アルンハイムの『芸術としての映画』(2)限界の芸術的利用

芸術/メディア

(1)のつづき

第二章、映画の制作

1.本章の目的

映画は現実の出来事の機械的な記録への欲求から生じたもので、その関心は主題の「内容(何が描かれているか)」でしたが、映画が芸術になり始めると、映画だけの特別な手法によって対象を表現したいという「形式(いかに描かれているか」の相に移ります。
それは単なる対象の再現以上のことを目指します。
対象を研ぎ澄まし、様式を与え、著しい特徴を抽出し、鮮やかで装飾的なものとして示すことです。
芸術は機械的複製の終わるところから始まります。
表現の条件(形式)が対象の形成に積極的に関わる時に始まります。
媒体の特色の意識的な強調によって、対象の特質が強められ、凝縮され、演出されることによって為されます。
第一章で述べた諸々の映画の特質(純粋形式的性質)が、いかにこのような芸術的効果をもつかということを、以下に示していきます。
[以下すべて第一章の小見出しに正確に対応しています。一章で映画の限界を語り、二章でその限界を芸術的特色として利用する方法が述べられます。媒体の限界がその媒体の本質的特徴を生じさせるということです。]

2.「立体の平面化」の芸術的利用

立体を平面として「一面的に」表現しなければならないのがフィルムの性質であり、この還元のうちに芸術的結果があらわれます。
重要なことは、対象や現実を変更したり修正したりせず、あるがままに、視点という撮影条件のみによって為される芸術的表現という点で、特別な魅力があるということです。
数百ある視点の視覚的可能性の中から選ばれた一つにすぎないという、この制約こそが、映画芸術の可能性を提供しています。
以下、具体的な利用法を挙げます。

a.際立った視点から対象を撮ることによる、注意喚起、驚き、誘因としての利用。
新しい視点により、強い関心を喚起し、 対象のより強い印象を与えます。

b.対象やその行動の本質的特徴が得られる視点(the most characteristic view)の利用。
例えば、権威あるものや力のあるものは仰角(見上げる)、立場の弱い者は俯角(見下ろす)によって、よりその個性が際立ちます。

c.上のような「特質的視点」に反する視点による、特別な効果の利用。
対象を特別な視点から見せることで、特別な解釈を生むことです。
例えば、囚人自体ではなく背中の囚人番号のみを撮り、個性と主体性の剥奪を抽象的、象徴的効果として表現する。

d.視点によって得られる形態的効果や構成的配分の利用。
対象そのものだけにではなく、その形式的な性質にも注意を向けさせ、予期せぬ対象の側面や構図の巧みさによって、観客の目を惹きます。
例えば、バレエの踊り子を真上あるいは真下から撮ることによって、広がる衣装の花びらと腕脚の花心によって形態的な美とエロスの絵画的表現となります。
勿論、フランスの「純粋映画」のように、ショットが内容に貢献しない形式が為の形式になってはなりません。

e.特異な視点によって得られる異化効果の利用(a.の強化版)。
日常的な目的の手段としての見慣れた透明な対象を、特異な視点によって非日常的な生々しいものにし、芸術的関心(非自然的態度)を持ってそれを鑑賞させることです。
親しいものを新しいものとして見るように仕向けられた時、真の観察が可能になり、対象の特徴や独自性が見えてきます。
鑑賞者の強い興味と刺激的な対象により、一層いきいきとした現実感が得られます。

f.視点による対象の前後関係の利用
視点は、アングルや平面的な形態構成だけでなく、対象の前後関係にも関わります。
撮影位置によって、巧みに対象の前後の位置関係を操作することによって芸術的効果を上げることです。
対象の主従関係や対象の存在(発見と隠ぺい)を自由に変更したり、モンタージュなしの同時進行的な表現や、対象の重層性による象徴的表現などを可能にします。
例えば、部屋の鏡を上手く使えば、前景(主人公)、中景(鏡と背景美術)、後景(鏡の向こう-中-の人)として、モンタージュなしに同時に異なるものを表現することが可能です。
下画像(エイゼンシュテイン監督『全線』)では、権力者の背中側から撮ることによって、奥にいる懇願に来た貧しい農民を、起き上がりざまに覆い、アリを潰す象のような権力関係として表現します。

下画像(アブラム・ローム監督『帰らざる幻”The Ghost That Never Returns (1930)”』)では、カメラ位置によって刑務所の鉄格子を生きた俳優のように扱い、出所した主人公との関係を巧みに描きます。

3.「空間的深さの減少」の芸術的利用

映画における立体感の欠如は、観客の注意を絵画的な線や面の画面構成的要素に向けやすくなります。
立体空間では自然なはずの遠近法的縮小が、平面になると不自然に極端な図像的印象をあたえます。
先の述べた、上下方向からの踊り子のスカートの広がる動作が花のつぼみと開花に見えるのは、その平面性に拠るところが大きく、もしこれが両眼視差の立体鏡であればその効果はかなり弱くなります。
二次元と三次元が同時に現れ、同時に二つの異なる機能を果たすということが、映画におけて重要な形式的性質です。

また、立体感の欠如によって、物体の重ね合わせが単なる偶然ではなく、制作者の必然的構成として見られ、観客の注意を惹くことになります。
少女の表情が、男の頭部のシルエットによって半分隠されているスクリーン上のショットが、もし現実の三次元空間であったなら、その効果はほとんど失われてしまうでしょう。

立体感の欠如は、物体の心理的な大きさと形の「恒常性(第一章三節で述べた調整機能)」を喪失させるため、図像的な大きさや形態の変化は、より強調的で象徴的な芸術的効果を持ちます。
例えば、カメラに近付き画面(スクリーン)いっぱいに広がる手のひらは、単なる空間的前後運動ではなく、手の動きとは固有の関係を持たない異なるソースからくる効果によって、高揚されたものとなります(倒れたインク瓶のシミが広がり、白い紙を黒に染め上げるように)。

技術者は芸術家ではないので、芸術表現として効果的な媒体を提供することではなく、媒体による完全な自然の再現を目指します。
2Dの平面スクリーン映画では満足せず、3Dの立体映画を作ろうとし、白黒よりカラー、サイレントよりトーキーに自身の関心を集中します。
これは一般大衆も同様であり、彼らは新しい媒体による新感覚、新しい技術発明によるセンセーションを好みます。
映画産業の関心は、芸術表現ではなく技術開発におかれています。

4.「色の欠如と照明」の芸術的利用

色の欠如(白黒映画)は、むしろ芸術家に有益な表現手段の媒体を与えることになります。
色の欠如は、芸術家を自然主義的な色の拘束から解放し、光と陰(影)による創造的な映像を作ることを許します。
白黒映画における被写体は、生々しい色の付いた単なる現実(自然)の物ではなく、美しい版画の中の対象のように、様式的な、鑑賞するためのものであり、創造芸術の素材です。
モノトーンに絞られたグラフィック芸術の構成要素は、音のみで構成された形式的な価値を持つ音楽のように、より明快に知覚され強い印象を与えます。

映画に写しだされたブロンドの女の顔を考えてみよう。髪の色と顔の色とがとけ合って、奇妙な蒼白さを現出する。青い眼さえも、白っぽくなってしまう。ビロードのように滑らかな黒い弓形の口や、きつく描かれた黒々とした眉毛は、その白っぽさとはげしい対照を作り出す。このような顔が、いかに奇妙であるか。大胆であるが故に、いかに明暗の対照をはっきり表現していることか。その女の顔と表情にいかに観客の注意がひきつけられてしまうことか。白い顔のまわりにたれている髪の線が、美しく、完全なものであるかどうかという点に、むしろ、観客は即座に注意を向けてしまう。映画にでてくるほとんどの顔が、いかに現実ばなれがしていて、崇高で、美しく、自然の創造物としてでなく、芸術創造としての印象をあたえるか。

セシル・B・デミルは、この件について、教訓的な言葉を与えている。”私は演劇の仕事に親しんできたから、舞台の照明効果を、そのころ撮っていた映画に使ってみたいと考えていた。問題となるシーンは、スパイがカーテンをくぐって忍び込むくだりで、神秘的効果を狙おうと、スパイの顔半分だけに照明を当て、半分は暗くしておくことにきめた。画面に写し出された画像を見て、私はその狙いが非常に効果的であることを発見した。私は、この照明トリックに至極満足して、その映画のいたるところでこの手を用いた。すなわち、右かあるいは左からスポット・ライトを照したのだ。いまでは、当り前に使われている方法である。この映画を、配給会社の事務所へ送ってから数日して、私はマネージャーから一通の電報を受けとった。その電報は、私をたいへん驚かせた。 電報にはこう書いてあった。「お前は気が変になったのか。人間を半分しか見せないあの映画を割引きなしで見せられるとでも思っているのか?」と。”…デミルはつぎのような電報を打って、マネージャーに答えた。「君たちがあの映画を見て、レムブラントの明暗がわからないほど愚物なら、俺に当るのはやめてくれ」と。これはうまく行った。配給業者は「レムブラント・スタイルの照明をはじめて使用した映画」というスローガンを附して、市場に出した。ふだんの二倍の値を要求し、げんに報われた。…デミルがその効果を利用した頃の映画は、実物の再生という意義しかもたなかった。そしていかなる形式上の侵略も、自然に対する酷似、すなわち映画の基本目的から、離反するものとして考えられていた。半分しか見えない人間は、実際にも半分しかない人間だと思われていた。…映画芸術で照明の利用が研究されるようになったのは、デミルの一件があってからあとのことであった。(アルンハイム著、志賀信夫訳『芸術としての映画』みすず書房)

5.「画像の限界」の芸術的利用

運動によって視界に限界のない人間と異なり、スクリーンの枠によって本質的に限界づけられている映画は、その限界(本質)を様式上の手段として、芸術的に利用します。

第一に、絶対的な枠の存在によって、映画の映像は、絵画構成的な美的性質を持つことになります。
3D、カラー、サウンド映画と同様、映画の欠点(映像の限界)を克服しようとする技術者的欲求(自然の再現)が、三面スクリーンの超パノラマ映画を生じさせましたが、それはむしろ映画芸術を困難にし、失敗に終わらせます。
芸術的効果が媒体の限界に結び付いていることを知らない、質より量を求める素朴な人々は、それに気付くことができません。

第二に、枠によって生じるショットのサイズ(超クローズアップからロングショット迄)は、部分と全体、分割と統合の関係による映像的効果や象徴的意味を利用することを可能にします。
省略や抽出や構成、画面外の対象の間接的表現などです。
また、ショットのサイズは、対象までの「距離」を生じさせるため、舞台と観客との距離が一定の演劇にはない特別な表現法を生じさせます。
もの言わぬもの(非人間的要素)が、主題や俳優になるということです。

小さくて目立たず、なんの演技もしなかった人間の指が、その花にそっとふれる。こうしてその指も、花と同様に大きく写され、重要性をもつ。演劇の場に比較して、映画の場は、右のようにして、非常に範囲を拡大される。かりに技術的可能でも、演劇の世界で非人間的要素を強調することは、適当でないということをつけ加えておかねばなるまい。演劇は、せりふにたよっている。普通の演劇のシーンは、せりふに意味があり、ただ舞台に登場したり、音を出したり出さなかったりして動きまわる動物や花のような物いわぬ物体のシーンと組んで、統一効果をあげることは絶対に不可能である。
…俳優が、休みなくしゃべり続ける演劇芸術というものが、いかに不自然で様式化されているかということに、ほとんどの演劇愛好家は気づいていないらしいし、この事実はけっして明らかにされたことはなかった。演技はすべて言葉で包まれている。まず外見から考えても、全シーンは非常に計算が行きとどいており、プロットは間断ない会話で覆われる。
…演劇のもっとも重要な特性である対話は、数千年間にわたる芸術の改革の末、根本的純度を有する媒体にまで発展した。ある事件を表現する今のぺたような方法が絶対的でないことは、すぐれた無声映画が、ぜんぜん言葉を使わないでも事件が進展していることをしめす時、はじめて認識されるであろう。映画は、生命を持たぬ事物に、観客の注意を引きつけることができる。
…映画芸術家は、観客の注意を最高に調整し得る。カメラを任意の場所において、その場その場で重要視されるものをなんでも画面に持ちこむから、花が「さあ、私をみてちょうだい」などといわなくても、物体に適当な重要性をあたえ得るからである。観客は、その場ではその物体以外のものを見せられないから、いやでも関心がその物体に向く。同様に他の小さい出来事、這いまわっているとか、煙草の煙は、舞台上ではほとんど完全に観客の注意を引きつけ得ないが、映画では必要に応じて強調される。映画では、小道具によって演じられるような小さい事件や役割が、人間の俳優によって演じられる”肉眼で見えるもの”とまったく同一化する。したがって、最高に満足のいく等質性を得るわけである。(同上)

6.「空間と時間の連続性の欠如」の芸術的利用

空間と時間の連続性の欠如は、その芸術的表現として「モンタージュ」を生じさせます。

「私(プドフキン)は、映画的に歓喜を描きたかった。喜びの溢れた顔を写すことだけでは充分な効果が得られないのが常であった。そこで私は、手の芝居と顔の下半分、頬笑みを浮べているロのクローズ・アップを撮った。この他、いろいろな材料をこのショットのために挿入した。例えば、春になって勢よく流れて行く小川のショット、水にきらめいて踊る太陽光線のショット、村の池でぽちゃぽちゃやっている鳥、そして最後に、笑いこけている子供のショット等である。私はこうして、”囚人の喜び”を描くことに成功したと思った。」(同上)

プドフキン(1893-1953、ソ連の映画監督)と、ティモシェンコ(Semyon Alekseevich Timoshenko 1899-1958、ソ連の映画監督)によるモンタージュ法の分類を参考にして、より完全な形で「モンタージュの諸原理」を以下に示します。

I カッティングの諸原理

A.カッティング単位の長さ

一、長い断片(たがい結合されたショットが比較的長いものすべて。 静かなリズム)

二、短い断片(比較的短いものすべて。普通、テンポの速い、アクションの豊富なショットの場合に使用される。クライマックス的シーン。心理的激動効果。速いリズム)

三、長短の断片の結合———突然、一つかあるいはそれ以上の非常に短い断片が、長いショットに組みこまれるとか、その反対の場合とか。一致するリズム感。

四、不規則———長短が、明確に定着していない、変動性をもった長さ。内容次第で長さが変る。リズム上の効果なし。

B.全シーンのモンタージュ

一、継続的(終りまで通して語られる事件。次のことが前の事件のあとにくるというような継続)

二、交互的(各シーンは小さくカットされ、その結果できた各部分がたがいに調和している。相互シーンの交互的経過。クロス・カッティング)

三、挿入(一つの継続行為をしめすところに、シーンあるいは画面を挿入する)

C.個々のシーン内のモンタージュ

一、ロング・ショットとクローズアップの結合(相関的名辞ともいうべきロング・ショットによって、クローズ・アップの対象の内容を拡げてみせることを理解させるもの)
a)はじめにロング・ショット、そのあとにクローズ・アップをおいて、一つかあるいはそれ以上の細部を見せる。(ティモシェンコの”集中”はこれにあたる)
b)一つ(あるいは数個の)細部から、この細部を包含するロング・ショットへ移行する。(ティモシェンコの”拡大”は、これにあたる。たとえば、パプストの「論落の女の日記」から例をとると、最初教師の頭が画面にあらわれ、それから食堂の全景が写しだされている、
あれである。
c)ロング・ショットとクローズ・アップの不規則な継続。

二、細部ショットの継続(他の対象を、まったく含まない)。ティモシェンコの”分析的モンタージュ”はこれにあたる。小さな部分だけで、全事件、あるいは、急速に展開するシチュエーションが、構成される。
一のbではシーン全体を結合しているように、ここでは個々のシーン内でモンタージュが継続、クロス・カッティング、あるいは挿入用として使用され得る。

Ⅱ 時間的關係

A.同時性

一、いくつかの完全なシーンの同時性(ティモシェンコの”並行して起る事件〟プドフキンの”同時性”)が、継続して結合されたり、クロス・カットされたりする。シークェンスでは、”これが甲で起っている間に、乙では・・・”という字幕が附される。

二、同じ瞬間に起る事件の空間の細部についての同時性(数個の事件の継続的描写が、同時に同じ場所で展開する。ここに男がいて、あそこに女がいるというようなもの)。(ティモシェンコのいう”分析的モンタージュ”がこれ。) これは役に立たない。

B.前、後

一、時間的に相互に継続する全シーン。またすでに起ったこと”回想”) あるいは、これから起ること”予言的光景”)の挿入シーン。(ティモシェンコの”過去の再現””未来への予測”がこれにあたる。)

二、シーン内における継続。事件全体の中では、たがいが時間的に継続している細部の継続。例えば、男が拳銃を握る第一ショットに、女が逃げ去る第二ショットが続くというもの。

C.時間的にはっきりしないもの

一、時間的には結びつきがなく、内容の点でだけ関係を有する完全な行為。エイゼンシュテインは、兵隊によって労働者が射殺されるショットを、牛が屠殺場で殺されるショットにカット・インさせている。前か? 後か?

二、時間的関係を持たない個々のショットの数々。劇映画では稀である。しかし、ヴェルトフの記録映画は、この例としてあげられる。

三、全景に数個の個々のショットを含むもの。たとえば、プドフキンの”囚人の歓び”のような象徴的モンタージュ。事件と時間的関係をもたない挿入されたシーン。

Ⅲ 空間的関係

A.同一の場面(時間は異なる)

一、全シーンの場合。二〇年後に、まったく同じ場所に誰かが帰ってくるシーン。二つのシーンが、前後して、あるいはクロス・カットされておかれる。

二、単一シーンのなかで圧縮された時間の時間的飛躍。したがって、同一場所で一定の時間が経過してから起ったものを観客にしめす。役に立たない。

B.場面の転換

一、全シーンで場所が変更される場合。異なった場所で起るシーンの継続あるいは交錯。

二、シーン内で場所が変更される場合。事件の展開する場所の異なった部分的画面。

三、空間的にはっきりしないもの。ⅡのC(一~三)と同じ。

Ⅳ 内容における諸関係

A.類似

一、形態上の類似
a)対象の形の類似(丸い小丘が、学生の丸い腹部につづく)
b)運動の形態の類似(動いている運動場のぶらんこが、柱時計の振子の動きにつづく)

二、意味上の類似
a)一つの対象の意味上の類似(プドフキンのモンタージュ。笑っている囚人、小川、水浴びをしている鳥、幸福そうな子供)
b)シーン全体(エイゼンシュテイン 労働者が射殺され、牛が殺される)

B.対照

一、形態上の対照
a)対象の形態上の対照(最初に非常にふとった男、そして次にやせた男をうつす)
b)動きの形態上の対照緩慢な運動が非常に速い運動につづく)

二、意味上の対照
a)一つの対象の意味上の対照 (飢えた失業者と、おいしそうな食物で一杯の店のウィンドウ)
b)シーン全体(金持の家と、貧乏人の家)

C.類似と対照の結合

一、形態の類似と内容上の対照(ティモシェンコ――地下牢の中で足かせをかけられた囚人の足、劇場で踊るダンサーの脚、あるいは安楽椅子に坐る金持ち、電気椅子に坐る謀反人。)

二、意味上の類似と形態上の対照(「キートンのシャーロック・ホームズ」のようなバスター・キートンの映画に、この種類のものが見られる。映画で男と女が接吻するのを見て、彼は観客席で自分の女と子に接吻する)

7.「視覚以外の感覚の欠如」の芸術的利用

映画では、視覚以外の感覚が失われるため、身体という空間座標の絶対的中心が無くなり、運動が相対化します。
対象がカメラに近付いたのか、カメラが対象に近付いたのか。
風景が流れているのか、馬が走っているのか。
対象が傾いているのか、カメラが傾いているのか。
これらは撮影の仕方次第で、鑑賞者を錯覚へと誘導し、特殊なトリックや芸術的効果を生み出すことができます。
例えば、走る馬をその運動に合わせて常にスクリーン中央に写せば、馬は静止したような錯覚が生じ、風景のみがグルグル回るメリーゴーランドのような映像になります。

特に無声映画における聴覚の欠如は非常に重要な芸術的効果を生じさせます。
映画芸術を理解しない人々は「沈黙」を、映画の最大の欠点であるとみなし、トーキーを映画の完成だと考えています。
「沈黙」を映画の欠点と考える人は、映画カメラを表現媒体ではなく、単なる記録するための機械としてとらえているのです。
むしろ映画芸術は、この「沈黙」から、秀れた芸術的効果を作り出す力と動機を授かります。
芸術家の創造力は、現実と表現の媒体とが一致しない場においてのみ、活動しはじめるのです。

チャーリー・チャップリンは、自分の映画には自分が口を動かして話をしているシーンはまったくない、とどこかに書いていた。 人間関係のありとあらゆる状態を描きながら、チャップリンは、話すというあたり前の要素を使用しなければならないという必要を感じなかった のである。またそれを遺憾に思う人もいなかった。チャップリンの映画の会話は、通常、パントマイムにおきかえられている。映画の中のチャップリンは、自分にきれいな女の子が会いにきたから嬉しいなどとはいわないで、黙って二本のフォークに一つずつパンをつきさして、テーブルの上で人間の足にみたてて踊らせる(「黄金狂時代」)。彼は口論しないで、つかみ合いのけんかをやり、頬笑みや、肩の揺れ動きや、帽子の動きで、自分の愛情を告白する。牧師に扮した場合でも、言葉で説教しないで、「ダビテとゴリアテ」の話を身ぶりでやってのける(「偽牧師」)。貧しい少女にあわれをもよおすと、その子のハンドバックにお金を押しこんでやる。また彼はただ歩き去るという動作であきらめを表現する(「サーカス」の最後)。チャップリン映画の各シーンの信じられないほどの視覚的具体性が、チャップリン芸術の大部分を形成している。

スタンバーグの「紐育の波止場」から、拳銃の発射を鳥の群がぱっととび立つことで描きだしたシーンを、 まえに摘出して述べた。銃声を観客に説明するのに、間接的な視覚手段を使って、沈黙という弊害に挑もうとするこのような効果は、監督にとっては思いつき以上の存在だ。芸術的効果は、確実にいいかえによって帰結されたともいえるからだ。このように、描こうとするものとは異なった材料から作られる事件の間接的表現、あるいは行為自体を映画に出さずに結果を映画にのせることは、あらゆる芸術が好んで用いる方法である。手当り次第に一つの例をとってみよう。フランチェスカ・ダ・リミニという女が、いつも一緒に本を読むことにしている男と恋におちた様子を伝えるのに、ただ、「あの日には、私たちはもう読むのをやめました」とだけいう。この言葉によって、ダンテは革に結果を述べて、その日彼らが接吻を交したことを間接的に暗示している。そしてこの間接さが、また実に印象的なのである。これと同様に、鳥の群がとび立つ光景も、非常に効果的である。おそらく、ピストルの現実音よりもはるかに効果的であろう。そしてさらに他の要素が加わるのである。観客は単に拳銃が火をふいたという事実を推断するばかりでなく、実際に、発射の音の性質とでもいい得るものを眠でつかむのである。すなわち、とび立つ鳥によってしめされる唐突さが、ピストルの正確な音質を視覚的に伝えるのである。ジャック・フェデェの「にわか紳士」にはある政治的集会の喧騒が描れており、スザンヌは人びとの感情のたかぶりをしずめるために、自動ピアノに銅貨を入れる。 突然、その広間は無数の電燈で照しだされ、煽動的な演説の中に音楽が流れこんで行く。音楽は、実際にはきこえないのだ。この映画は、無声映画なのである。しかしフェデェは、人びとが興奮して演説をきいている様子をとらえ、つぎに突然、人びとの顔から緊張をとり去ってなごやかに見せ、みんなが音楽に合わせて頭をゆっくり動かし始めるのをうつしだすのである。 ついに、みんなに踊りたいという気を起させるほど、そのリズムがはっきり聞きとられるまでになる。そして人びとは、あたかも声なき命令に従っているかのように、陽気に、左右に体をゆすり始める。 演説者は、音楽に降参しなければならなくなる。実際に音楽がきこえてくるよりも、不意に大勢の不平そうな人びとを一体として同一の楽しい雰囲気にひたらせてしまう力が、より鮮明にこのシーンによって描れているし、同様に、音楽というものの性格、支配力、リズム感をしめしている。このようなシーンで特に注目に価いするのは、単に監督が眼に見えないものをいかに容易に巧みに見せるかということにあるのではなく、そうすることによってこの効果が事実強められた、ということなのである。音楽が実際にきこえてくる場合、 観客はただ音楽が鳴っているとしか思わないであろう。しかし、先に述べた間接的方法によると、特別な点や音楽の重要な部分、すなわちリズムや人びとを結びつけ動かす” 力などが、いちじるしく浮き彫りにされてくるのである。それは、音楽の特性だけが摘出され、音楽そのものとして映画にあらわれるからである。同様に、ピストルの音が突発的で、爆発的で、人を驚かすという事実が、視覚に転位されると二倍の効果をあげるのである。何故なら、以上に述べた特性だけが映画にとりあげられ、ピストルの音そのものは描れないからである。このようにして、 無声映画は、沈黙から明白な芸術的可能性を引きだしたのである。 聴覚的事件で特に強調したいと思うものは、視覚的なものに転位し、事件”そのもの”を画面に描くかわりに、その有効な特徴だけをとりあげて、その事件を形成し説明するのである。

無声映画では、唇はもはや言葉を形成する肉体的器官ではなく、視覚的表現の手段なのである。すなわち、興奮にふるえる口の歪みとか唇のめざましい活動は、単に語られている言葉の副産物ではなく、自己の権利をもった伝達体なのである。笑い声のきこえない笑いは、実際に笑い声の聞える笑いよりも、はるかに効果的である。大きく開かれた口は”笑い”という現象に撥溂とした高度に芸術的な表現をあたえる。しかし、笑い声も一緒にきこえてくるとなると、大きく開かれた口はあたり前の現象だということになり、表現法としての価値はほとんど無に等しくなってしまう。…話し声がきこえないということは、観客の注意力を、演技の視的様相にさらに集中させる。このようにして、映画にあらわれる全事件は、観客の強い関心を自分のほうにひきつけるのである。(同上)

8.映画技法

[移動式カメラ、逆再生、早送り、スローモーション、静止画像、フェードイン、フェードアウト、オーバーラップ、多重露光、特殊レンズ、焦点操作、鏡面の利用、という技術面での映像テクニックが語られますが、基本的なものなので割愛します。]

 

(3)へつづく