ジェームズの『信じる意志』(かんたん版)

哲学/思想 宗教/倫理

信じるべきか疑うべきか

本書の主題は、信じるべき(信仰)か疑うべき(懐疑)か、という問いです。
純粋に知的な問題であれば、目の前の選択肢のどちらを選ぶべきか(信じるべきか)を、充分な証拠が得られるまで疑い、確証を得た上で、そちらを信じればよいだけです。
しかし、人間が関わる問題(モラルや宗教など)においては、目に見える確証が得られず、不十分な証拠のままで選択する必要が生じます。
取り損なっても重大事にならない選択や、切迫していない選択であれば、可能な限り懐疑のふるいにかけるのが適切な態度ですが、人生における重大事で回避不可能な選択を迫られた状況では、そうもいきません。

この重大で切迫した正真正銘の選択の場において、信じ選択するか、疑い選択を避けるかは、以下のような感情的動機を伴う賭けになります。
懐疑、つまり選択を避けることは、「誤謬のリスクをとるより、真理を失うリスクをとるほうがマシだ」ということです。
信じる、つまり選択を為すことは、「真理を失うリスクをとるより、誤謬のリスクをとるほうがマシだ」ということです。
前者は失敗が恐いから成功も要らない、後者は成功が欲しいから失敗も覚悟する、という態度です。
信仰か懐疑か、どちらの態度を採るかは、個人の価値観の問題で、等価に見えます。
しかし、ジェームズはひとつの重要な問題を指摘し、「信じる」ことを意志した方が、分があると考えます。

たとえ話

例えば、「あなたが私を好きかどうか」は、私があなたに歩み寄るかどうか、私があなたの好意を期待するかどうか、私があなたに信用や期待を示すことができるかどうか、などにかかっています。
私の中に、「あなたはきっと私に対する好意を持ってくれる」という信念のある状態で行動することが、あなたからの好意をもたらすのです。
反対に、「あなたはきっと私に対する好意を持ってくれない」という疑いのある状態が、あなたからの好意をもたらさないのです。
もし私が超然と構え、客観的に十分な証拠が得られるまで、あるいはあなたの方から動いてくれることを待ち、一歩も動こうとしないなら、あなたは九割方、私を好きにはならないでしょう。
異性からの好意を確信している陽気な男性に惹かれる女性が多いのは、偶然ではありません。

信念が真実をもたらす

このように、ある真実(真理)への欲求が、その真実(真理)の存在を実現させることがあります。
昇進や恩恵を獲得するのは、それが実現される以前に、その真実への信念(きっと昇進できる、きっと恩恵に授かる)をもち、積極的に努力した者だけです。
信念は、それ自身を結果として証明するのです。
社会組織が成立するのも、各メンバーが、他のメンバーも任務を遂行することを信頼し、自分の任務を遂行するからです。
例えば、勇敢な者を沢山乗せた列車が、数名の列車強盗に掠奪されてしまうのは、強盗同士には信頼があるのに対し、旅客同士には信頼がないためです。
自分が抵抗して撃たれる前に、他の客が加勢してくれるという確信がないため、旅客は動けないのです。
成果の存在は、人々相互が先制的に相手を信頼した純粋な結果として現れます。
信頼が無ければ、何も達成できないどころか、何も企てられません。

このように、事実の到来に対する予備的な信念が存在しない限り、事実がまったく到来しない場合があるということです。
特に人間が関わる問題においてそれが顕著です。
十分な証拠なくある事実に対する信念を持つことが、その事実を生み出すのに役立つ場合において、「客観的証拠なしに信念を先行させることは、不合理だ」と断罪する懐疑論者の姿勢は、むしろ不合理です。

人生という実験

先ず十分な証拠を得た上でそれを信じる、と言うのが、一般的な知的態度です。
それに対し、ジェームズは、先ず信じた上で、行動を通してそれを実証していく、という態度を推奨します。
勿論、それは「信念を持つことが、その事実を生み出すのに役立つ」状況においてのみです。

個々人の生活は、信じる仮説に則した行動的な信仰によって、その仮説を検証する実験場であり、それがその種の仮説の真偽を証明することのできる唯一の方法です。
信じて行動し、その仮説が上手く機能している間は、 その仮説は真実(真理)としての地位を得、失敗すれば地位を失い更新されるという、暫定的な真理です。
真理を望むなら、信じる(検証を開始する)ことが必要なのであり、懐疑は検証の放棄を意味します。
「私たち自身が仮説に歩み寄らない限り、証拠が永遠に与えられない」状況があるのです。

 

おわり

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