三つの推論形式
チャールズ・サンダース・パースは、伝統的な推論の形式、科学的手続きである「インダクション(帰納法)」「ディダクション(演繹法)」に対し、もう一つの形式「アブダクション」を加えることを提唱します。
帰納法(インダクション)
帰納法は、個別の事実から一般的な法則や規則を抽出するプロセスです。
例えば、ポチ(犬)は死んだ、タマ(猫)は死んだ、ラスカル(洗熊)は死んだ…、という個々の事例から、「動物は死ぬ」という法則が導き出されます。
ただ、個別の事実を完全に集めること(完全枚挙)は不可能なので、宇宙中探せば、どこかに不死の動物が存在する可能性も残り続けます。
ですので、この推論はあくまで蓋然的な正しさで、厳密に言うと括弧付きで、「動物は死ぬ(たぶん)」です。
死なない動物は現実に存在しないという暗黙の前提の上に成り立つ蓋然的正しさです。
演繹法(ディダクション)
演繹法はこの反対に、一般的な法則や規則(大前提)に個別のもの(小前提)を当てはめ、結論を得るプロセスです。
<大前提>AならばBである
<小前提>Aである
<結論>したがって、Bである
<大前提>動物ならば死ぬものである(動物は死ぬ)
<小前提>ハム太郎は動物である
<結論>したがって、ハム太郎(腮鼠)は死ぬものである(ハム太郎は死ぬ)
この推論は必然的な正しさを持ちます。
前提が真であれば結論も必然的に真であるという演繹の持つこの特質は「真理保存性」と呼ばれます。
帰納法と演繹法とアブダクションの関係
演繹法は<大前提>と<小前提>から<結論>を導き出します。
帰納法は、<結論-ハム太郎は死ぬ>と<小前提-ハム太郎は動物>から、<大前提-動物は死ぬ>を導き出すもので、演繹法とは推論の方向が反対の関係(上りと下り)にあります。
<小前提>+<結論>を無数に枚挙することによって<大前提>を抽出する作業です。
近代科学の父であるベーコンにとって科学とは、帰納によって得た一般法則(仮説)を、演繹によって実験するという手続きです。
しかし、この関係の中には、もう一つ推論の可能性が残っています。
<大前提>と<結論>から<小前提>を導き出すというプロセスです。
<大前提-動物は死ぬ>と<結論-ハム太郎は死ぬ>から<小前提-ハム太郎は動物である>と推論します。
これがアブダクションです。
まとめると、以下のようになります。
A、大前提、ルール(法則や規則)
B、小前提、ケース(特定の場面や状況)
C、結論、リザルト(法則に従う特定の状況から結果するもの)
帰納は、BとCからAを導出する推論
演繹は、AとBからCを導出する推論
アブダクションは、AとCからBを導出する推論
アブダクション
【演繹】
A、運転免許証を取得した人なら、運転ができる
B、彼は運転免許証を取得している
↓
C、したがって、彼は運転ができる
これは演繹なので、確実な推論になります。
【アブダクション】
A、運転免許証を取得した人なら、運転ができる
C、彼は運転ができる
↓
B、したがって、彼は運転免許証を取得している(たぶん)
これはアブダクションなので、不確実な推論になります。
無免許運転の可能性があるからです。
帰納法と異なる種類の蓋然性「たぶん」を伴う推論です。
しかし、仮説構築の際は、この誤りの可能性を持つ推論が重要になってきます。
誤りの可能性があるということは、裏を返せば、新しい情報を付加するというリターンのために、積極的にリスクを取りに行っているということです。
演繹の確実性(真理保存性)は、既知の情報内の情報を扱うにすぎず、なんら新しい情報が付け加わりません。
学問的探究の際に生じるアブダクションを以下に示します。
【演繹】
A、火山が大噴火すれば、一帯に火山灰の地層ができる
B、富士山(富士火山)が大噴火した
↓
C、したがって、富士山一帯に火山灰の地層ができる
【アブダクション】
A、火山が大噴火すれば、一帯に火山灰の地層ができる
C、富士山一帯に火山灰の地層がある
↓
B、したがって、富士山が大噴火した(のだろう)
これは火山灰の存在から遡及的に見てもいない富士山の噴火を推定しているだけで、確実なものではありません。
パースは、「アブダクション」以前には、後件(consequent)から前件(antecedent)への推論という意味で、「リトロダクション(retroduction)」という語を使っており、字義通り遡及的な推論という意味を持ちます。
複合命題「PならばQである」の前部分Pが前件、後部分Qが後件です。
「火山が大噴火すれば、火山灰の地層ができる(PならばQ)」の、後件Q「火山灰の地層」から、前件P「火山の噴火」を遡及的に推論するものです。
※アブダクションの仮説性を忘却し、演繹のような真理保存性があると勘違いされた推論が、いわゆる「後件肯定の誤謬」です。
帰納とアブダクションの違い
蓋然性「たぶん」を有し、常に誤りの可能性を持ち、積極的に新しい情報を取りに行こうとする点で、帰納とアブダクションは似ています。
帰納法は、複数の観察された事例を一般化し、原理や法則を抽出する作業です。
個別の特殊的状況である小前提(B.ケース)とその結果(C.リザルト)が結びついたものが「個別の事例」で、この個別の事例をたくさん集めてその大前提(A.ルール)になっている共通の法則を導き出そうとするものです。
観察事例が多いほど堅固になるので、多数の観察を必要とします。
それに対し、アブダクションは、観察された結果(C.リザルト)の事例と既知の法則すなわち大前提(A.ルール)から、直接観察することのできない個別の状況である小前提(B.ケース)を導き出そうとするものです。
結果を生じさせた個別的状況、すなわち原因の探求です。
帰納法と異なり、観察事例が多くある必要はありません。
これらの関係を、図とパース論文集”The Collected Papers of Charles Sanders Peirce,Vol.6″からの引用でまとめます。
読み易くするため、引用文中のインダクション⇒帰納、ディダクション⇒演繹、ハイポセシス及びリトロダクション⇒アブダクションに変更しています。
以後すべて、引用部分は上山春平訳です。
分析的とは、確実な認識は与えるが新しい認識を付け加えないもので、総合的(拡張的)とは、新しい認識を付け加えるが確実ではないもので、カントに倣った概念です。
「帰納によって、私たちは、観察された事実と同類の事実が、未調査のケースにおいても真であると結論づける。アブダクションによって、私たちは、観察されたものとは全く違う事実の存在を結論づける。そうした事実の存在から、既知の法則に従って、観察されたものが必然的に由来するのだが。前者(帰納)は、特殊なものから普遍的法則への推論であり、後者(アブダクション)は、結果から原因への推論である。」
やや分かりにくいので補足すると、アブダクションによって観察されていない事実(B.小前提、ケース)を仮定し、既知の法則(A.大前提、ルール)に従えば、必然的に観察されたもの(C.結論、リザルト)が結果として現れるということです。
観察されたもの(結果)から観察されていない事実(原因)へ向かう遡及的推論です。
「帰納は、同類のケースにおいて観察されたような現象の存在を推論するのにたいして、アブダクションは、私たちが直接に観察したものとはちがった種類のもの、しかも、しばしば私たちにとって直接に観察することのできないものを推定する」
探究の方法
思考においては、疑念という刺激が探求の動機となり、探求は信念に達した時、停止します。
この探究の過程として、この三つの推論形態は、以下のような関係になります。
第一段階、アブダクション
意外な現象が観察された際、その驚きを解消するような観点を中心に考察がなされ、その意外な現象を結論とするような三段論法の前提(大前提、小前提)が推測されます。
意外な現象に可能な説明を与えるものが、この前提の推論(即ち仮説)です。
驚きを生じさせる現象を認め、仮説を受けいれる段階が、第一段階です。
第二段階、演繹(ディダクション)
仮説は当然、テストされなければなりません。
先ず、仮説の内容を明確にする論理的分析を為します。
この分析によって仮説は演繹的推論の前提として機能しうるようになります。
そして、仮説(前提)を真と認めた場合に生じるであろう諸々の演繹的結果が、いかなるものになるかを考察します。
仮説の帰結を集めることが目的です。
経験的な検証(第三段階)の前の、この思考のレベルでのテストが、第二段階です。
仮説が直接検証できないものである場合、仮説を正しいと想定した際にいかなる観察的事実が結果するかという予測を可能な限り集めるこの段階が、非常に重要になります。
第三段階、帰納(インダクション)
演繹の段階で集められた結果が、経験的現実とどの程度一致するかを帰納によって検証する段階です。
その仮説の正しさの程度によって、採用すべきか、修正すべきか、捨てるべきかの判定を行います。
アブダクションが仮説を作り、その仮説から演繹が理論上の結論を導出し、その結論が事実に合致しているかどうかをテストするのが、第三段階です。
まとめると、第一は仮説の構築の段階、第二は仮説から検証可能な演繹的結果(観察可能な事実)を予測する段階、第三は予測に基づき現実で検証する段階、となります。
論理的な探究において、演繹は解明し、帰納は評価するだけであり、積極的なものは提供しません。
直感的な理性の無意識的な推測によるアブダクションなしには、何も始まらないのです。
「アブダクションは仮説を形成する過程であり、ディダクションは、そのヒントにもとづいて予見をひきだし、インダクションはこの予見をテストする」
具体例
第一段階、仮説の構築(アブダクション)
A、火山が大噴火すれば、一帯に火山灰の地層ができる(既知の法則)
C、富士山一帯に火山灰の地層がある(観察的現象)
↓
B、したがって、富士山が大噴火したのだろう(仮説)
第二段階、演繹的に仮説の検証を可能にする予測を集める
A、富士山が噴火し火山灰の地層ができたなら、地層内の火山礫は富士山特有の玄武岩中心である
B、富士山が噴火し火山灰の地層ができた
↓
C、地層内の火山礫は玄武岩中心である
※こういう結果予測を複数集めます
第三段階、帰納的に仮説の検証を行う
地層地点a.の火山礫は玄武岩中心である
地層地点b.の火山礫は玄武岩中心である
地層地点c.の火山礫は玄武岩中心である
地層地点d.の火山礫は玄武岩中心である
↓
地層内の火山礫は玄武岩中心である
※第二段階で集められた複数の結果予測を、ひとつずつ帰納的枚挙によって検証にかけ、確実性を上げていきます
おわり