フォーマリズムとは何か(映画)

芸術/メディア

はじめに

フォーマリズムとは日本語で「形式主義」です。
これは、形式(容れ物)と内容(中身)の対概念のうち、形式の方を重視する考え方です。
例えば、以前取り上げたグリーンバーグは絵画におけるフォーマリズムであり、マクルーハンの「メディアはメッセージ」という概念は文化研究としてのフォーマリズムであり、哲学で代表的なフォーマリズムはカントです。
今回は、映画のフォーマリズムについて、より具体的に見ていきます。

映画におけるフォーマリズム

映画表現とは、「なにを、いかに、(撮影機で)表現するか」ということです。
「なにを」の部分が内容であり、「いかに」の部分が形式です。
「なにを表現するか」を重視するものがリアリズムであり、「いかに表現するか」を重視するものがフォーマリズムです。
全ての映画は、リアリズムとフォーマリズムを両極としたグラデーションの中のどこかに位置づけられます。
リアリズムの極にあるのがドキュメンタリー、フォーマリズムの極にあるのが前衛映画です。

フォーマリズムを突き詰めたドイツの「絶対映画」では、完全に内容が捨て去られ、抽象的な形式のみで映画が作られます。

ハンス・リヒター『Rhythmus 23 (1923)』
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絶対映画ほどではないにしろ、リアリズムから内容を構成するために最も重要な因果的な事物のつながり(物語)を捨て去ったものが、フランスの「純粋映画」です。

フェルナン・レジェ『バレエメカニック(1924)』
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ただ、この手の映画はインテリの知的好奇心を満たすためのものなので、私たち一般人にとってはあまり意味の無いものです。
ですので、ここではリアリズムとフォーマリズムの中間にある作品(スターウォーズのような普通の作品)のフォーマリズムについて述べます。
私たちが普段映画を観る際に、見える内容ではなく、見えないあるいは気付かない形式に、いかに強い影響を受けているかということを理解することです。

撮影と編集

現実においては、極真空手重量級の世界大会の試合と、中学生のペチペチするだけの喧嘩では、格闘としての迫力があるのは、当然前者です。
空手はスポーツなので、映像はほぼ編集の無い非常に簡素なリアリズムのスタイルで撮られています。

【新極真会】第10回世界大会準決勝
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それに対して、中学生が主人公の喧嘩映画はエンターテイメントなので、ペチペチの喧嘩を、非常に凝った映画の形式によって表現し、プロ格闘家の何十倍も“格闘らしい”格闘映像を作り上げます。
特異な視点から撮り迫力を出したり、スローや高速再生で体感時間を操作したり、音楽的リズムでショットを編集し興奮を生み出したり、目のクローズアップで怒りや怯えを表現したり、映像の明瞭さや色味や明暗を変化させ雰囲気を作ったり、様々な形式的工作によって、現実を超える現実を作り出します。

バレエメカニックが機械でダンスを表現した様に、八百屋に並んでいる野菜をモチーフにして格闘映画を作ることも可能です。
私たちが格闘映画を観ている時、本当に観ているのは闘っている役者の格闘ではなく、この見えない形式によって表現された格闘の方です。
この場合、内容(役者)は形式を表現するための素材に過ぎません。
アクション映画の本質は、アクションを撮るということではなく、アクション映画の形式で撮るということです。
少女漫画家になるということは、少女の恋愛や成長を描く作家になるということではなく、少女漫画という形式を習得した漫画家になるということです。

リアリズムは映像(形式)として退屈で、反対に形式のみの映像は内容として退屈です。
だから私たちはその中間に位置し、内容も形式も両方ある『スターウォーズ』のような“普通”の作品を好みます。

リアルの違い

形式を利用して劇的に演出する映画に対し、「ズルい」「リアルではない」「嘘吐き」と、まるでお化粧する女性を批判する頑固お爺ちゃんみたいなことを言う人もいます。
ただ、これはリアルの質の違いにすぎません。
物的客観的なリアルを表現するか、心理主観的なリアルを表現するかの違いです。

映画の形式というものは、人間の認知、認識の形式に酷似しています。
人間は世界の事物を認識する際、事前にある特定の枠組みを用意しています。
それに従い、世界を分割し、その分割(部分化)された対象を意味付け、特定の部分のみをチョイスし、そのチョイスされた部分を因果的につなげ(編集)、統一的な一つの世界観を作ります。

例えば、スケベな頑固お爺さんが街に出れば、スケベのモード(枠組み)で、分割された街の構成要素(部分)の中から、可愛い女の子に関わるもの(選択的部分)のみを抽出し、つなげ、ひとつの世界を構築します。
可愛い女の子、その近くにいる男の子、歩く先の方にある映画館、の三つの部分を勝手に結び付け、「彼氏と一緒に映画に行く女の子」というストーリーをつむぎだし、勝手に憤慨します(羨ましがります)。
仕事のモードで忙しいヤマト運輸のお兄さんは、そんな女の子など目にも留めず、ビルの時計の電光掲示、天気の状態、道の込み具合などの部分を結び付け、「雨が降る前に配り終わる自分」というストーリーを想い描きながら、台車を走らせます。
世界はそれを認識する人間の数(70億人)だけ存在しており、それぞれがそれぞれの形式によって構成された心理主観的なリアルを持っています。

いかなる物語の形式で世界を捉え(注1参照)、いかに分割し、いかなる視点からそれを見て(撮り)、いかにそれをつなげるかという映画の編集作業と同じようなことを、人間は認識において常に行っているということです。
バイクを運転している時に、道路で轢かれた前方の黒猫をよけて家に着き、寝る私。
それが実は猫ではなく黒い毛糸のマフラーであったとしても、私にとっては猫であることがリアルです。
物的客観的にはマフラーがリアルであったとしても、心理主観的には黒猫がリアルです。
どちらがよりリアルかなどという優劣は、そこにはありません。

空手の世界大会の映像を物的客観的なリアリズムの手法で撮っても、ある面でリアルとは言えません。
主観的に現実のパンチや蹴りを受ける時の迫力と恐怖は尋常ではありませんが、それが全く伝わってきません。
その主観的なリアルを表現するためには、形式に頼り、その迫力を模擬的に作り出すしかありません。
下の過剰演出気味の画像のように、動的な湾曲の歪みを作る距離(パース)と、威圧感を生じさせる仰視の角度で撮って、ようやく空手家のリアルな迫力が伝えられます。

ⒸCAPCOM CO., LTD.

映画の本質は強制された視点

厳密に言うと、客観的リアリズムの手法とは、眼前の事物に関心を待たずコミットしていない第三者の主観を隠れた前提としたものにすぎず、別に客観的であるわけではありません。
廊下の窓から教室を覗いている校長先生みたいなものです。
フォーマリズム寄りの映画は、作家の視点(心理主観的リアル)を鑑賞者に強制すると批判されます。
しかし、そう批判するリアリズム支持者の多くは、この校長先生の視点(心理主観的リアル)を強制しようとしているだけにすぎません。
客観は自己欺瞞的に忘却された主観にすぎないという哲学的問題と同様です。

心理主観的リアルを鑑賞者に強制せずに済むのは、自分で自由に空間を移動できる3Dのバーチャル空間を利用した物語のみです。
鑑賞者が自由に動き回るバーチャル空間内の物語進行でのみ、視点の強制から解放されます。
ヒーローもヒロインも、主役も脇役も、善玉も悪玉も、全て自分の視点次第で自由に作り出される(解釈される)物語です。
自由な視点の移動が約束されている現実では、カップルの数だけ、私だけのヒーロー、僕だけのヒロインがいるように。

勿論、それはもう、映画ではありません。
教室内の生徒か、廊下の校長先生か、という程度の差はあれ、映画の本質のひとつとして強制された視点があるからです。

 

おわり

 

※注1、
マクルーハンの項で挙げた例ですが、プリンの容器に入れた「美味しい」茶碗蒸しを、その事実を知らせずに被験者に食べさせると、顔をしかめて「不味い」と、反対の事を述べます。
それと同じで、コメディという形式(容器)で演者が袋叩きに合うと鑑賞者は笑い転げますが、ドラマという形式で演者が袋叩きに合うと怒ったり悲しんだり、反対の感情をもちます。
描かれる内容の意味およびそこから生じる感情は、事前に物語の形式によって規定されているということです。