失敗とは
「成功」とは、ある目的に向けた行為によってそれが達成されることです。
「失敗」とは、反対に、その行為が目的を達成できないという事態を指しています。
人間の行為はほぼすべて、ある目的に向けた行為(いわゆる意志的な行為)によって構成されています。
刺激と反応が直結している動物的な自動行動とは異なる「目的を持った意志的な行動」は、人間ならではの本質的なものです。
人間の行動は、呼吸や鼓動のような自律的(自動的)なものや条件反射(無条件反応)的なものを除き、ほぼ全てにおいて「失敗」という事態が生じる可能性があります。
「失敗」は、人間が人間である限り切り離せない存在、つまり当たり前のものであり、ネガティブに捉える必要はありません。
二種類の失敗
失敗には大きく分けて二種類あります。
A.失敗の際の条件が自覚されている場合
B.失敗の際の条件が自覚されていない場合
A.の失敗の典型例は、科学的実験の失敗です。
ある条件を意図的に作った上で、その条件(仮説)が、目的とする状態を生じさせるかどうかを試すのが実験(実証)です。
勿論、実験に失敗した時、その失敗の際の条件は明確に実験者に把握されています。
B.の失敗は、私たちが日常的によく為す失敗です。
つまずいた(歩行の失敗)時、その失敗の条件は明確でないので、ゼロから調べなければなりません。
歩道や靴に目立つ不具合があったなら、その失敗の条件は簡単に特定できますが、もし、何でもない所で転んだ場合はフォームや筋力や平衡感覚等、様々な因子を調べる必要が出てきます。
A.の失敗は条件が明確なので、目的の達成へ向けてそれを修正すればよいだけですが、B.の失敗は修正以前に修正するベースすらなく、すべての失敗の条件をいちから特定するという作業が入るので、その分、面倒なことになります。
条件を自覚した上での失敗(A.)は、基本的に試行錯誤(トライアルアンドエラー)としての失敗なので、成功に結び付く生産的なものです。
しかし、失敗の条件に対し無自覚な失敗(B.)の場合は、多くの場合、同じ失敗を繰り返すことになります。
知らない内に運よく条件が変われば失敗も止みますが、条件が戻るとまた失敗が量産されます。
A.の失敗は、失敗可能性をひとつず潰していく作業であり、一歩一歩確実に成功(目的の達成)に向かって進んでいきます。
B.の失敗は、失敗可能性をひとつも潰さないまま延々と失敗を繰り返し、最初の段階に留まり続けます。
最速で成功する方法
最近、よくSNSで「最速で成功するためには最速で失敗を積み重ねろ」というような言葉を目にします。
良い意味でも悪い意味でも、今の時代を反映した言葉です。
科学者やスポーツ選手の様に、自覚的な条件の下での失敗(A.)の繰り返しは、成功と表裏一体(というかほぼ同じもの)なので、この言葉は間違いではありません。
しかし、あまり物事を考えない人間の失敗(B.)の場合、最速の失敗の積み重ねは、自信や時間やお金や体力や健康などのリソース(資源・資産)を最速で失うだけで、むしろマイナスに働く自殺行為です。
他人の失敗を見て分かることは目(観察)と頭(想像)の学習で学び、自分でしかできない失敗だけ自分で現実に直で為す、というのが、最もスマートな方法でしょう。
「失敗は自分でするから身になる」と言えるのは、HPが無限の不死身の勇者ジークフリートだけです。
私たち凡庸な町人は少ないHP内でしか失敗できないので、その限られた人生の中でより先に進みたければ、ある程度他人(先人たち)の失敗を参考にする必要があります。
勿論、最初に挙げた名言(迷言?)「最速で失敗しろ」は、なかなか行動を起こせない消極的な人を鼓舞するために極端に言っているだけでしょう。
一般人の具体的方法
科学者は決して同じ失敗を繰り返しません。
同じに見えても、パラメーター(条件)を微妙に変えていたり、データを集めるために必要な「意味のある繰り返し」だったりします。
それに比べ、私たち一般人は同じ失敗を無意味に延々と繰り返します。
それを防ぐためには、非常に面倒なのですが、失敗の度に意識的にその失敗の条件をいちから特定する作業をしなければなりません。
例えば、喫茶店の給仕の主な仕事の一つが、料理を運ぶ作業です。
成功は料理をうまく運んだ状態、失敗は途中で盆をひっくり返したりして運ぶことができなかった状態です。
失敗を繰り返す給仕は、失敗について何も考えず、失敗した際の条件を特定しません。
それに対し、失敗の数が経験と共に減っていく優秀な給仕は、「失敗」→「失敗の条件の特定」→「失敗の条件を成功の条件へ変える方法の思案」→「思案した仮説の実践を通した実証」の過程を、意識せずに為しています。
失敗の条件が、客の悪態に対する苛立ちか、トレンチ(お盆)の持ち方か、睡眠不足か、靴のヒールの高さか等、特定した上で、対策を練り改善を図る必要があります。
順に、アンガーマネジメント、姿勢の矯正、充分な睡眠、靴の交換などです。
無数の実験(失敗)を必要とするような科学者の取り組む難問とは異なり、日常レベルの問題なら、失敗の条件は比較的簡単に特定できます。
失敗の条件が明確になるということは、同時に成功の解法が絞られてくるということです。
何が失敗の条件であったかは、実験の結果が証明するという側面もあるので、「失敗の条件の特定」と「実践を通した検証」の両者は、二足歩行的な同時進行として為されます。
成功は失敗の里程標
成功とは、失敗という材料を煮詰めてできるキャラメルの様なものです。
「成功」とは「最後の失敗」とも言い換えられます。
成功は次のより高い目的の為の手段(ステップ)ともなるため、成功と失敗は同じ道にあり、成功は一里塚(里程標)や登山の合目キャンプのように目立つ存在なだけで、本質的には何でもない道の一歩一歩と変わりません。
恐ろしく客観的に言えば、成功した際に喜ぶのであれば失敗した際も同じくらい喜ぶか、あるいは成功時も失敗時も平等に淡々としてなければなりません。
失敗を悲しむのは、本気で成功に向き合っていない証拠です(後述)。
悲しむべきは、失敗したことではなく、無意味な失敗をしたことに対してです。
無意味な失敗と意味ある失敗と失敗の質
失敗するごとに成功への道が明確になっていきます。
「それは○○ですか?」「はいorいいえ」でおなじみのイエスノーゲームのように、可能な限り少ない質問数で答えを出せる賢い人もいれば、総当たりで答えを出す努力家タイプもいます。
成功のために必要となる失敗の数も、これと同様、個人差があります。
どちらにせよ、失敗なしに成功の方法は導き出せませんが、失敗には質があり、失敗によって前進の幅が異なるということです。
同じ状況でも、イエスノーゲームのように、三手で成功を導き出す人もいれば、十手かかる人もいます。
ですから、前進幅の小さい質の低い失敗に関しては、回避できればベターです(なにも試行錯誤しないよりは遥かにマシですが)。
要するに失敗の選択に失敗したということです。
しかし、この失敗の選択の失敗(質の低い失敗を選択してしまったこと)も、同様に学びの種になります。
失敗の選択に失敗するにつれ、イエスノーゲームが上手くなるように、徐々に優れた失敗を選択できるようになっていきます。
A.意味ある失敗・・・試行錯誤を伴う失敗(前進あり)
A-1.質の良い意味ある失敗(前進幅大)
A-2.質の悪い意味ある失敗(前進幅小)B.無意味な失敗・・・試行錯誤を伴わない失敗(前進なし)
失敗者(未来の成功者)は孤独である
例えば、1000の方途の中に1だけ成功に導く道があったとして、ある人が8回の失敗でその1の方法を特定し、王手をかけていたとします。
それに対し、一度も試行(トライアル)せず、失敗(エラー)が0回の人がいます。
どちらが前に進んでいるかは明らかなのですが、状況を理解できない上司や機械的なAI判定なら、8回失敗している人を失敗ばかりする駄目な奴と見做すでしょう。
その失敗が試行錯誤としての生産的な失敗か、ただ何も考えていない非生産的な失敗の繰り返しかは、それと同様の状況や問題設定に強くコミットしている人にしか判断できないので、正確な評価を下すのは難しいのです。
失敗の意味を理解できる人は少ないので、沢山の失敗を必要とする難関に挑む人は、長期間、孤独な戦いを強いられることになります。
難しい大きな成功を収めるためには、数十年もの間、失敗者や無能者呼ばわりされながらも試行錯誤を続ける覚悟が必要となります。
失敗しない成功者という幻想
失敗(試行錯誤)の選択が上手く、失敗の回数が少なく済む人はいても、まったく失敗せずに成功する人は、運の要素を除けば原理的にいません(ちなみにこの運の要素によって成功していた人が運を失い、成功できなくなる状態がスランプです)。
しかし、私たちの周りには、100点以外取らない優等生や50戦無敗で現役を終えるボクサーのように、失敗知らずの人もいます。
この場合、失敗なしに成功しているわけではなく、”公式”および”主体”および”現実”という限定された場(私が公けで現実に見られている場所)で失敗していないにすぎません。
学校のテストでまったく失敗しない毎回100点の優等生は、自分の勉強部屋の問題集で失敗しまくり、無敗の精密機械のようなボクサーは、自分のジム内の練習で失敗しまくり、すべての失敗可能性を潰してから公式の場に出ている人です。
思考実験やイメージトレーニングのように、頭の中で失敗と成功を繰り返し、失敗の可能性を潰す方法も非常に有効ですし、自分ではなく他人に失敗してもらうこと(観察学習-他人の失敗で学ぶ-)によって、代理的に失敗してもらっている場合や、似た問題からの類推によって失敗せずに失敗の経験を得ている場合(例、絵が上手い人は料理も上手い)など、他人に自分の失敗する姿を晒さずに失敗の経験値を得る方法は無数にあります。
優秀な人は、公け-主体-現実という、みんなに見られる場所では一切失敗せず、その代わり、私的空間や、他人の領域や、抽象空間など、見えない別の場所で失敗しているにすぎません。
天才とは、「舞台裏空間(ゴッフマン)」での泥臭い試行錯誤の痕跡を、他人に見せない人のことです。
失敗を恐れるのは目的に向き合っていないことの証明
「失敗は成功のもとだ、母だ」と言われる割に、子である成功は好かれても、その産みのもとや母である失敗は嫌われます。
なぜ、そういう事が起こるかと言うと、失敗を嫌ったり恐れたりする人は、目的に対し真剣に向き合っておらず、目的とは別のものと向き合っているからです。
目的の達成(成功)のみに目を向ければ、失敗は成功のための大切な過程でしかありません。
そもそも「失敗」というものは、狭い文脈に限った主観的な視野狭窄状態で生成する一種の幻覚であり、文脈を広げた客観的視野で現実的に俯瞰すれば、成功のいち構成要素でしかありません。
しかし、失敗は、時間やお金や労力や健康や自信や世間体などのリソースを減ずるものであるため、目的の達成より失われるものの方に目が向いている人には、失敗は脅威となります。
失敗は目的達成に向けての過程(前進)ですが、その代償として上記のようなリソースを燃料として消費します。
試行錯誤としての失敗は、自動車に乗る時の様に、失うもの(燃料)より、得るもの(前進)の方が大きいと納得されているので、失敗によって消費するものをネガティブにはとらえません。
気にするのは、前進距離に割の合わないリソースの消費(質の悪い失敗)、いわば燃費だけです。
人間は他人に対してより、自分に対し嘘を吐く生き物なので、自分自身が一番自分の本心(本当の目的)を分かっていません。
どんな失敗に対しどう絶望するかによって、その人の本当の成功目的や希望や露わになります。
失敗をした際に絶望する私の姿は、私の心の奥の真の希望の姿を炙り出す鏡なのです。
私が好きな異性を恋人にしたくて告白し、失敗し、自尊心を深く傷つけられ絶望するなら、私の真の目的は、「好きな人を恋人にすること」ではなく、「素敵な恋人を得ることで自尊心を充たすこと」であったと気が付きます。
また、それ以前に、フラれて自尊心を失うことを恐れ、告白自体をしないなら、好きな異性を恋人にすること(成功目的)よりも自分の自尊心(失うリソース)を大切にし、割の合わないトライ(試み)であると踏んでいる証拠です。
もし、本当に「好きな人を恋人にすること」が目的であるなら、自分の自尊心などどうでもいいはずです。
告白失敗と反省と改善を繰り返し、(その異性にとって)魅力的な人間となって、自分のトライに応じてくれるまで試行錯誤するだけです(反省と改善の無い反復はストーカー行為ですが)。
成功に対し真摯に向き合ったなら、失敗に対する恐れなど霧散霧消します。
ただ、考えるべきは失敗の質だけです。
おわり
おまけ、人生に無意味な失敗など無い?
よく、「人生には無意味な失敗など無い」などと言われますが、それが正しいのは無駄を別に生かせるほど時間や空間が大きい状況においてのみです。
時間や場所によって目的(成功の基準)は刻々と変化するので、それに合わせ、以前までは無駄な失敗であると思われていたことが、有益な失敗へと変化します(ちなみに個人が意図的に目的を変更し、物事の意味を変えようとするのがサルトルの実存主義です)。
例えば、「学は長く、人生は短い」と言われるように、時間的にも空間的にも広大な範囲に共有される「学問」の領域においては、無駄な研究も後に有益なものとして回収される可能性が大きいでしょう。
しかし、個人の人生は無駄を高確率で回収できるほど大きくも長くもありません。
大阪のオバちゃんのように「いつか要る時がくんねん」と言って、お中元の紙箱やプリンの容器のような無駄な物を集めていても、九割九分使わずに人生を終えます(ちなみにメルカリの様なフリマアプリは空間的拡大によって無駄な物を意味ある物に変換するシステムです)。
無駄な失敗を極力減らし、意味のある失敗(さらに言えば質の高い)を増やすべきでしょう。
無意味な失敗を為した自分や他人を慰め、鼓舞するためには、「人生には無意味な失敗など無い」はよい言葉かもしれませんが、それを真に受けて、失敗の意味や質に無頓着になるのは、けっこう危険だと思われます。
そもそも、成功に向かって全力疾走している人に、何の反省的要素も無い過去の無意味な失敗を振り返っている暇などありません。
過去の無意味な失敗を慰めによって緩和したり、強引に意味を変えたりするよりも、真剣に成功に向き合うことによってそれらを置いてけぼりにするのが一番手っ取り早く、且つ健康的、且つ生産的でしょう。