ジェームズの『信じる意志』(2)

哲学/思想 宗教/倫理

(1)のつづき

第八章、科学的問題

所信の選択において、感情の影響は不可避であると同時に、合法的な決定因です。
所信の選択の最も基本的な最初の段階で、前章で述べた「真理を獲得する」か「誤謬を避ける」かという感情的な影響があります。
しかし、理想的には、そして事実が許す限り、感情的段階を踏まないようにすべきでしょう。

真理の得失が重大なものでない場合は、客観的明証性が得られるまでは決心しないことで、虚偽を信じる可能性から身を守ることができます。
科学的な問題でも人間的日常の問題でも、多くの場合、誤った信念を持ってでも行動する(決断する)方がマシだなどと言う重大な局面はめったにありません。
正真正銘の選択(生きた、重大な、いや応なしの)から外れる選択の場合は、懐疑的姿勢が賢明な態度になります。
公平無私な態度で比較考量するのがベストです。

勿論、これは純粋に判断を下す際の心構えについてであり、自分自身の信念を確証したいという情熱的な欲求は必要です。
単なる無関心は単なる無能な人しか生みません。
有能であるとは、問題の一側面に対する熱い関心と、冷めた鋭い懐疑のバランスを上手くとる人のことです。
科学はこの繊細な神経の働きを一定の検証の技法としてまとめあげました。
そして、科学はこの技法自体を愛するあまり、真理そのものを気にかけず、ただこの技法によって検証されたものとしての真理しか見なくなります。
しかし、人間の情熱は技術的な法則に先立つより強いものです。
パスカルが言うように、「心には理性で分からない理由がある」のです。

第九章、道徳的問題

道徳的問題(moral questions)の解決は、明白な証拠を期待できないものとして現れます。
科学は、存在(物)の何であるかを教えてくれます。
それに対し道徳は、何が善かを問うもので、存在するもの存在しないものの両方に渡る価値を扱います。
科学ではなく、先のパスカルの言う「心」に問い合わせねばなりません。

道徳的信念を持つか持たないかという問題は、私たちの意志によって決定されます。
私たちの道徳的選好(moral preferences)、いわば好き(持つ)好きでない(持たない)は、一体何によって決定されるべきなのでしょうか。
純粋な知性によっては決定できないように思われます。

或る人の心情が、道徳的実在の世界を好まず、欲しないと決めたなら、いかなる知性によってもそれを覆すことは出来ません。
メフィストフェレス(人間の道徳を知的な詭弁によってオセロのようにひっくり返し、悪徳に堕とす悪魔)の道徳的懐疑論は、知的懐疑論と同様、論理によって反駁することはできません。

ここで、日常的な例で、心の問題について考えてみます。
例えば、あなたが私を好きかどうかは、私があなたに歩み寄るかどうか、私があなたの好意を期待するかどうか、私があなたに信用や期待を示すことができるかどうか、などにかかっています。
私の中に、あなたの私に対する好意の信念がある状態が、あなたからの好意をもたらすのです。
もし私が超然と構え、客観的な証拠が得られるまで、あなたが然るべきことを為すまで、一歩も動こうとしないなら、あなたは九割方私を好きにならないでしょう。

異性からの好意を確信している陽気な男性に惹かれる女性が多いのは、偶然ではありません。
ある種の真理への欲求が、その特殊な真理の存在を実現させます。
昇進や恩恵を獲得するのは、それが実現される以前に、その真理への欲求をもち、積極的に努力した者だけです。
信念は、それ自身を結果として証明するのです。
社会組織が成立するのは、各メンバーが、他のメンバーも任務を遂行することを信頼し、自分の任務を遂行するからです。
成果の存在は、人々相互が先制的に相手を信頼した純粋な結果として現れます。
信頼が無ければ、何も達成できないどころか、何も企てられません。
勇敢な者を沢山乗せた列車が、数名の列車強盗に掠奪されてしまうのは、強盗同士には信頼があるのに対し、旅客同士には信頼がないためです。
自分が抵抗して撃たれる前に、他の客が加勢してくれるという確信がないため、動けないのです。
もし、全員が一斉に抵抗してくるような列車であるなら、そもそも少数で強盗に入るなど企てません。

このように、事実の到来に対する予備的な信念が存在しない限り、事実がまったく到来しない場合があるということです。
ある事実に対する信念が、その事実を生み出すのに役立つ場合に、「科学的証拠よりも信念を先行させることは、思考する存在(人間)の背徳行為だ」と断ずるのは非論理的です。
そして、科学的絶対論者は、この非論理的な理屈で、人間を取り締まろうとしています。

【ミニ解説】
信念の形成において、知的根拠だけで決定することが不可能な選択があり、その状況において、なお知的に合理的な選択を為そうとする時、「信じる意志」が求められます。
信じることを条件として生み出される真理というものがあります。
十分な証拠なしに信じることが、その証拠を得る条件となるような状況が存在し、その状況においては証拠に先立つ信念(証拠なしに信じること)が必要になります。
この場合、信じることが懐疑の態度より優れ、合理的であることになります。
解決するために知的検証が困難で、確証(真理)が私たちの個人的な行動に依存するような状況です。
倫理や人間関係においては大半がそういう状況です。
信念は常に検証されるため、信じればどんなことでも本当になる、というようなうわ言を寄せつけません。
【解説終り】

第十章、宗教的問題

以上のように、真理が個人的な行動に依存する場合、欲求に基づく信念は確かに合法であり、おそらく不可欠です。
まず、宗教的仮説とは、何を意味するのでしょうか。
科学は物事の存在を語るもの、道徳は物事の善さを語るもの、宗教は永遠的な物事を語り、かつそれを真であると信じるなら善くなるものです。
この宗教的仮説の論理的な正当性を考えてみます。

第一に、宗教は重大な選択として提示されており、それを信じるか否かによって重大な善の獲得がかかっています。
第二に、強制的な選択として提示されており、懐疑的態度に留まり選択から逃れる訳にはいきません。

なぜなら、もし宗教が真実でない場合、懐疑によって誤謬を避けることはできますが、それが真実である場合、私たちは善を失うからです。
懐疑論は選択の回避ではなく、特殊な種類のリスクの選択です。
「誤謬のリスクよりも、真理を失うリスクを採るほうがマシだ」という訳です。
結婚のリスクを恐れ、100%確証可能な異性が現れるまで結婚しない者と同じです。
つまり「結婚で失敗するリスクよりも、結婚を失うリスクを採る方がマシだ」という、リスク間の選択です。
信じる者も信じない者も、同様に積極的な賭けをしているのであり、どちらのリスクを採る方が賢明かの判断です。
懐疑的態度は感情に対する知性なのではなく、信じる態度と同じく、ひとつの感情を伴う知性でしかありません。
この種の感情の知性(懐疑的態度)、すなわち希望によって失敗するより、恐怖によって失敗する方がマシだ、ということの論拠が私には見つけられません。
私の信じようとするものが証拠不十分であるからといって、人生で唯一のチャンスを失うことを望みません。
そのチャンスをつかみ取れるかどうかは、私の信じるものが真理であるかのように行動する危険を、敢えて冒す意志があるかないかにかかっています。

宗教的仮説の信念を拒むことは、上に述べたこと以上に非論理的なことです。
宗教的信仰は、宇宙を単なる「それ(It)」 から「汝(Thou)」にし、人格と人格の間に成立しうるあらゆる関係が可能になります。
ある意味で私たちは宇宙の受動的な部分ですが、別の意味では、私たち自身が小さな能動的な中心であるかのような自律性を示しています。

宗教が私たち自身の積極的な善意に訴える力を持つと同時に、私たち自身が仮説に歩み寄らない限り証拠が永遠に与えられないように感じます。
例えば、すべての譲歩に対し担保を要求し、証拠なしに誰の言葉も信じないような男は、その無礼さによって、他人を信頼する人が普通に受けるであろう社会的報酬から、自分自身を切り離すことになります。
神の存在を信じるという、宇宙に対する深い奉仕の感覚は、宗教仮説の生きた本質をなしているように思われます。

私たちのこの意志的な歩みを拒否する素朴な知性主義は不合理でしょう。
ここでは、私たちの共感的な性質の介入が論理的に必要とされるのです。
したがって、私は真理の探究において、不可知論者の規則に同意したり、私の自発的な意志の働きを無視したり、出来ません。
ある種の真理が実際に存在するであろう場合、その種の真理を認めることを妨げるような思考の規則は、不合理な規則だからです。
私にとってそれは、どのような種類の真理であれ、論理の骨子です。

私たちの意志を誘引する程に生きている仮説なら、リスクを背負う自己の責任において、それを信じる権利があると、私は主張します。
私たちは自分の人生を自分の手に委ねて行動しています。
私たちは他人の生き方を罵り合うのではなく、お互いの精神的自由を繊細かつ深く尊重し合わなければなりません。
そうしてはじめて、知性の共和国が築かれ、内なる寛容の精神を獲得することができます。

最後に、フィッツジェームス・スティーブン(James Fitzjames Stephen 1829–1894)の言葉を引用します。

「君は君自身についてどう考えていますか。君は世界についてどう考えていますか。これらはすべての人が自分の好きなように対処しなければならない問題です。これらはスフィンクスの謎々であり、何らかの方法で答えねばなりません。すべての重要な人生の取引に際して、私たちは暗闇の中で飛躍しなければなりません。私たちが、その謎を未解決のままにしておくことに決めるとしても、それは一つの選択です。答に迷うとしても、それもやはり一つの選択です。しかし、どんな選択をするにせよ、私たちは危険を冒しそれを為すのです。ある人が神や未来に完全に背をむけることに決めたなら、誰も彼のこの選択を止めることはできませんし、また彼が間違っていること合理的な疑いをはさむ余地なく証明することもできません。ある人が別な考えをいだき、その考えの通りに行動したとすれば、その人が間違っていることを誰かに証明できる人はいないでしょう。それぞれが自分が最善と考える通りに行動しなければなりません。また、その人が誤っていたにしても、それはその人にとって悪いだけのことです。私たちは、渦巻く吹雪と視界を遮る霧の真只中にある峠に立っています。立ち止まれば凍え死んでしまいます。道を誤れば身は粉々に砕かれるでしょう。正しい道があるかどうかも確実には分かりません。私たちは何をしなければならないのでしょうか。『しっかりしろ勇気を持て( Be strong and of a good courage.) 』最善のことを望み、最善のことを為し、そして来るものを受け入れて下さい。もし死が全てを終らせるのなら、私たちはこれ以上の死を迎えることはできません。」
(最善を願い、最善を為した最終結果として迎えられる死が、より良い死だという事でしょう)

【ミニ解説】
個々人の生活は、宗教的仮説に則した行動的な信仰によって、その仮説を検証する実験であり、それが仮説の真偽を証明することのできる唯一の方法です。
信じて行動することが、即ち仮説の検証となり、それが上手く機能している間は、 その仮説は真理としての地位を得ます。
これは絶対論的真理観やその反対の懐疑論のように単純なものではなく、それらの態度を批判的に乗り越えたものです。
全肯定でもなく全否定でもなく、過程の中に飛び込んで、自ら行動しながら、その真理性を常に検証していくという立場です。
疑いを通過しない信仰は盲信でしかなく、信仰の裏には懐疑が必要です。
また、信念を証示するものは、それに則した行動だと、第一章で述べました。
この仮説と検証のプロセスは、行動によって疑いを晴らすという過程です。
信仰か懐疑か、の選択は、行動(検証)するか行動しないかの問題であり、その点で信じることは疑いに優るということです。
「これを妨害する思考の規則(クリフォードの原理、懐疑論)が不合理な規則」と言われるのは、そういうことです。
真理を望むなら、信じること(検証を開始すること)が必要なのであり、懐疑は検証の放棄を意味します。
「私たち自身が仮説に歩み寄らない限り証拠が永遠に与えられない」のです。

最後に、科学の懐疑と個人の懐疑の違いを明確に述べた部分を紹介します。

感覚によっていまだ検証されていないものをなにも信じてはならぬという科学が、われわれにくだす命令は、長い目でみれば、われわれの正しい思考を極大化し、われわれの誤りを極小化することを意図する、せいぜいのところ抜け目のない規則にほかならない。特定のばあい、この規則にしたがえば、真理を見失わざるをえないことがしばしばである。しかし全体としてみて、徹頭徹尾それにしたかうほうがより安全であるのは、その損がかならず得でおぎなえるからである。それは全期間に両掛けしてこまかな損を防ぐ確率にもとずく賭博や保険の規則のようなものである。しかしこの両掛けの哲学は長い期間の存在を必要とする。だからこれは、個人の胸にしみじみと感じられるような宗教的信仰の問題にはあてはまらない。個人は損をしないために人生の勝負をするのではない。というのも彼はなにも損するものがないからである。彼は得るために勝負をする。また個人は人生の勝負を今するか、全然しないかのどちらかである。というのも長い期間は、なるほど人類にとっては存在するけれども、個人にとっては存在しないからである。疑うにしろ、信じるにしろ、否定するにしろ、個人は危険をおかしており、そのどれにするかを選ぶ当然の権利をもっている。
(ジェームズ著、福鎌達夫訳『ジェームズ著作集第二巻、信じる意志』日本教文社)

【解説終り】

おわり