パースのプラグマティズム(2)

哲学/思想

(1)のつづき

四つの能力の否定

パースは、西洋近代哲学の基礎であるデカルト主義(先天的方法)が前提としていた人間に備わる四つの能力を否定することで、自身の反デカルト的、反近代哲学的立場を明らかにします。
自己(認識主体)が自己の精神(内面)にある観念を直接的に把握する、という認識論的構造が、西洋近代哲学の特徴です。
この構造の前提となっている能力が、「直観的な自己認識の能力」「内観の能力」「記号なしに思考する能力」「絶対に認識不可能なものの概念をもつ能力」です。

「直観的な自己認識の能力」の否定

先ず人間は、現実の直観的知覚と推論を区別することができません。
例えば、手品における錯覚は、人間の直観の裏に、隠れた推論があることを証示します。
こうすればこうなるはずだという推論的つながりによって裏付けられている直観が、手品の驚嘆の前提となっています。
直観的と思われている視覚像も、盲点やパースの曲線的歪み(パノフスキーの頁を参照)を知的な推論によって補正した上でとらえられたものにすぎません。
自己意識においても同様に、それ(自己意識)は直観に頼る以前に、他者を介した推論によって生じています。
自己の個人的判断が他者の証言によって否定される時、そして別の個人が周囲の人々の証言によって否定されるのを見る時、外界をそのまま写しだす判断以外に、個人の身体にしか妥当しないような判断が存在すること(つまり誤りの存在)に気付きます。
誤りの存在は、必然的に、誤りをおかす自己、誤りが所属するところの自己の存在を、推論として生じさせます。
自己意識の発生の端緒は他者の証言と推論であり、直観的な自己意識ではありません。

「内観の能力」の否定

感覚、情動、意志などの内観も、外的事実の観察と推論によって生じるものです。
心理学上の問題は、すべて外的事実からの推論によって究明することができます。
例えば、「赤い」という感覚は、赤い色彩をもつ外的対象から抽出(抽象)された推論です。
例えば、「怒り」という情動は、「これはけしからんことだ」という外的な事物に関係する判断にすぎず、客観(普遍)的な知的判断と異なる点は、特定の人間、状況、性向にかかわる主観(特殊)的なものであるという点のみです。
例えば、「意志」は、色彩の感覚と同様、複数の対象から注意をひとつに絞る抽象の能力であり、抽象される諸対象から推論されるものです(スキナーの頁を参照)。

「記号なしに思考する能力」の否定

いかなる思考も記号であるという命題から、いかなる思考も他の何らかの思考に向かわなければならず、他の何らかの思考を限定しなければならないということが帰結する。というのも、記号とは本来そうしたものだからである。そして、そういった帰結は、結局「思考は、直観ではない。つまり、思考は瞬間的に生じるのではない」とか、「熟考された事柄はすべて過去に属する」といったおなじみの格言の言いかえにほかならないのである。どの思考もそれにつづく何らかの思考をもつという主張は、どの時点もそれにつづく何らかの時点をもつという事実に対応する。それゆえ、思考は瞬間的に生みだされるものではなく、ある時間を要するものだということは、どの思考もそれにつづく他の思考のなかで解釈されなければならないということ、つまりすべての思考は記号的であるということの、たんなる言いかえにすぎない。(○)

「絶対に認識不可能なものの概念をもつ能力」の否定

わたしたちはすべての概念を、経験的判断から得たところの諸認識を抽象し結合することによって、得るのである。したがって絶対的に認識不可能なものには、いかなる概念もありえない。なぜなら絶対に認識不可能なものが経験のなかに生じることはありえないからである。ところでことば[記号]の意味とは、そのことば[記号]が伝達する概念のことである。したがってことば[記号]は、絶対に認識不可なものをその意味としてもつことはできない。(○)

これら四つの否定から生じる帰結

あらゆる心の働きを推論の形式に還元され、すべての思考は記号とみなされます。
現象と推論の中にあらわれる、認識可能なもののみが存在し(つまり認識不可能な概念は無意味)、「心(精神)」も「人間そのもの」も例外ではなく、推論によるひとつの記号にすぎません。
(ここからパースの記号論へと発展しますが、本頁では扱いません)

「わたしたちの意識に思い浮かぶものが、わたしたちの外部にある事物のあらわれである…。それは虹が太陽のあらわれでもあり雨滴のあらわれでもあるのと同様である。こうしてわたしたちは、ものを考えるとき、わたしたち自身がひとつの記号としてあらわれるのだということができよう」
「精神とは推論の法則にしたがって徐々に展開していくひとつの記号にほかならない」
「人間が使うことばあるいは記号は、人間そのものにほかならない…。すべての思考が記号であるという命題と、人間の生活は思考の連続であるという命題から、人間が記号であることが証明できる」(○)

真理と実在

探究は、「疑念から信念へ」を繰り返す連結的な前進を生じさせるもので、「真理」はその連結の先の無限遠点に想定される極限概念です。
現在持つ信念は常に誤りの可能性を持つ暫定的な真理にすぎません。
異なる意見を持つ異なる探究者たちも、それぞれの探求が進むにつれひとつの点に収束する(つまり同意する)ことになり、その究極的に同意される信念が「真理」として想定されています。
真理は探究する人々の同意に基づく信念であり、探求する人々からの疑念が生じない限りにおいて真理であるという、公共的性格を持っています。
ある信念の真理性とは、長い期間それが確かめられるという信念の性向であり、未来においてより多くの検証が可能になるであろうということを意味するものです。

いま、何人かの科学者が光の速度をいろいろな異なった方法で測定するとしょう。「彼らは、はじめは異なった結果を得るかもしれないが、それぞれその方法と手続きを完全にしてゆくにつれて、それらの結果は着々と一つの定められた中心に近づいてゆくのに気づくだろう。同じことがあらゆる科学的研究についていえる。異なった心の持主は大てい互いに対立する見解から出発するが、研究が発展するにつれて、彼らは自分たちの外部の力によって、一つの同じ結論につれてゆかれる。すべての研究者が研究において同意するように運命づけられている意見こそ、真理 (the truth)という言葉のイミするものであり、この意見に表現されている対象こそ実在 (the real) に他ならない」(☆P)

<実在>ということばは何を意味するのだろうか。わたしたちが実在>という概念を初めてもつようになったのは、非実在的なもの、つまり幻想というものがあるということを発見したときであり、すなわち、わたしたちがはじめて自分の錯誤を改めたときである。その場合に、個人の恣意に左右されるような不安定な存在と、長い目で見て存続するような安定した存在との区別が必要とされる。そこで、実在とは、遅かれ早かれ、知識や研究が最後におちつく先であり、わたしとかあなたとかいった個人の気 まぐれに左右されないようなものである。実在という概念のこのような成立事情は、この概念が本質的にコミュニティ(社会)の概念をふくんでいることを示している。そして、このコミュニティには、はっきりした限界はなく、しかも確実に知識を増大することができる。(○)

人間は本質的に社会の可能なメンバーであり、ひとりの人間が孤立しているかぎり 、その人間の経験は何ものでもない。もしかれが他人の知ることのできないことを知っているとすれば、わたしたちはそれを幻想と名づける。思考の対象とされるべきものは、<わたしの>経験ではなく、<わたしたちの>経験である。そして、この<わたしたち>は、無制限の可能性をもっているのである。(○)

まとめると、「真理」とは、科学の方法によって探究するすべての人達の前進が、究極的に一致するよう運命付けられた信念であり、その真なる信念の中に表現されている対象が「実在」です。

認識と行為と論理

「あらゆる概念の要素は、知覚という門を通って、論理的思想の国に入り、目的を目指す行動という門を通ってこの国を出る。この二つの門で旅券を示すことのできないものは、理性の認可をうけていないものとして逮捕されるべきだ(The Harvard lectures on pragmatism 1903)」(☆P)

プラグマティズムにおいて、「概念」は思想だけのものではなく、知覚と行動の門を通り外界(事実)を往来するものです。
「知覚⇒思想」で終わるイギリス経験論と異なり、プラグマティズムは「知覚⇒思想⇒行動」の全体的サイクルでとらえます。
思想は行動のための計画(仮説)であり、その真理性を行動によって検証するものです。
そして、行動を前提とするその思想を、さらに前提にするものとして、知覚が扱われます。
実践の問題と切り離し、「知覚⇒思想」の分析で済ます受動的過程としての経験論ではなく、実戦を含んだ「知覚⇒思想⇒行動」としてとらえる能動的過程としての経験論です。

この違いは論理においても明確にあらわれます。
イギリス経験論で「知覚⇒思想」の過程に用いられる論理はインダクション(帰納)です。
特殊命題から普遍命題、観察事例から仮説を抽出する経験科学的な論理です。
ディダクション(演繹)は、「思想⇒思想」の過程で用いられる数学的形式論理学的な論理です。

これに対し、プラグマティズムにおいて「知覚⇒思想」の過程で用いられる論理はアブダクションです。
インダクションは、「思想⇒行動」の過程において用いられます。
アブダクションのよって得られた仮説の検証作業としてのインダクションです。
ディダクションは、アブダクションとインダクションを媒介する変換装置としての「思想⇒思想」過程として用いられます。
これら三つ「知覚⇒思想」「思想⇒思想」「思想⇒行動」はセットになって、プラグマティズム特有の「知覚⇒思想⇒行動」の全体的サイクルを論理面で支えます。

「アブダクションは仮説を形成する過程であり、ディダクションは、そのヒントにもとづいて予見をひきだし、インダクションはこの予見をテストする」(☆P)

[詳細はパースのアブダクションを参照]

 

おわり

 

○…上山春平/山下正男訳『世界の名著パース、ジェームズ、デューイ』中央公論新社
☆…『上山春平著作集第一巻 哲学の方法』法蔵館
☆P…『上山春平著作集第一巻 哲学の方法』法蔵館、内のパース引用部分の孫引き