ジェームズの『信じる意志』(1)

哲学/思想 宗教/倫理

はじめに

『信じる意志』は、イギリスの数学者、哲学者であるクリフォードの原理「十分な証拠なしに何かを信じることは不道徳である」に対する批判として為された講演です。
極端な科学的、実証主義的な懐疑から、道徳的信念や宗教的信仰を護るためのものです。
第一章から第三章までが準備的考察、第四章で基本テーゼ、第五章から第七章までが追加の準備的考察、第八章から第十章までが本論となっています。

第一章、信念と仮説

先ず、私たちの「信念(belief)」に提示される可能性のあるものすべてを「仮説」とします。
その仮説の中から採用されたもの(信じられたもの)が、「所信(opinions)」となります。

仮説には「生きているもの」と「死んでいるもの」があり、「生きている仮説」とは、仮説が提示される当人の精神につながる可能性のあるものです。
つまり、提示される者に可能なものとして訴えてくる仮説です。
例えば、アラブ人にとっては、マフディー(世界の終末に現れるイスラムの救世主)の仮説は生きていますが、アメリカ人の精神には可能性としてつながらず死んでいます。
仮説の「生きている」か「死んでいる」かの状態は、その仮説固有の内在的特性ではなく、それを考える個々の者に対する関係そのものの中にあります。

この生-死の状態を計測する尺度は、彼自身の行動意欲(willingness to act)です。
ある仮説が最大限に生きているとは、それ以外に変える可能性のない行動意欲を意味します。
これが信念を持った状態です。
行動する意欲が見られる場合、何らかの信じる傾向があるということです。

仮説間の決定に際する「選択(option)」には、種類があります。
1、生きているか、死んでいるか(living or dead)
2、強制か、回避可能か(forced or avoidable)
3、重大なことか、些細なことか(momentous or trivial)
この三つが揃い、生きていて、且つ強制され、且つ重要な種類の「選択」である場合、それを「正真正銘の選択(genuine option)」と呼ぶことができます。

1.についていえば、アメリカ人にとって「イスラム教かヒンドゥー教か」という選択は可能性として接続が難しく、正真正銘の選択を提示していません。
しかし、「キリスト教か不可知論か」という選択は生きているもので、正真正銘の選択といえます。
2.についていえば、「傘を持って出るか、持たずにでるか」の選択においては、「外出しないこと」で簡単に回避可能であり、正真正銘の選択を提示していません。
しかし、「ある真実を受け容れるか、受け容れないか」のどちらかしかない場合は、選択しない可能性がない強制的なもので、正真正銘の選択といえます。
3. についていえば、どちらを採っても大差ない選択や後になって取り戻せるような取るに足らない些細な選択の場合、正真正銘の選択の提示ではありません。
しかし、その機会がかけがえのない重大な選択となるものである場合、正真正銘の選択といえます。

【ミニ解説】
1.「生きているか」「死んでいるか」が基本的な選択で、その下位の分類として、2.「強制」「回避可能」、3.「重大」「些細」の区別があります。
そもそも「死んでいる」選択肢においては、強制かどうか、重大かどうかは、意味を持ちません。
「死んでいる」選択肢に対しては、当人は関心を持たないため、選択は結局、既存の生きた信念と、それとは別の生きた選択肢が出現した場合の、生きたもの同士の競合的な選択となります。
仮説の生-死は実現可能性に拠っているため、生きた仮説はある程度社会的な常識を伴い、明らかに許容不可能な仮説は生きたものとはなりえません。
【解説終り】

第二章、信念と意志の関係

自身の所信(opinions)いわば「信じている意見(仮説)」を、自らの意志(will)によって自由に変更できるという説は、非常識に思えます。
「リンカーンは実在せず彼の肖像写真は作りものだ」と、強く意志すれば、それを真実だと信じることができるでしょうか。
病気の痛みに苦しみながら自分は快調だと、意志によって信じようとしても、それは不可能です。
パスカルは、損得勘定からして神を信じた方が得なのでそちらに賭けろと以下のように説得します。
「~すでに信じているかのようにすべてを行なうことなのだ。聖水を受け、ミサを唱えてもらうなどのことをするのだ。そうすれば、君はおのずから信じるようにされる~」
しかし、そう信じようと意志したからといって、神への信仰は得られるものではありません。
パスカルが提供する選択肢(仮説)は一部の者(カトリックに隣接する者)を除き死んでいるので、その選択に基づき行動する意欲、すなわち信じる傾向を生じさせないのです(例えばトルコ人にとってミサや聖水は何の意味もない)。
信念を意志によって操作することはできません。

第三章、意志的本性

しかし、信念の問題において自由意志や願望が付け足し程度のものにすぎないとしても、それらを捨て去った純粋な理性や知的洞察が、私の所信(信ずる事柄、意見)を決定するわけではありません。

人間固有の意志の働きを「意志的本性(willing nature)」と呼びますが、これ(意志)によって生き返らせること(つまり信じることを可能にすること)ができないのは、すでに死んでいる仮説だけです。
しかし、この仮説の生-死を決定したのは、所信決定以前の「意志的本性」です。
「意志的本性」は、逃れられない信念の習慣を作り上げてきた意図的な意欲だけをさすだけではなく、恐怖や希望、偏見や情熱、模倣や党派心、階級や同調圧力など、信念を生じさせるすべての要因を含んでいます。
実際、私たちは「どういうことを信じているか」は分かりますが、「どうしてそれを信じたか」という理由はほとんど知りません。
仮説を可能(生きたもの)または不可能(死んだもの)にする知的風土の影響を「権威(authority)」と名付けます。
アメリカの大学の生徒は、エネルギー保存の法則や民主主義やプロテスタントを信じていますが、明確な理由があってのことではありません。
これらの説を信じない者も、同じように明確な信じない理由をもちあわせていません。
知的洞察ではなく、「権威」から生ずる意見(opinions)の威信(prestige)が火花を放ち、信念に火をつけそれを所信(opinions)にするのです。
私たちの信念は、他の誰かの信念に対する信念であり、社会が後押ししている欲求の肯定に他なりません。

基本的に人は自身の役に立たない事実や理論を信じません。
例えば、ハクスリー(進化論を弁護した生物学者)が司教たちを非難するのは、彼の人生計画に司祭制が必要ないからです。
科学者はごく少数の者を除き、自らの基盤を破壊してしまうような特異な事例が事実として存在しても、結束してそれを抑圧し隠ぺいしようとするものです。
しかし、彼ら大多数とは異なる要求を持つ少数の学者は、この事実を受け容れ、信用すべきものとみなします。
明らかに知性以外の非知性的性質が信念に影響を与えています。
信念に先立つ感情的傾向や意志と、信念が得られた後に来る感情的傾向や意志があるということです。

【ミニ解説】
クリフォードの原理や懐疑論も、それに先立つ感情的な欲求が存在しています。
「不十分な証拠に基づく信念によって誤謬のリスクをとるくらいなら、何も信じず何も決定しないで安全に居たい」ということです。
それに対し、ジェームズの信じる意志の感情的欲求としては、「証拠不十分であるからといって懐疑に留まり、真理を永遠に失うリスクをとりたくない。人生で唯一のチャンスを得るためなら、多少の犠牲は覚悟する」ということです。
懐疑も信仰も、権利としては同等です(詳細は第十章)。
【解説終り】

第四章、基本テーゼ

本論の中心となるテーゼは以下のようになります。

命題間の選択がその性質上、 知的な根拠に基づいては決定できない、且つ正真正銘の選択である場合には、常に私たちの感情的本性(passional nature)がその選択を決定することは合法的であり、またそれによって決定しなければならない。というのも、こうした状況のもとで「問題を決定せず、未解決にしておけ」と言うこと自体が、ひとつの感情的な決定であり、それは真理を失うというリスクを伴うからです。

【ミニ解説】
単純な知的根拠に基づく科学的問題であれば、十分な証拠を得ようとする懐疑的態度が望ましいのですが、 それ以上の領域を扱う道徳的あるいは宗教的問題の場合、「ある事実に対する信仰が、その事実を生み出すのに役立つ場合において」、その真理を得るために十分な証拠なしに決定(信じる)ことが合法になります(詳細は第九章)。
【解説終り】

第五章、懐疑論、独断論、経験論

このテーゼは以下の内の「経験論(B2)」の立場を決意するものです。

A.真理は認識できないという「懐疑論」。
B.真理は存在し認識しうるという「独断論」。
-B1.真理は認識可能で、それがいかなる場合かも認識できるという「絶対論」
-B2.真理は認識可能だが、それがいかなる場合かは認識できないという「経験論」

思想史的には、科学では経験論的傾向が、哲学では絶対論的傾向が優勢でした。
人間は本能的に絶対論的傾向を持ち、無批判な心の状態では、不十分な証拠しかなくとも、客観的明証を信じそれが確実なものであると思い込んでいます。
最も優れた経験論者であっても、反省した場合にのみ経験論者であるにすぎません。

第六章、経験論の立場

真理の規準は論者によって異なり、合意されたことはありません。
啓示、全世界の合意、心の本能、人種の経験の統合、明晰な観念、常識、先天的総合判断形式、反対が考えられないもの、完全な有機的統一を持つもの等、様々な真理の規準が採用されましたが、一度もその地位を確立したものはなく、変転していきます。
それ(真理)は、私たちの思索の営みの無限遠点にある理想を示す単なる志向目的あるいは極限概念でしかありません。
或るものが真理であると主張することは、その対象があなたが真理であると考えるものであるから、客観的明証性をもつというだけの話であり、実質的には主観的な所信のひとつにすぎません。

客観的明証性や絶対的確実性を持つと主張されたもの(所信)は、常に同時に相反するものを生み出してきました。
世界は理性的-世界は野蛮、神は存在する-神は存在しない、存在するのは精神外の物理的世界-存在するのは精神内の観念、道徳的使命が存在する-義務は欲望の結果に過ぎない、永続的な心の原理がある-心の状態は流転するだけ、果てしない原因の連鎖がある-絶対的な第一原因がある、必然-自由、有限-無現、目的-無目的、原初は一-原初は多、万象の連続性-万象の非連続など。
誰かが絶対に真とみなしたものを、常に誰かが偽であるとみなしています。

これに対し、経験論者は、客観的確実性のドグマは放棄しますが、真理そのものの探求や希望は失っていません。
いぜん真理の存在を信頼し、系統立てた経験を積み上げ、考え続けることで、よりそれに近付くことができると信じています。
絶対論者との違いは、その目指す方向にあります。
絶対論者の力点は、思想(thought)の原理、起源、出発点にありますが、経験論者の力点は、成果、結末、到達点にあります。
経験論者にとって問題となるのは、ある仮説がどこから来るかではなく、その仮説が何を導くかです。
真理であるとは、思考の全体的な流れがその仮説を確証し続けることを意味するものです。

【ミニ解説】
プラグマティズムの真理観は、以下のようなものです。
仮説を経験の中で絶えることなく検証し続け、それが上手く機能することを確証し続けることにおいて、その仮説は真理としての地位を得ます(確証に失敗すると地位を失います)。
その仮説の導く結果から、その仮説の真理性を遡行的に決定しようとする態度です。
真理とは動的な出来事であり過程、真理が自身を検証する真理の真理化であり、それは検証されている間だけ真理でいられる暫定的、更新的なものです。
これは道徳的仮説や宗教的仮説においても当てはまります。
【解説終り】

第七章、真理に対する姿勢

真理を得ることと、誤謬を避けることは、同じことを反する面から述べたものではなく、実質的に異なるものです。
真理の追求を最優先事項とし誤謬の回避を二義的なものとするか、反対に誤謬の回避を第一とし真理の方は偶然の結果とするか、そのどちらを選ぶかによって、知的営みが本質的に変わります。
後者は、誤謬のリスクを冒すくらいなら永久に判断を停止した方が良いと考え、前者は誤謬のリスクより真理のリターンの方が遥かに大きいと考えます。
経験論者は前者の立場をとり、多少の傷を覚悟で勝利のために闘います。

 

(2)へつづく