわしいでしょう。

フィロナス
では、君と僕、どちらが本当に可感的事物の実在性を否定している懐疑主義者か、吟味してみよう。

ハイラス
ええ、かまいませんよ。

フィロナス
可感的事物とは、どういうものだい?

ハイラス
感官(感覚器官)によって、知覚されるもののことです。

フィロナス
それは、感官によって直接知覚されるものだけを指すのか、それとも文字のように仲介されて間接的に示唆されるものも可感的事物に入るのだろうか。

ハイラス
直接知覚可能なものだけを指しています。
可感的な記号によって示唆されたり意味表示されるものは、可感的事物とは言えません。

フィロナス
視覚は光や色のように可視的性質のみを、聴覚は音のように可聴的性質のみを、嗅覚は嗅覚的性質のみ、味覚は味覚的性質のみ、触覚は触覚的性質のみを直接知覚すると考えてよいね。

ハイラス
ええ。

フィロナス
では、可感的事物とは、それら諸々の可感的性質を組み合わせた集合体であり、反面、すべての可感的性質を取り去れば可感的事物としては何も残らないことになるね。

ハイラス
おしゃる通りです。

フィロナス
「熱さ」とは可感的事物だね。

ハイラス
ええ。

フィロナス
可感的事物の実在性は、知覚されることにあるのか、それとも知覚とは別の心の外にあるものだろうか。

ハイラス
存在することと知覚されることはまったく別のことで、実在は知覚とは関係のない本当の存在のことです。

フィロナス
では、熱さも実在物であるなら、心の外に存在するはずだね。

ハイラス
もちろん。

フィロナス
熱さの程度によって実在の有無が分かれるということはありますか?

ハイラス
いかなる程度の熱さの知覚であっても、それを生じさせる物体の中に存在しています。

フィロナス
激しい熱さは大きな苦痛であり、また知覚能力を有さないものは苦痛を感じることはないね。

ハイラス
ええ。

フィロナス
君の言う物質的実体は、知覚や感覚能力を与えられた存在なのかい?

ハイラス
いいえ、知覚も感覚能力ももたないものです。

フィロナス
しかし、苦痛の主体になることのない存在が、熱さの主体となることができるのだろうか。
熱さが苦痛であると、さっき君は認めていたが。

ハイラス
たしかに。

フィロナス
そうなると、君の言う外的な物体が、どういうものかよく分からない。

ハイラス
それは、可感的性質を有した物質的実体です。

フィロナス
では、熱さはどうやってそこに存在できるんだい?
君は最初に、熱さは外的な実体であると言っていたのに、外的な実体は熱さの主体となることができないという矛盾が生じている。

ハイラス
・・・、私の早とちりのようです。
熱さが苦痛であると認めたのが問題でした。
熱さと苦痛は全く別物で、苦痛とは、熱さの結果、あるいは効果であるということです。

フィロナス
しかし、火を手に当てると、二つの違った感覚ではなく、直接的な一つの単純な感覚のみを知覚するように思える。

ハイラス
たしかに。

フィロナス
火は、熱さであり苦痛でもある一つの混じり気のない観念を私たちに与える。
つまり苦痛と熱さは異なるものではないと。

ハイラス
そのようになります。

フィロナス
何の快苦を伴わない激しい感覚など想像できるだろうか。

ハイラス
想像できません。

フィロナス
また逆に、熱さや冷たさや味や香りなどの観念から抽出、分離された、可感的な快や苦痛の一般的な観念などもてるだろうか。

ハイラス
いいえ。

フィロナス
すると、程度の強い感覚とその際に生じる可感的な苦痛は、同一のものであるということになる。

ハイラス
・・・、否定できません。
たしかに激しい熱さは、それを知覚する心の中に存在するように思えます。

フィロナス
いま君は、この問題について、肯定でも否定でもない懐疑的状態になってしまっているよ。
熱さは実在物と言ったり、実在物で無いと言ったり、どっちなんだい?

ハイラス
いえ、私は”激しい熱さ”は実在でない、と言っているだけで、物体に本当の熱さが実在していることは疑っていません。

フィロナス
しかし、君は最初に「いかなる程度の熱さであれ、等しく実在的だ」と言っていたはずだが。

ハイラス
その時、私の考えが足りていなかっただけです。
激しい熱さが実在で無いからと言って、それ以下の程度のものまで一緒くたに否定する理由にはなりませんから。

フィロナス
激しい熱さに苦痛が伴うのと同様に、穏やかな熱さ(暖かさ)には快が伴う。
そして、先ほど、知覚しない存在(心の外の外的物体)は快も苦も有さない主体であるという事実から、激しい熱さの主体であることもできないと結論付けた。
であるなら、快と同時に知覚される穏やかな暖かさも、同様に、実在ではないということになる。
つまり、熱さはいかなる程度であれ、知覚するものの心の中にしかないということだろう。

ハイラス
いえ、それはあなたの感覚です。
私は暖かさに快さなど感じません。
暖かさは、むしろ無感覚に近いですね。

フィロナス
それなら、冷たさについては君はどう思う?

ハイラス
熱さと同様、激しい冷たさは苦痛で心の外に存在することができず、穏やかな冷たさは無感覚に近く心の外に存在します。

フィロナス
すると、身体に当たった時に穏やかな熱さを知覚する際、その物体は穏やかな暖かさを有する。
そして、身体に当たった時に穏やかな冷たさを知覚する際、その物体は穏やかな冷たさを有する。

ハイラス
それがまさに私の言いたいことです。

フィロナス
しかし、この説は矛盾を引き起こさないだろうか?
例えば、僕の右手を熱く、左手を冷たくしておいて、その中間の温度の水の中に両手をつければ、右手は穏やかに冷たく感じ、左手は穏やかに熱く感じる。
すると、水という外的物体は、冷たくて同時に熱いという不合理が生じる。
不合理が生じるということは、原理そのものに誤りがあると考えるのが自然だと思うが。

ハイラス
・・・しかし、仮に熱さや冷たさが心の中にのみ存在する感覚であったとしても、他の性質は外的事物の実在性を証示していますよ。
他のすべての可感的性質も心の中にしかないということを明らかにしない限り、信じることはできません。
どだい無理な話でしょうね。

フィロナス
では、各性質を順番に吟味していこう。
まず、味についても、心の外に存在すると主張しますか?

ハイラス
当然です。
砂糖の中に甘さがあり、ヨモギの中に苦さがあります。

フィロナス
甘さは快さを、苦さは苦痛をもたらすのでは?

ハイラス
ええ。

フィロナス
では、熱さや冷たさと同じ帰結になると思うが。

ハイラス
・・・、きっとこうでしょう。
これらの性質は、私たちに知覚される場合において快苦になるのであり、外的物体にある場合においては何か別の知覚できない性質としてあるということです。
つまり、知覚されるものとしての甘さと、外的な物体にあるものとしての甘さは、異なるのです。

フィロナス
落ち着いて思い出そう。
僕たちの議論は、感官によって直接知覚される”可感的事物”の実在性についてものであって、”不可感的事物”についての議論ではない。
知覚できない不可知の性質や実在について語っても、何の意味もないよ。

ハイラス
そうですね。
しかし、砂糖は甘さをもたないというのは、奇妙ですが。

フィロナス
個人の身体の変化や調子によって味が変わったり、人それぞれで味の反応が変わるという事実からして、味が食べ物に内在するという主張には無理があるように思うが。

ハイラス
たしかに。

フィロナス
香りについても味と同様に快苦があり、個体間や個体の状態によって知覚が異なる(知覚の相対性)という事実から、心の中以外に存在できないと結論付けられるね。

ハイラス
ええ。

フィロナス
音についても外的物体に内在するものだと考えているのかい?

ハイラス
音は音を発する物体に在るのではなく、音を有する主体は空気であると言えます。
真空状態では音は鳴らないため、空気の運動が耳の鼓膜を動かし、その振動が脳に伝わり、心に”音という感覚”をもたらすのです。

フィロナス
音は快苦と同じく感覚なのかい?
空気のように無感覚の外的実体であるはずのものが、感覚の主体であるのはおかしいと、さっき話していただろう。

ハイラス
人間が直接知覚する音と、心の外に存在している音それ自体を区別せねばなりません。
前者は個々の感覚であり、後者は空気の運動です。
普通に言う「音」とは、可感的な心の中のもので、いま私の述べている実在の哲学的な意味での「音」とは、空気の運動にほかなりません。

フィロナス
つまり、音には二種類あり、実在的な音は運動に帰すと。
では、運動の観念はどの感官に属するものだろうか。

ハイラス
視覚と触覚です。

フィロナス
すると、実在の音は、見ることや触れることは可能だが、聞くことは出来ないものということになる。

ハイラス
・・・、仕方ありません。
音も心の外部の実在でないことを認めましょう。

フィロナス
色についてもすんなり認めてくれれば嬉しいものだが。

ハイラス
色は明らかに外的な物体に内在する実在でしょう。
物体は、私たちが見ているまさにその色を持っています。

フィロナス
では、遠くの雲の様々な色、青みや赤みなどは、雲自体がもっている色なのかい?

ハイラス
それは単なる見かけの色で、本当の雲の色ではありません。
近付いてみると、消えてしまう見かけ上の色にすぎません。

フィロナス
可能な限り近付いて観察されたものが、そのものの本当の色であるというわけだね。

ハイラス
その通りです。

フィロナス
しかし、顕微鏡で物体を観察すると、多くの場合、肉眼の距離で見た色とは異なる色で見える。
そうすると、色は距離によって変わる相対的なものであり、私たちの見るものの色は、すべて見かけ上の色ということになる。
さらに言えば、私たちの視覚では見えないものを見ることのできる動物がいることは明らかだ。
私たちとは違うサイズや、違う構造の視覚を持つ動物が見る色と、人間が見る色とでは、相当異なると考える方が自然だろう。
つまり、君の言うような物体自体が有する本当の色などなく、すべて見かけの色であり、色は外部の物体がもっているものではない、ということになる。

ハイラス
・・・、そうなりますね。

フィロナス
色が外的物体に内在する性質であるなら、その物体に変化を加えない限り、色は変わらないはず。
しかし、距離や位置関係、光の強弱や種類、視覚の構造など、その物体には直接かかわりのないものによって、色は変化する。
時に白いものが赤くなり、時に黄色のものが緑になる。

ハイラス
色が全てみかけのものであること、そして物体に本当の色など無いということを認めましょう。
いま、私は確信しました。
色はすべて光の中にあるということを。
光という希薄な実体の運動によって生じる振動が、外的物体に反射し、目にやってきたものが、視神経を通じ、色の感覚を生じさせるのです。

フィロナス
光が視神経に振動を与えるということから、光が色をもっているなどと主張できないだろう。

ハイラス
ええ、だから私たちが直接知覚している普通の色と、知覚される以前の色自体は、異なるということです。
それは、何らかの感覚できない物質の状態においてあるのです。

フィロナス
何度も言うけれど、思い出そう。
僕たちの議論は、感官によって直接知覚される”可感的事物”の実在性についてものであって、”不可感的事物”についての議論ではない。
私たちの見ている色は本当の色ではなく、本当の色は、いまだかつて誰も見たことのない、そしてこれからも見ることができないような、ある未知の状態の実在にある、と。
君のこういう主張に、なにか意味があるだろうか。

ハイラス
・・・、認めざるを得ないようです。
確かに、色や音や香りなど、そういものは、心の外には存在しません。
しかし、これらは二次的性質と呼ばれるものにすぎず、外的物体の実在性を根本から否定することは出来ません。
二次的性質を否定する一部の哲学者たちも、物質まで否定することはありませんから。
可感的性質は一次と二次に分かれます。
一次は、延長、形、運動、固性、重力で、外的物体に本当に存在するものです。
二次は、今まで議論したような一次以外の性質のすべてであり、心の中以外には存在しないものです。

フィロナス
一次的性質に限り、心の外の実体に内在するということだね。
しかし、形や延長(※1)に関しても、二次的性質と同じ結論になるように思える。
例えば、人間より小さな動物は、私たちが知覚できないほど小さなものを、普通のものとして見ている。
反対に、大きな動物にとっては普通のものが、小さな動物にとっては、登山中の山が見えないように、知覚できないほど大きなものとなる。

※1
【延長(extention)】
デカルトにおいて重視された近代哲学史における基本的な概念。感覚的自明性として物体は長さ、広さ、深さに広がっているものとみることができるが、物体のこのような空間上の広がりを延長という。デカルトの二元論において、物体は精神とともに実体であり、延長は物体の本性とされる。スピノザにおいても物体の本性として延長はとらえられ、またロックも第一性質として延長の実在性を認めた。このように、延長を客観的実在性として物そのものに帰属させる立場に対して、カントは延長を純粋直観の形式としてとらえ、これに経験的実在性のみを認めている。(ブリタニカ国際大百科事典)

ハイラス
ええ。

フィロナス
また、距離によって物体の大きさや形も変わるし、動物の知覚の構造によっても変化する。
一つに見えたものに近付くと九つになったり、ある動物にはなめらかだったものが別の動物にはギザギザに見えたりする。
外的物体に内在する性質であるなら、その物体そのものが変化しない限り、変わらないはず。
形や延長のこの相対性は、二次的性質と同様のものであり、結論も同じことになるだろう。
延長に先立つ、何らかの物質的実体が延長の基体としてある、という想定にも無理がある。
形も、色や音と同様、それを知覚しないもの(知覚能力を持たないもの)のうちに存在することは、どだい不可能だろう。

ハイラス
・・・、わかりました。
形と延長については、とりあえず認めましょう。

フィロナス
では、次いで「運動」を検討しよう。
まず運動とは、ある時間のうちにどれだけ空間内の変化が生じたかということを指す。
そして、時間の流れ方は個人や状況によって変化する。
ある人にとっては見えない速度の運動をするボールが、ある人にとっては見える速度の運動となる。
もし、運動が心ではなく、外的物体に内在するものであるなら、その運動は誰に対しても一様であるはずだろう。

ハイラス
たしかに。

フィロナス
では、次いで「固性(solidity)」を検討しよう。
固性が得体のしれない原因としてある不可感的事物ではなく、知覚可能なものである限り、それは抵抗や硬さによってその存在が確かめられる。
しかし、抵抗や硬さというものも、それを感じる動物によって異なる相対的なものでしかない事からして、外的物体に内在するものではないということになる。
そもそも最初に「延長」の外的実在性を否定しているので、延長を前提とする運動や固性や重力を個々に検討する必要もないんだよ。

ハイラス
よく分かりました。
しかし、二次性質の外的実在を否定する哲学者も、一次性質までは否定しようとしません。
なぜでしょうか。

フィロナス
理由の一つとして、熱さや味や香りなどの快苦を伴う二次性質は、感覚的な経験として鮮明なので、一次性質より心的に近いからだろう。
しかし、関心の向きやすい二次性質も、向かない一次性質も、ひとつの感覚にすぎず、その区別に合理的な根拠はない。

ハイラス
いま思い出したのですが、可感的延長と絶対的延長の区別があることを、何かで読みました(ニュートン『自然哲学の数学的諸原理』のこと)。
可感的延長も運動も相対的なもので外的実在でないとしても、あれやこれやの個別のものに関わらない絶対延長や絶対運動に関しては、同じというわけにはいかないでしょう。

フィロナス
それは抽象化された延長一般、運動一般であって、実体に関わるものではないだろう。
“存在するあらゆるものは個別のものである”と言われるように、何らの差異も個別性もないものが、いかに実体に存在しうるのか。
そもそも、速さや大きさや形などの可感的性質をはぎ取った、運動や延長の抽象観念など、心によって明確に作り把握することなどできない。
嘘だと思うなら、試してごらん。
[詳細は『人知原理論』序論11節~21節を参照]

ハイラス
・・・たしかに、できないようです。

フィロナス
心でも作れないもの、そして今までもこれからもあらゆる感官で把握することのできない(可感的性質をはぎ取られた)運動や延長の観念など、どうしたって実在と考えることは出来ないだろう。

ハイラス
もう十分わかりました。
一次性質も二次性質も、すべて心の内のものであると認めましょう。
けえど、私にはひとつ見落としていた点があります。
それは感覚と対象の区別です。
たしかに感覚は心の外にはありませんが、感官の対象に関しては、そうとは限らないですよね。

フィロナス
感覚と感官の対象の違いを教えてほしい。

ハイラス
「感覚」は、知覚する心の能動的な働きとして知覚されるもの。
「対象」は、それ以外に知覚されるものです。
あのチューリップの赤は、私の心の働きによって、私の中にもたらされるのです。

フィロナス
つまり、知覚には、心の働きによるものと、そうでないものの二種類あるということだね。
そして、心の外の思考しないもの(知覚や思考能力を有さないもの)であっても、後者は持つことができるというわけだ。

ハイラス
おっしゃるとおりです。

フィロナス
しかし、色も光も心の働きに関係なく、知覚されはしないだろうか。
明るい光も空の青も、心の能動的な活動なしに、否が応でも受動的に知覚してしまっている。
心の働き(能動性)による知覚の区別を導入すれば、思考しない実体(知覚や思考能力を有さないもの)が、苦痛をもってしまうようなことになる(苦痛は多くの場合、受動的なものであるため)。

ハイラス
・・・たしかに、そうですね。
しかし、可感的性質を考える際、どうしたって「物質的基体(諸性質を担う基礎)」に関しては、想定せざるを得ないでしょう。

フィロナス
どうやって、その物質的基体という存在を知ることができるんだい?

ハイラス
それ自体は可感的なものではなく、その性質や様態のみが知覚されるだけです。

フィロナス
ということは、反省や推論によって、その観念を得るわけだね。

ハイラス
ええ。
固有の肯定的な物質的基体の観念をもっているのではありませんが、諸性質の存在から遡行的に推論して、その存在を認めざるを得ません。

フィロナス
つまり、物質的基体は可感的性質との関係を考慮せずには考えられないものだと。
具体的にどういう関係なんだい?

ハイラス
読んで字のごとく、「基体(substratum)」は、可感的性質の下層に広がり支える土台です。

フィロナス
では、それは第一性質の「延長」の基体でもあるわけだね。

ハイラス
もちろん。

フィロナス
しかし、「延長」の”下”に”広がり”支える基体も、それ自体が延長をもたねば、この関係は成り立たないだろう。
結果的に、延長の基体である実体が、基体であるためには、別の延長をもたねばならず、無限後退に陥るだろう。

ハイラス
あなたは、言葉を厳密にとらえすぎです。
それは意地の悪いことですよ。

フィロナス
いや、純粋に君の言っていることがよく理解できないから、訊ねているんだよ。
基体や実体や物質が、偶有的なもの(諸性質)を「支える」とか「下にある」とか、一体どういう事態を指すのかが、本当に分からないんだ。

ハイラス
・・・。
考えれば考えるほど、私も分からなくなります。
よく分かっていないことを、十分に理解していると思い込んでいただけかもしれません。

フィロナス
肯定的にも関係的にも、物質の観念を持てないようだね。

ハイラス
いや、議論の途中に誤りがあったのです。
それは、あなたが個々の性質を単独で扱った点にあります。
個々の性質は、単独では心の外に存在できません。
たとえば、色は延長なしに存在しません。
しかし、複数の性質が混ざり、完全な可感的事物を作る時、その統合体は心の外に存在するということです。

フィロナス
僕は諸性質を順に検討しただけで、別に「性質は単独では心の外に存在しない」など言っていないよ。
端的に、「まったくもって心の外に存在しない」と述べたんだ。
そもそも、厳密には、性質を抽象して単独で扱うことは、思考においてすら不可能だと言ったろう。
それはともかく、君の主張が仮に正しいとすれば、可感的性質の混合物なら、心の外に存在するというわけだね。

ハイラス
ええ。
たとえば、可感的性質の混合物である「木」や「家」が、知覚されずにそれ自体で存在していると、簡単に想像できるでしょう。

フィロナス
それは、君が心の中で観念を作ったり想像したりする能力を持っているということを示すにすぎず、思考の対象が心の外に存在していることを証すものではないだろう。
心の中で「家」と「木」の観念を作ると同時に、それを知覚する人の観念だけは作らないでおくという、操作にほかならない。
心の外の存在を証明するには、「その対象を考えることなく、その対象が存在すると考えること」が必要になるが、これは背理だろう。
人間が心の外の物体の存在を考えようとする時、終始ただ自分の心の中の観念を眺めているだけなんだよ。
[本書『ハイラスとフィロナス~』の文章のみでは理解が難しい箇所なので、『人知原理論』第二十三節から補足しています]

ハイラス
たしかに、そうです。
しかし、確実に物は私の外の離れたところにあるものとして知覚されています。
物体が心の中にしか存在しないなら、物までの距離というものが生じないはずでしょう。

フィロナス
君は、夢の中の物も、距離のあるものとして見ているだろう。
だからと言って、その物が心の外にあると結論付けないはず。
「距離」は、運動を介した経験によって得られた、視覚の観念と他の観念の関係付けがもたらすものなんだよ。
これこれの行動(運動)の結果として、これこれの時間が経てば、どんな他の観念が得られるかということを、いま見ている視覚の観念が、経験的推論に基づいて示唆し気付かせる時、人はそれを距離と感じる。
例えば、生まれつき目の見えなかった人が見えるようになった瞬間は、視覚の観念と他の観念の結合関係のいかなる経験も持たないため、そもそも距離(視覚的)を感じることができない(モリヌークス問題のことを指しています)。
[本書『ハイラスとフィロナス~』では”他の観念”は視覚の観念として語られ、『人知原理論』第四十四節では触覚の観念として語られます。例えば、リンゴに向かってこの程度の時間と運動で進めばこの程度大きく見えるだろう(視覚の観念の示唆)ということを経験的に推論するのが前者、壁に向かってこの程度の時間と運動で進めばぶつかるだろう(触覚の観念の示唆)ということを経験的に推論するのが後者です。]

ハイラス
・・・、そうですか。
しかし、どうしたって直接知覚される観念を仲介して、外的対象、つまり実在物を知覚しているとしか思えないのです。
前者はたしかに心の中にしかありませんが、後者は違います。
たとえば、私が偉人の肖像画を見る時、同時にそれを介して本物の偉人を知覚しています。

フィロナス
そうかい?
その偉人をまったく知らない人に、同じ絵を見せても、その人は何の実在も知覚しないだろう。
それは、経験と記憶と推論によって、心の中で作り出されるものにすぎないよ。
過去に頻繁に経験された直接的な知覚の結合の記憶が、いま感官に直接的に知覚されている観念に対し、結合可能性の高い他の観念を示唆するのだよ。
たとえば、背後の馬車の音だけを聞いて、馬車が通っていると示唆する。
その際、人は馬車そのものを知覚していると思いがちだが、彼は単に音を知覚しているだけで、他は記憶や推論などの心の内的機能による経験的示唆に伴い生ずるものだ。
「感官によって間接的に可感的なものを”知覚する”」のではなく、”想像する”と言うのが正確だろう。
君は、間接的に知覚するものとして、外的な実在や観念の向こうの原型などを語るが、過去にそれらを見た記憶があるのだろうか?

ハイラス
正直に言って、いまの私はあなたに、外的な物の存在の十分な根拠を与えることは出来ません。
しかし、外的な物体が存在しないという十分確実な理由をあなたが提示しない限り、私は物質を信じることにしました。

フィロナス
普通、「存在する」という積極的な主張をする人が証明の義務を負うものだろう。
理由に関しても、十分見てきたと思うが。
それはいいとして、君がいま言いたいことは、「観念は心の外に存在する元の物の、写しや像や表象物である」ということだね?

ハイラス
まさに、その通りです。

フィロナス
では、観念は、その外的な物に似たものだということだね?

ハイラス
ええ。

フィロナス
人間の感官から独立した安定的な本性をもっているということかい?
そしてそれ自体は、感官による知覚が不可能なものであると。

ハイラス
はい。
実在物は固定的で、その性質も、私たちの感官や身体運動などの変化にかかわらず同じです。
また私たちが直接知覚するものは観念のみであり、観念の原型となる物質それ自体は可感的ではなく、ただ観念を通して(間接的に)知覚されます。

フィロナス
よく分からない。
どうして、絶えず変化するもの(観念)が、恒常的で確定的なもの(物体)の、写しや像や再現となりえるのか。
どうして、可感的なものが、可感的でないものに似ることができるのか。
それ自体見えないはずの実在物が、色に似ることができたり、それ自体聞こえないはずの実在物が、音に似ることができたり、感覚されえないものがどうやって感覚されるものと似ることができるのだろうか。
可感的に比較して見ることのできないものを、似ているとか似ていないとかどう判断するのか、そして全く異なる性質をもつもの同士に、そもそも類似関係が成立するものなのか、具体的に説明して欲しいんだ。

ハイラス
・・・、たしかに、無理ですね。
観念以外が観念に似ることは、想像できません。
どんな観念も可感的性質も、心の外に存在することは出来ないようです。

フィロナス
君の主張は、可感的性質の実在性は心の外の実体にある、ということだが、それを押し通そうとすると、可感的事物の実在性を否定することになってしまう。
僕は最初に「君と僕、どちらが本当に可感的事物の実在性を否定している懐疑主義者か、吟味してみよう。」と言った。
つまり、懐疑主義者は僕ではなく、君の方だったということだ。

ハイラス
何も言い返せませんが、完全に納得した訳ではありません。
考える時間が足りなかったので、あなたの迷路にはまってしまっただけです。
よく考えれば、抜け出すことは可能でしょう。

フィロナス
・・・
ああ、鐘の音がなっているね。

ハイラス
お祈りの時刻ですね。

フィロナス
今日はこの辺にして、一緒に祈祷に行こう。
それから、明日の朝ここでまた会おう。
君はそれまでの時間ゆっくり考えてから、続きを議論すればいい。

ハイラス
ええ、そうしましょう。

 

第二対話へつづく