ゴッフマンの『行為と演技』(かんたん版)

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自己とは社会役割という仮面(ペルソナ=パーソン)

私たちは、他者の情報を基にして、自分の行動を決定しています。
例えば、相手が王様か乞食かによって、対応は相当変化します。
その反対に、私は自分の意図した通りに、他人に動いて欲しいので、自分の都合に合わせた情報を他人に与えようとします。
例えば、お金持ちに見られれば大切にされ、貧乏人に見られれば雑に扱われるので、極力、自分が貧乏であることを示す情報は隠し、お金持ちであることを示すような情報を与えようとします。

コミュニケーションの軸にあるのは、他者を自分の意図に従うように動かそうとする、願望の掛け合いです。
私は自らのパフォーマンス(言動)によって、自分の情報を他者に伝達しますが、この情報の伝達が、状況全体を意味付ける機能を持ちます。
例えば、今まで敬語だった人が急にタメ語を使いだすことがあります。
それは自分の方が偉い人間であるということを、タメ語というパフォーマンスによって示し、今まで対等であった関係(お互いが敬語)を壊し、自分が有利な状況に作り替えようとする、「状況の意味付け」を行おうとしているのです(サルトルの言う投企)。

それに対し、私がどういうパフォーマンスで返すかによって、状況の意味付けはさらに変化します。
A-私の方も同じようにタメ語に切り替えれば、対等性が回復し、それと同時にお互いがタメ語という以前よりくだけた関係(状況)になります。
B-私の方は敬語のままであれば、相手との上下の序列関係(状況)ができてしまいます。
C-相手がタメ語を使うことを注意すれば、敬語のままの関係(状況)が維持されます。

このように、自分の意図に従うパフォーマンスの掛け合いは、「状況の意味付け」合戦であるということです。
この状況の意味付けが、固定的なその人の属性のようになった、半ば安定的なものが、社会的な「役割」です。

演劇の舞台において、王様やお姫様や従者や冒険家や魔女や乞食など、それぞれの人がそれぞれの役(キャラ)に従った状況の意味を担うのと同じように、私は社会の中で「日本人、男性、大阪人、サラリーマン、優男、オタク」などと言うような様々な社会役割(キャラ)を担い、それに従った状況と意味の中で生き、その役割に沿ったパフォーマンスをこなしていくのです。
「人間(person)」の語源が「仮面(persona)」であるように、人が他人を知るのも自分を知るのも、何らかの社会的な役割においてであり、仮面は第二の天性として「自己」なるものを生じさせます。
私は私として生まれるのではなく、後天的な過程として、様々な仮面を着けながら、社会的に「私」に成っていくのです。

「仮面」などと言ってしまうと、仮面を外した「本当の自分」などというものがあるように感じますが、そういうわけではありません。
仮面を外しても、ただ別の仮面に着け替えられるだけです。
学校から帰ってきて、「優等生の学生」という仮面を脱いでホッとしても、家族の中では「思春期の気難しい子供」という役割の仮面を着けています。
自室や風呂場に籠って一人になったとしても、自己反省的な自意識の目や、心の中の他者の目(フロイトの言う良心)を前にして、何らかの仮面を着けた自分を想定せざるを得ません。

 

役割の社会的権限

社会的な役割は、理想の型というものが形成されるので、それが役割を担う個々人に対して、強い規律と拘束になります。
私はその理想に合うようなパフォーマンスを展開しなければ、その役割を担うことができません。
「女は女として生まれるのではなく女に成る」ように、意識的な努力によって、私は「日本人らしく、男らしく、大阪人らしく、サラリーマンらしく」成るのです。
いわば、社会の中で優れた役者であること(役らしくあること)が求められているのです。

自らの努力によってその役割に合うように努力し、それが難しい場合などは、意図的に偽りを利用します。
しかし、人格のリアリティとは虚構から生じるある種のイリュージョンとその信仰であるため(後述)、ここで問題になるのは「偽り」ではなく、その偽りを利用する社会的権利です。
例えば、水戸黄門のように、王様が自己を偽り浮浪者を演じても、誰も怒りませんが、浮浪者が王様のふりをして王座に座れば、皆、怒り狂います。
なぜなら、王様の権利は浮浪者の持つ権利をすべて含みますが、浮浪者は王様の権利を持っておらず、社会的な権利関係の逸脱を生じさせるからです。
問題となるのは、そういう偽りです。

行為主体は、他者が与える情報を基にして、他者の扱い(反応)を決定すると先に述べました。
相手の役割の情報には、相応の要求や約束が含まれており、倫理的(道徳的)性格を帯びています。
例えば、相手の役割印象が「社長」であれば、オーディエンスは彼に対し社長に見合うだけの扱い(反応-行為)をせねばなりませんし、パフォーマーは社長になるため(社長の権利を得るため)の社会的努力が必要です。
ですので、行為主体は、他者に対して、他者が自分に与えようとする役割印象の正確さを求めています。

 

仮面の生み出すイリュージョンとしてのリアリティ

ある役割を基点として見た場合、表舞台と裏舞台というものが生じます。
例えば、「学生」という役割を基点とすれば、表舞台は学校で裏舞台は校外や家庭となり、「○○家の子供」という役割を基点とすれば、家外や学校が裏舞台になります。
正確には、これは場所の問題ではなく、オーディエンス(観客)の有無の問題です。
校外に居ても先生と一緒なら表舞台であり学生の仮面を外せませんし、家の中に居ても家族が誰もいないなら裏舞台となり思春期の気難しい子供という仮面を外してテレビアニメで笑い転げたりできます。

この裏舞台は、表舞台での演技のための準備を為す場所であり、ここで休息したり、衣装を整えたり、演技の練習をしたり、作戦を練ったりして、次の出番(パフォーマンス)に備えます。
化粧室(裏舞台)なしに「女」という社会役割は存在しえませんし、職員室(裏舞台)なしに「先生」という社会役割は成り立ちません。

役割としての自己(キャラ)とは印象の集合であり、彼自身(その人自体)に由来し彼自身が所有する安定的な属性などではなく、場面(舞台)と演技行為(パフォーマー)と目撃解釈(オーディエンス)によって、一時的に生成されるもの(効果-エフェクト-)です。
適切に演出され演技された場合、まるでその役割がパフォーマーの自己(その人自体)に帰属するようなイリュージョンを生じさせます。
そして、それがパフォーマーの目論みでもあります。

ここで捉えられる「自己」は、原因としてのものではなく、プロダクトされた産出結果にすぎず、自己はその人自体などというものではなく、シーンに由来するものでしかありません。
役割(キャラ)としての自己とは、印象の寄せ集めによる“劇的効果(ドラマティックエフェクト)”であり、その本質は“存在”ではなく、“かりそめの信用”です。
一般的に考えられている自己(その人自体)や肉体は、たんに束の間の協同制作物(印象)を絶え間なくかけかえていくための一本の留め釘にすぎません。
それは自己-産出(セルフプロダクション)を維持するための留め釘です。

パフォーマーを装飾する裏舞台×その飾られたパフォーマーをさらに装飾する表舞台(舞台美術)×そのパフォーマーによる舞台上での演技×オーディエンスによるその観劇と解釈。
これら四つの人的・物的配置の掛け合わせによって、「自己」なるものが産出されるのです。
この複雑な機構が滑らかに回転し、ショーが上手く進めば、各々の役割のパフォーマーは、まるで確固とした自己を内在しており、そこからパフォーマンスが流出してくるかのようなリアリティのイリュージョンを生じさせるのです。

 

おわり

詳細は、ゴッフマンの『行為と演技』(完全版)