レトリックと詭弁
「レトリック」とは、弁論術、説得術、修辞学などの”言語の表現の技術”を指す、古代ギリシャに由来する概念です。
現代では文学的修辞法のイメージが強いですが、それはレトリックの一部にすぎません。
これはあくまで言語表現の技術であり、内容そのものを良くする技術ではありません。
いわば、お化粧の技術(ソクラテスはレトリックをそう呼ぶ)であり、中身の良し悪しに関わるものではないということです。
ということは、お化粧によって不細工な男性お笑い芸人を美しい女優のように変身させることができるように、誤った言論をレトリックによって正しい言論のように仕立て上げることもできる訳です。
お化粧の技術を持っている女性は、お化粧によって美女になった人を簡単に見破ることができますが、普段お化粧をしない(技術を持たない)男性は、簡単に騙されます。
それと同様、レトリックの知識の無い一般人は、悪用されたレトリックに易々と引っかかってしまいます。
このように悪用される時、レトリックは「詭弁術」に堕ちます。
それは、真実のクロとシロを反転する技術であり、弱い議論を強くする技術であり、非常に危険な力を持っています。
詩人や宗教者のように人々の心を癒すためにレトリックを使う者もいれば、独裁者や詭弁家のように人々に害悪を与えるためにレトリックを使う者もいるのです。
レトリックと論理
古代ギリシャ、民主制の発達したポリスにおいては、市民が直性投票に参加し様々な社会的決定を行う直接民主制を採用していたため、立身出世のためにも、自分の都合に合う社会を作る為にも、訴訟社会の中で自分の身を護るためにも、レトリック(弁論術)のスキルが必須であり、盛んにその教育がなされていました。
これは法廷弁論や議会弁論などにおいて票を集めることに特化した説得の術、争論の術であり、学問的な正しさを求めるものではありません。
また、弁論術(演示弁論)は、古代オリンピックの競技種目のひとつでもあり、いかにそれが重視されていたかがよく分かります(戦車競走などと同様、弁論術は戦争に必須の技術と考えられていたため)。
しかし、レトリックの技術によって、社会的正しさの決着がつく時、いわば「勝ったものが正しくなる」という状況が生じ、個々人がそれぞれの欲望の実現を詭弁術によって正当化しようとし、社会は混沌としていきます。
これを見かねた哲学者のプラトンとアリストテレスが、客観的、普遍的、論理的な正しさを追究するための術として、「弁証法(プラトン」や「論理学(アリストテレス)」などを発明します。
分かりやすく言うと学問的な論理や真理の誕生です。
彼等によって、現在の「大学」の基礎となる「アカデメイア」が作られたのは有名な話です。
これはレトリックのように正しく見せる(信じ込ませる)術ではなく、理性によって論理的正しさを把握する(知をもたらす)術です。
レトリックの必要性
だからといって、レトリックは必要ないという訳ではありません。
他者の詭弁を見抜くためにも、自己の詭弁を見抜くためにも、レトリックの知識が必要だからです。
論理的誤りと詭弁の違いは、それが意識的に行われているかどうかの問題であり、私自身が自ら無意識のうちに詭弁家になっていることが多々あるからです。
論理の知識がレトリックを看破するように、レトリックの知識がエチケットミラーのように論理の誤りを照らし出してくれます。
レトリックを学ぶ意義は、主に以下の二つです。
1.真実や正しさが、悪しき弁論による誤りや不正に敗北しないようにするため。
2.学問的知識や論理的思考を有さない一般の人々に対する伝達の技術として。
レトリックが言語の表現の技術である以上、厳密に言うとあらゆる言論(ここでは広義に言語によって表現されたものすべて)はレトリックに拘束されています。
論理学の教科書の記述であれ、医療情報を羅列したカルテであれ、例外はありません。
問題はレトリックの効果の大きさであり、形式(レトリックのこと)が内容に大きな影響を与える、あるいは上回る時、主題としてせり上がってきます。
要は程度の問題であり、レトリックを学ぶことは、同時に言論の条件をルーペで拡大して学ぶことにほかなりません。
いかに正論や真実を持っていたとしても、それを表現する技術が無ければ、他者には伝わりません。
パスカルが武力のない正義は無力だと述べたのと似て、レトリックのない正論や真実は、レトリックのある暴論や虚偽に負けます。
知識人に扮した詭弁家が強い影響力を持つ現在の日本において、本当に社会を変えたいと思うのなら、どうしても必要な技術です。