ロックの『市民政府論』(かんたん版)

哲学/思想 社会/政治

自然状態

人間は、自然本来の状態においては、完全に自由で、他人の意志ではなく自分の意志で行動を決定し、自分の生命と身体と財産を扱います。
同一クラスの被造物(人類)である人間は、万人が平等な権力、権限を持ち、主従の関係のない状態にあります。
これは単なる粗野な「放縦」ではなく、自然状態における自由もある種の法「自然法=理性の法=神の法(場合に応じて呼び方が変わりますが同じもの)」に基づいています。
自然法は、「すべての人間は平等かつ独立した存在であり、何人も他人の生命、自由、財産を侵害してはならない」と、命ずるものです。

人間の自然状態と言うと、弱肉強食の万人闘争世界がよくイメージとして挙げられますが、ロックはそれは特殊な状態であり、基本的に人々は平和にやっていくものだと考えています。
別に人間は狼やライオンから進化した訳ではなく、最も近いのは猿です。
チンパンジーの群れや、未開人の共同体のように、高度な知能を持った存在である理性的動物である人間は、ある程度の平和と相互扶助の中で生きるのが普通です。
ちなみにロックは、アメリカ先住民(インディアン)に自然人のイメージを重ねています。

全ての人間は、自分自身の生存を保ち、それと競合しない限りで、できるだけ他者を害さず他者の生存も保つよう、自然法は命ずるのです。
自然法は、人類の保全(維持)と繁栄を求めているのであり、同種族の弱肉強食の殺し合いなど命じてはいません。

戦争状態

自然状態の平和は、お互いが個々人の内にある理性(自然の法)に従うことによって成り立っています。
先生がいなくても仲良くやっていく学級のように、みんなが平等(対等)で彼らの上位に立ち、人間間の争いを仲裁する者がおらずとも、円滑に共同生活を為すのが「自然状態」です。

しかし、時に人間は、この自然的で理性的な平和から離れ、敵対的、暴力的、相互破壊的な行動をとることがあります。
自然状態における自然法(理性の法)は、個々人の理性によって把握されるものであるため、無知や偏見によって、それが当人に認知されず逸脱することが多くあるからです。
誰かがこの理性(自然の法)を逸脱し、平和を破る時、平等(対等)な立場の同一クラスの被造物(人類)である人間相互の間には、その侵害行為を裁き仲裁や救済をはかる上位クラスの優越者がいないため、この自然法からの逸脱行為は、暴力の応戦による終わることなき報復合戦とならざるを得ません。
「自然状態」に対し、これを「戦争状態」と呼びます。

裁定する上位の権威が不在の状況で、侵害行為が為される場合に、「戦争状態」に入ります。
たとえ法(実定法)に守られた政治共同体の成員であっても、法の介入する余地のない緊急時(強盗に襲われる時など)においては、法に訴える時間がないため、事実上、上位の裁定者のない一時的な戦争状態となり、被害者には戦う権利が与えられます。
生存維持を定める自然法によって、被害者には自衛的に暴力を発動する権利が保障されているからです。

際限のない戦争状態を避けようとする動機から、制度化された上位の権威(実定法や裁判官など)を社会的に作る必要が生じるのです。
不安定な戦争状態を終らせることができるのは、両者の上位に立ち裁定する権威の存在によって、過去の被害が賠償され、未来の安全が保障され、平らかにされる時です。
こうして人は、自らが自由な主人である自然状態を脱し、あえて統治の下に服し相互保全をはかるため、政治社会的に結びつきます。

法と自由

人間の自由とは、ある共通の規則(法)に則った上で、その規則に定められていない部分で、あらゆることを為せる自由です。
いかなる法にも拘束されない自由は、ただの混沌でしかありません。
よって自由は、それが基づく法によって、種類が異なります。
人間が生来的にもつ「自然的自由」は、地上においていかなる上位の権力にも拘束されないという、自然法だけに則った上での自由です。
社会的な同意によって作られた政治的共同体の中で生じる「社会的自由」は、当該の立法権力以外のいかなる立法権力にも拘束されないという、当該の実定法だけに則った上での自由です。

「法」は束縛ではなく、理性的な行為主体の、自由、利益、幸福を増大させるためのものです。
勝手気ままにやりたい放題することは、各人の自由と自由が競合し、むしろ自由ではなく拘束を招来します。
例えば、私がツーリングで自由にバイクをかっ飛ばせるのは、危険地域への進入禁止の策や道路標識や信号や速度制限などの法的規制によって守られているからです。
もし、これらの規制が無ければ、私は先に崖や沼地があるかもわからないのでノロノロ運転するしかありませんし、信号や速度制限という規制によって事故から守られてなければ、常に他車にビクビクしながら慎重に運転することになります。
一見、法的な制限によって自由が束縛されているように感じますが、実際は反対に法が自由の条件なのであり、法を守るという義務によって自由であれる権利が保証されているのです。
法とは人間の自由と利益と幸福を最大化するために設けられるものであり、束縛とは対極のものなのです。

所有権

人間は「自然法(理性の法、神の法)」によって、自己保全の権利が与えられています。
それには、生きるために必要なモノに対しての権利も含まれます。

大地の恵み(自然物)は人類の共有財産ですが、個人が労働によって手を加え、それを有益な形の価値あるもの(生存の為の必要物)とし、占有した時、自然物に私的所有権が付与されます。
川を泳ぐ魚は共有財ですが、そこに釣るという「労働」が加わると、自然物に「価値」と「所有権」が生ずるのです。

私が今着ている暖かく着心地の良い毛織物の洋服は、無数の過程と無数の労働と無数の物品(羊毛、石鹸、染料、薪、織機、馬車等)を幾重にも重ねた上で供されており、木の葉や獣皮の粗末な服に比べ、労働によってどれだけの価値が付加されているかを考えてみて欲しいのです。
そうすれば、この世で享受されるものの価値の大部分が、労働によって生み出されたものであるということが分かります。
共有財(自然物や土地)それ自体はほとんど価値を有さないものであり、その単なる物体を資源に変え、さらにそれに無数の価値を付加していくのは、人間の労働なのです。
自身の内にある所有権の偉大な根拠(労働)が、他者との共有物(自然物)に改良を加えた時、価値が生じ、共有から私有を分ける分割線が引かれるのです。

所有権は自然法を前提とした権利であるため、自然法に則った制限(理性的制限)があります。
他人の生存を害さず、自身の生存を維持する程度が、その制限となります。
個人が利用可能な限界が、その人の分け前の限界であり、無駄を生じさせるような過剰な所有は、他者に属するはずものを害する行為として制限されます(例-食べきれず腐らせるほどの食物の私有)。

しかし、自然法に則った理性的制限による秩序が機能するのは社会の初期においてであり、人口の増加に伴い貨幣の使用が開始されると、この制限は解除され、状況は一変します。
過剰な私的所有物(私有された自然物)は腐敗しない貨幣に交換可能となり、無限の貯蓄可能性が開かれます。
そして、財の価値は、生活に直結する実用性から、人々の嗜好や合意に基づくものへと変化します。
人口の増加と貨幣の使用により、自然物(財)の基礎となる土地が不足してくると、共同体(国家)は領土の境界を定め、その内部では法によって私的所有権を規制するようになり、労働と勤勉により保証されていた所有権は、契約と合意によって制度的に定められるものとなります。

自然法における私有財産は、労働の程度に比例し増加しますが(ある限度内で)、貨幣の出現によりこの傾向は無限に拡大することになります。
貨幣が存在せず、一定限度以上の蓄えは腐り、他者との交換の範囲が狭ければ、人は自分の家族の必要に足る分以上の所有物を得ようとする動機は生じません。
貨幣によって、所有物が永続性を獲得し、自分の家族の必要分を超えた財産を貯蔵するだけの価値を備えた希少性を獲得するのでなければ、どれだけ豊かな土地(共有財)があろうとも、人は決してそれを勤労によって開墾し新たな財産を得ようとはしないでしょう。
貨幣の力が無ければ、個人的な必要によって囲われた部分以上の自然の恵み(共有財)は、その可能性を放棄され、荒れ野として放置されることとなります。
貨幣の出現は、その個人的制限を開放し、所有物を無限に拡大する可能性と動機を、人間に与えたのです。

父権(親権)

全ての人間は生来的に自由と平等の権利が与えられていると述べましたが、子供の場合、あくまでそれは可能性として有しているに過ぎず、成人するまでは、親の権利の内に従属します。
両親は人類の保全を命じる自然法(理性の法)に従い、無力で理性を持たぬ幼児が成長し自立するまで保護、養育、教育する義務を負います。
この拘束は、子供を保護する産着の機能を果たし、子が成長し理性的になるにつれ、徐々にその拘束を脱いでゆき、最終的に完全に平等の状態(自由)を獲得する成人となります。
理性を未だ有していないもの(幼児)が、法(自然法および実定法)の下に服することは出来ないため、それが育まれるまでは、保護下に置かれるということです。
理性的な分別は、意志と行動の自由の条件であり、法を理解し、法の範囲内で自由を行使する成熟した状態になるまでは導き手(他者)に従う必要があるのです。

人間は生まれつき理性を備えているがゆえに、生来的に自由なのであり、両親への服従とこの生来的自由が両立するのは、理性が成長によって開花する時間差をもつものだからです。
人間を、理性以前の無分別で無制限の自由へ放り込むことは、人を野獣として扱い、人でなしの惨めな状態のうちに見捨てるに等しいのです。
だからこそ、両親は子供を支配する権威と保護と教育の務めが与えられるのであり、親の権力は子供の幸福のためのものなのです。
子が自立すれば、父と対等な立場の、自由を約束された同じ法の下の臣民となります。

親には二種類の権利があります。
第一に、子が未成年の一時期の間、養育の義務に基づき監督する権利。
第二に、子が成人してから親が亡くなるまでの終生の間、親が子に与えた配慮、費用、愛情に応じた敬意を受ける権利。
この二つは、同じ親から子への権利に見え混同されやすいのですが、実質的には、前者は子の権利(親の義務)であり、後者は親の権利(子の義務)であり、まったく異なるものです。
この子供に対しての親の権利が、誤った認識により、父の絶対的で恣意的な支配権に高められてしまうことが多々あります。

政治社会の基礎

自然法に基づき、人間は生来的に、生命、自由、財産保全の権利を持っていると述べましたが、ロックはこの現代の人権に似た概念を「所有権」と呼びます。
この語は、単純なモノや財産の所有とは異なる特殊な意味を持っており、訳者によっては文脈に従い「固有権(≒人権)」「所有権(≒財産権)」と訳し分けています。
ちなみに上で述べた小見出しの所有権は主に財産権を意味しています。

共同体の規模が大きくなると、成員全ての所有権を保全し、成員間の争いを解決する、中立的(超越的)立場の権力が必要となります。
裁判所のような、各人共通の提訴先を持たない自然状態における人間は、各人自らが裁判官兼執行官として、個人で侵害行為に対し裁き制裁を下さねばなりません。

政治社会とは、自然法的に成員各々が持つ、この自ら裁き執行する生来的権力を、ひとつ(共同体)に委ねることにより成立します。
公平性を欠く主観的な裁きと、実行力の乏しい私的な執行(逆に殺されることすらある)に代わり、そのひとつになった共同体の権力が、共同体の普遍(客観)的な法に基づき公平に裁き、共同体の強力な実行力で確実に執行するのです。
成員は、この統治の下に国民として参入し、争いの解決や侵害の救済を仰ぎ、必要であれば執行に際して助力する義務をもちます。
天上ではなく、地上に審判者を樹立することにより、政治社会が誕生するのです。
これが政治共同体の立法権と執行権の成り立ちと根拠です。

コモンウェルス

自然状態の自由を捨て、政治共同体のために必要な規制を受け容れることで、個々人は安全と繁栄が約束されるのです。
理性的な人間が、以前より劣悪な状況になるための交換などするはずがなく、社会が個人に与える利益が自然状態より下回ってはなりません。
社会の権力は、公益を超えてはならず、国民の安全や繁栄のため以外のことに、その力を向けてはならないのです。
恒常的な法、公平な裁判官、それらに基づく確実な執行権力などによって、自然状態の欠陥を補い、全ての成員の所有権を保全するものでなければなりません。

ロックが述べる「国家(コモンウェルス)」という語が意味するのは、単なる統治の形態ではなく、「common-wealth(共同-富、公益)」の転義としての、「commonwealth(国家)」の意として使われており、単なる状態をあらわす「state(国家)」以上の共同体的な意味付けが与えられています。

合意と多数決

生来的に自由で平等である人間が自然状態を脱し政治共同体に属するのは、己の合意によってのみです。
複数の主体の合意によって結合された一つの共同体が、同じ一つの方向へ動くためには、多数派の意志による決定をその舵取りとする必要があります。
議会において、多数派の決議が全体の決議となり、そこに成員全体の権力が託されていると見なした上で、人々はその決定に服し、制限される義務を負います。
個人それぞれに利害対立や意見の多様性や生活上の都合が存する以上、多数派の同意を全体の決議として扱わなければ、社会共同体は成り立ちません。