詭弁とは何か(1)基礎

哲学/思想言語/論理

レトリックと詭弁術

「レトリック」とは、弁論術、説得術、修辞学などと訳される、古代ギリシャに由来する「言語によって人を説得する技術」を指します。
現代では文学的修辞法のイメージが強いですが、それはレトリックの一部にすぎません。
レトリックは、基本的には何を言うかではなく、それをどのように構成し提示すれば相手に伝わり、説得力を持つかを扱う技術です。
これは、内容そのものを正しくする技術ではなく、いわば、お化粧の技術です。
ソクラテスが弁論術を「化粧」などと同類の迎合術として批判したように、レトリックそのものは、中身の真偽や推論の正しさを保証してくれません。
ということは、お化粧によって不細工な男性お笑い芸人を美しい女優のように変身させることができるように、誤った言論をレトリックによって正しい言論であるかのように仕立て上げることもできます。

ここで、いくつかの概念を区別しておく必要があります。
命題の内容が事実に合っていれば「真」、合っていなければ「偽」です。
偽であると知りながら、それを真であるかのように語って相手を欺けば「嘘」になります。
一方、前提から結論を導く推論関係が正しければ「論理」であり、そこに誤りがあれば「誤謬」です。
その誤謬を意図的に利用して相手を欺けば「詭弁」になります。
さらに、個々の命題や推論ではなく、言論全体の構成や提示方法を利用して人を説得する技術がレトリックであり、それを相手を欺くために悪用するものを、詭弁術(詭弁の戦術)です。
したがって、偽を利用するのが「嘘」、誤謬を利用するのが「詭弁」、言論の構成を悪用するのが「詭弁術」、と整理することができます。
[勿論、これは論理学上の標準的定義ではなく、理解を容易にするための便宜的な図式化です。]

お化粧の技術を持っている女性は、お化粧によって美女になった人を簡単に見破ることができますが、普段お化粧をしない(技術を持たない)男性は、簡単に騙されます。
それと同様、レトリックや論理についての知識がなければ、悪用された言論の技術に易々と引っかかってしまいます。
このように論理やレトリックが人を欺くために利用されるとき、論理は「詭弁」に、レトリックは「詭弁術」に堕ちます。
それは、偽を真らしく見せ、弱い議論を強く見せ、ときには本来の争点そのものを動かしてしまう技術であり、非常に危険な力を持っています。
詩人や宗教者のように、人々の心を癒したり真実を分かりやすく伝えたりするためにレトリックを使う者もいれば、独裁者や詭弁家のように、人々を操作するためにレトリックを使う者もいるのです。

レトリックと論理

古代ギリシャ、とりわけ民主政の発達したアテナイでは、市民が民会や法廷で自ら発言し、他者を説得する能力が政治的・社会的に大きな意味を持っていました。
立身出世のためにも、自分の望む政策を実現するためにも、訴訟社会のなかで自分の身を守るためにも、レトリック、すなわち弁論の能力は重要であり、盛んに教育されました。
しかし、人を説得できたことと、その主張が真であることとは別問題です。
ここにレトリックと論理の根本的な違いがあります。
レトリックが「どうすれば相手を納得させられるか」を問題にするのに対し、論理は「その結論がその前提から本当に導けるのか」を問題にします。
したがって、優れた弁論家が勝利したからといって、その人の主張が真であるとは限りません。

この問題を鋭く批判したのがソクラテスやプラトンであり、単に相手を説得して勝利することと、問答を通じて真理を探究することを厳しく区別します。
その弟子のアリストテレスは、論理学を発展させる一方で『アルス・レトリカ(レトリックの術)』そのものを書いており、論理的推論を研究すると同時に、現実の社会において人間がレトリックによってどのように説得されるのかも研究しました。
ここから重要な区別が生まれます。
論理は、推論を正しくするための技術であり、レトリックは、言論を効果的に伝えるための技術である、と。
理想的な言論とは、「正しい内容 + 正しい推論 + 適切なレトリック」によって成り立つものだと言えます。
反対に、「偽 + 誤謬 + 悪用されたレトリック」を組み合わせれば、非常に強力な欺瞞になります。

レトリックの必要性

だからといって、レトリックは必要ないというわけではありません。
他者の詭弁や詭弁術を見抜くためにも、自分自身の言論が無意識のうちに詭弁的になっていないかを点検するためにも、論理とレトリックについての知識が必要なのです。
論理の知識が詭弁を看破するように、レトリックの知識がエチケットミラーのように詭弁術を照らし出してくれます。

レトリックを学ぶ意義は、主に二つあります。
1. 真実や正しい推論が、悪しき弁論や詭弁術によって敗北しないようにするため。
2. 学問的知識や論理的思考を、その知識を持たない人にも理解できる形で伝えるため。

レトリックが言語による表現と説得の技術である以上、厳密にいえば、あらゆる言論は何らかのレトリック的条件のもとにあります。
論理学の教科書の記述であれ、医療情報を列挙したカルテであれ、完全に無色透明な言語表現というものはありません。
何を書くかだけでなく、何を書かないか、どの順番で書くか、何を強調するか、どの言葉を選ぶか等、それだけで受け手の理解内容や印象は変わります。
内容を伝えるための形式であったはずのレトリックが、内容そのものに大きな影響を与え、場合によっては内容を上回って受け手の判断を左右するとき、レトリックそのものが主題としてせり上がってきます。

したがって、レトリックを学ぶことは、同時に言論が成立する条件をルーペで拡大して観察することにほかなりません。
いかに正論や真実を持っていたとしても、それを表現する技術がなければ、他者には伝わりません。
パスカルの「力なき正義は無力である」という有名な言葉になぞらえるなら、レトリックのない正論や真実は、レトリックを備えた暴論や虚偽に敗れることがあります。
だからこそ、社会に真実や正しい言論を伝えたいのであれば、論理だけでなくレトリックも必要なのです。
重要なのは、レトリックを捨てることではありません。
論理によって内容を吟味し、レトリックによってそれを伝え、詭弁と詭弁術によって両者が偽装される仕組みを知ることです。

 

(2)実践編につづく